福嶋さんの本は、『神話が考える』を前に読んだことがあったが、その時は(私の本分野の理解が浅かったせいか)これほど読みやすかった記憶はない。本書は、復興文化論というタイトルを冠しているが、復興をキーワードに日本の文学史を(中国の文学史との関係を読み解きながら)振り返るところにかなりの紙面が割かれていると感じた。万葉集、古今和歌集、空海、源氏物語、平家物語、川端康成、太宰治、三島由紀夫に村上春樹まで。このあたりは概説として読むだけでもかなり面白かった。
後半になるにつれて、筆者があとがきでいうところの『過去の私的な復興』の様相がつよくなり、福嶋さん個人の情熱が伝わってきた。本書を読み終わると、筆者の情熱にあてられて過去の文学を読みたいなという想いがわいてきた。そして、また未来の文学へ期待する気持ちもでてきたように思う。
分厚い本らしいが、iPhoneのKindleアプリで移動中に読むことができたので、大変助かった。分厚い本ほど、こうしてKindle対応してもらえると助かりますね。
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復興文化論 日本的創造の系譜 単行本 – 2013/10/22
福嶋亮大
(著)
鮮烈なデビュー作から三年、待望の第二作目がついに刊行!
これまで日本の文化は「無常観」に代表されるように静的なものとして取り扱われてきた。しかし、戦乱や災厄からの〈復興〉の時期こそが、日本文化に創造性が満ち溢れる瞬間なのではないか――。
旧来の日本文化論を鮮やかに突き抜け、戦乱や災厄の後=跡の活気溢れる文化のダイナミズムを大胆に掴み出す。瑞々しい視線からつむがれる、まったく新しい文明の自画像。
『神話が考える』で現代を画期的な切り口で評した気鋭の著者による画期的な日本文化論。
これまで日本の文化は「無常観」に代表されるように静的なものとして取り扱われてきた。しかし、戦乱や災厄からの〈復興〉の時期こそが、日本文化に創造性が満ち溢れる瞬間なのではないか――。
旧来の日本文化論を鮮やかに突き抜け、戦乱や災厄の後=跡の活気溢れる文化のダイナミズムを大胆に掴み出す。瑞々しい視線からつむがれる、まったく新しい文明の自画像。
『神話が考える』で現代を画期的な切り口で評した気鋭の著者による画期的な日本文化論。
- 本の長さ420ページ
- 言語日本語
- 出版社青土社
- 発売日2013/10/22
- 寸法14.5 x 3.3 x 19.6 cm
- ISBN-104791767330
- ISBN-13978-4791767335
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登録情報
- 出版社 : 青土社 (2013/10/22)
- 発売日 : 2013/10/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 420ページ
- ISBN-10 : 4791767330
- ISBN-13 : 978-4791767335
- 寸法 : 14.5 x 3.3 x 19.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 544,531位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2015年3月25日に日本でレビュー済み
危機の時代に着目する文化論は多いが、そこから立ち直る「復興期」を論ずる文化論は少ない。
しかし、そこにおいてこそ日本文化の転換点は表れるのではないか、そう筆者は論ずる。
この着眼点自体は面白い。
しかし、結果から先に言うと、筆者の自説のための牽強付会の引用や参照で組み立てられており、あまり説得性は感じられなかった。
まず、最初の「日本文化は復興期に変異を迎える」という事例として
「南北朝時代→能楽
応仁の乱→東山文化」(p13)
と出てきて、ここで「えっ?」となった。
能を大成させた立役者たる観阿弥は南北朝の終焉前に亡くなっているし、東山文化は応仁の乱と並行的な時期(義政が文化にかまけて政治を怠ったから応仁の乱が起きた、という面もある。例えば東山文化の代表の一つである竜安寺は応仁の乱前に建てられた)であり「復興期」とくくるのは相当に怪しい。
最初の章では柿本人麻呂と空海が論じられる。
人麻呂論はまあ面白いとはいえるが、古都と遷都に復興を重ねるのは、遷都がこの時代に繰り返されている以上、あまり筋がよいとは思えない。
逆に重要なはずの壬申の乱についてのコメントが弱くなってしまっている。
空海に至っては中国の戦乱の話を無理やりつなげるだけで、これがどう筆者の論を補強しているのか分からないくらいである。
各章がこんな調子だから、論証とは到底言えない。
確かに興味深い指摘があるのは事実である。例えば日本は真の滅亡経験がないのに対し、中国は滅亡を繰り返している(p146〜9)、日露戦争後の「戦後」気分の文学における存在(p283)など。
しかし、これらの指摘は実は他の論者によって行われたものの引用(前者は武田泰淳、後者は山崎正和)であり、筆者の洞察ではない。
内容と直結はしないが非常に気になるのは、カッコつけのためとしか思えない哲学者・思想家の引用である。
呪術や神話が特殊状況でだけ用いられていたことを言うためだけにわざわざカッシーラーを引き(p122)、源平合戦で平家を殲滅したことをいうのにわざわざシュミットを引く(p110)。
ここで引かれた哲学者・思想家の論が用いられることはその後ないので、この引用は全く無意味としか言いようがない。
サントリー学芸賞ということで期待して読んだが、かなり無理のある議論とカッコつけの文章でがっかりしてしまった。残念。
しかし、そこにおいてこそ日本文化の転換点は表れるのではないか、そう筆者は論ずる。
この着眼点自体は面白い。
しかし、結果から先に言うと、筆者の自説のための牽強付会の引用や参照で組み立てられており、あまり説得性は感じられなかった。
まず、最初の「日本文化は復興期に変異を迎える」という事例として
「南北朝時代→能楽
応仁の乱→東山文化」(p13)
と出てきて、ここで「えっ?」となった。
能を大成させた立役者たる観阿弥は南北朝の終焉前に亡くなっているし、東山文化は応仁の乱と並行的な時期(義政が文化にかまけて政治を怠ったから応仁の乱が起きた、という面もある。例えば東山文化の代表の一つである竜安寺は応仁の乱前に建てられた)であり「復興期」とくくるのは相当に怪しい。
最初の章では柿本人麻呂と空海が論じられる。
人麻呂論はまあ面白いとはいえるが、古都と遷都に復興を重ねるのは、遷都がこの時代に繰り返されている以上、あまり筋がよいとは思えない。
逆に重要なはずの壬申の乱についてのコメントが弱くなってしまっている。
空海に至っては中国の戦乱の話を無理やりつなげるだけで、これがどう筆者の論を補強しているのか分からないくらいである。
各章がこんな調子だから、論証とは到底言えない。
確かに興味深い指摘があるのは事実である。例えば日本は真の滅亡経験がないのに対し、中国は滅亡を繰り返している(p146〜9)、日露戦争後の「戦後」気分の文学における存在(p283)など。
しかし、これらの指摘は実は他の論者によって行われたものの引用(前者は武田泰淳、後者は山崎正和)であり、筆者の洞察ではない。
内容と直結はしないが非常に気になるのは、カッコつけのためとしか思えない哲学者・思想家の引用である。
呪術や神話が特殊状況でだけ用いられていたことを言うためだけにわざわざカッシーラーを引き(p122)、源平合戦で平家を殲滅したことをいうのにわざわざシュミットを引く(p110)。
ここで引かれた哲学者・思想家の論が用いられることはその後ないので、この引用は全く無意味としか言いようがない。
サントリー学芸賞ということで期待して読んだが、かなり無理のある議論とカッコつけの文章でがっかりしてしまった。残念。
2014年12月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
彼のような見方をすれば、文学は大きな流れの中にあることを感じさせられる。
2014年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
花田清輝「復興期の精神」を意識したと思しきタイトルからわかるように、戦乱や震災のあとを絶望一色で捉えるのはやめようというメッセージに貫かれた作品。
古代から中世、そしてあの戦争の「後」の文化的興隆を通観する著者。ときにケオティックな中で、文化は爛熟する。
もくじを見ればわかるとおり、その扱う対象は縦横無尽で、著者の博覧強記、あるいは宣言的知識(顕示するための知識)へのこだわりを思わせる。
ただ、上のテーゼを披瀝するだけであれば、特に目新しさはないかもしれない。
評者としては、著者には「もうあと一歩」の叙述的工夫を期待したかったように思える。
それは、以下のような点からも感じられたことであった。
第一に、叙述の形式がいくぶん中途半端である。
学術書の匂いや形式を捨てきれておらず、ごくしばしば晦渋な表現や持って回った言い回し、過剰な記述に出逢う。
でも、これは著者の持ち味だし、記述に誠実にありたいという表れかもしれない。
それでも、働き人が通勤の電車で読むのは堪えるだろう。
対象読者に大卒のサラリーマンを想定していたのであれば、今一歩「こちらの世界」へ足を踏みおろしてほしかった。
第二に、本書でとりわけ筆が冴えていると思われたのは、第3・4章のセットである。
著者の専門は中国文化論であるから、その冴えは当然だろう。
中国の各王朝の「遺民」が残した放埒な文化が、「亡国」を経験したことのない江戸期の日本にも大きな影響を与えた。
日本の近世のナショナリズムは、そうした中国の「遺民」の文化によるところ大だと著者はいう。
こういうの、好きです(笑)。
こと記述に関しては、水滸伝や、太平記の需要のされ方のくだりなんか、とにかく筆が踊っていry。
ただ、それだけに、他の章を中心として、第一で挙げたような晦渋な表現が目立ってしまうのであった。
(※なお、この二つの章でしばしば用いられる「中国化」を中心として、與那覇潤「中国化する日本」と対照しながら読んでみた。
対比しての講読はとても面白かった。同書は軽妙(すぎ?)+洒脱の極みで、著者たちの個性のちがいも印象的だった)
第三に、タイトルを読む限り誰もが想像するであろう「3/11」後の話は、エピローグ的に触れられているに過ぎない。
これは、特にネット書店で購入を検討している方については注意が必要であろう(書店でパラパラ見ながら購入検討ができないから)。
なるほど、慎重な物いいも悪くはないし、誠実な知的態度である。「3/11」後を描ききるのはまだ早いということかもしれない。
だけれど、81年生まれの著者ならではの「若書き」への勇気がほしかったなぁと個人的には思った。
ともあれ、こえだけ広範な題材を用いて描ききる著者のパワーには、本当に脱帽。
敬意を表したいし、一読の価値は大いにあると評者は思う。次策も期待。
古代から中世、そしてあの戦争の「後」の文化的興隆を通観する著者。ときにケオティックな中で、文化は爛熟する。
もくじを見ればわかるとおり、その扱う対象は縦横無尽で、著者の博覧強記、あるいは宣言的知識(顕示するための知識)へのこだわりを思わせる。
ただ、上のテーゼを披瀝するだけであれば、特に目新しさはないかもしれない。
評者としては、著者には「もうあと一歩」の叙述的工夫を期待したかったように思える。
それは、以下のような点からも感じられたことであった。
第一に、叙述の形式がいくぶん中途半端である。
学術書の匂いや形式を捨てきれておらず、ごくしばしば晦渋な表現や持って回った言い回し、過剰な記述に出逢う。
でも、これは著者の持ち味だし、記述に誠実にありたいという表れかもしれない。
それでも、働き人が通勤の電車で読むのは堪えるだろう。
対象読者に大卒のサラリーマンを想定していたのであれば、今一歩「こちらの世界」へ足を踏みおろしてほしかった。
第二に、本書でとりわけ筆が冴えていると思われたのは、第3・4章のセットである。
著者の専門は中国文化論であるから、その冴えは当然だろう。
中国の各王朝の「遺民」が残した放埒な文化が、「亡国」を経験したことのない江戸期の日本にも大きな影響を与えた。
日本の近世のナショナリズムは、そうした中国の「遺民」の文化によるところ大だと著者はいう。
こういうの、好きです(笑)。
こと記述に関しては、水滸伝や、太平記の需要のされ方のくだりなんか、とにかく筆が踊っていry。
ただ、それだけに、他の章を中心として、第一で挙げたような晦渋な表現が目立ってしまうのであった。
(※なお、この二つの章でしばしば用いられる「中国化」を中心として、與那覇潤「中国化する日本」と対照しながら読んでみた。
対比しての講読はとても面白かった。同書は軽妙(すぎ?)+洒脱の極みで、著者たちの個性のちがいも印象的だった)
第三に、タイトルを読む限り誰もが想像するであろう「3/11」後の話は、エピローグ的に触れられているに過ぎない。
これは、特にネット書店で購入を検討している方については注意が必要であろう(書店でパラパラ見ながら購入検討ができないから)。
なるほど、慎重な物いいも悪くはないし、誠実な知的態度である。「3/11」後を描ききるのはまだ早いということかもしれない。
だけれど、81年生まれの著者ならではの「若書き」への勇気がほしかったなぁと個人的には思った。
ともあれ、こえだけ広範な題材を用いて描ききる著者のパワーには、本当に脱帽。
敬意を表したいし、一読の価値は大いにあると評者は思う。次策も期待。
2015年6月9日に日本でレビュー済み
庭のナツツバキが清楚な白い花を付けています。朝に開花し、夕には落花してしまう一日花です。これから1か月以上に亘り、毎日、数十の花が咲いては散っていくという華麗ではあるが無常観溢れる光景が繰り返されていくのです。
無常観と言えば、日本人の無常観に異議を唱える『復興文化論――日本的創造の系譜』(福嶋亮大著、青土社)は刺激的な一冊です。「いまだに『淀みに浮かぶうたかた』のように明滅する無常の世界をうっとり眺めることばかりが日本の美的鑑賞の態度だとされる風潮には、私は断固として異議を唱えたい。(柿本)人麻呂や空海、『平家物語』や中上(健次)、(曲亭)馬琴や(上田)秋成、川端(康成)や三島(由紀夫)、あるいは手塚(治虫)や宮崎(駿)――、彼らの『復興』の営為を知った後で、果たしてあなたはそのようなふわふわした『無常観』の美学が、それでも日本文化の主流だと言い切ることができるだろうか?」。
1981年生まれという若い著者が、日本の困難な時期に続く「復興期」に存在感を示した人麻呂、空海から宮崎に至る人物・作品の系譜を追った著作ですが、そのユニークな論点の立て方に知的興奮を覚えてしまいました。
例えば、空海は空前絶後とも言うべき「超人的な行動力を備えた」天才であるという主張や、『平家物語』における木曾(源)義仲や源義経は華やかに扱われているとはいえ、自分の世界を所有していない「世界喪失者」としての地位しか与えられていないという指摘は新鮮でした。また、村上春樹に対する微妙な評価も興味深く読めました。
しかし、私がとりわけ強い印象を受けたのは、宮崎に関する部分でした。「手塚がアニメーションに対して抱いていた観念を、宮崎は『お金持ちの道楽』としてほとんど全否定している。(ウォルト・)ディズニーの衝撃から出発し、『鉄腕アトム』で日本のTVアニメーションの制作システムを築いた手塚のやり方は、宮崎にとって承服できないものであった。それゆえ、宮崎は日本の主流であるTVアニメーションの世界ではなく、あくまで劇場アニメーションの世界に身を置く。さらにディズニーのような産業化された巨大システムではなく、町工場的な小規模スタジオにおいてアニメーションを制作することにこだわる。その作品においても、宮崎は軍事兵器に対するアニアック偏愛を示しながら、『手仕事』の場面を毎回欠かさずに盛り込んできた。周知のように、宮崎のアニメーションには飛行機が頻出するが、そこには必ず飛行機をつくったり修理したりする『工作人(ホモ・ファーベル)』がともに描かれている。惚れ惚れするほどに自由な飛躍は、日々の地味な労働とメンテナンスのなかからしか生まれないというのが、宮崎の実直な職人的倫理なのである。逆に言えば、ディズニー=手塚の魔術的世界にはこうした『手仕事』の重みが欠けていた。それだけではない。ここで強調しておきたいのは、宮崎の作品が、ディズニー=手塚以来のアニメ―ションの歴史から零れ落ちた『自然』を復興していたことである。ディズニーがアメリカ的自然を、戦後の手塚が日本的自然=現実をそれぞれいったん抑圧したところに記号のユートピアを建設したのに対して、宮崎は自らの作品にことさら自然のイメージを呼び戻そうとしていた。それは文字通りサブカルチャーの失地回復であったと考えてよい」。
こういう挑戦的かつ刺激的な書き手の登場は、嬉しい限りです。
無常観と言えば、日本人の無常観に異議を唱える『復興文化論――日本的創造の系譜』(福嶋亮大著、青土社)は刺激的な一冊です。「いまだに『淀みに浮かぶうたかた』のように明滅する無常の世界をうっとり眺めることばかりが日本の美的鑑賞の態度だとされる風潮には、私は断固として異議を唱えたい。(柿本)人麻呂や空海、『平家物語』や中上(健次)、(曲亭)馬琴や(上田)秋成、川端(康成)や三島(由紀夫)、あるいは手塚(治虫)や宮崎(駿)――、彼らの『復興』の営為を知った後で、果たしてあなたはそのようなふわふわした『無常観』の美学が、それでも日本文化の主流だと言い切ることができるだろうか?」。
1981年生まれという若い著者が、日本の困難な時期に続く「復興期」に存在感を示した人麻呂、空海から宮崎に至る人物・作品の系譜を追った著作ですが、そのユニークな論点の立て方に知的興奮を覚えてしまいました。
例えば、空海は空前絶後とも言うべき「超人的な行動力を備えた」天才であるという主張や、『平家物語』における木曾(源)義仲や源義経は華やかに扱われているとはいえ、自分の世界を所有していない「世界喪失者」としての地位しか与えられていないという指摘は新鮮でした。また、村上春樹に対する微妙な評価も興味深く読めました。
しかし、私がとりわけ強い印象を受けたのは、宮崎に関する部分でした。「手塚がアニメーションに対して抱いていた観念を、宮崎は『お金持ちの道楽』としてほとんど全否定している。(ウォルト・)ディズニーの衝撃から出発し、『鉄腕アトム』で日本のTVアニメーションの制作システムを築いた手塚のやり方は、宮崎にとって承服できないものであった。それゆえ、宮崎は日本の主流であるTVアニメーションの世界ではなく、あくまで劇場アニメーションの世界に身を置く。さらにディズニーのような産業化された巨大システムではなく、町工場的な小規模スタジオにおいてアニメーションを制作することにこだわる。その作品においても、宮崎は軍事兵器に対するアニアック偏愛を示しながら、『手仕事』の場面を毎回欠かさずに盛り込んできた。周知のように、宮崎のアニメーションには飛行機が頻出するが、そこには必ず飛行機をつくったり修理したりする『工作人(ホモ・ファーベル)』がともに描かれている。惚れ惚れするほどに自由な飛躍は、日々の地味な労働とメンテナンスのなかからしか生まれないというのが、宮崎の実直な職人的倫理なのである。逆に言えば、ディズニー=手塚の魔術的世界にはこうした『手仕事』の重みが欠けていた。それだけではない。ここで強調しておきたいのは、宮崎の作品が、ディズニー=手塚以来のアニメ―ションの歴史から零れ落ちた『自然』を復興していたことである。ディズニーがアメリカ的自然を、戦後の手塚が日本的自然=現実をそれぞれいったん抑圧したところに記号のユートピアを建設したのに対して、宮崎は自らの作品にことさら自然のイメージを呼び戻そうとしていた。それは文字通りサブカルチャーの失地回復であったと考えてよい」。
こういう挑戦的かつ刺激的な書き手の登場は、嬉しい限りです。
2015年2月23日に日本でレビュー済み
内容については他の方が詳しく紹介されているので譲るとして、まず非常に分厚い本である。そして、確かに大風呂敷を拡げている感はある。ただ、「それでも書きたい、書かねばならない」という作者の熱い想いがそれを凌駕しているように感じた。
そう書くと、いかにも感情的な筆致なのかと思うが、そうではない。怜悧な思考と融通無碍な視座、そしてそこに回収されない思念(ある種小説のような思念)。そのバランスが素晴らしい。とても「批評らしい」批評。日本文化をここまで論じきった大著は近年まれなのではないか。今後の著者の活躍に期待。
そう書くと、いかにも感情的な筆致なのかと思うが、そうではない。怜悧な思考と融通無碍な視座、そしてそこに回収されない思念(ある種小説のような思念)。そのバランスが素晴らしい。とても「批評らしい」批評。日本文化をここまで論じきった大著は近年まれなのではないか。今後の著者の活躍に期待。