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一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで 単行本(ソフトカバー) – 2012/9/26
- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2012/9/26
- ISBN-104800300193
- ISBN-13978-4800300195
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2012/9/26)
- 発売日 : 2012/9/26
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 237ページ
- ISBN-10 : 4800300193
- ISBN-13 : 978-4800300195
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,047,170位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 31,720位日本史 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
1980年8月、東京に生まれる。
1999年4月、東京大学教養学部(前期課程)文科Ⅲ類入学。
2001年4月、東京大学文学部歴史文化学科日本史学専修課程進学。
2003年3月、東京大学文学部(歴史文化学科日本史学専修課程)卒業。
2003年4月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)修士課程入学。
2005年3月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)修士課程修了(文学修士)。
2005年4月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)博士課程進学。
2008年3月、東京大学大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻日本史学専門分野)博士課程単位取得満期退学。
2011年6月、東京大学より博士(文学)を授与される。
2005年4月より2008年3月まで、日本学術振興会特別研究員DC。
2008年4月より2011年3月まで、日本学術振興会特別研究員PD。
現在、東京大学大学院人文社会系研究科研究員。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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私自身もそのようなイメージを強く持っていた。
しかし、このイメージはマルクス主義的な歴史観に合わせて日本の歴史を無理やり解釈した結果の産物であり、実態を捉えられていないと筆者は喝破する。
筆者は「一揆」を、体制転覆というよりは春闘のような「体制の存在を肯定した上での、自らの要求をのませるための駆け引き」であるとする。
そのため、鍬や鋤といった、いかにも農民を象徴する武器が用いられ、鉄砲や刀などは一揆では用いられなかった。
これは、一揆が「我々は不満を持っている」ことを示すデモンストレーションであり、戦闘ではないことを示唆する。
教科書では、天草・島原の乱や一向一揆、明治新政府に対する竹槍闘争などが取り上げられることが多い。
しかし、こういったケースは例外的であり、一般の一揆は(例えば教科書に出ているものだと山城国一揆なども含め)、上記のような交渉とデモンストレーションの一環であった。
このような一揆像は極めて明快である。
しかし、これを現代の反原発デモやSNSと即座に結び付けるのは疑問も残る。
確かに反原発デモは反対ばかりで対案を提示しないというのは、ここで述べた一揆像とも一致はする。
しかし、一方で明治新政府の際には竹槍闘争という本当に政府転覆を狙うような闘いもあり、日本では「慣れ合い一揆」のみであるというわけでもない。
また、逆に諸外国に「慣れ合いのデモ行動」が歴史的に存在しないのかは本書では全く論じられていない。
現代の問題への引きつけ方はやや疑問だが、しかしメインである中世・近世史の部分は非常に面白い。
一読に値する一般向け歴史書であろう
著者は言う.
・「分かったような分からないような説明でごまかしてきたのが,かつての戦後歴史学であった」(p.97)
しかも,
・「こうした研究傾向は,ソ連が崩壊し革命の夢が潰えてからも,多少の修正はなされたものの,依然残っている」(p.6-7)
というから驚き.
そうした歪められた史観に基づく,
「一揆=階級闘争」
という見方の誤りを正そうというのが本書.
▼
そのため,これまでの通説的理解が覆る話が,本書には続出していて,非常に興味深し.
・「竹槍で戦う一揆が登場するのは,実は明治になってからのことなのである」(p.21)
・武装解除とは程遠いものだった,秀吉の刀狩り.
「藤木久志氏によれば,秀吉の刀狩りは,百姓の帯刀を免許制とし,台頭の有無によって侍と百姓を峻別することを目的としていたという」(p.24-25)
・一揆勢が鍬や鎌を使っても,鉄砲弓矢を使わなかったのは,自分たちが百姓身分を逸脱していないことを幕府や藩に示すアピール(p.26-33)
・明治新政府に要求を突きつけるのではなく,新政自体に反対するものだったため,江戸時代とは違って凶暴化した一揆(p.33-34)
・直訴や逃散自体が処罰されたのではなく,敗訴したら処罰だったという江戸時代の仕組み(p.34-35)
・18世紀になると,全藩一揆=強訴が各地で頻発し,これを想定していなかった幕府は,対応する法律を用意しておらず,依拠すべき基準がなかったため,処罰が恣意的・過酷なものに(p.35-36)
・建前では「一揆」は禁止されていたため,基本的には非武装を貫き,「一揆」=武装蜂起と認定されないよう苦心した百姓(p.36-39)
要するにテレビや漫画でこれまで見てきた一揆イメージは,頭のてっぺんから爪先まで嘘の塊だったと.
▼
さらに時代を遡って,著者の専門分野の室町時代の一揆について.
・中世の一揆は多種多様(p.41-49)
・強訴とは?(p.49-55)
・荘家の一揆とは?(p.55-59)
・一揆の本質は?(p.67-72)
・「一味同心」に基づく訴えという,合理的判断を超越した絶対の正義(p.67-72)
・平等原理を裏書きするための大衆僉議(p.73-78)
・首謀者隠しだけでは,その目的を十分に説明できない「傘連判」.
「特定の人物・村の主導性を否定し,一揆の平等を表明するという意図に基づくのではないだろうか」(p.91-92)
・徳政一揆の主因は飢饉(p.97-98)
・「徳政一揆の行動は,いわば施行を強制するものなのである」(p.99)
・「一味神水」を行う意味は?(p.109-128)
・宣伝文書という意味合いのあった一揆契文(p.129-138)
もしかすると現代人よりもプロパガンダに長けていたのでは?
・一揆勢の巧みな駆け引き,優れた戦略眼(p.142-143)
・「実力行使がゼロの,完全に平和的な交渉や訴えというのは,まずありえないのだ」(p.144-146)
・革命性はなく,強訴に近かった山城国一揆(p.146-150)
・「従来は『強訴』と考えられてこなかった一揆の中にも,『強訴』的性格を持つものが多く存在していることが了解される」(p.150-155)
・松浦一族の国人一揆の特徴は?(p.159-165)
・「自治共和国」という解釈は幻想(p.165-166)
・「以前は絶対の上下関係と見られてきた人間関係の中にも,『契約』的側面を持つものが多い,ということが近年の研究によって分かってきた」(p.189-214)
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情報を絶えずアップデートしておくことは大切だよね,ということで.
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一揆はこれまで農民たちの階級闘争や革命であると唯物史観で説明されてきたか、あるいはそれに反発して中世人の呪術性に焦点を当てるか、いずれにせよ研究者ののロマンチックな願望が先行して正確な理解が妨げられたきたと著者はいう。
時代によって意味合いは変化しつつも、一揆は命がけの闘争ではなく概ね平和的な条件交渉であった。武力行使もありながら、ただ体制の転覆ではなく租税の減免であり悪辣な行政官の交代という現実的な落とし所を一揆は求めてきた。(例えば、当時は刀やともすれば猟銃まで持っていたのだから、農民が鋤や鍬をもって押しかけるというイメージは本気で武力行使する意図はないことの証左だと著者は言う)
一揆の連帯のありかた、特に一揆を結ぶ際のコミュニケーションのあり方については、現代のSNSを利用したジャスミン革命などと対比して(結局一揆は革命ではないという意味で)非常に興味深い論考となっている。
いずれにせよ、中世でも近世でも農民には現実の生活があり約束があるのだから、契約条件の変更を求める交渉はプラグマティックに進められるものだ。
ただ、著者は一揆を歴史的に軽視するような身も蓋もない議論をしようとしているのではない。
イデオロギーを超えた一揆の実像を現代と地続きの場所として、少しでも生活を、社会をよくしようとする市民の連帯のありかたのヒントを一揆に見い出そうとしている。結果として新しい世代の歴史家が、新しい歴史との接し方を提案する好著になった。
そして、この神様系の一揆では、筆者の先行研究者も注目している「一味神水」という儀式(先ほどの起請文を控えと神様用とつくり神様用を燃やしてその灰を入れた水を賛同者で飲む)が、実はある種のパフォーマンスであったのではないかという筆者の指摘。このあたりが、神様系一揆=パフォーマンス系とするあたりから、「ネタ化されるデモなどの社会活動」という現代の行動様式を筆者が想起されたのかなと(まあもちろんそれは検証されたというよりは仮説的かつ挑戦的な課題的でしょうが)。ここも見どころでしょうか。ちなみに筆者は、パフォーマンス系的な一揆と異なり、個々の契約といいますか地道な関係構築をしてきた一揆、そういったもの歴史的な蓄積を、現代のSNSの世界の中の動きのなかに見出そうとしているように感じましたが、そこはわずかな展望として語られているかしら。
それとメディア論として読んでも面白かったんです。といいますのが、パフォーマンス系一揆はこの本を読ませていただくと、いわばリアルタイムの同期メディアとして理解できました。みんなで同時に儀式をして結束を強める。フロー的な意味でニコ生みたいなものでしょうか…。一方で、一対一の同盟系の一揆関係は、かなり遠距離であったり仲介役を時にはたてたりして時間をかけて行うので、非同期のメディアなんです。まあブログ的なものでしょうか。で結局コンテンツってことになると当たり前ですが後者の意義ってやはり現代でも大きいと思うんですよ。そしてそういうものは結果歴史的にも残りやすいですしね。そのあたりがこの本でもなんとなく触れられていて、そこも面白かったんですね。
あとはやはり全体のドライブ感といいますか「勢い」と言ったら失礼ですが、そういった本全体から伝わる責任感のような点でしょうか。