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日本語を作った男 上田万年とその時代 単行本 – 2016/2/26
山口 謠司
(著)
夏目漱石、森鷗外、斎藤緑雨、坪内逍遥…そして上田万年。言葉で国を作ろうと明治を駆けた男たちがいた。
明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。明治にはまだ「日本語」はなかったのである。「日本語(標準語)」を作ることこそが国(国家という意識)を作ることであるーー近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く。
上田万年の一生は明治とともに始まった。同年生まれに夏目漱石・正岡子規・幸田露伴・尾崎紅葉らがいる。弟子には 「広辞苑」の新村出、橋本進吉。皆、言葉で国を作ろうとした男たちだ。
いまからわずか100年前の明治には「日本語」はまだなく、全国で共通に通じる言葉がないならいっそ公用語を英語にしてしまえという議論さえ真面目になされていた。
そんな中、「言文一致」という新しい試みが始まった。落語の速記を参考にして二葉亭四迷が「浮雲」を書き、漱石が「吾輩は猫である」というまったく新しい日本語の小説を書いた……そして、その背後には上田万年という一人の男がいたのである。
表記や発音の統一、そして出版、流通、教育、娯楽、軍事まで、現在私たちが話している日本語はいかにして「作られた」のかを俯瞰したノンフィクション。
嵐山光三郎さん推薦!
「もうひとつの明治維新史」
大岡玲さん推薦!
「漱石の『日本語』は上田万年の『日本語』だった! 近代日本語の『故郷』を縦横無尽に描ききった著者に、心からの敬意を表したい 」
(「もくじ」より)
第1章 明治初期の日本語事情
第2章 万年の同世代人と教育制度
第3章 日本語をどう書くか
第4章 万年、学びのとき
第5章 本を、あまねく全国へ
第6章 言語が国を作る
第7章 落語と言文一致
第8章 日本語改良への第一歩
第9章 国語会議
第10章 文人たちの大論争
第11章 言文一致への道
第12章 教科書国定の困難
第13章 徴兵と日本語
第14章 緑雨の死と漱石の新しい文学
第15章 万年万歳 万年消沈
第16章 唱歌の誕生
第17章 万年のその後
著者略歴
山口謠司(やまぐち ようじ)
大東文化大学准教授。大東文化大学文学部卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。専門は中国および日本の文献学。『ん 日本語最後の謎に挑む』(新潮新書)、『てんてん 日本語究極の謎に迫る』(角川選書)、『となりの漱石』(ディスカヴァー携書)など著書多数。
明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。明治にはまだ「日本語」はなかったのである。「日本語(標準語)」を作ることこそが国(国家という意識)を作ることであるーー近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く。
上田万年の一生は明治とともに始まった。同年生まれに夏目漱石・正岡子規・幸田露伴・尾崎紅葉らがいる。弟子には 「広辞苑」の新村出、橋本進吉。皆、言葉で国を作ろうとした男たちだ。
いまからわずか100年前の明治には「日本語」はまだなく、全国で共通に通じる言葉がないならいっそ公用語を英語にしてしまえという議論さえ真面目になされていた。
そんな中、「言文一致」という新しい試みが始まった。落語の速記を参考にして二葉亭四迷が「浮雲」を書き、漱石が「吾輩は猫である」というまったく新しい日本語の小説を書いた……そして、その背後には上田万年という一人の男がいたのである。
表記や発音の統一、そして出版、流通、教育、娯楽、軍事まで、現在私たちが話している日本語はいかにして「作られた」のかを俯瞰したノンフィクション。
嵐山光三郎さん推薦!
「もうひとつの明治維新史」
大岡玲さん推薦!
「漱石の『日本語』は上田万年の『日本語』だった! 近代日本語の『故郷』を縦横無尽に描ききった著者に、心からの敬意を表したい 」
(「もくじ」より)
第1章 明治初期の日本語事情
第2章 万年の同世代人と教育制度
第3章 日本語をどう書くか
第4章 万年、学びのとき
第5章 本を、あまねく全国へ
第6章 言語が国を作る
第7章 落語と言文一致
第8章 日本語改良への第一歩
第9章 国語会議
第10章 文人たちの大論争
第11章 言文一致への道
第12章 教科書国定の困難
第13章 徴兵と日本語
第14章 緑雨の死と漱石の新しい文学
第15章 万年万歳 万年消沈
第16章 唱歌の誕生
第17章 万年のその後
著者略歴
山口謠司(やまぐち ようじ)
大東文化大学准教授。大東文化大学文学部卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。専門は中国および日本の文献学。『ん 日本語最後の謎に挑む』(新潮新書)、『てんてん 日本語究極の謎に迫る』(角川選書)、『となりの漱石』(ディスカヴァー携書)など著書多数。
- 本の長さ552ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社インターナショナル
- 発売日2016/2/26
- 寸法14 x 3.8 x 19.5 cm
- ISBN-104797672617
- ISBN-13978-4797672619
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登録情報
- 出版社 : 集英社インターナショナル (2016/2/26)
- 発売日 : 2016/2/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 552ページ
- ISBN-10 : 4797672617
- ISBN-13 : 978-4797672619
- 寸法 : 14 x 3.8 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 292,101位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 55,762位ノンフィクション (本)
- - 82,059位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1963年、長崎県に生まれる。大東文化大学文学部教授。フランス国立社会科学高等研究院大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経る。
著書にはベストセラー『語彙力がないまま社会人になってしまった人へ』(ワニブックス)をはじめ、『文豪の凄い語彙力』『一字違いの語彙力』『頭のいい子に育つ0歳からの親子で音読』『ステップアップ0歳音読』『いい子が生まれる 胎教音読』、監修に『頭のいい一級の語彙力集成』(以上、さくら舎)などがある。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
文部科学省・文化庁の「国語に関する世論調査」の担当者は、「凄い嬉し」いなど、間違った日本語は今の文化だと言って直すつもりはないと言いったので、SAPIO誌に書きました。母国で正しい日本語を覚えた人たちより、TVのアナウンサーやニュースキャスターたちの日本語の方が酷い。読解力も伝達力も劣化するのは当然だと思います。
2017年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
国語誕生のドラマは大変興味深く面白かったです。ただ読み物としてはかなり冗長。寄り道が多く、終わりも尻すぼみな感じでした。
2016年5月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本により、森鴎外の別の太罪を発見した。この本の中でも、軽く触れられているが、鴎外が「脚気病原菌説」に固執した点である。それにより鴎外は日清・日露で3万人の陸軍兵士を脚気で死なせた虐殺者である(戦死より多い)。ロシヤの英雄である。海軍では皆無である。今であれば、エイズ薬剤事件と同じく有罪である。
[・・・]
またビタミンを最初に発見した鈴木梅太郎のノーベル賞を取らせない運動をした。
その鴎外が日本語の言文一致に反対して、日本語をガタガタヤにしたのである。彼はサシミにお湯をかけて消毒したという潔癖症(精神障害?)であった。こんな男が文学界と医学会の中枢にいて日本に害を及ぼしたのである。明治時代で一番の犯罪人である。
[・・・]
またビタミンを最初に発見した鈴木梅太郎のノーベル賞を取らせない運動をした。
その鴎外が日本語の言文一致に反対して、日本語をガタガタヤにしたのである。彼はサシミにお湯をかけて消毒したという潔癖症(精神障害?)であった。こんな男が文学界と医学会の中枢にいて日本に害を及ぼしたのである。明治時代で一番の犯罪人である。
2016年7月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
円地文子さんの父上の話。日本語の標準語が出来る課程を豊富な話題を織り交ぜて解説している。
2016年5月8日に日本でレビュー済み
『日本語を作った男――上田万年とその時代』(山口謠司著、集英社インターナショナル)は、明治時代後半に始まった日本語の言文一致運動史を、主役・上田万年(かずとし)、敵役・森鴎外、味方役・夏目漱石という顔触れで生き生きと描き出しています。
「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。・・・言文一致はたったひとりでできるものではなかった。そして、政府や文部省などが押しつけてやっても、それだけでどうにかなるものでもなかった。政府や文部省のなかにも、今のままでいいという人もいたし、日本語を捨てて英語にしてしまえという人もいたのである」。こういう状況の中で、言文一致運動を主導したのは上田万年という、あまり知られていない人物でした。
万年は、言語学者、国語学者にして、東京帝国大学国語研究室初代主任教授で、弟子には『広辞苑』を編纂した新村出や金田一京助などがいます。作家・円地文子の父でもあります。
歴史的仮名遣いの遵守を主張して、万年の言文一致運動の前に大きく立ちはだかったのが鴎外であり、万年の主張を自分の小説の文体に取り入れたのが漱石だったというのです。「もし、こういう言い方が許されるのであれば、百年後にも読まれ続けている『吾輩ハ猫デアル』を漱石に書かせたのは、新しい日本語を創ろうとした言語学者・上田万年である。聡明な漱石は、『近代日本語』が公に向かって現れることを事前に知って、百年後にも読まれる文章を書くための準備をし、民衆に広くウケる『吾輩ハ猫デアル』をひっさげて現れた。そして、その裏方にいたのが、上田万年だった。万年なしに、『漱石』は生まれてこなかった」。
著者は、万年の肩を持つあまり、漱石には甘く、鷗外には辛辣なことが、鷗外ファンの私にはいささか不満です。「万年は、明治32(1899)年、文学博士の称号を授与され、これによって名実ともに、言語学者として、また言語学の立場から日本語を論じることの権威となったのである。ところで、博士という学位を持って明治の世を闊歩していた人に森林太郎・鷗外がある。明治24(1891)年に医学博士の学位を授与されて以来、鷗外は、また文筆家としても華々しい活動を行っていた。そして、万年とは明治35(1902)年以降、『国語調査委員』として顔を合わせることになる。万年とはうまくいくのか・・・鷗外は負けず嫌いで、人に論争をふっかけ、しつこく追い回すという癖を持っていた」。博士という学位を持つ人がまだ非常に珍しかった時代のことです。
一方、漱石については、こんなふうです。「漱石の作品がこれだけ教科書に採用されるとなれば、漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えたことは十分に考えられるであろう」。「漱石の文体は、ほとんど、万年が望む言文一致体であった。当時より現代まで、漱石の文体は古びることなく、人々の心を掴んでいるのである」。
「明治41年、臨時仮名遣調査委員会で大演説をし、仮名遣い改正案を引っくり返した鷗外だったが、旧仮名遣いを主張した鷗外の文章は、年を負うごとに人気がなくなっていく。読み難いからである。これに対して、漱石の書くものは非常によく読まれるようになる。しかし、その漱石も後期三部作を書き終わると、もうまとまったものが書けなくなってしまう。ただ、漱石には、漱石の文体を引き継ぐような、『木曜会』にいた弟子たちが育っていた。漱石の教員時代の教え子や漱石を慕う若手文学者たちによる、漱石邸での毎週木曜日の集まりには、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平はじめ内田百閒、野上弥生子、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、久米正雄などが顔を出していた。彼らがその後の『日本語』を作っていく。そして鷗外も、大正に入って以降は次第に、『言文一致』に近い日本語で、小説を発表するようになっていく」。
昭和21年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされたのは、万年が死去してから9年後のことでした。
「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。・・・言文一致はたったひとりでできるものではなかった。そして、政府や文部省などが押しつけてやっても、それだけでどうにかなるものでもなかった。政府や文部省のなかにも、今のままでいいという人もいたし、日本語を捨てて英語にしてしまえという人もいたのである」。こういう状況の中で、言文一致運動を主導したのは上田万年という、あまり知られていない人物でした。
万年は、言語学者、国語学者にして、東京帝国大学国語研究室初代主任教授で、弟子には『広辞苑』を編纂した新村出や金田一京助などがいます。作家・円地文子の父でもあります。
歴史的仮名遣いの遵守を主張して、万年の言文一致運動の前に大きく立ちはだかったのが鴎外であり、万年の主張を自分の小説の文体に取り入れたのが漱石だったというのです。「もし、こういう言い方が許されるのであれば、百年後にも読まれ続けている『吾輩ハ猫デアル』を漱石に書かせたのは、新しい日本語を創ろうとした言語学者・上田万年である。聡明な漱石は、『近代日本語』が公に向かって現れることを事前に知って、百年後にも読まれる文章を書くための準備をし、民衆に広くウケる『吾輩ハ猫デアル』をひっさげて現れた。そして、その裏方にいたのが、上田万年だった。万年なしに、『漱石』は生まれてこなかった」。
著者は、万年の肩を持つあまり、漱石には甘く、鷗外には辛辣なことが、鷗外ファンの私にはいささか不満です。「万年は、明治32(1899)年、文学博士の称号を授与され、これによって名実ともに、言語学者として、また言語学の立場から日本語を論じることの権威となったのである。ところで、博士という学位を持って明治の世を闊歩していた人に森林太郎・鷗外がある。明治24(1891)年に医学博士の学位を授与されて以来、鷗外は、また文筆家としても華々しい活動を行っていた。そして、万年とは明治35(1902)年以降、『国語調査委員』として顔を合わせることになる。万年とはうまくいくのか・・・鷗外は負けず嫌いで、人に論争をふっかけ、しつこく追い回すという癖を持っていた」。博士という学位を持つ人がまだ非常に珍しかった時代のことです。
一方、漱石については、こんなふうです。「漱石の作品がこれだけ教科書に採用されるとなれば、漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えたことは十分に考えられるであろう」。「漱石の文体は、ほとんど、万年が望む言文一致体であった。当時より現代まで、漱石の文体は古びることなく、人々の心を掴んでいるのである」。
「明治41年、臨時仮名遣調査委員会で大演説をし、仮名遣い改正案を引っくり返した鷗外だったが、旧仮名遣いを主張した鷗外の文章は、年を負うごとに人気がなくなっていく。読み難いからである。これに対して、漱石の書くものは非常によく読まれるようになる。しかし、その漱石も後期三部作を書き終わると、もうまとまったものが書けなくなってしまう。ただ、漱石には、漱石の文体を引き継ぐような、『木曜会』にいた弟子たちが育っていた。漱石の教員時代の教え子や漱石を慕う若手文学者たちによる、漱石邸での毎週木曜日の集まりには、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平はじめ内田百閒、野上弥生子、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、久米正雄などが顔を出していた。彼らがその後の『日本語』を作っていく。そして鷗外も、大正に入って以降は次第に、『言文一致』に近い日本語で、小説を発表するようになっていく」。
昭和21年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされたのは、万年が死去してから9年後のことでした。
2016年5月16日に日本でレビュー済み
まず、「はじめに」でも言っているが、夥しい引用文を新旧問わず、すべて常用漢字と新仮名遣いに改変・統一してしまっている点。漢字はともかく、仮名遣いは本書のテーマである近代日本語の表記・表現の変遷と密接な関係があるのではないか。お奨めの漱石まで「新仮名」にされては、ここに根本矛盾が生じやしまいか。さらに、丸谷才一の文などは例外なのか、仮名遣いはママである。もうこれだけで、日本語の流れが読めなくなると思うが、如何だろうか。
「学術書であれば」そう「すべきであろう」と書いてあるが、何より「読みやすさを優先する」というのは、いくら素人相手の一般書でも、その学問的姿勢は不誠実である。「出典は明記したので」容易に原文に当たれるだろうとは、誰に向けての言葉なのか。専門家はともかく、著者が想定している一般読者には、そう容易なことではないのと考えるのが普通ではないか。この一点を以てしても、この本が結果的に底の浅い、味わいの薄いものになってしまったと感じるはずなのに、誰も指摘しないのは怪訝である。
次に、著者は森鷗外を悪者にすること性急なあまり、恣意的か、あるいは無知によるものか、かなり強引な曲解的な引用をしている。
一点だけ挙げておく。
鷗外について露伴が「心は冷い男」と評したと紹介したあとで、こういう文がある。(370頁)
また、高橋義孝『森鷗外』には、「鷗外を訪問したのち芥川龍之介のたちまち洩らした感想の一語『インヒューマン』は深く鷗外の本性を衝いたものとしていい」と記される。
このくだりを読んだ小池昌代は、「中央公論」(2016年6月号)の書評で、興味深いエピソードだと紹介しているが、そこにはご丁寧に、――「インヒューマン」(人情味のない、冷酷な)――とカッコで注を入れている。「インヒューマン」にはそういう意味もあるし、本書の文脈ではそう解釈しても仕方がないから、これは小池の罪ではないが、芥川の洩らした「インヒューマン」は、実はニュアンスが違うのである。
著者(山口)は他所(460~61頁など)でも高橋の『森鷗外』を引用しているから、ちゃんと読んではいるのだろう。読めば高橋の論旨が微妙に違うのは理解出来るだろうが、それはよい。だが、鷗外や芥川に会ったことのない高橋が、何を根拠にこう書いたかは知らなかったのではないか。高橋のネタ元(高橋の本にも曖昧な書き方だが記されている)は、鷗外とも芥川とも知己であった小島政二郎が書いた『森鷗外』なのである。
小島の話をかいつまんで言えばこうなる。
ある日、小島が芥川と連れ立って鷗外邸を訪れると、鷗外は畳の上に古い手紙を二十通ほど並べ、それをあちこち並べ替えていた。それは北條霞亭の手紙で、書いた年や月日が入っていないので、鷗外は内容を勘案しながら年月日順に並べ替えようとしていたのだ。「そんなことが可能か」と小島が問うと、鷗外は「不可能ではない。澁江抽斎の時も伊澤蘭軒のときも成功した」と答えた。
やがて、鷗外邸を辞すなり、芥川は小島に言った。「鷗外ッて、実にインヒューマンだね」芥川は鷗外に舌を巻き、感動の言葉として、繰り返しそれを小島に洩らした。……
断わっておけば、芥川はもちろん漱石をよく知っていたから、鷗外と比較して、「漱石は胡坐をかいてその上に僕達を坐らせてくれたが、鷗外は胡坐をかかない」と小島に言っていた。すなわち人間味、情味の点で、本書が描出する通りの評価をしていたのは事実ではある。だが、この「インヒューマン」は違うのである。
芥川が感に堪えたのは鷗外の、尋常の人間ではない、言ってみればその超人性であり、それが「インヒューマン」に込められているのだ。
以上を瑣末な粗探しと捉えるのは自由だが、引用は怖い。このように原典を知らぬままの引用が、書評によって補強され、やがて定説となれば、鷗外も芥川も誤解されたまま固定してしまう。大袈裟に言えば、歴史的事実が歪むのである。
最後の三つ目は、ないものねだりである。
本書の文章が、稚拙と言うと言いすぎなら、味わいが足りない。十代、二十代の若年なら仕方ないが、五十代で日本語の研究者である。期待したこちらが悪いのだろうから、分りやすく、文意が不分明なところがないだけでも評価すべきだろう。でも、簡明というのとも違う。軽い。
「言文一致」「喋るように書く」も突き詰めれば「文は人なり」で、字句・表記の問題ではない。人間がまるごと出てしまう。偉そうなことを書き連ねてきたが、私も自戒しよう。贅言深謝。
「学術書であれば」そう「すべきであろう」と書いてあるが、何より「読みやすさを優先する」というのは、いくら素人相手の一般書でも、その学問的姿勢は不誠実である。「出典は明記したので」容易に原文に当たれるだろうとは、誰に向けての言葉なのか。専門家はともかく、著者が想定している一般読者には、そう容易なことではないのと考えるのが普通ではないか。この一点を以てしても、この本が結果的に底の浅い、味わいの薄いものになってしまったと感じるはずなのに、誰も指摘しないのは怪訝である。
次に、著者は森鷗外を悪者にすること性急なあまり、恣意的か、あるいは無知によるものか、かなり強引な曲解的な引用をしている。
一点だけ挙げておく。
鷗外について露伴が「心は冷い男」と評したと紹介したあとで、こういう文がある。(370頁)
また、高橋義孝『森鷗外』には、「鷗外を訪問したのち芥川龍之介のたちまち洩らした感想の一語『インヒューマン』は深く鷗外の本性を衝いたものとしていい」と記される。
このくだりを読んだ小池昌代は、「中央公論」(2016年6月号)の書評で、興味深いエピソードだと紹介しているが、そこにはご丁寧に、――「インヒューマン」(人情味のない、冷酷な)――とカッコで注を入れている。「インヒューマン」にはそういう意味もあるし、本書の文脈ではそう解釈しても仕方がないから、これは小池の罪ではないが、芥川の洩らした「インヒューマン」は、実はニュアンスが違うのである。
著者(山口)は他所(460~61頁など)でも高橋の『森鷗外』を引用しているから、ちゃんと読んではいるのだろう。読めば高橋の論旨が微妙に違うのは理解出来るだろうが、それはよい。だが、鷗外や芥川に会ったことのない高橋が、何を根拠にこう書いたかは知らなかったのではないか。高橋のネタ元(高橋の本にも曖昧な書き方だが記されている)は、鷗外とも芥川とも知己であった小島政二郎が書いた『森鷗外』なのである。
小島の話をかいつまんで言えばこうなる。
ある日、小島が芥川と連れ立って鷗外邸を訪れると、鷗外は畳の上に古い手紙を二十通ほど並べ、それをあちこち並べ替えていた。それは北條霞亭の手紙で、書いた年や月日が入っていないので、鷗外は内容を勘案しながら年月日順に並べ替えようとしていたのだ。「そんなことが可能か」と小島が問うと、鷗外は「不可能ではない。澁江抽斎の時も伊澤蘭軒のときも成功した」と答えた。
やがて、鷗外邸を辞すなり、芥川は小島に言った。「鷗外ッて、実にインヒューマンだね」芥川は鷗外に舌を巻き、感動の言葉として、繰り返しそれを小島に洩らした。……
断わっておけば、芥川はもちろん漱石をよく知っていたから、鷗外と比較して、「漱石は胡坐をかいてその上に僕達を坐らせてくれたが、鷗外は胡坐をかかない」と小島に言っていた。すなわち人間味、情味の点で、本書が描出する通りの評価をしていたのは事実ではある。だが、この「インヒューマン」は違うのである。
芥川が感に堪えたのは鷗外の、尋常の人間ではない、言ってみればその超人性であり、それが「インヒューマン」に込められているのだ。
以上を瑣末な粗探しと捉えるのは自由だが、引用は怖い。このように原典を知らぬままの引用が、書評によって補強され、やがて定説となれば、鷗外も芥川も誤解されたまま固定してしまう。大袈裟に言えば、歴史的事実が歪むのである。
最後の三つ目は、ないものねだりである。
本書の文章が、稚拙と言うと言いすぎなら、味わいが足りない。十代、二十代の若年なら仕方ないが、五十代で日本語の研究者である。期待したこちらが悪いのだろうから、分りやすく、文意が不分明なところがないだけでも評価すべきだろう。でも、簡明というのとも違う。軽い。
「言文一致」「喋るように書く」も突き詰めれば「文は人なり」で、字句・表記の問題ではない。人間がまるごと出てしまう。偉そうなことを書き連ねてきたが、私も自戒しよう。贅言深謝。
2016年3月16日に日本でレビュー済み
大学が文学部だったので、現代日本語成立の経緯は知っているつもりでしたが、本書を読んで、その知識がいかに浅薄なものだったかを思い知らされました。
明治の小説家たちが、それまで日本語として存在していなかった言葉をいくつも創造したことや、新しい日本語で小説を書くために、円朝の落語の速記本を参考にしたことなどは知っていましたが、本書のサブタイトルにある、上田万年という人物の存在さえ知らなかったので、本当に恥ずかしい限りです。
一時、文科省が「自分探しの旅」を奨励したことがありましたが、ちゃんちゃらお門違いの話で、“本当の自分”など、まだ何も成し得てない者に探しようがないのです。
そんなことをしている暇があったら、まずは日本語の成り立ちを知る旅に出るべきです。
なぜなら、日本人が日本人である証は、日本語を話していることに他ならないからです。
明治の小説家たちが、それまで日本語として存在していなかった言葉をいくつも創造したことや、新しい日本語で小説を書くために、円朝の落語の速記本を参考にしたことなどは知っていましたが、本書のサブタイトルにある、上田万年という人物の存在さえ知らなかったので、本当に恥ずかしい限りです。
一時、文科省が「自分探しの旅」を奨励したことがありましたが、ちゃんちゃらお門違いの話で、“本当の自分”など、まだ何も成し得てない者に探しようがないのです。
そんなことをしている暇があったら、まずは日本語の成り立ちを知る旅に出るべきです。
なぜなら、日本人が日本人である証は、日本語を話していることに他ならないからです。
2016年7月23日に日本でレビュー済み
1人のレビューアーが書いているが、講釈師みたいに、見てきたようなことが、出てくる。「できれば、休みたいんだがな」と今朝、妻にも言った。「どうしてですの?」と妻。「具合でもお悪いの?」…ただでさえ汗っかきの万年は、手拭いで頭からしたたり落ちる汗を何度も拭いた。「忘れ物はにぁかい?原稿は鞄のなかに入れたかい?」と母が言う。「緊張せんと、人という字を何回も書いて呑みこんでいくんだよ」。…(緑雨は言う)「そこで相談だ」「おれに何か書けというのか?」「そんなことは言わん。雑誌を作ってくれないか」「雑誌?」「食うためには、発表する場が必要だ。その発表の場を帝国大学教授・上田万年の力で作ってくれというのだ」「そういうことか!分かった」…「今日は、紋付きのほうがいいですよ」と鶴子は言った。「ズボンを履かれると、窮屈でしょう」万年は黒縁の丸いめがねをずり上げた。「汗ふきの手拭いも忘れないでくださいませ」と手渡した。…こうした当事者しか知り得ない会話を、どうして勝手に想像しねつ造して挿入する必要があったのか。それに加えて、この本に5つ星をつけたレビューは、この筆者のお抱えのレビューアーの手になるものと見え、手放しのほめようだ。こんなことがはびこるようでは、健全な『場』とは言えない。