基本的な前提として、著者はジャーナリストではない。ドキュメンタリー作家だ。両者の違いは本書を読めばわかる。
著者の他の本でもそうなのだが、著者は本書で繰り返し「主観」で語ることの重要性を訴えている。僕らが、知らず知らずのうちに「客観」でものを語るとき、重要な何かが抜け落ちてしまうのだ。
僕自身は、「客観」は自分の意見を言いたくない(もしくは意見がない)ときのエクスキューズなんだと思う。つまり、「客観」とは「皆がそう言ってるから」「一般的にそういうことになっているから」だから「正しい」といっているのと同じことなんだ。そして、いつしか「自分の意見」を見失ってしまう。
でも、「皆」とか「一般」って誰のことなんだろう?
「不特定多数」なんて言葉があるが、そんなものに埋没してはいけない。僕は(あるいはあなたは)常に「特定の個人」だ。
本書はそんなことを僕に考えさせた。
その特定の個人の意見が、主観の表現であるドキュメンタリーに反映されるのは当たり前のこと。でも、メディアの中には、そんなことにすら無自覚な人が多いという。
重要なのは、何か結論を出すことじゃない。「YES」と「NO」の間で葛藤すること。わからないことに「わからない」と言うことなのだ。
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ドキュメンタリーは嘘をつく 単行本 – 2005/3/1
森 達也
(著)
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オウムを内部から撮った作品『A』で知られる著者が、自らの制作体験を踏まえて展開するドキュメンタリー論。表現行為としての危うさと魅力と業の深さを考察する。
- ISBN-104794213891
- ISBN-13978-4794213891
- 出版社草思社
- 発売日2005/3/1
- 言語日本語
- 本の長さ262ページ
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商品の説明
出版社からのコメント
映像作家・森達也氏が、自身の本領地であるドキュメンタリーの世界を縦横に論じた鮮烈なエッセイです。草思社の月刊PR誌「草思」にほぼ1年にわたって連載されたものをまとめたものですが、単行本化にあたっては大幅に加筆されています。
冒頭の「マイケル・ムーアの作品がダメな理由」に始まり、自身の作品歴をたどりつつ、ドキュメンタリー史の本質的な事件にも斬り込んでいきます。たとえば1965年、放映中止に追い込まれた牛山純一の『南ベトナム海兵大隊戦記』。あるいは2002年に放映され広く物議をかもした『奇跡の詩人』。これらの作品に、ドキュメンタリーを撮ることの意味と覚悟、さらに言えば「業」ともいうべきものの深淵をも覗かせる考察が加えられます。その対象は、著者がヒーローと呼ぶ原一男氏から『スーパーサイズ・ミー』に至る最近の内外の若手作家たちの作品にまでわたります。
ドキュメンタリーとは世界そのものとの向き合い方であり、それは強烈なエゴに支えられた表現行為である。そこでは形式的な「客観性」や「公正さ」などさほどのプライオリティを持ち得ない──そう言い切る視座からはこの世界はどう見えるでしょうか。価値の座標軸が希薄化し多くの人々が一塊となって右へ左へと舞い踊るような現在において、この本はたんなるドキュメンタリー論を超えて広く読んでいただきたい一冊です。
冒頭の「マイケル・ムーアの作品がダメな理由」に始まり、自身の作品歴をたどりつつ、ドキュメンタリー史の本質的な事件にも斬り込んでいきます。たとえば1965年、放映中止に追い込まれた牛山純一の『南ベトナム海兵大隊戦記』。あるいは2002年に放映され広く物議をかもした『奇跡の詩人』。これらの作品に、ドキュメンタリーを撮ることの意味と覚悟、さらに言えば「業」ともいうべきものの深淵をも覗かせる考察が加えられます。その対象は、著者がヒーローと呼ぶ原一男氏から『スーパーサイズ・ミー』に至る最近の内外の若手作家たちの作品にまでわたります。
ドキュメンタリーとは世界そのものとの向き合い方であり、それは強烈なエゴに支えられた表現行為である。そこでは形式的な「客観性」や「公正さ」などさほどのプライオリティを持ち得ない──そう言い切る視座からはこの世界はどう見えるでしょうか。価値の座標軸が希薄化し多くの人々が一塊となって右へ左へと舞い踊るような現在において、この本はたんなるドキュメンタリー論を超えて広く読んでいただきたい一冊です。
登録情報
- 出版社 : 草思社 (2005/3/1)
- 発売日 : 2005/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 262ページ
- ISBN-10 : 4794213891
- ISBN-13 : 978-4794213891
- Amazon 売れ筋ランキング: - 440,896位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 314位映画論・映像論
- - 2,328位演劇 (本)
- - 76,761位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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広島県生まれ。映画監督、作家。1998年にドキュメンタリー映画『A』を発表。2001年、続編の『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『極私的メディア論』(ISBN-10:4904795075)が刊行された当時に掲載されていたものです)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年11月22日に日本でレビュー済み
有名なオウムのドキュメンタリーを撮るときに会社をやめたというか、テレビ局の社員としてオウムを扱おうとして上層部と衝突して折れたようです。
他には、バッシングになったときの野村佐知代のドキュメンタリー、人食い佐川のドキュメンタリーとか、放送禁止歌、エスパーを職業にする人々、動物実験のドキュメンタリーなどを変わったものを撮ったり、取ろうとして企画倒れになったりしているそうです。
どれも売れそうですがタブーなのか、彼は山師なのか思想家なのかイマイチわからないところがあります。
ベトナム戦争当時はクビキリ映像なども流されていたが、クレームがきてモザイクなど自主規制が増えてくる。モザイクは日本独特の手法で海外にはない。とか豆知識がありがたいです。
器をもった男を映して、次に空になった器をうつせば、食べているところを映さなくても、彼が食べたと視聴者が了解するのがドキュメンタリーの編集のテクニックといえ、その辺が悪用やプロパガンダの温床になるとか。編集が入ってる以上、それはもうリアルではないということです。
テレビ番組の電波少年とかガチンコみたいな、ヤラセのはいった素人企画も、ドキュメンタリーのヤラセと似ている、など。
わかりやすくすることと、ねつ造の違いとか、追及するとキリがなさそうですが、悩みながら取っている様子が伝わってきます。
日本でドキュメンタリー映画というと、最近はあまりないけど、かつては戦中や戦後の冷戦プロパガンダ、反政府運動などに利用されてきているとか。
海外にもあるヤラセ。石油にまみれた水鳥をイラクの無法ぶりをPRする映像につかったり、極北のナヌークという名作ドキュメンタリーでも、原住人が、普段している銃による狩りではなく、銛をつかった狩りを再現してもらって取ったなど、海外でもそういう例は散見されるということでした。
他には、バッシングになったときの野村佐知代のドキュメンタリー、人食い佐川のドキュメンタリーとか、放送禁止歌、エスパーを職業にする人々、動物実験のドキュメンタリーなどを変わったものを撮ったり、取ろうとして企画倒れになったりしているそうです。
どれも売れそうですがタブーなのか、彼は山師なのか思想家なのかイマイチわからないところがあります。
ベトナム戦争当時はクビキリ映像なども流されていたが、クレームがきてモザイクなど自主規制が増えてくる。モザイクは日本独特の手法で海外にはない。とか豆知識がありがたいです。
器をもった男を映して、次に空になった器をうつせば、食べているところを映さなくても、彼が食べたと視聴者が了解するのがドキュメンタリーの編集のテクニックといえ、その辺が悪用やプロパガンダの温床になるとか。編集が入ってる以上、それはもうリアルではないということです。
テレビ番組の電波少年とかガチンコみたいな、ヤラセのはいった素人企画も、ドキュメンタリーのヤラセと似ている、など。
わかりやすくすることと、ねつ造の違いとか、追及するとキリがなさそうですが、悩みながら取っている様子が伝わってきます。
日本でドキュメンタリー映画というと、最近はあまりないけど、かつては戦中や戦後の冷戦プロパガンダ、反政府運動などに利用されてきているとか。
海外にもあるヤラセ。石油にまみれた水鳥をイラクの無法ぶりをPRする映像につかったり、極北のナヌークという名作ドキュメンタリーでも、原住人が、普段している銃による狩りではなく、銛をつかった狩りを再現してもらって取ったなど、海外でもそういう例は散見されるということでした。
2009年1月31日に日本でレビュー済み
劇場では、マイケル・ムーアや動物ものを除けば、渋谷の小さな映画館で『ゆきゆきて、神軍』と『ファザーレス』をリアルタイムで観ただけで、あとはテレビの深夜ドキュメンタリーを見ているていうどのファンですが、ドキュメンタリーという媒体(メディア)とビジネスモデルとしての苦悩が伝わってくる良書です。
黒澤明だって大島渚だって映画を何年も撮れずに、国際的な資金調達などにより復活したりもしているが、ドキュメンタリーはどうやら文学に近いような存在でありながら、テレビなど、制限の多い流通か世界各地の映画祭という発表の場など、異常に限られているとしか思えない。インターネット上での配信など、インフラが整えば改善されることもあるのでしょうが、制作会社、出資者、プロデューサー、配給会社、上映館(上映会、映画祭、上映の機会)がちぐはぐのまま、深夜の民放ドキュメンタリーは、放送回数も質も制作費も寂しくなる一方である現実は、ドキュメンタリー・ファンである自分の苦悩でもある。
的外れな指摘かもしれないが、ドキュメンタリー作家もしくは代理人が英語で交渉できるようになれば、少しは未来が明るくなるのでは、とも思います。ボツになった「包茎」ドキュメントだって、欧米の資金で欧米での公開を前提にしていたら、制作できただろうに、と思えてしかたがありません。どんな映像作品だって、外国語字幕を挿入するなり、ナレーションを吹き替えで入れ替える配慮さえ最初からしておけば、外国での公開は、意外とラクだったりするものです。
黒澤明だって大島渚だって映画を何年も撮れずに、国際的な資金調達などにより復活したりもしているが、ドキュメンタリーはどうやら文学に近いような存在でありながら、テレビなど、制限の多い流通か世界各地の映画祭という発表の場など、異常に限られているとしか思えない。インターネット上での配信など、インフラが整えば改善されることもあるのでしょうが、制作会社、出資者、プロデューサー、配給会社、上映館(上映会、映画祭、上映の機会)がちぐはぐのまま、深夜の民放ドキュメンタリーは、放送回数も質も制作費も寂しくなる一方である現実は、ドキュメンタリー・ファンである自分の苦悩でもある。
的外れな指摘かもしれないが、ドキュメンタリー作家もしくは代理人が英語で交渉できるようになれば、少しは未来が明るくなるのでは、とも思います。ボツになった「包茎」ドキュメントだって、欧米の資金で欧米での公開を前提にしていたら、制作できただろうに、と思えてしかたがありません。どんな映像作品だって、外国語字幕を挿入するなり、ナレーションを吹き替えで入れ替える配慮さえ最初からしておけば、外国での公開は、意外とラクだったりするものです。
2012年6月12日に日本でレビュー済み
森達也の書籍はいつも同じ事を言っているだけ。それも「ドキュメンタリーといっても演出されたものである」という実に当たり前のことを、延々と250ページに渡って書いてるだけのどうでもいい内容。
そして、僕はこの人の言う「ドキュメンタリーは嘘をつく」という主張がもの凄く気に入らない。
「演出」と「嘘」は違うから。
そして、森達也は「演出」の領域を越えた「嘘」まで許容してしまうようなことを書いているし、数年前に放映された『森達也のドキュメンタリーは嘘をつく』というテレビ番組は「テレビなんてどうせ嘘だらけなのだ。面白ければ嘘でもOK。嘘に気付かないアンタが悪い」というような内容であった。
ドキュメンタリーにも作者の主観的な主張を表現するための演出があることは誰にでも判る。でも、どこまでを「演出」とするかは、作者の良心に委ねられているし、見る側はその作者を信じて観ている訳である。森達也はそんな観客をバカにしているとしか思えない。
そして、僕はこの人の言う「ドキュメンタリーは嘘をつく」という主張がもの凄く気に入らない。
「演出」と「嘘」は違うから。
そして、森達也は「演出」の領域を越えた「嘘」まで許容してしまうようなことを書いているし、数年前に放映された『森達也のドキュメンタリーは嘘をつく』というテレビ番組は「テレビなんてどうせ嘘だらけなのだ。面白ければ嘘でもOK。嘘に気付かないアンタが悪い」というような内容であった。
ドキュメンタリーにも作者の主観的な主張を表現するための演出があることは誰にでも判る。でも、どこまでを「演出」とするかは、作者の良心に委ねられているし、見る側はその作者を信じて観ている訳である。森達也はそんな観客をバカにしているとしか思えない。
2006年11月19日に日本でレビュー済み
本書を読むと著者がとても頭のいい人であり、文章も巧みであることにすぐ気づく。
それは彼が数多く対談する学者たちには決してみられないものでもある。
著者自身が述べているように論理的整合性は皆無だ。論理と述べて、すぐルールなどないという。
結局、作品を作るに当って学者達の依拠するような論理などなく、主観しかないのだということだ。
ただ彼の伝える面白さの基準というものは60年代だ。
よい意味でも悪い意味でも。米や政治や警察は絶対悪だという思い。
その思いに自身が気づくには現代社会のスピードはあまりにも速すぎるのだろうか。
81ページに「倫理や道義などの価値の体系からはドキュメンタリーは解放されねばならない」とある。
彼には倫理(エシックス)はないが強烈な道徳(モラリティ)が存在する。
ただそれではオウム信者暴行のシーンを後だしした論理的理由にも道義的理由にもならないが。
89ページでワインズマン批判?に関する文脈で加担という言葉が扱われているのが面白い。
加担と介在は違うのだ。
6章を読むとその頭のよさがよくわかる。
彼は、善人にも聖人や偽善者や単なる馬鹿、ごますりなど多数のものがあることを
知っている。
この点多くの人々が馬鹿にしか見えないだろう。ただし悪は一つしか見えない。
ただこの問題は世界各国の政治思想家が頭を悩ませた問題でもあり一義的に彼を批
判できないが。
100ページでメディアが劣悪化していると言い、
猟奇事件の不可解さや混迷について述べたすぐあとで、意識が変化しただけとのたまう。
謝罪とは真意からの謝罪だということを知っていながら他者への想像力の話になる。
森は面白い。ヒトラーやチャップリンと同じように人間的な面白さがある。
それは彼が数多く対談する学者たちには決してみられないものでもある。
著者自身が述べているように論理的整合性は皆無だ。論理と述べて、すぐルールなどないという。
結局、作品を作るに当って学者達の依拠するような論理などなく、主観しかないのだということだ。
ただ彼の伝える面白さの基準というものは60年代だ。
よい意味でも悪い意味でも。米や政治や警察は絶対悪だという思い。
その思いに自身が気づくには現代社会のスピードはあまりにも速すぎるのだろうか。
81ページに「倫理や道義などの価値の体系からはドキュメンタリーは解放されねばならない」とある。
彼には倫理(エシックス)はないが強烈な道徳(モラリティ)が存在する。
ただそれではオウム信者暴行のシーンを後だしした論理的理由にも道義的理由にもならないが。
89ページでワインズマン批判?に関する文脈で加担という言葉が扱われているのが面白い。
加担と介在は違うのだ。
6章を読むとその頭のよさがよくわかる。
彼は、善人にも聖人や偽善者や単なる馬鹿、ごますりなど多数のものがあることを
知っている。
この点多くの人々が馬鹿にしか見えないだろう。ただし悪は一つしか見えない。
ただこの問題は世界各国の政治思想家が頭を悩ませた問題でもあり一義的に彼を批
判できないが。
100ページでメディアが劣悪化していると言い、
猟奇事件の不可解さや混迷について述べたすぐあとで、意識が変化しただけとのたまう。
謝罪とは真意からの謝罪だということを知っていながら他者への想像力の話になる。
森は面白い。ヒトラーやチャップリンと同じように人間的な面白さがある。
2008年12月30日に日本でレビュー済み
「ドキュメンタリーは事実の客観的記録である−」という論に反対し、すべての
映像は、撮る側の主観や作為から逃れ得ず、むしろそれに自覚的で積極的に
向き合うことで、豊かな表現を観る側に突き付けることができる、という信念に
基づき森達也氏が説くドキュメンタリー論です。
その根拠は、量子力学を紐解くまでもなく、対象に撮影という観測する行為で
日常に干渉し、対象が大きな影響を受けるからであり、それ以外にも撮る側の
主観による編集を含める様々な因子が複雑に絡み合うことで客観的ではなくなること
にもよると著者は主張します。
また、TVを中心とするメディアが組織であるが故に利益の獲得を至上とする
商業主義と、所属する個の記者やディレクターや編集者たちのそれぞれの志との
乖離が生む、割り切れず無駄とも思える葛藤が喪失されつつある、と本書では
警告を発します。実はその葛藤や煩悶が失われていくことで、物事は単純な正邪の
二元化に帰結されパッケージ化されていると。
次なる断罪する悪を探して彷徨い、一部の情報からその片鱗を見つけるやイメージを
固定し、一斉に叩くメディアに一石を投じた本稿は非常に有用な視点だと
思いますが、結局のところ、メディアを邪とした二元論に対しては本書の所どころに
著者の逃げの姿勢も見え隠れし、それらの葛藤もすべて嘘などと発言してしまったのは、
やや残念なところです。
映像は、撮る側の主観や作為から逃れ得ず、むしろそれに自覚的で積極的に
向き合うことで、豊かな表現を観る側に突き付けることができる、という信念に
基づき森達也氏が説くドキュメンタリー論です。
その根拠は、量子力学を紐解くまでもなく、対象に撮影という観測する行為で
日常に干渉し、対象が大きな影響を受けるからであり、それ以外にも撮る側の
主観による編集を含める様々な因子が複雑に絡み合うことで客観的ではなくなること
にもよると著者は主張します。
また、TVを中心とするメディアが組織であるが故に利益の獲得を至上とする
商業主義と、所属する個の記者やディレクターや編集者たちのそれぞれの志との
乖離が生む、割り切れず無駄とも思える葛藤が喪失されつつある、と本書では
警告を発します。実はその葛藤や煩悶が失われていくことで、物事は単純な正邪の
二元化に帰結されパッケージ化されていると。
次なる断罪する悪を探して彷徨い、一部の情報からその片鱗を見つけるやイメージを
固定し、一斉に叩くメディアに一石を投じた本稿は非常に有用な視点だと
思いますが、結局のところ、メディアを邪とした二元論に対しては本書の所どころに
著者の逃げの姿勢も見え隠れし、それらの葛藤もすべて嘘などと発言してしまったのは、
やや残念なところです。
2005年3月28日に日本でレビュー済み
森達也っていう人のドキュメンタリー映画を観たとき、僕は脳ミソが瞬間的に爆発しそうになった。
多分、自分の価値観っていうのをかなり壊してもらった。
悪いことだった気もするが。
とにかくその後、意識してドキュメンタリーを見る時間を増やしたりした。
そんな著者の本は、今までの著書の中でも、もっとも買いだと思う。
ドキュメンタリーを書いているうちに、被写体に自分の存在が影響を与えていたりする。
そして、被写体も台本が無いというだけで、カメラの前では少なからず演技をしている。だから
「つくづく思う。ドキュメンタリー徹底して一人称なのだ。すべての映画は主観の産物だ。(中略)それまでも主観的に捉えていたはずなのに、その事実に自覚的ではなかったということだろう(P74)」
また、マスコミが隠し撮り、事実と違う内容にしたあげく、現場にいる新聞記者が「書けるわけないでしょう」と爽やかな笑顔を見せた。という状況に
「でもその自分を正当化してはいけない。それは麻痺だ。悩まなくてはならない。歯を食いしばったりヤケ酒を呷ったりデスクと喧嘩することが大切なのだ。(P107)」
としている。つまり、事実を集めた客観的なものというのが、一般的なドキュメンタリーのイメージだが、所詮主観的なものでしかないんだ。そして、その矛盾と常に葛藤することが大事だということだろう。
また、この本では、インタビューした今までの相手についても色々と書いてある。流石にオウムの話は今回少ないが、野村サッチーであったり、人食い犯であったり。
まさに買いだ。
多分、自分の価値観っていうのをかなり壊してもらった。
悪いことだった気もするが。
とにかくその後、意識してドキュメンタリーを見る時間を増やしたりした。
そんな著者の本は、今までの著書の中でも、もっとも買いだと思う。
ドキュメンタリーを書いているうちに、被写体に自分の存在が影響を与えていたりする。
そして、被写体も台本が無いというだけで、カメラの前では少なからず演技をしている。だから
「つくづく思う。ドキュメンタリー徹底して一人称なのだ。すべての映画は主観の産物だ。(中略)それまでも主観的に捉えていたはずなのに、その事実に自覚的ではなかったということだろう(P74)」
また、マスコミが隠し撮り、事実と違う内容にしたあげく、現場にいる新聞記者が「書けるわけないでしょう」と爽やかな笑顔を見せた。という状況に
「でもその自分を正当化してはいけない。それは麻痺だ。悩まなくてはならない。歯を食いしばったりヤケ酒を呷ったりデスクと喧嘩することが大切なのだ。(P107)」
としている。つまり、事実を集めた客観的なものというのが、一般的なドキュメンタリーのイメージだが、所詮主観的なものでしかないんだ。そして、その矛盾と常に葛藤することが大事だということだろう。
また、この本では、インタビューした今までの相手についても色々と書いてある。流石にオウムの話は今回少ないが、野村サッチーであったり、人食い犯であったり。
まさに買いだ。