18世紀イギリスの風刺画家ウィリアム・ホガースの理論的著作「美の解析 (The Analysis of Beauty) 」(1753)の初めての日本語訳である。美術作品の様々なエレメント(多様性、一様性、複雑性、曲線、比率、光と影、彩色など)にわたって議論を展開するにも拘わらず、この書物が「曲がりなりにも」論理的統一性を失わないのは、それが「曲線」という視点の貫徹に成功しているからである。
ジャーナリストのJohn Timbsが1860年に出版した”Anecdote”には、王立アカデミーの会長だったBenjamin Westの次のような言葉が掲載されている。「ホガースは勿体ぶって偉ぶった小男(a strutting consequential little man)だったが、「美の解析」でいっぱい敵を作ってしまった。しかし敵の大半はすでに死に絶え、この書物は個人的な敵意を持たない公正な読者の検証に委ねられている。今後それはますます読まれ、研究され、そして理解されることだろう」と。
さていったいこれから我々は、刊行から約260年を経たこの本を、どう読み、どう研究し、どう理解すべきなのだろうか。私見では、ホガースの卓見は「対象の内部視点」と「曲線による対象の被覆」と「中心光線」に尽きており、今後、ホガース理解はこの方向を採るべきだと考える。
だがそこに立ちはだかっているのが、翻訳の問題である。出された訳文はまずまず読める日本語にはなっているし、Paulsonに依拠した注も勉強にはなる。だがどうしても気になるのは「理論的哲学的」考察の翻訳であって、ホガースの真意が伝わらぬ訳文が目につくのである。(歴史的技術的な文章は私の守備範囲外なのでここでは触れない。)ただこの問題についてはホガース側にも責任があって、理論的な文章を書き慣れない画家だったせいか、思想を正確に伝達する努力、予想される誤解の芽を予め摘んでおくなどの作業に抜かりがあることは否めない(訳者の苦労がしのばれるが)。とにかく原文は大変な代物で、私もホガースの文章に当たってはみたものの、頭を抱える場面が多かった。
何がホガースの文章を難しくしているのだろうか。いや、そもそもこのテキストはどの角度からアプローチするのが正しいのだろうか。彼については人間のモラルの堕落を告発した風刺作家というイメージが先行しがちだが(それ自体は正しい)、同時に彼はイギリス産業革命の勃興期を生きた人物であり、ロココの画家という既成イメージを裏切るかのように、その文章では「数学」と「テクノロジー」のセンスが躍動している。証拠は「美の解析」第7章段落2である。
「画家だけでなく数学者(mathematician)も、紙に事物(things)を描くときは線(lines)を常用する。まさにこの習慣が、線があたかも実在の形(form)そのものに本当に載っているかのような印象を作り上げている。我々もこのやり方に習って(This like we suppose)、次の一般命題で仕事に臨むことにしよう。すなわち「直線(straight line)と円弧状の線(circular line)、さらにその様々な組み合わせ(combination)と変化(variation)とが、眼に見えるすべての対象(object)を限界づけ(bound)、その外接図形を描く(circumscribe)ということ、そしてそのことによって無限に多様な形が産出(produce)されるということ。」
ホガースはそう書いている。ところが周知のように、数学系の文章は一箇所意味を取り違えると、そこから先は何が何やら意味がわからなくなる危険性を孕んでいる。しかし上述の「対象の内部視点」と「曲線による対象の被覆」を巡る議論において、この危険性はもっとも深刻なのである。ただ訳文の詳細な吟味は気が遠くなるほど複雑になるだろうから、いっそ自分の訳文を差し出すことで訳文批評に代えようと思う。
方針はこうである。便宜上、各段落に見出しをつける。ホガースが端折った箇所や曖昧なままに放置した箇所は[ ]で言葉を補う。必要な場合は原語を書き添える。さらに訳しにくい言葉 idea にはとりあえず「イメージ」という日本語を当てる。
翻訳書の刊行によってこの古典が日本語で読めるようになったうえは、その訳文のブラッシュアップが我々の次の任務となるだろう。
(A.序文段落14) 対象の内部
「それにも拘わらず[つまり堅固な原理を欠く絵画の跳梁跋扈するなかで敢えて]、私は、線の多様性(variety of lines)を詳細に考察する計画を[先ほど]皆様に提起したのである。[その場合]線の多様性によって諸物体(bodies)のイメージ(idea)を心に思い浮かべることが可能になるわけだが、当然、その線は剛体か不透明物体の表面に引かれた線という体裁を取らざるを得ない。しかし私は[剛体や不透明物体のイメージに頼りつつ、実はむしろそれの]表面の「内部(the inside)」を想像(conceive)し、それを可能な限り正確な(accurate)イメージとして処理したいのである。もちろん表面の内部という表現が許されるならばの話だが。この試みは我々の研究を進めるうえで大いに助けとなると思う。」
(B.序文段落15) 「外側の表面」と「内側の表面」の二重視
「論旨がちゃんと伝わるように、こういう言い方をしよう。考察されている対象(object)から内容物を上手にえぐり出し、薄い殻(shell)だけが残るようにする。しかも殻の外側の表面(surface)は外側の表面で、内側の表面は内側の表面で、それぞれ対象それ自体の形態(shape)に正確に対応(correspond)するものとする。そこでこう考えよう。まず非常に細い[複数の]糸(very fine threads))を考え[これが円周状の糸であることは下の(D)と(F)でわかる]、それが緊密に編み込まれた(connect)のがその殻であるとし、しかも糸は[殻の]外側からも内側からも眼で見ることができると仮定する。この殻の二つの面のイメージが、[どちらも対象の形態に対応する以上]当然重なる(coincide)ことはおわかりだろう。殻という言葉を持ち込むことで、二つの面を等しく(alike)見ているように感じさせようというのである。」
(C.序文段落16) 内側からの眼差し
「これを思いつきと揶揄する向きもありそうだが、以下の論述が進むにつれてその有効性は明らかとなる。対象を殻の姿で思い浮かべることによって、自分がいま[外側から]見ている対象の表面の特定の部位の把握が容易になり安定化する。なぜなら、対象を殻として思い浮かべることによって、特定の部位を含む全体(whole)についての知見が完成度を増し、[翻って]自分がいま見ている対象の表面の特定の部位の把握も容易になるからである。どうしてだろうか。想像力(imagination)は当然のようにこの殻の空っぽの空間(vacant space)に入り込み、まるで中心に立っているかのようにして(as from a center)、内側から一瞥で(there at once)全体を眺める。ところが[内側から全体を一瞥するのだから]その殻の互いに張り合う諸部分の対応(the opposite corresponding parts)が強く意識され(mark)、全体のイメージが確保される(retain)のである。私たちが対象の周りを歩き、ただ外側から眺めるだけで、対象のあらゆる眺望の意味(meanings)を把握できるのは、そのためである。」
(D.序文段落17) 外接
「そうすると、[たとえば]球(sphere)について我々が持ちうるもっとも完全な理解はこうである。まず眼が置かれた中心からあらゆる方向に向けて発する、長さの等しい無限個の直線状の光線を考える。そのうえで、緊密に連結(connect)した円周状の糸たち、あるいは線たちによって、これら無限個の直線光の中心でない方の無限個の端点の外接図形を描いてやれば(circumscribe)、つまり前者で後者を包んでやれば(wind about) 、それで真の球状の殻のできあがりである。」
(E.序文段落18) 全体をあらかじめ別の仕方で見ておくこと
「しかし不透明な対象の場合、通常の眺め方をするかぎり[つまりそれを殻と見なさないままで対象を外から眺めるかぎり]、人は眼に対峙している表面の部分(parts)にのみ心を奪われるものであり、向き合っている部分はおろか、どれであろうとそれ以外の部分はその時点でまったく度外視される。対象の別の部位(side)を見るために少しでも動こうものなら、当初のイメージは混乱せざるを得ない。二つのイメージ[現に見ている面の部分と、いまは見ていない別の部分]の連結(connexion)が欠けているためにそうなるのである。連結は全体についての完全な知識が当然あたえるものであり、そのためには全体をあらかじめ別の仕方で(in the other way before)[つまりあらかじめ内側から]観ておく必要があるということである。」
(F.序文段落19) 輪郭とはなにか
「対象をあくまでも[円周状の]線たちから構成(compose)されていると考えることには、[対象を外側から眺めるだけで、対象のあらゆる眺望の意味を把握できるという先の利点(C)だけでなく]、もう一つの利点がある。それは、この考え方によって人体(figure)のいわゆる「輪郭(out-lines)」の正しい十全な理解に到ることができる、という利点である。従来、人体の「輪郭」とされていたものは、紙に描いたときに見て取れる、狭い意味での輪郭に過ぎない。なぜなら上の球の例でいえば、想像上のどの円周状の糸も、球の輪郭として扱われる[同等の]資格を持つからである。[球の]見える半分を[球の]見えない半分から区分する糸だけが輪郭なのではない。[むしろこう考える。]眼が球のまわりを規則的に動くと想定すると、これらの[見える半分を見えない半分から区分する]糸たちは、それぞれーー狭い意味でのーー輪郭の勤めを果たしながら規則正しく順に登場し(succeed)、一方で、眼の動きに応じてどれかの糸が視野に入るとき、他方ではそれに張り合う(opposite)別の糸が姿を消す(disappear)のである。[真に輪郭の名に値するのはこの「輪郭たち」である。]不規則な人体の表面の場合でも、このやり方で、物質的な複数の点たちや線たちの距離、方位、対置関係の完全な理解に励むなら、君は、対象自体がもはや眼前になくても人体を心に呼び戻すコツをいずれ会得するのである。そのイメージ(idea)は、立方体や球のようなきわめて明快で規則的な形式(form)のイメージに負けず劣らず、強固で完全なイメージである。それは、実物を見て描く人には正確さをもたらし、[実物に頼らずに] 想像(fancy)で創案(invent)しながら描く人には無限の貢献をなす[一切をもたらす]ことだろう。」
(G.第2章段落7) 遠近法(変化の視点から)
「図47と図88の中間に(plate 1 右)、小舟の絵が挟まれている。この舟が海岸に平行に、しかも眼と歩調を合わせて動いていると仮定しよう。この場合、船の上部と下部は、どこまで行っても等距離の[上下の]二本の線を描く(A)。しかし船が外海に出ると、図Bのように、船の上部[が描く線]と下部[が描く線]は少しづつ(by degrees)変化し、(空と海が出会う水平線という名の線の上の)点Cで少しづつ会合するように見える。こう説明すれば(thus)、遠近法を学んだことがない人でも、"美を増すために、本当は変化していないのに、変化しているように見せるやり方”という理解のもとで、遠近法を受け入れてくれるかもしれない。」
(H.第5章段落4) 追跡
「曲がりくねった道や蛇行する川がそうなのだが、眼がこうした[追跡の]喜びを感じるのは、私が「波打つ(waving)」とか「蛇状の(serpentine)」と名付ける線(後述)で主に構成された形を持つ対象においてである。」
(I.第5章段落5) 複雑性
「私は形における複雑性(intricacy)をこう定義する。すなわち、形を構成する線たちが帯びるある特性であって、眼を「奔放な追っかけ(chase)」に誘い、[さらにその追っかけが]心に与える喜びゆえにその形に美しい(beautiful)という尊称をもたらす、そのような特性として複雑性を定義する。優美のイメージの根拠は、他の五つの原理以上にこの[複雑性の]原理と直結している。ただ多様性(variety)だけは別である。多様性は複雑性と残りの原理すべての前提となっているのだから。」
(J.第5章段落8) 一眼で見る
「字を読むとき、こういうことが起こっていると考えられる。ある光線(ray)が、眼の中心から、眼が最初に見る活字に向けて引かれていて、眼がその活字から別の活字に移動するにつれて、光線も継起的に(successively)線(line)の全長にわたって運動する。だが眼が特定の活字Aで停止し、他の活字以上にそれの観察(observe)に励むなら、Aのどちら側にせよAから遠ければ遠いほど(図[14]を参照)、他の活字たちの見え方はますます不完全になる。そこで線上のすべての活字を等しく完璧に一瞥で(equally perfect at one view)見たければ、この想像上の(imaginary)光線は、線上をいわば高速度で(with great celerity)縦横に(to and fro)走り回る必要がある。したがって、厳密に言えば眼は一つ一つの活字に継起的にしか注意を向けられないのに、眼は上の芸当をやすやすと手早くやってのけるので、我々はかなりの空間を十分満足のいく仕方で一眼で見る(at one sudden view)ことができるのである。」
(K.第5章段落9) 中心光線
「そこで我々は、眼とともに移動し、どんな形であれその各部分をトレースするような中心光線(principal ray)を、どんな場面でもかならず想定する。それが、もっとも完全な仕方で[対象を]吟味する(examine)、ということの意味である。ある運動する物体(body)がたどる進路(course)を正確に追尾(follow)したということは、物体が運動しているなかで、物体とともに運動するこの光線を想定したということに他ならない。」(Reviewer: 訳書がこの第5章段落9について、「物体」を意味する言葉 bodyを「身体」と訳しているのは非常にまずいと思う。客観側の事態が主観側の事態に置き換わるからである。)
(L.第5章段落10) ジャッキの例
「眼がこういう仕方で形を追う(attend)とき、静止した形であろうが運動する形であ ろうが、形の方がこの想像上の光線に運動を付与(give)したものとして意識される(found)。いやもっと適切に言えば、形の方が眼そのものに運動を付与したものとして意識される。しかもこの場合、その形は、まさにその運動を引き起こすことを通じて(thereby)、形の形態(shape)と運動に応じて程度の差はあれ喜びを引き起こしたものとして、意識される。だからこういうことがある。ジャッキの例に戻れば、眼と想像上の光線が重力の方向線に縛られて緩かに(slowly)下降運動をするなら、あるいは[同じことだが]眼と想像上の光線が重量(weight)自体の下降運動を[そのまま]追うなら、どちらにしても心は疲労する。ジャッキが立っているとして、眼が盤の円周上のリム(rim, 縁、フチ)の周りを高速で(swiftly)進んでも、あるいは盤のする回転運動(circularity)上のある点を大急ぎで追いかけても、心はめまいを起こす。しかし(fig.15. plate 1 top)、回転ワーム[図15の右側の機械部分]とそれに装着されたワームの輪[図15の左側の機械部分]を眺めるとき、我々の感覚は不快でもなんでもない。実際、静止していようと動いていようと、動きが遅かろうと速かろうと、回転ワーム[ジャッキ]はいつも楽しいものなのである。」
(M.第5章段落11) 静止した回転ワームの楽しさ
「静止した回転ワームの楽しさに類するのが、棒(stick)に捻って巻きつけたリボンである。絵の額、暖炉、扉の枠などの彫り物に見られる定番となった装飾で、彫り師はそれを「棒とリボンの飾り」と呼ぶ。中心棒を省いたものは ribbon edge と呼ばれ、大概の服飾店で眼にする。」
(N.第5章段落12) 運動する回転ワームの楽しさ
「しかし回転ワームが眼に与える喜びは、運動しているときの方が[静止しているときに比べて]、はるかに生き生きとしている。若いころ、自分が幾度もそれに強い関心を覚えたことは忘れようもない。その魅力的な動きに対して覚えたのと同じ感覚を、のちにあるフォークダンスを眺めながら感じたことがあって、その時のそれはいささか誘惑的だったかもしれない。お気に入りの彼女の姿が弧を描くとき[形の運動]、眼もあやなその姿を我を忘れて眼で追う私の脇で[追跡]、さっき話した想像上の光線がずっと彼女と踊っていたのを思い出す[光線]。(Reviewer: 過去形の動詞 was の使用からわかるように、最後の文章でホガースはおそらく私的な思い出を吐露している。particularly when my eye eagerly pursued a favourite dancer, through all the windings of the figure, who then was bewitching to the sight, as the imaginary ray, we were speaking of, was dancing with her all the time.)」
(O.第5章段落13) まとめ
「この一例で、”形の複合的な複雑性の美”という言い方で私が伝えたい内容と、”形が眼をある種の追っかけ行為(chase)に誘い込む”という表現の正当性が、十分に明らかになったと思う。」
(P.第7章段落1) 殻
「覚えておられるだろうが、序文で私は読者に、対象の表面を線たち(lines)の緊密な連結からなる殻として思い浮かべることを要請しておいた。本章のみならず構成(composition)を論じる以下の全章をよりよく理解するために、いまここでこの考え方を思い出して頂かねばならない。」
(Q.第7章段落2) 線の群れで対象を包む
「画家だけでなく数学者(mathematician)も、紙に事物(things)を描くときは線(lines)を常用する。まさにこの習慣が、線があたかも実在の形(form)そのものに本当に載っているかのような印象を作り上げている。我々もこのやり方に習って、次の一般命題で仕事に臨むことにしよう。すなわち「直線(straight line)と円弧状の線(circular line)、さらにその様々な組み合わせ(combination)と変化(variation)とが、眼に見えるすべての対象(object)を限界づけ(bound)、その外接図形を描く(circumscribe)ということ、そしてそのことによって無限に多様な形(forms)が産出(produce)されるということ。」そこで、[個別の]現象(appearances)に見られる混合的な中間形態の詮索は読者自身に委ねるとして、我々としては無限に多様な形を一般的なクラス(general classes)に類別し識別する[原理的な]作業に専念しようと思う。」
(R.第7章段落8) 曲率
「[直線とちがって]曲線の方は長さだけではなく曲率(degree of curvature)も多様に変化し、まさにその理由で装飾的になる。」(Reviewer: このくだりはホガースが相当程度ニュートン力学に親しんでいたことを物語っている。"曲率(curvature)"とは、曲線を局所的に円弧とみなしたときの円の半径(R)で決まる量のことで、カーブのきつさ、曲がり具合を評価するのに使われる(高速道路のR=400などの表記)。他方、degree of curvatureはその曲率を、円周上でのその点の瞬間的な運動が円の中心で張る中心角を使って、従ってザクッと言えば曲線上のドライバーの瞬間的な首振り量(?)を使って表現している(この辺りの私の表現は数学的に厳密ではない)。同じカーブのきつさを、前者は半径のこととして、後者は中心角のこととして表現するのである。ホガースは力学的に相当踏み込んだ言葉遣いをしているわけで、degree of curvatureの「角度」という訳は一般的に過ぎる。2019.6.27. 修正。)
(S.第7章段落10) 波打つ線
「波打つ(waving)線つまり美の線は、対照的な二つの曲線の合成であり、それは[先の、曲線と直線の合成に比べて]多様の度合いが[若干]高いので、ペンや鉛筆で作図するとき、手は生き生きした瞬間を楽しむことができる。」(Reviewer:「対照的な二つの曲線の合成」は、たとえばサインカーブを考えるとよい。)
(T.第7章段落11) 蛇状(serpentine)の線
「さらに蛇状の線は、[多様度に富む]いろいろな仕方で波打ちながら、[それに加えて]巻き込み(wind)まですることによって、こういう言い方が許されるなら、多様度を連続的に増減させつつ(along the continuity of variety)、眼を楽しく誘導するのである。[つまり]蛇状の線は、[多様度に富む]様々な仕方でねじりを入れている(twist)。あるいは一本の線でありながら、いわば多様な内容(contents)を封入している(inclose)。それゆえ、蛇状の線の含むすべての多様性を切れ目のない(continuous)線で紙の上に表現しようと思えば、想像力の助けを借りるか、さもなくば 図(figure)の助けを借りるかしかない。[私は図の助けを借りる後者の方針を採用したので] 図の1-26を見られたい。そこにはエレガントで多様性に富む円錐(cone)の図のまわりを、細い針金が自分を正しくねじりながら進む(twist)姿が、正しい比例を持つ巻き込む線の例として提示されている。私はここから先、それを真に蛇状の線、優美の線と呼ぶことにする。」(Reviewer:coneは三角錐ではなく円錐である。)
(U.第10章段落1から段落7) ツノを例に採って
「前述のように、言葉を使おうがペンを使おうが、この[蛇状の]線を記述するのは至難の技であり、本章の議論の歩みは遅々たるものとならざるを得ない。形式における崇高(sublime)、人間身体においてあまりにも顕著なこの崇高についての私の見解を一歩一歩説明することになるので、読者の寛恕を請う次第である。ひとたび蛇状の線の構成を理解すれば、読者はこの種の線こそが最大の関心事であることを悟られるだろう。」
「第1に、図56を見てほしい。それは中身の詰まったまっすぐなツノ(角、horn)である。それは、円錐がそうであるように、[眼で追っていけばその限りで]変化を見せる(vary)ので、まさにその限りにおいて、幾ばくかの美しい形式ではある。」
「次に図57を見てほしい。このツノは、二つの逆の方向に曲がっているのだが、ではどんな仕方でどの程度、美が増しているだろうか。[実はそれほど増してはいない]。」
「最後に、(さっきの図57のように)二つの逆の方向に曲げたうえに、さらに加えてツノにねじりを加えたのが図58である。そこでは美が、いや優美さや優雅さまでが、いちじるしく増大している。」
「これらの図の一番目では、中央部分の点線はこの図を構成する直線たち[円錐の頂点と、底面の円周の各点を結ぶ直線、いわゆる母線]を表している。これらの直線たちでは、曲線や光や影をさらに補わなければ、ツノに内容(contents)が備わっていることはまず見て取れない。」
「二つ目のツノも同様である。ただツノを曲げたことで、くだんの直線の点線が美しい波打つ線に変貌してはいる。」
「しかし最後の図では、ツノは曲げられたうえにねじられているので、この点線は波打つ線から蛇状の線に変容している。[この母線は]中央の辺りではツノの後ろに隠れ、細い口の辺りでまた姿を現している。その限りでこの線は想像力を遊動させ眼を楽しませるが、それにとどまらず、眼に内容の量(quantity)と多様性を伝えているのである。」
Reviewer: 訳語について三つの疑問がある。訳者はquantityという英単語をつねに「質量」と訳すが、不適切ではないか。国語辞典を見ればわかるが、「質量」とは「物体を移動させようとする力に抵抗する、物体固有の何か」のことであり、平たく言えば「重さ」である。どの国語辞典もそう書いている。逆に英和・和英辞典を見ると、「質量」に対応する英語はmass であり、quantityではない。文芸作品なら「質量」も不可能とは言い切れないが、学術的な翻訳では平凡にquality は質、quantityは量が正しい。
さらに、objectが繰り返し「物体」と訳されていることに強い違和感を覚える。語源的には、「ob」 は「向こう側」、「jectum」は「投げ置かれたもの」、結局objectは「意識の向こうに置かれたもの」であり、「対象」がよい。神や天使や一角獣や三角形は意識の「対象」ではあっても、おそらく「物体」ではない。(ところが12章表題では急にobjectが「対象」になっている。)
もうひとつ、uniformityを単一性と訳すのもよくない。辞書には「一様、一律、均一、画一、斉一」はあっても、単一は見ない。一様(uniform)とは、学生の制服(ユニフォーム)が典型的なのだが、互いに独立な複数のものがあり、それらが各々の責任で各々の所作を選択するにもかかわらず(だから結果がバラけても不思議はないのに)、なぜかすべてを通じてある共通性が浮かび上がることを云う。共通性自体は「単一」かもしれないが、一様と云う言葉のキモが前半にあることに留意すべきである。「一様性」は自然科学やテクノロジーの分野では大切な言葉であって、一様分布(uniform distribution)、一様収束(uniform convergence)、一様塗布(uniform attachment)など、この種の言葉は多々ある。そもそも「一様性」は、英語のuniformity かドイツ語のGleichfoermigkeitを念頭においた、明治期の新造語の可能性が高い。
ただ表題で Analysis を「分析」でなく「解析」と訳したことは支持する。当時ブリテンでは、ニュートンとライプニツの流れをくむ数学は Analysis と呼ばれ、その系統の数学者は Analyst と呼ばれていたが、ホガースがこの時代の空気を吸っていた可能性は高い。のちの主教 George Berkeley は無限小 (infinitesimal) についてきわどい議論をする微積分学が大嫌いで、ニュートンとライプニツと Analystを束にして「嘘つきで二枚舌で不信心者」と罵倒したことがあるが、ホガースなら受けて立つことだろう。
ちなみにホガースにも喧嘩腰の表現がある。訳本は「美の解析」の副題、"Written with a view of fixing the fluctuating ideas of Taste" を、「変遷する趣味の理念を定義する試論」と生真面目に訳すが、必要以上に美術史学に引き寄せる結果になっている。fluctuateは「揺らぐ、上下する、変動する、浮沈する」など不安定な状態を意味する影のある言葉であって、芸術様式の歴史的な「変遷」とは無関係である(しかもこの時期まだ美術史学は存在しない)。それに呼応して fix も「定義する」(何のこと?)ではなく、その「動揺を止める、固定する」あるいは「壊れてガタガタしたものを修理する」という意味をもつ。それはカント以後と違い、「お前たちの趣味(美意識)は壊れている、俺がそれを直してやるぜ」みたいなdogmaticな言い方が健在だった時期ならではの発言である。
さらに私はこの副題に、ちょいと柄の悪い表現で気が引けるが、「美について軽佻浮薄な=チャラい(fluctuating)ことばっかり言ってると、焼き入れるぞ (fix)」みたいな体育会系の恫喝性を感じる(そう思いながらもう一度、前段の英文を見てみましょう・・・ほらね。)ホガースは喧嘩早くて敵が多く、副題は彼にちょっかいを出す群小画家たちに向けられていた筈である。実際、画家ホガースは喧嘩抜きでは考えられないのであって、彼が亡くなったとき嫁は、「これでやっと喧嘩から解放されるう」と安堵の声を漏らしたとか。ただし彼に限らず、そもそも18世紀イギリス社会全体が悪童的だったかもしれない。かつて私が通った語学学校の若いイギリス人教師は例の有名大学の出身者だったが、寄宿舎で夕食が終わると、「腹一杯になったし、みんな、そろそろ喧嘩に行こうぜ」と出陣する日々だったそうである。鈴木清順の「喧嘩エレジー(けんかえれじい)」かよ。ましてスターンやフィールディングの18世紀となれば。
余滴。王立協会会員のトマス・モーレル Thomas Morell(1703-1784) は、古代ギリシア語のセソーラスの編纂、ヘンデルのオラトリオの台本作成、ロック哲学の批判的吟味など、多岐にわたって活動した一流の知識人であるが、同じ町内に住むホガースの良き友人でもあった。そのホガースは「美の解析」執筆に際してモーレルを含む学者グループに協力を仰いだと序文に記すが、訳本はこの協力の意義を小さめに見積もっている。しかし受け取った原稿の添削だけが、知識人のなしうる協力だろうか。版画職人の徒弟上がりで高等教育をまるで受けていないホガースが、上の曲率への言及が示すように数学的な力量を有していた背景として、長年にわたる知識人たちとの人格的及び学問的な接触と、そのなかで彼がアカデミックな能力を彼なりに蓄えていった経緯に思いを致すことが必要だろう。しかしその経緯の「裏」はとれるのか。少なくともある人脈を、D・ディドロが1749年の「盲人書簡」で敬愛を込めて語った全盲の数学者ニコラス・サンダースン Nicholas Saunderson(1682-1739)まで遡ることができる、と私は見ている。曲線で被覆しながら対象を明視するホガースは、墓石を手でなぞりながら文字を習得したニコラス・サンダースン少年に似ていないだろうか。一面において「美の解析」はホガースの「盲人書簡」ではなかったか。
1753年にこんな本が書けたホガースを私は尊敬する。
(ここに出せなかった訳文については、拙ホームページ「二次元的人間の練習帳」の「ホガース」のところをご参照願います。追記。サンダースンとモーレルの関係については、モーレルの祖父がサンダースンの講義に参じたという記録が存在する。)
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美の解析 単行本 – 2007/11/1
- 本の長さ226ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論美術出版
- 発売日2007/11/1
- ISBN-104805505494
- ISBN-13978-4805505496
登録情報
- 出版社 : 中央公論美術出版 (2007/11/1)
- 発売日 : 2007/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 226ページ
- ISBN-10 : 4805505494
- ISBN-13 : 978-4805505496
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2012年9月14日に日本でレビュー済み
有名な風刺画家による美学本の本邦初訳である。
画家自身認めているように、文章家としてはずぶのシロウト。
にもかかわらず、これは本格的な理論書だといってよい。
驚くべきことがいくつも書かれているが、ここでは1点だけ。
形態を描写するさい、
「その物体を内側からみるようにとらえなさい」とホガースは教える。
この記述を読みながら、レビュアーは、
たとえば、人体(の下腹部)を描く場合には、
胎児の視点を想像しながらとらえよ、ということだろうかという風に解釈した。
どうなんだろうか?
画家自身認めているように、文章家としてはずぶのシロウト。
にもかかわらず、これは本格的な理論書だといってよい。
驚くべきことがいくつも書かれているが、ここでは1点だけ。
形態を描写するさい、
「その物体を内側からみるようにとらえなさい」とホガースは教える。
この記述を読みながら、レビュアーは、
たとえば、人体(の下腹部)を描く場合には、
胎児の視点を想像しながらとらえよ、ということだろうかという風に解釈した。
どうなんだろうか?