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闇屋になりそこねた哲学者 単行本 – 2003/1/1
木田 元
(著)
- 本の長さ212ページ
- 言語日本語
- 出版社晶文社
- 発売日2003/1/1
- ISBN-104794965575
- ISBN-13978-4794965578
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
昭和20年、焼け跡に一人放り出された17歳の少年は、いかにしてハイデガーの哲学と出会い、それに魅せられたか。満州での少年時代から、今日までをたどる、日本を代表する哲学者の半自叙伝。
登録情報
- 出版社 : 晶文社 (2003/1/1)
- 発売日 : 2003/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 212ページ
- ISBN-10 : 4794965575
- ISBN-13 : 978-4794965578
- Amazon 売れ筋ランキング: - 391,416位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年11月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読んでいて何か元気がいただけました。戦後の混乱期を前向きに力強く生きられた生き様を学ばせていただきました。
2018年8月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
木田元さんは、三歳のときに父が満州建国時の官吏として赴任しることから家族と共に満州に渡り、数え17歳の1940年4月に、江田島の海軍兵学校に入学した。
海軍兵学校を受験するのは、死を先延ばしするためだった経緯を本書で語っていたところは本当に印象的だった。
入学4ヶ月後の8月15日に、日本は、敗戦を迎えた(海軍兵学校78期には、錚々たる人たちが名を連ねている。早坂暁=本名富田祥資さんも同期だったのかしら?)。
ここからが木田元さんの数奇な自伝が始まるが、面白いところはレビューに書きません。
巻末近くの「おわりに」で、氏は下の・・・・・内のように語っていたので転載したい。
・・・・・
生きる上で心がけたことなんて別にあるわけないんですが、若いころ一つだけ意識していたことがあります。それは、昔を懐かしむな、ということです。実際ぼくのような生き方をしてくると、昔を懐かしんでいる暇はないものですが、子どものころはよかった、あのころはよかったなんて思って、今の境遇に不平や不満をもつのはバカげたことだとは思っていました。しんみり昔をなつかしむなんてことをしないので、こんな散文的な人間になったかもしれませんが。(P219~220)
・・・・・
本書を読んでいたら、仲の良かった同僚や友人たちと呑み歩いたり、学会を口実に旅に行ったりなどと語っていたのは、まぎれもなく昔を懐かしんでいるように、評者には思えたんですがね~。
数年前に読んだ『反哲学入門』で「哲学」について下の・・・・・内のようにも語っていた。
・・・・・
「哲学」についてのわたしの考え方は、どうも、かなり変わっているかもしれません。わたしはどうも「哲学」というものを肯定的なものととして受け入れることができないのです。社会生活ではなんの役にもたたない、これは認めなければいけないと思います。(「反哲学入門」P20)
・・・・・
社会生活ではなんの役にもたたない、と言われれば、まあ、その通りでしょう、と思ってしまいました。
哲学書などほとんど読んだことのない評者だからこそ、こんなところが木田元さんの本に惹かれる理由かもしれません。
それにしても若いころからの読書量や勉強(特に語学習得)の仕方など、さすが、と驚愕してしまいます。
木田元という個性豊かで優れた哲学者の自伝を、興味深く読ませてもらいました。
海軍兵学校を受験するのは、死を先延ばしするためだった経緯を本書で語っていたところは本当に印象的だった。
入学4ヶ月後の8月15日に、日本は、敗戦を迎えた(海軍兵学校78期には、錚々たる人たちが名を連ねている。早坂暁=本名富田祥資さんも同期だったのかしら?)。
ここからが木田元さんの数奇な自伝が始まるが、面白いところはレビューに書きません。
巻末近くの「おわりに」で、氏は下の・・・・・内のように語っていたので転載したい。
・・・・・
生きる上で心がけたことなんて別にあるわけないんですが、若いころ一つだけ意識していたことがあります。それは、昔を懐かしむな、ということです。実際ぼくのような生き方をしてくると、昔を懐かしんでいる暇はないものですが、子どものころはよかった、あのころはよかったなんて思って、今の境遇に不平や不満をもつのはバカげたことだとは思っていました。しんみり昔をなつかしむなんてことをしないので、こんな散文的な人間になったかもしれませんが。(P219~220)
・・・・・
本書を読んでいたら、仲の良かった同僚や友人たちと呑み歩いたり、学会を口実に旅に行ったりなどと語っていたのは、まぎれもなく昔を懐かしんでいるように、評者には思えたんですがね~。
数年前に読んだ『反哲学入門』で「哲学」について下の・・・・・内のようにも語っていた。
・・・・・
「哲学」についてのわたしの考え方は、どうも、かなり変わっているかもしれません。わたしはどうも「哲学」というものを肯定的なものととして受け入れることができないのです。社会生活ではなんの役にもたたない、これは認めなければいけないと思います。(「反哲学入門」P20)
・・・・・
社会生活ではなんの役にもたたない、と言われれば、まあ、その通りでしょう、と思ってしまいました。
哲学書などほとんど読んだことのない評者だからこそ、こんなところが木田元さんの本に惹かれる理由かもしれません。
それにしても若いころからの読書量や勉強(特に語学習得)の仕方など、さすが、と驚愕してしまいます。
木田元という個性豊かで優れた哲学者の自伝を、興味深く読ませてもらいました。
2017年10月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
兵隊から帰ったが、実家にすぐ戻れず、テキ屋をしたり、闇屋をしたりと、たくましい木田青年が、哲学を学び、学者になっていく話が面白い。
2010年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の(1)読書欲の強さと読書範囲の広さ、(2)英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシア語習得の努力、(3)原典読解の厳密さという三点に関しては、心底敬服するが、次の四点については、大きな不満が残った。
(1)「哲学なんて半分詐欺のようなことをやっていて、こんなに給料をもらっていいのかなと思った」(220ページ)とあるが、「哲学が半分詐欺のようなものだ」という意味をひとこと説明して欲しかった。
(2)「カントはちっとも面白くない」(10, 108ページ)とあるが、どういうわけでおもしろくないのか、ひとこと説明して欲しかった。
(3)「ハイデガー『存在と時間』『現象学の根本問題』はおもしろかった」(96, 112ページ)とあるが、どういうわけでおもしろいのか、ひとこと説明して欲しかった。
(4)「ルカーチの『若きヘーゲル』も実に面白く、血湧き肉躍るといった感じで読み通しました」(116ページ)とあるが、どういうわけでそんなにおもしろいのか、ひとこと説明して欲しかった。
(以上)
(1)「哲学なんて半分詐欺のようなことをやっていて、こんなに給料をもらっていいのかなと思った」(220ページ)とあるが、「哲学が半分詐欺のようなものだ」という意味をひとこと説明して欲しかった。
(2)「カントはちっとも面白くない」(10, 108ページ)とあるが、どういうわけでおもしろくないのか、ひとこと説明して欲しかった。
(3)「ハイデガー『存在と時間』『現象学の根本問題』はおもしろかった」(96, 112ページ)とあるが、どういうわけでおもしろいのか、ひとこと説明して欲しかった。
(4)「ルカーチの『若きヘーゲル』も実に面白く、血湧き肉躍るといった感じで読み通しました」(116ページ)とあるが、どういうわけでそんなにおもしろいのか、ひとこと説明して欲しかった。
(以上)
2021年12月15日に日本でレビュー済み
『闇屋になりそこねた哲学者』(木田元著、ちくま文庫)は、哲学者・木田元の自伝であるが、私にとって一番興味深いのは、若い木田がマルティン・ハイデガーに惹かれたのはなぜかということである。
「神様をもちださないで、なおかつ絶望した人間の構造分析をしてくれるような本があったら、と思いました。そういうものを読めば、何とか自分自身の焦燥感にもうまく対処できるのではないかと思ったのです。そこで、斎藤信治さんが戦争中に出版した『実存の形而上学』という論文集や、中川秀恭さんの『ハイデガー研究』という、これも戦争中の出版で当時古本屋にごろごろしていた本をみつけて読みました。そして、ハイデガーというドイツの哲学者が、ドストエフスキーとキルケゴールの影響を強く受けながら、絶望できる人間の存在構造を時間という視点から分析してみせているらしい。それが『存在と時間』という本だということを知りました。さっそく古本屋にいって、その本の翻訳を買ってきました。当時、寺島実仁という人の翻訳がありました。戦前から戦中にかけてだされたものです。この本も古本屋にいくらもありました。それを読んでみたのですが、さっぱりわかりません。・・・これは哲学書を読む専門的な訓練を受けなければダメらしいということに気づいて、よし、大学の哲学科にはいってやろうと思いました」。
「とにかく大学の哲学科へいって『存在と時間』を読むという目的だけははっきりしていました。それに、戦後もう遊びたいだけ遊んだし、少しまともに勉強したくなっていたのだと思います。(受験科目の英語が)わからなければ、はじめからやり直せばいいや、遊んでたのだから仕方がないと思って、弟の使った中学1年の教科書を借りて、出てくる単語をかたっぱしからおぼえました。やってみると、1週間もかかりません。中2、中3、とやっていって、高校3年までやっても、ふた月もかかりませんでした」。
「(東北大学に入学したが)ハイデガーを読むには、ギリシア語やラテン語は必須です。・・・相当根気がよくなければつづきません。でも、ぼくは挫折しませんでした。やはり、20歳をすぎてから大学に入ってきて、ほんとうに勉強したくなっていたのだと思います。そのころ、ぼくはたぶん血相が変わっていたと思います」。
「1年生の秋になると、ぼくもドイツ語を大体マスターしたので、同級生7、8人と読書会をはじめました。はじめ、ハイデガーの『形而上学とは何か』という薄いパンフレットみたいな本を読みました。・・・最初は7、8人ではじめた読書会がそのうち3人くらいになりました。それを読み終わって、さあ『存在と時間』を詠もうということになったのですが、そのときは船橋君と2人だけになっていました。10月の半ばだったでしょうか。・・・それ(寺島のひどい翻訳の『存在と時間』)を見ながら、辞書をひきひき読みはじめました。1週間に2回集まって読みます。最初の頃は1日1ページも読めませんでした。読書会のない日も自分ではどんどん読んでいきます。こうして翌年の3月くらいには一応読みおえました。おもしろかった。何だかよくわからないけど、おもしろい。何かすごいことが書いてあるという感じだけが伝わってきて、残りのページの少なくなっていくのがもったいないような気がしました」。
「『存在と時間』をはじめて読んだのは1年生の10月から翌年の3月にかけてです。ドイツ語を勉強しはじめて半年たつかたたぬうちに読みはじめたわけですから無茶といえば無茶です。でも、この本が読みたくて大学に入ったのですから、早く読みたくてたまりませんでした。おもしろかったのですが、肝腎なことは何もわかりません。何もわかっていないということだけはわかりました。この本は一度や二度これだけ読んでわかるような本ではない、ということもわかりました。・・・『存在と時間』を読んだら、どう生きたらよいかの見当はつくだろう、そうしたら飯を食うことは別に考えようと思っていました。食うことにかけては、闇屋時代の経験で自信があったのです。だけど、一度読んでみると、そうはいかないことになってきました。『存在と時間』から、この先どう生きていけばよいのか、その指針が得られると思っていたのですが、どうやら、そんなことが書かれているわけではないらしいということも分かってきました。たしかに、農林専門学校時代のあの焦燥感や絶望感は大学に入って収ってきたようですが、それは『存在と時間』を読んでなにごとかを学びとったからというのではなく、語学の勉強をしたせいだろうと思います」。
「二年生になる春に『存在と時間』を読み終わりました」。
「大学院へ入ってからも、もちろんハイデガーは読んでいました。『現象学の根本問題』というハイデガーの講義録があります。『存在と時間』が世に出たのは1927年です。4月頃に出版されたのですが、その夏、マールブルク大学で『現象学の根本問題』という講義をしています。この講義には『存在と時間』の書き直しという意図がありました。1927年に出版されたのは『存在と時間』の上巻だけですが、それが出たとき、ハイデガー自身、これが失敗で、下巻を続けて書くことはできないということがわかっていたと思うのです。それで『存在と時間』のやり直しのつもりで、『現象学の根本問題』の講義をしたようです。・・・いかにハイデガーがこの講義を重視していたかが分かります・・・。しかし、読んでみると、それは第1部第3編だけではなく、『存在と時間』全体の書き直しです。・・・それを読んでみると、実におもしろいんです。ハイデガーの直接のお弟子さんでも、その講義を聴けなかった連中は1975年まで読めなかったものを、ぼくみたいな若造が1953年頃には読んでいたのです。先生たちはもっと前から読んでいたのですが、残念ながら、それを有効につかって独創的な論文を書いた人は誰もいませんでした」。
「ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、『世界内存在』の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように解き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。・・・日本のこれまでのハイデガー研究者たちは、そんなことは予想もしないので、ハイデガーが『存在と時間』で言っていることを繰りかえすことしかしていません。創文社の『ハイデッガー全集』の翻訳で読むと何が何だかさっぱりわからないけれど、ハイデガーの講義録は、普通の日本語に訳せば、平明で実によくわかります。著作と講義とは全然違います。講義には、書いたものには目立つレトリカルなところがまったくありません」。
巻末近くの、「いろいろの生き方があると思いますが、70数年生きてきてはっきり分かったことは、やりたいことをして生きるのがいちばんよさそうだということです」という言葉が、胸に沁みる。
本書のおかげで、ハイデガーを理解するには、著作『存在と時間』ではなく、講義録『現象学の根本問題』を読んだほうがよいということが分かり、溜め息が出た。
「神様をもちださないで、なおかつ絶望した人間の構造分析をしてくれるような本があったら、と思いました。そういうものを読めば、何とか自分自身の焦燥感にもうまく対処できるのではないかと思ったのです。そこで、斎藤信治さんが戦争中に出版した『実存の形而上学』という論文集や、中川秀恭さんの『ハイデガー研究』という、これも戦争中の出版で当時古本屋にごろごろしていた本をみつけて読みました。そして、ハイデガーというドイツの哲学者が、ドストエフスキーとキルケゴールの影響を強く受けながら、絶望できる人間の存在構造を時間という視点から分析してみせているらしい。それが『存在と時間』という本だということを知りました。さっそく古本屋にいって、その本の翻訳を買ってきました。当時、寺島実仁という人の翻訳がありました。戦前から戦中にかけてだされたものです。この本も古本屋にいくらもありました。それを読んでみたのですが、さっぱりわかりません。・・・これは哲学書を読む専門的な訓練を受けなければダメらしいということに気づいて、よし、大学の哲学科にはいってやろうと思いました」。
「とにかく大学の哲学科へいって『存在と時間』を読むという目的だけははっきりしていました。それに、戦後もう遊びたいだけ遊んだし、少しまともに勉強したくなっていたのだと思います。(受験科目の英語が)わからなければ、はじめからやり直せばいいや、遊んでたのだから仕方がないと思って、弟の使った中学1年の教科書を借りて、出てくる単語をかたっぱしからおぼえました。やってみると、1週間もかかりません。中2、中3、とやっていって、高校3年までやっても、ふた月もかかりませんでした」。
「(東北大学に入学したが)ハイデガーを読むには、ギリシア語やラテン語は必須です。・・・相当根気がよくなければつづきません。でも、ぼくは挫折しませんでした。やはり、20歳をすぎてから大学に入ってきて、ほんとうに勉強したくなっていたのだと思います。そのころ、ぼくはたぶん血相が変わっていたと思います」。
「1年生の秋になると、ぼくもドイツ語を大体マスターしたので、同級生7、8人と読書会をはじめました。はじめ、ハイデガーの『形而上学とは何か』という薄いパンフレットみたいな本を読みました。・・・最初は7、8人ではじめた読書会がそのうち3人くらいになりました。それを読み終わって、さあ『存在と時間』を詠もうということになったのですが、そのときは船橋君と2人だけになっていました。10月の半ばだったでしょうか。・・・それ(寺島のひどい翻訳の『存在と時間』)を見ながら、辞書をひきひき読みはじめました。1週間に2回集まって読みます。最初の頃は1日1ページも読めませんでした。読書会のない日も自分ではどんどん読んでいきます。こうして翌年の3月くらいには一応読みおえました。おもしろかった。何だかよくわからないけど、おもしろい。何かすごいことが書いてあるという感じだけが伝わってきて、残りのページの少なくなっていくのがもったいないような気がしました」。
「『存在と時間』をはじめて読んだのは1年生の10月から翌年の3月にかけてです。ドイツ語を勉強しはじめて半年たつかたたぬうちに読みはじめたわけですから無茶といえば無茶です。でも、この本が読みたくて大学に入ったのですから、早く読みたくてたまりませんでした。おもしろかったのですが、肝腎なことは何もわかりません。何もわかっていないということだけはわかりました。この本は一度や二度これだけ読んでわかるような本ではない、ということもわかりました。・・・『存在と時間』を読んだら、どう生きたらよいかの見当はつくだろう、そうしたら飯を食うことは別に考えようと思っていました。食うことにかけては、闇屋時代の経験で自信があったのです。だけど、一度読んでみると、そうはいかないことになってきました。『存在と時間』から、この先どう生きていけばよいのか、その指針が得られると思っていたのですが、どうやら、そんなことが書かれているわけではないらしいということも分かってきました。たしかに、農林専門学校時代のあの焦燥感や絶望感は大学に入って収ってきたようですが、それは『存在と時間』を読んでなにごとかを学びとったからというのではなく、語学の勉強をしたせいだろうと思います」。
「二年生になる春に『存在と時間』を読み終わりました」。
「大学院へ入ってからも、もちろんハイデガーは読んでいました。『現象学の根本問題』というハイデガーの講義録があります。『存在と時間』が世に出たのは1927年です。4月頃に出版されたのですが、その夏、マールブルク大学で『現象学の根本問題』という講義をしています。この講義には『存在と時間』の書き直しという意図がありました。1927年に出版されたのは『存在と時間』の上巻だけですが、それが出たとき、ハイデガー自身、これが失敗で、下巻を続けて書くことはできないということがわかっていたと思うのです。それで『存在と時間』のやり直しのつもりで、『現象学の根本問題』の講義をしたようです。・・・いかにハイデガーがこの講義を重視していたかが分かります・・・。しかし、読んでみると、それは第1部第3編だけではなく、『存在と時間』全体の書き直しです。・・・それを読んでみると、実におもしろいんです。ハイデガーの直接のお弟子さんでも、その講義を聴けなかった連中は1975年まで読めなかったものを、ぼくみたいな若造が1953年頃には読んでいたのです。先生たちはもっと前から読んでいたのですが、残念ながら、それを有効につかって独創的な論文を書いた人は誰もいませんでした」。
「ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、『世界内存在』の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように解き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。・・・日本のこれまでのハイデガー研究者たちは、そんなことは予想もしないので、ハイデガーが『存在と時間』で言っていることを繰りかえすことしかしていません。創文社の『ハイデッガー全集』の翻訳で読むと何が何だかさっぱりわからないけれど、ハイデガーの講義録は、普通の日本語に訳せば、平明で実によくわかります。著作と講義とは全然違います。講義には、書いたものには目立つレトリカルなところがまったくありません」。
巻末近くの、「いろいろの生き方があると思いますが、70数年生きてきてはっきり分かったことは、やりたいことをして生きるのがいちばんよさそうだということです」という言葉が、胸に沁みる。
本書のおかげで、ハイデガーを理解するには、著作『存在と時間』ではなく、講義録『現象学の根本問題』を読んだほうがよいということが分かり、溜め息が出た。
2016年6月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
早速楽しく読ませていただきました。
今後ともよろしくおねがいいたします。
今後ともよろしくおねがいいたします。
2010年10月20日に日本でレビュー済み
木田の本を最近手に取ることが多くなった。木田という方は80歳を超えていらっしゃるが、僕にとっては新進気鋭の思想家である。
本書は哲学書ではない。木田という方の男の色気溢れた破天荒な人生の自伝である。
まず、色気について。本書には著者ご自身の写真が相当収録されている。これを見る限り、若いころの著者は実に美男子である。賭けても良いが、これは著者自身が意識して収録したに違いない。「美男子の哲学者」というイメージ戦略がそこに有るに違いないが、最早爽快感しか感じさせない。また、著者が「恋をしていたのかもしれない」という叔母の写真も1ページ丸々使って掲載しているが、これまた美女である。美男美女の写真溢れた自伝となっているが嫌みが無い。著者の会心の笑顔が透けて見えるではないか。
次に破天荒について。表題になっている闇屋の話も面白いが、やはり白眉は著者の語学勉強の凄まじさであろう。福翁自伝に出てきた大阪適塾での勉学風景を思わせるものがあるが、それがいかにも「破天荒」に見えてくる点が本書の醍醐味の一つだ。著者は喧嘩が得意だとも語るが、その語学の勉強の仕方も「喧嘩腰」である。
著者は最後に「やりたいことをして生きるのがいちばんよさそうだ」と断言している。驚くほど平凡な結論だ。但し、それを非凡な人生で貫いてきたことが見えるのも本書である。著者は色々なものに恵まれてきたことも確かだが、それ以上に破天荒に頑張ってきたことも確かだろう。それが、本書の爽快な読後感になっている。
本書は哲学書ではない。木田という方の男の色気溢れた破天荒な人生の自伝である。
まず、色気について。本書には著者ご自身の写真が相当収録されている。これを見る限り、若いころの著者は実に美男子である。賭けても良いが、これは著者自身が意識して収録したに違いない。「美男子の哲学者」というイメージ戦略がそこに有るに違いないが、最早爽快感しか感じさせない。また、著者が「恋をしていたのかもしれない」という叔母の写真も1ページ丸々使って掲載しているが、これまた美女である。美男美女の写真溢れた自伝となっているが嫌みが無い。著者の会心の笑顔が透けて見えるではないか。
次に破天荒について。表題になっている闇屋の話も面白いが、やはり白眉は著者の語学勉強の凄まじさであろう。福翁自伝に出てきた大阪適塾での勉学風景を思わせるものがあるが、それがいかにも「破天荒」に見えてくる点が本書の醍醐味の一つだ。著者は喧嘩が得意だとも語るが、その語学の勉強の仕方も「喧嘩腰」である。
著者は最後に「やりたいことをして生きるのがいちばんよさそうだ」と断言している。驚くほど平凡な結論だ。但し、それを非凡な人生で貫いてきたことが見えるのも本書である。著者は色々なものに恵まれてきたことも確かだが、それ以上に破天荒に頑張ってきたことも確かだろう。それが、本書の爽快な読後感になっている。