発売当時、初版で購入しました。
記憶ではまだ宅八郎氏がメディアに現れる前。
正直、面白いなぁ!と思った。
「こんな世界があるんだ!」「こういうパワーある人がいるんだ!」と。
今、読み返すと現在とは180度マ逆。
パソコンなんて当時はクライ、ネクラの代名詞。
アニメ、マンガオタクもしかり。
フィギュアなんてもっての他だった。
それが今や男子も女子もスマホ(携帯&PC)を操る。ゲームに熱中。
パソコンなんて触れた事が無い人を探す方が大変。
その真相はハード(機器・画質)とソフト(内容)の広がりによる楽しさ、快適さ、便利さにある。
細分化されたソフトは女子にも理解され、世代を超えるコンテンツを提供した結果。
本に戻ると、とにかく「おたく」に批判的な内容だ。
理解不能!気持ち悪い!と眉間にシワを寄せるライター達の顔がよぎる。
まぁ、そういう時代だったのだから。内容がショッキングだったのだと。
男子は女子と恋愛し、デートをするのが当たり前。
母に買ってきてもらったTシャツ+ジーパンルックで銀ブチメガネがキモチワルイ!
アイドル、ゲーム、フィギュア(趣味)に没頭しているのはオカシイ。
個性を許さず集団指向の社会。
そういう時代の本。
いまやライター達は何を思うのかな?
時代は変われどオタクは変わらず。
太っちょ、細いの、メガネさん。コミケで物色する姿勢は永久不滅だ。
この本の価値は実は自分たち外野は「おたく」らをこういう目線で見ていたんだよ。
という証拠にある。
「おたく」を観察していたのではなく、反射して「こちら」の社会を映していたのだ。
今日、異常に思えた事が、明日には正常になっている可能性がある事を証明した。
「同性愛者」なんてちょっと前まで病気とされていた。それと同じ。
(変態であると某医学百科事典で堂々と記載されていた)
「おたく」=犯罪者、異常者と結びつけるような視点には閉口。
そんなもの、アニメやコミックが無い大昔から存在していた。
大体、ワイセツ定義と同じ。どこからどこまでが「おたく」なのかもあやふやなのに。
ある物事に没頭しているなら「おたく」なのか?
では当時、ウルトラマンやガンプラに熱狂していた子供は皆、「おたく」か?否や。
「おたく」を非難する前に「出る杭は打たれる」日本社会を批判すべきだ。
異色の人材は揶揄される。
皆が同じ行動を強いられ、同じ価値観を植えつけれる。就活ではバカみたいに全員同じ格好。
その結果が海外と正反対の叱る文化(体罰・イジメの助長)じゃないのか?
この世に正常な人などいるのか?
同じ内容で文庫本?サイズでも出ているかと。
そちらより大版のコチラをお勧めします。
確かスペースの都合上、小さい方は写真を省いていると思います。
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おたくの本 (別冊宝島 104) 単行本 – 1989/12/1
- 本の長さ271ページ
- 言語日本語
- 出版社宝島社
- 発売日1989/12/1
- ISBN-104796691049
- ISBN-13978-4796691048
登録情報
- 出版社 : 宝島社 (1989/12/1)
- 発売日 : 1989/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 271ページ
- ISBN-10 : 4796691049
- ISBN-13 : 978-4796691048
- Amazon 売れ筋ランキング: - 809,360位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年3月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
痛みや ヤケも気にならない程度で、良本といってよいクオリティ
でした。
でした。
2011年7月4日に日本でレビュー済み
今になって読み返すと、この本に出てくる「おたく」の人たちの行動や発言が発達障害(特にアスペルガー症候群、広汎性発達障害、高機能自閉症)の患者の特徴に
見事なまでにぴったりと当てはまる。
一つの物事に詳しい、人付き合いが苦手、一人で何かに没頭するのを好む、収集癖がある、世間一般の人が興味を持たないマイナーな分野にばかり興味を持つ、
世間的に「子供向け」「幼稚」とされているジャンル(アニメなど)を大人になっても愛好する、気難しい気質、友達ができない、いじめやからかいの標的にされやすい、
突飛な発言や行動が多い、注意されても同じことを何度も繰り返す、職に就いても長続きしない、感覚や考え方が周囲の人たちから大きくずれている、等々。
もちろん、当時は発達障害自体が知られていなかったので、障害の可能性については一切触れられていませんが…。
見事なまでにぴったりと当てはまる。
一つの物事に詳しい、人付き合いが苦手、一人で何かに没頭するのを好む、収集癖がある、世間一般の人が興味を持たないマイナーな分野にばかり興味を持つ、
世間的に「子供向け」「幼稚」とされているジャンル(アニメなど)を大人になっても愛好する、気難しい気質、友達ができない、いじめやからかいの標的にされやすい、
突飛な発言や行動が多い、注意されても同じことを何度も繰り返す、職に就いても長続きしない、感覚や考え方が周囲の人たちから大きくずれている、等々。
もちろん、当時は発達障害自体が知られていなかったので、障害の可能性については一切触れられていませんが…。
2004年8月30日に日本でレビュー済み
かの宮崎勤が犯した幼女誘拐殺人事件をきっかけにクローズアップされた『おたく』という人種。この本は様々なおたく創世記の人々に焦点をあてておたくとは何なのか?について語っている。残念なのは現在のおたく第一人者岡田斗司夫氏のコメントが無いことか…
2022年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自らが経験した、同調圧力や多様性の排除、その恐ろしさの記憶を留めるために購入しました。
今ではすでに、おおむね市民権を得た生き方や嗜好と言えるかもしれませんが、私が高校生だった1989年前後は、空前の好景気で世間が浮かれていた(イメージがあった)半面、おたくにとっては悪夢の時代であった記憶しかありません。
特に、少女連続殺人事件の容疑者の逮捕を機に好奇な報道は過熱し、弾圧にも拍車がかかったと言えます。
そのさなかに出版された本書でも、専ら好奇の目で嗜好別におたくが分類され、取り上げられています。実際、自分が分類されるであろう鉄道趣味に関しては取り上げられていないこともあり、特殊で極端な事例に偏っているという印象を拭い去れません。
特に河上亮一さんが現役教師として執筆した記事を見ると、今でいうADHDやASDをおたくとしている感じがしました。もはや趣味嗜好の問題ではありません。そもそもADHDやASDとは多様かつ強弱も様々で十人十色なため、一括りに病気や問題があるとも言えません。
当のおたく少年も、問題のある行動故にいじめの標的となっていたが、最終的に得意分野を見つけて伸ばせたことで事態が好転したと書いています。
私も当時「鉄道おたく」故に弾圧されていた状況を打破しようと、同じく興味を抱いていた「世間的に認められている趣味」、クラシック音楽やそれに付随する文化や芸術に関心を持つようになりました。これは15年余りの間古くから親しんでいた領域を否定して離れた一方、思考や価値観の広がりを与えるきっかけになったかもしれません。
それでも、トーマス・マンの初期作品群やワーグナーの作品、などに触れることで、「世間的に認められている趣味」の熱狂的愛好家もおたくも大差は無かったのだ、ということを痛感しました。
事実、高名な指揮者であるフルトヴェングラーは、その著作でワーグナーの熱狂的愛好家であるワグネリアンについて、「作品の魅力に圧倒されて、本質を見ることができない者」「それによって自己の独立性と客観性が保てず、極端な崇拝を行う者」といった内容で論じています。
実際、ワーグナーの場合も作曲者本人の思考や偏見も手伝ってナチズムや反ユダヤ主義の象徴と祭り上げられて利用され、第二次大戦後には大きな十字架を背負い続けることになってしまいます。
要は「作品の魅力に圧倒される」ことが一概に悪とは言えませんが、「作品の本質を見ることができない」ことは勿体ないことであり、「自己の独立性と客観性が保てないこと」や「極端な崇拝」は危険なのも事実と言えるでしょう。
「作品の本質を見ることができない」「自己の独立性と客観性が保てない」「極端な崇拝」、これらを「おたくの病理」とするならば、私たちが克服すべきなのは「おたくの病理」そのものであり、作品や趣味領域や愛好家を否定する意味では決して無い、と言えるでしょう。
ステレオタイプ的思考やレッテル貼りが安易になされてしまうからこそ、私たちが永遠に取り組むべき問題だと言えます。
今ではすでに、おおむね市民権を得た生き方や嗜好と言えるかもしれませんが、私が高校生だった1989年前後は、空前の好景気で世間が浮かれていた(イメージがあった)半面、おたくにとっては悪夢の時代であった記憶しかありません。
特に、少女連続殺人事件の容疑者の逮捕を機に好奇な報道は過熱し、弾圧にも拍車がかかったと言えます。
そのさなかに出版された本書でも、専ら好奇の目で嗜好別におたくが分類され、取り上げられています。実際、自分が分類されるであろう鉄道趣味に関しては取り上げられていないこともあり、特殊で極端な事例に偏っているという印象を拭い去れません。
特に河上亮一さんが現役教師として執筆した記事を見ると、今でいうADHDやASDをおたくとしている感じがしました。もはや趣味嗜好の問題ではありません。そもそもADHDやASDとは多様かつ強弱も様々で十人十色なため、一括りに病気や問題があるとも言えません。
当のおたく少年も、問題のある行動故にいじめの標的となっていたが、最終的に得意分野を見つけて伸ばせたことで事態が好転したと書いています。
私も当時「鉄道おたく」故に弾圧されていた状況を打破しようと、同じく興味を抱いていた「世間的に認められている趣味」、クラシック音楽やそれに付随する文化や芸術に関心を持つようになりました。これは15年余りの間古くから親しんでいた領域を否定して離れた一方、思考や価値観の広がりを与えるきっかけになったかもしれません。
それでも、トーマス・マンの初期作品群やワーグナーの作品、などに触れることで、「世間的に認められている趣味」の熱狂的愛好家もおたくも大差は無かったのだ、ということを痛感しました。
事実、高名な指揮者であるフルトヴェングラーは、その著作でワーグナーの熱狂的愛好家であるワグネリアンについて、「作品の魅力に圧倒されて、本質を見ることができない者」「それによって自己の独立性と客観性が保てず、極端な崇拝を行う者」といった内容で論じています。
実際、ワーグナーの場合も作曲者本人の思考や偏見も手伝ってナチズムや反ユダヤ主義の象徴と祭り上げられて利用され、第二次大戦後には大きな十字架を背負い続けることになってしまいます。
要は「作品の魅力に圧倒される」ことが一概に悪とは言えませんが、「作品の本質を見ることができない」ことは勿体ないことであり、「自己の独立性と客観性が保てないこと」や「極端な崇拝」は危険なのも事実と言えるでしょう。
「作品の本質を見ることができない」「自己の独立性と客観性が保てない」「極端な崇拝」、これらを「おたくの病理」とするならば、私たちが克服すべきなのは「おたくの病理」そのものであり、作品や趣味領域や愛好家を否定する意味では決して無い、と言えるでしょう。
ステレオタイプ的思考やレッテル貼りが安易になされてしまうからこそ、私たちが永遠に取り組むべき問題だと言えます。