本書は「六四」天安門事件を機に総書記の職を解かれ軟禁状態に置かれた趙紫陽を著者が繰り返し訪問し、その発言を集めた記録集である。趙紫陽は、いまだ十分な資料がない80年代と天安門事件時の中国最高指導部の内幕を知るキーパーソンであり、その意味で本書が重要な資料のひとつであることは間違いない。
しかし本書は趙紫陽の発言以外に、著者自身の見解なども相当な分量書かれており、趙の発言内容もそのときそのとき話題になったものが雑然と並べられ、同じ内容の繰り返しも多いなど、本としては読みやすい内容ではない。一般の読者向けというよりも資料として読む人向けの本である。趙紫陽の発言部分はきちんと文字の濃さを変えて明確にされているので、この点はありがたい。本当に趙の発言内容そのままと考えてよいかどうかは慎重さも必要だが、変に編集されていない分信用性は増すだろう。趙が置かれていた環境を考えれば、肉声だとある程度信用できるものが伝えられただけでも幸いであろう。
趙の発言内容についてだが、多くのものは軟禁時期の中国政治や経済に対する見解であり、残念ながらこの点については評論家の域をでるものではない。趙紫陽個人に関心がある場合には、じっくり読む必要があるが、80年代の中国政治への関心から読むなら、第1部の第25、38、39章と、第2部29、30章を読めば十分である。
趙の発言からは80年代の中国に関しておおよそ次のようなことがわかる。実際に政策を決定していたのは'ケ小平と陳雲である。胡耀邦や趙紫陽はあくまでも事務方のトップであった。胡耀邦はスタンドプレーが目立ち、それが反対派に付け込まれる隙となっていた。'ケ小平も胡耀邦の性格を危惧し、胡は第13回党大会では総書記を退いて顧問委員会のトップに就く予定だった。胡耀邦が総書記を解任された直接の原因は学生の民主化運動への対応が甘かったせいであった。'ケ小平は一貫して学生運動には批判的で、経済の改革開放と政治の権力集中を両立させるべきだと考えていた。趙紫陽は政治の自由化、民主化にはそれほど関心がなく、胡耀邦の解任には関与していないし、積極的な擁護もしてはいない。
89年の学生運動については、趙紫陽は学生たちを刺激せず話し合っていけば大きな問題にはならないと考えていた。決定的に重要だったのは「4.26」社説で運動が「反党・反社会主義の動乱」であると規定されたことであり、これに刺激されて学生たちの運動は激化し、また李鵬や何東昌はこの決定を'ケ小平の決定として守り通そうとした。この社説の線で対応していた現場の運動を規制する側も、党がその後に態度を変えることは現場の面子をつぶすものであるから自分たちに対する裏切りだと感じ、同じく社説の線を死守しようとした。「4.26」社説の決定過程は、残念ながら趙紫陽自身が北朝鮮を訪問中であったため不明である。帰国後の趙紫陽はゴルバチョフ大統領との北京での会談の日まで'ケ小平と会っていない。'ケ小平が体調が悪かったことがその原因であった。状況を変えることができたのは'ケ小平だけだったが、彼は学生運動に対する性格規定を最後まで変えなかった。ゴルバチョフ大統領との会見で、'ケ小平が最終的な政策の決定権を持っていると趙が伝えた有名な件については、本人は中ソの和解が午前中の'ケ小平とゴルバチョフの会談において実現したことを理解してもらうために、'ケ小平がそれだけの権力を持っていることを伝えたと説明している。
もちろんこれらの説明はすべて趙紫陽の立場からの説明であり、すべてをそのまま事実として受け入れることはできないが、当時の勝者の側ではない指導部内当事者の貴重な証言である。趙自身が本書で期待しているように、いずれこの時代、この事件についてきちんとした歴史が書かれるだろう。その際には必ず本書は参照されるべき資料のひとつとなるだろう。
![Kindleアプリのロゴ画像](https://m.media-amazon.com/images/G/09/kindle/app/kindle-app-logo._CB666561098_.png)
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
趙紫陽―中国共産党への遺言と「軟禁」15年余 単行本 – 2008/7/29
一党独裁国家元トップの貴重な肉声!趙紫陽は「第二次天安門事件」で武力鎮圧に異議を申し立て、総書記の座を追われた人物である。
亡くなるまでの15年余りにわたり、北京の一角に軟禁された。
数十年来の戦友であった著者が密かに100度以上通い、趙紫陽の発言を書き留めたのが本書である。天安門事件の真相から「中南海」の人間関係、社会主義・共産党の歴史的総括と将来性まで、本音が詰まった一書である。
亡くなるまでの15年余りにわたり、北京の一角に軟禁された。
数十年来の戦友であった著者が密かに100度以上通い、趙紫陽の発言を書き留めたのが本書である。天安門事件の真相から「中南海」の人間関係、社会主義・共産党の歴史的総括と将来性まで、本音が詰まった一書である。
- 本の長さ492ページ
- 言語日本語
- 出版社ビジネス社
- 発売日2008/7/29
- ISBN-10482841441X
- ISBN-13978-4828414416
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
河南省濮陽出身。1920年1月19日生まれ。
1938年に中国共産党に入党し、県委員会書記、地区委員会宣伝部部長、副書記を務め、長らく趙紫陽と仕事をともにした。日本軍占領地区での5回にわたる治安維持活動、および国共内戦を経験する。
1952年に貴州安順地区委員会副書記となる。同年、北京航空学院政治部補導処の主任へと転属。1953年に中国人民大学の院生クラスに入り経済を学ぶ。1955年、北京工業学院の党委員会書記。1957年北京航空学院に入り、航空エンジンについて専門に学ぶ。卒業後に趙紫陽から湛江市の責任者としての要請を受けたが断っている。1962年からハルビン航空発動機製造廠の中心的指導者および技師長として赴任する。文革後は北京に戻り企業改革の模索を始め、北京航空学院の中心指導者および高級技師となった。1980年代半ばからは黄河の中下流域の貧困地区における農村調査と貧困救済・自立支援プロジェクトに従事し、その後に国家経済体制改革研究会の常務理事となる。1990年に北京航空学院を退職。1993年には国家経済体制改革研究会に在任中ながら引退した。1991年7月10日~2004年まで、気功師の肩書きで北京の富強胡同6号に軟禁中の趙紫陽のもとに延べ100回にわたり訪問。
引退後の著作に『奮闘篇:理想、理念、追求』『反思篇:趙紫陽軟禁中的談話』『醒悟篇:心霊之旅』(未刊)がある。
1938年に中国共産党に入党し、県委員会書記、地区委員会宣伝部部長、副書記を務め、長らく趙紫陽と仕事をともにした。日本軍占領地区での5回にわたる治安維持活動、および国共内戦を経験する。
1952年に貴州安順地区委員会副書記となる。同年、北京航空学院政治部補導処の主任へと転属。1953年に中国人民大学の院生クラスに入り経済を学ぶ。1955年、北京工業学院の党委員会書記。1957年北京航空学院に入り、航空エンジンについて専門に学ぶ。卒業後に趙紫陽から湛江市の責任者としての要請を受けたが断っている。1962年からハルビン航空発動機製造廠の中心的指導者および技師長として赴任する。文革後は北京に戻り企業改革の模索を始め、北京航空学院の中心指導者および高級技師となった。1980年代半ばからは黄河の中下流域の貧困地区における農村調査と貧困救済・自立支援プロジェクトに従事し、その後に国家経済体制改革研究会の常務理事となる。1990年に北京航空学院を退職。1993年には国家経済体制改革研究会に在任中ながら引退した。1991年7月10日~2004年まで、気功師の肩書きで北京の富強胡同6号に軟禁中の趙紫陽のもとに延べ100回にわたり訪問。
引退後の著作に『奮闘篇:理想、理念、追求』『反思篇:趙紫陽軟禁中的談話』『醒悟篇:心霊之旅』(未刊)がある。
登録情報
- 出版社 : ビジネス社 (2008/7/29)
- 発売日 : 2008/7/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 492ページ
- ISBN-10 : 482841441X
- ISBN-13 : 978-4828414416
- Amazon 売れ筋ランキング: - 470,748位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 176位中国のエリアスタディ
- - 2,748位政治入門
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
![宗 鳳鳴](https://m.media-amazon.com/images/I/01Kv-W2ysOL._SY600_.png)
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中3.6つ
5つのうち3.6つ![](https://m.media-amazon.com/images/S/sash//GN8m8-lU2_Dj38v.svg)
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
6グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2020年6月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
願いは、ただ一つ。彼の言葉を世界中に届けたい。
さあ、言葉よ、百八つの玉となって、世界中に飛んでゆけ!
まさに、「雨に負けぬ花」趙紫陽の面目躍如といった感がある。
知性と熱い心と哲学、そのすべてが彼にはあった。
読み終えた僕の脳裏に、「大人(たいじん)」という言葉が浮かんできた。
趙紫陽は、1989年5月、天安門事件の武力鎮圧に反対して失脚。以後、2005年に死去するまでの15年余りを軟禁下に暮らした。
彼の遺灰は、死去から14年たった2019年、北京市郊外の民間墓地に埋葬された。
本書は、戦友でもある著者が、気功師の肩書で、軟禁下の彼に100回以上会って語り合い、彼の発言を記録したものである。
(趙)『「社会主義とは何か」は、原則・概念から考えるべきではない。論理的な思惟や推理で構成された目標モデルを使って、定義するべきでもない。経済や歴史の実際から論じていくべきである。—中略—どのように生産力を発展させるかから出発すれば、きちんと結果を出し、社会主義の優越性、活力を示すことができる。』
(趙)『「6・4」問題に関する会議が開かれる前日、私は家族会議を開いた。家族は全員、戒厳令施行と軍隊投入には反対という考えに賛同してくれた。だから総書記のポストを解かれることも、想定内だった。私は戒厳令施行への反対と総書記職に2度と就けないことを同時に考えていたから、家族は軟禁というひどい結果でも受け止めようと努力してくれたのだ。』
『ここで趙紫陽が批判された1989年の第13期4中全会の席上、彼が述べた一部を証拠として挙げておこう。「私は、実際の職務を通じて、時代はすでに変わっている、社会と人々の考え方には変化が生じていると深く感じました。民主はすでに国際社会で時代の潮流となっています‥‥人民の間で民主という考えがすでに普及し、強まっています、‥‥そのためわが党はどうしても新たな時代、状況に適応し、民主と法治といった新たな方策を学ぶことで問題を解決するべきだと私は考えたのです—以下略—。」』
(趙)『腐敗とは人の素質、人材の登用や配置、社会の風潮で生じると思っていたが、そうではなかった。実は制度の産物だった。—中略—現在流行している価値観は、「すべては金儲けのため」だ。改革・開放で市場経済というチャンスが出現し、腐敗という風潮が現行体制のもとでアッという間に蔓延した。』
『趙紫陽は次のような提案をした。—中略— 4 千編一律な論調の世論を変え、公の目で監視させる。趙は、世論に公開監視の機能がなく、言論の自由も下からの監視がない上に、権力が制約されないと、党と政府の権力腐敗を防げず、人民の公民権も保障されないという。
だから透明度を高め、情報公開を行い、人民に知る権利を与え、これまでの情報統制状態を改める。人民に対して情報統制するのは、一種の愚民政策である。』
『ここに至って、やっとわかった。最終目標が至上の王国を建設する、それが一元主義と政治の独裁思想の根源なのだ。そしてまた、現実の社会主義諸国が独裁体制を作り上げた根本原因の在り処なのである。』
『趙紫陽は力説した。プロレタリア独裁の学説を放棄しなければ、民主政治の実現は難しいと思う。—中略—政治改革、それは民主政治を行ない、他党派の政治への参加禁止と報道規制を解き、言論と結社の自由を認め、政権を公的に監視することだ。』
第15回党大会へ宛てた書簡(抜粋)
『第15回党大会主席団と、これを受領する代表同志各位へ
私はこの大会で、「6・4」事件の再評価の問題を提起することをお許し願いたく、また審議に付されることを乞うものである。全世界を震撼させた「6・4」事件からすでに8年が過ぎた。今振り返ると、そこには事実に基づき真実を明らかにする態度で解決すべき、二つの問題が存在する。
第1の問題は、当時の学生運動が、いかなる過激さ、誤り、指弾できる部分をもっていたにせよ、「反革命暴動」という性格づけをしたことには根拠がないということである。反革命暴動ではない以上、武力鎮圧という手段で解決されるべきものではなかった。当時の武力鎮圧は、瞬く間に事態を終息させたとはいえ、人民、軍隊、党および政府、そしてわが国家、そのいずれも当時の政策と行動により、少なからざる代償を払うこととなった。それはマイナスの影響となり、今日に至るまで、党と人民の関係、中台関係、そしてわが国の対外関係のなかに依然として存在している。この一件により、第13回党大会から始まった政治改革は道半ばで早くも崩れ、政治制度改革は深刻な停滞に置かれている。中国経済における改革・開放に至っては、大きな成果を挙げながらも、一方で種々の社会的弊害が急速に蔓延している。社会的矛盾が激化の一途をたどり、党内外の腐敗はひどくなる一方である。
第2の問題は、あの学生運動当時、流血の事態を避け、かつ事態を終息させうる、より良き解決方法を模索することはできなかったかということである。私が当時、『民主と法制のレールの上で問題を解決する』ように提案したのは、まさにそのような終息局面へ導こうとしたがゆえのことであった。現在もなお、私はこうした解決方法をとっていれば、血を流さずに事態を鎮め、少なくとも由々しき流血の衝突は避けられたと認識している。当時、多くの学生が要求したのは、腐敗に対する厳罰化であり、政治改革の促進であった。決して共産党、共和国の転覆を目論んでいたわけではない。それらは誰もがわかっている。もし我々が学生の行動を反党・反社会主義と見なさず、筋の通った要求を受け入れ、根気よく協議、対話し、意思の疎通を図っていれば、事態は終息へ向かったと思われる。
そうしていれば、流血の衝突がもたらしたいくつものマイナスの影響を回避できたのみならず、政権党・政府と人民の間に、新たな交流や協同のあり方を構築できただろう。政治制度改革を促進させ、それによってわが国には経済改革による豊かな成果とともに、政治制度改革でも、新たな局面を出現させられただろう。「6・4」事件の再評価の問題は、遅かれ早かれ解決を要するもので、たとえ時間が繰り返し引き延ばされたとしても、人々の記憶から薄れていくものではない。
解決は先延ばしにせず、早期にしたほうが良く、消極的でなく自発的に解決したほうが良く、何か面倒な問題が現われてやっと乗り出すよりは、情勢が安定している時期にこそ解決するほうが良い。現在、国内情勢は比較的安定し、平和を願い混乱を恐れることは、多くの人々の共通の願いとなっている。あの頃のような激しい感情も、次第に落ち着きをみせている。わが党がもしこうした状況下で、自ら「6・4」事件の再評価を問題提起し、責任を持って取り組めば、各方面からの極端に感情的な妨害を排除できる。また、この歴史的難題を解決するプロセスを、理性、寛容、和解の精神に則った歴史問題を解決する上で厳格に順守すべき「細部ではなく大局を」「個人責任より経験・教訓を」という正しいレールの上へと引き上げることができる。それにより歴史的難題を解決し、国内情勢の安定を保ち得ると同時に、わが国の改革・開放が、より良い国際環境を獲得できることになる。わが党が時勢を見据え、早期に準備を整えることを希望する。
以上、提言して大会審議に供するものである。
趙紫陽 1997年9月13日 』
『趙紫陽は「6・4」事件の再評価が不可能とはっきりわかっていたにもかかわらず、なぜ第15回党大会に意見を出したのか。私がそう尋ねると、王志華は、それは趙が歴史に対して真実を語るためだと答えた。』
(趙)『台湾問題は、平和と民主を基礎に統一を進める以外にない。台湾は独立に打って出てはならず、中国大陸も統一にかかってはならない。統一も独立もせず、各自がそれぞれ経済を平和的に発展させ、共に経済的繁栄を目指し、民主政治を実現するのだ。そうして経済的な生活の豊かさも同程度になり、また民主と法制が保障され、各自のあらゆる権利が守られるようになれば、自ずから統一の方向に向かうはずである。双方とも「一つの中国」の立場に立ち返ることを、望むようになるはずだ。
(趙)『チベットについても、高度の自治を与えるべきだ。外交や国防を除き、チベット人民自身のことはすべて自分で管理させ、彼らが自ら自立的な発展の道を歩むようにし、地方の積極性を発揮させる。そうすれば、速度が遅かろうが速かろうが、彼らが中央を恨むこともなく、中央政府も大きな悩みの種を抱えずに済むはずだ。』
—中略—
たとえば、香港総督だったクリストファー・パッテンは香港で立法委員選挙を実施した。彼らなりの意図があったにせよ、それ自体は民主的な行動である以上、やはり反対などできない。』
(趙)『思うに中国の改革は、経済改革一本槍で政治改革を進めないという問題がある。だが、同時に、改革が文化にも及ばなければ、成就しないのではないか。何らかの文化啓蒙運動によって、この中国という土台をまっさらの状態に整える必要があるのではないか。』
『「終わりに 趙紫陽は古い思考から抜け出ていた—民主と法治へ向かうべきと提起した史上初の中国共産党指導者」
一 趙紫陽は中国共産党の先例を打破した
「党の意思を(自己の)意思となし、党の利益を(自己の)利益とする。党の利益のためには個人の利益を犠牲にしなければならない」我々は往々にして、こうした思考を当たり前としてきた。
—中略—
前述した『潜龍八動—未来十年中国政局—』の作者は、次のように指摘する。「中国共産党内で、彭徳海から劉少奇、鄧小平、胡耀邦までの、過去に批判されたあらゆる行為が、今ではすべて正しかったと歴史が証明している。だが、彼らがたびたび過ちや罪を認めたことで、党内には『白黒をはっきりさせず、盲目主義に徹する』という弊害を生んだ」。
趙紫陽はこうした誤った伝統を変革し、「趙紫陽モデル」を創造した。自身のスタイルが真理であり、信奉に値することを示した。 文化大革命を経て、趙紫陽は新たな認識を獲得し、もはや(党に)服従する道具にはならなくなった。正しくないと思えば服従しない。己の意見が正しければ自己批判する必要もない。彼は独自の道を切り開き、党内の思想闘争史、政治生活史に新たな流れを切り拓いた。』
『東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。』(Wikipedia)
趙紫陽には、この歌がよく似合う。
“My life will never end/And flowers never bend with the rainfall”(ポール・サイモン 「雨に負けぬ花」より)
さあ、言葉よ、百八つの玉となって、世界中に飛んでゆけ!
まさに、「雨に負けぬ花」趙紫陽の面目躍如といった感がある。
知性と熱い心と哲学、そのすべてが彼にはあった。
読み終えた僕の脳裏に、「大人(たいじん)」という言葉が浮かんできた。
趙紫陽は、1989年5月、天安門事件の武力鎮圧に反対して失脚。以後、2005年に死去するまでの15年余りを軟禁下に暮らした。
彼の遺灰は、死去から14年たった2019年、北京市郊外の民間墓地に埋葬された。
本書は、戦友でもある著者が、気功師の肩書で、軟禁下の彼に100回以上会って語り合い、彼の発言を記録したものである。
(趙)『「社会主義とは何か」は、原則・概念から考えるべきではない。論理的な思惟や推理で構成された目標モデルを使って、定義するべきでもない。経済や歴史の実際から論じていくべきである。—中略—どのように生産力を発展させるかから出発すれば、きちんと結果を出し、社会主義の優越性、活力を示すことができる。』
(趙)『「6・4」問題に関する会議が開かれる前日、私は家族会議を開いた。家族は全員、戒厳令施行と軍隊投入には反対という考えに賛同してくれた。だから総書記のポストを解かれることも、想定内だった。私は戒厳令施行への反対と総書記職に2度と就けないことを同時に考えていたから、家族は軟禁というひどい結果でも受け止めようと努力してくれたのだ。』
『ここで趙紫陽が批判された1989年の第13期4中全会の席上、彼が述べた一部を証拠として挙げておこう。「私は、実際の職務を通じて、時代はすでに変わっている、社会と人々の考え方には変化が生じていると深く感じました。民主はすでに国際社会で時代の潮流となっています‥‥人民の間で民主という考えがすでに普及し、強まっています、‥‥そのためわが党はどうしても新たな時代、状況に適応し、民主と法治といった新たな方策を学ぶことで問題を解決するべきだと私は考えたのです—以下略—。」』
(趙)『腐敗とは人の素質、人材の登用や配置、社会の風潮で生じると思っていたが、そうではなかった。実は制度の産物だった。—中略—現在流行している価値観は、「すべては金儲けのため」だ。改革・開放で市場経済というチャンスが出現し、腐敗という風潮が現行体制のもとでアッという間に蔓延した。』
『趙紫陽は次のような提案をした。—中略— 4 千編一律な論調の世論を変え、公の目で監視させる。趙は、世論に公開監視の機能がなく、言論の自由も下からの監視がない上に、権力が制約されないと、党と政府の権力腐敗を防げず、人民の公民権も保障されないという。
だから透明度を高め、情報公開を行い、人民に知る権利を与え、これまでの情報統制状態を改める。人民に対して情報統制するのは、一種の愚民政策である。』
『ここに至って、やっとわかった。最終目標が至上の王国を建設する、それが一元主義と政治の独裁思想の根源なのだ。そしてまた、現実の社会主義諸国が独裁体制を作り上げた根本原因の在り処なのである。』
『趙紫陽は力説した。プロレタリア独裁の学説を放棄しなければ、民主政治の実現は難しいと思う。—中略—政治改革、それは民主政治を行ない、他党派の政治への参加禁止と報道規制を解き、言論と結社の自由を認め、政権を公的に監視することだ。』
第15回党大会へ宛てた書簡(抜粋)
『第15回党大会主席団と、これを受領する代表同志各位へ
私はこの大会で、「6・4」事件の再評価の問題を提起することをお許し願いたく、また審議に付されることを乞うものである。全世界を震撼させた「6・4」事件からすでに8年が過ぎた。今振り返ると、そこには事実に基づき真実を明らかにする態度で解決すべき、二つの問題が存在する。
第1の問題は、当時の学生運動が、いかなる過激さ、誤り、指弾できる部分をもっていたにせよ、「反革命暴動」という性格づけをしたことには根拠がないということである。反革命暴動ではない以上、武力鎮圧という手段で解決されるべきものではなかった。当時の武力鎮圧は、瞬く間に事態を終息させたとはいえ、人民、軍隊、党および政府、そしてわが国家、そのいずれも当時の政策と行動により、少なからざる代償を払うこととなった。それはマイナスの影響となり、今日に至るまで、党と人民の関係、中台関係、そしてわが国の対外関係のなかに依然として存在している。この一件により、第13回党大会から始まった政治改革は道半ばで早くも崩れ、政治制度改革は深刻な停滞に置かれている。中国経済における改革・開放に至っては、大きな成果を挙げながらも、一方で種々の社会的弊害が急速に蔓延している。社会的矛盾が激化の一途をたどり、党内外の腐敗はひどくなる一方である。
第2の問題は、あの学生運動当時、流血の事態を避け、かつ事態を終息させうる、より良き解決方法を模索することはできなかったかということである。私が当時、『民主と法制のレールの上で問題を解決する』ように提案したのは、まさにそのような終息局面へ導こうとしたがゆえのことであった。現在もなお、私はこうした解決方法をとっていれば、血を流さずに事態を鎮め、少なくとも由々しき流血の衝突は避けられたと認識している。当時、多くの学生が要求したのは、腐敗に対する厳罰化であり、政治改革の促進であった。決して共産党、共和国の転覆を目論んでいたわけではない。それらは誰もがわかっている。もし我々が学生の行動を反党・反社会主義と見なさず、筋の通った要求を受け入れ、根気よく協議、対話し、意思の疎通を図っていれば、事態は終息へ向かったと思われる。
そうしていれば、流血の衝突がもたらしたいくつものマイナスの影響を回避できたのみならず、政権党・政府と人民の間に、新たな交流や協同のあり方を構築できただろう。政治制度改革を促進させ、それによってわが国には経済改革による豊かな成果とともに、政治制度改革でも、新たな局面を出現させられただろう。「6・4」事件の再評価の問題は、遅かれ早かれ解決を要するもので、たとえ時間が繰り返し引き延ばされたとしても、人々の記憶から薄れていくものではない。
解決は先延ばしにせず、早期にしたほうが良く、消極的でなく自発的に解決したほうが良く、何か面倒な問題が現われてやっと乗り出すよりは、情勢が安定している時期にこそ解決するほうが良い。現在、国内情勢は比較的安定し、平和を願い混乱を恐れることは、多くの人々の共通の願いとなっている。あの頃のような激しい感情も、次第に落ち着きをみせている。わが党がもしこうした状況下で、自ら「6・4」事件の再評価を問題提起し、責任を持って取り組めば、各方面からの極端に感情的な妨害を排除できる。また、この歴史的難題を解決するプロセスを、理性、寛容、和解の精神に則った歴史問題を解決する上で厳格に順守すべき「細部ではなく大局を」「個人責任より経験・教訓を」という正しいレールの上へと引き上げることができる。それにより歴史的難題を解決し、国内情勢の安定を保ち得ると同時に、わが国の改革・開放が、より良い国際環境を獲得できることになる。わが党が時勢を見据え、早期に準備を整えることを希望する。
以上、提言して大会審議に供するものである。
趙紫陽 1997年9月13日 』
『趙紫陽は「6・4」事件の再評価が不可能とはっきりわかっていたにもかかわらず、なぜ第15回党大会に意見を出したのか。私がそう尋ねると、王志華は、それは趙が歴史に対して真実を語るためだと答えた。』
(趙)『台湾問題は、平和と民主を基礎に統一を進める以外にない。台湾は独立に打って出てはならず、中国大陸も統一にかかってはならない。統一も独立もせず、各自がそれぞれ経済を平和的に発展させ、共に経済的繁栄を目指し、民主政治を実現するのだ。そうして経済的な生活の豊かさも同程度になり、また民主と法制が保障され、各自のあらゆる権利が守られるようになれば、自ずから統一の方向に向かうはずである。双方とも「一つの中国」の立場に立ち返ることを、望むようになるはずだ。
(趙)『チベットについても、高度の自治を与えるべきだ。外交や国防を除き、チベット人民自身のことはすべて自分で管理させ、彼らが自ら自立的な発展の道を歩むようにし、地方の積極性を発揮させる。そうすれば、速度が遅かろうが速かろうが、彼らが中央を恨むこともなく、中央政府も大きな悩みの種を抱えずに済むはずだ。』
—中略—
たとえば、香港総督だったクリストファー・パッテンは香港で立法委員選挙を実施した。彼らなりの意図があったにせよ、それ自体は民主的な行動である以上、やはり反対などできない。』
(趙)『思うに中国の改革は、経済改革一本槍で政治改革を進めないという問題がある。だが、同時に、改革が文化にも及ばなければ、成就しないのではないか。何らかの文化啓蒙運動によって、この中国という土台をまっさらの状態に整える必要があるのではないか。』
『「終わりに 趙紫陽は古い思考から抜け出ていた—民主と法治へ向かうべきと提起した史上初の中国共産党指導者」
一 趙紫陽は中国共産党の先例を打破した
「党の意思を(自己の)意思となし、党の利益を(自己の)利益とする。党の利益のためには個人の利益を犠牲にしなければならない」我々は往々にして、こうした思考を当たり前としてきた。
—中略—
前述した『潜龍八動—未来十年中国政局—』の作者は、次のように指摘する。「中国共産党内で、彭徳海から劉少奇、鄧小平、胡耀邦までの、過去に批判されたあらゆる行為が、今ではすべて正しかったと歴史が証明している。だが、彼らがたびたび過ちや罪を認めたことで、党内には『白黒をはっきりさせず、盲目主義に徹する』という弊害を生んだ」。
趙紫陽はこうした誤った伝統を変革し、「趙紫陽モデル」を創造した。自身のスタイルが真理であり、信奉に値することを示した。 文化大革命を経て、趙紫陽は新たな認識を獲得し、もはや(党に)服従する道具にはならなくなった。正しくないと思えば服従しない。己の意見が正しければ自己批判する必要もない。彼は独自の道を切り開き、党内の思想闘争史、政治生活史に新たな流れを切り拓いた。』
『東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていた時に小吏を務めていたという百歳を超える老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』に収める殷芸『小説』)。』(Wikipedia)
趙紫陽には、この歌がよく似合う。
“My life will never end/And flowers never bend with the rainfall”(ポール・サイモン 「雨に負けぬ花」より)
2009年8月16日に日本でレビュー済み
私は英書Hard Cover "Prisoner of the State"をAmazonから買って読んだが、同書がAmazonのリストから無くなってしまったので、やむなくこちらに書評をお届けする。
1989年の天安門事件の直前に、拡声器を持って広場の学生に涙ながらに解散を訴えた映像で世界に知られる、当時中国共産党総書記の趙紫陽の秘密手記だ。天安門事件で解任以降16年間自宅軟禁のまま2005年に死去したが、監視の目を盗んで30時間の手記の録音テープを孫の玩具に紛れ込ませていたのを支持者が発見し密かに国外に持ち出した。彼の秘書の息子Bao Pu=鮑樸は米国に逃れていたが、この手記を入手し、2009年5月に中国語と英語で出版した。その英語版がこれだ。彼が書いた各章の前書きと最後のEpilogueが要約として素晴らしい。
トウ小平は経済の改革開放を進めたが、その結果当然湧き起こる政治の民主化要求を強硬に弾圧した。その典型が天安門事件だ。改革開放推進の担い手だった胡耀邦も趙紫陽も、トウ小平の強硬弾圧に付いて行けなくなった時逆鱗に触れ、改革反対の守旧派の長老達の手を借りたトウ小平によって追放された。その権力闘争が生々しく描かれており、文献の少ない当時の歴史と人間模様が詳細に学べるだけでなく、今日の中国を理解する上での重要な背景を学ぶことができる。
あまり使われない英単語を多用し、所々英文法が怪しいことは止む無しとしよう。中国を題材とした英語の本を読む日本人として困ることは、多数の登場人物の英文名と中文名=日本での漢字表記の対応がつかないことだ。私は中国語のWebを色々漁っていちいち対応を調べ、一覧表を作りながら読み進んだ。読破にはエネルギーが必要だが、努力に値する書だ。
1989年の天安門事件の直前に、拡声器を持って広場の学生に涙ながらに解散を訴えた映像で世界に知られる、当時中国共産党総書記の趙紫陽の秘密手記だ。天安門事件で解任以降16年間自宅軟禁のまま2005年に死去したが、監視の目を盗んで30時間の手記の録音テープを孫の玩具に紛れ込ませていたのを支持者が発見し密かに国外に持ち出した。彼の秘書の息子Bao Pu=鮑樸は米国に逃れていたが、この手記を入手し、2009年5月に中国語と英語で出版した。その英語版がこれだ。彼が書いた各章の前書きと最後のEpilogueが要約として素晴らしい。
トウ小平は経済の改革開放を進めたが、その結果当然湧き起こる政治の民主化要求を強硬に弾圧した。その典型が天安門事件だ。改革開放推進の担い手だった胡耀邦も趙紫陽も、トウ小平の強硬弾圧に付いて行けなくなった時逆鱗に触れ、改革反対の守旧派の長老達の手を借りたトウ小平によって追放された。その権力闘争が生々しく描かれており、文献の少ない当時の歴史と人間模様が詳細に学べるだけでなく、今日の中国を理解する上での重要な背景を学ぶことができる。
あまり使われない英単語を多用し、所々英文法が怪しいことは止む無しとしよう。中国を題材とした英語の本を読む日本人として困ることは、多数の登場人物の英文名と中文名=日本での漢字表記の対応がつかないことだ。私は中国語のWebを色々漁っていちいち対応を調べ、一覧表を作りながら読み進んだ。読破にはエネルギーが必要だが、努力に値する書だ。
2009年2月13日に日本でレビュー済み
1989年6月4日、北京の広場に集まった学生をはじめとする民主改革勢力を武力で鎮圧して以来、中国共産党と政府当局にとって、「天安門事件」は最も微妙な問題であり続けており、現在もこの事件について、触れることさえ許されていない。趙紫陽は当時、政府の当事者の1人だったが、武力鎮圧に徹底的に反対したため、党の長老たちによって書記長の座から引きずり下ろされ、2005年1月に死亡するまで、15年余にわたって自宅に軟禁された。しかし趙紫陽は軟禁中も、政治・経済分野だけでなく、あらゆる方面に深い関心を持ち続け、その非凡な洞察力はますます磨き抜かれた。彼が生を終えるまで軟禁状態に置かれたことは、党と政府当局にとって、彼がいかに''恐るべき人物'だったか、ということを証している。本書はそれでも祖国の現状と行く末を考え続ける趙紫陽の苦悩を、余すところなく伝えている。これまで、趙紫陽に関する情報が極端に少なかっただけに、彼の肉声によって語られる本書の価値は、燦然と輝いているのだ。事件の真相から人間関係、社会主義・共産党の歴史的総括と将来性まで、彼の''本音を読み解くことができる貴重な本である。