「樹下の家族」「ウホッホ探検隊」などなど、「家族」のかたちを提起してきた干刈さんの作品は、どれもとっても面白い。
離婚がそれほど特別なこととして受け止められなくなったいまも、彼女の作品は「離婚前」または「離婚後の生活」を書いた中では秀逸だ。
「樹下の家族」には、それまでお互いに「閉ざしていた」夫婦関係の、妻から夫への呼びかけが語られる。「私はあなたが好き、あなたを愛している、だからどうぞこっちへ来て」というくだりは、いまなお、多くの妻からの呼びかけであるように思える。
私自身は「裸」がいちばん好き。離婚を体験し、現在はいわゆる「不倫関係」にあって、子どもがいて…こういう人って、たいてい「悪役」になっちゃうでしょう。あがたさんの作品には、そういう立場の女の人がけっこう出てきます。
干刈あがたさんが、「どうせ終わってしまうなら、一瞬でもきれいに輝いて消えてしまった方がいい」と言っていた…という本を読んだことがある。このひとは「永遠」とか「いつまでも幸せに暮らしました」というものには、たぶん、興味がないのだろう。このひとの作品は「一瞬の輝き」を書き留めていったモノの集合体。それでいいのだ。
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樹下の家族,島唄 (福武文庫 ひ 103) 文庫 – 1986/9/1
干刈 あがた
(著)
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社ベネッセコーポレーション
- 発売日1986/9/1
- ISBN-104828830251
- ISBN-13978-4828830254
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登録情報
- 出版社 : ベネッセコーポレーション (1986/9/1)
- 発売日 : 1986/9/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 224ページ
- ISBN-10 : 4828830251
- ISBN-13 : 978-4828830254
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,095,328位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2016年12月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、はじめて干刈あがたさんの本を拝読しましたが、本書の中では特に「樹下の家族」が大変興味深く感じられました。1982年(昭和57年)の作品であるため30年以上も前の作品ですが、むしろ30年以上も前の作品であるが故に、ご一読をお薦め致します。
なお、私には以下部分がとても印象的でした。
「アァウゥアァウゥアァウゥ、私はあなたが好き、男が好き、仕事も認めている、働いてくれて有難いとも思っている、でも、もう仕事はいいから、こっちへ来て・・・・・・。」(本書87頁)
※この「アァウゥ」という声を、著者の言葉によって説明すると、「女たちが言葉にならない言葉で訴えようとしている」「失語症的奇声」(87頁)ということになります。
私はこの部分を読んだ時、この旦那さんは本当に愛されているんだなぁと感じました。そして、その旦那さんに対し、妻である著者は、以下の記述にある様な「現代社会」から、夫が「こっちへ来て」ほしいと、本気で思っているんだなぁとも感じました。
「でも、夫と私との間で何かが違っている。たしかに夫は特別に仕事の好きな人間だけれど、その背後に彼をとりかこんでいる巨大な現代社会というものを感じるのです。」(86頁)
仕事を一生懸命する、経済力のある偉大な夫に対して、夫をとりかこんでいる「現代社会」から抜け出してこっちへ来て欲しいと、「言葉にならない言葉で」表現する妻。「言葉にならない言葉」であるが故に、夫には理解されずに終わってしまうという点では、とても悲哀に満ちています。しかし、平成20年代も後半を生きている身から率直に言うと、悲哀よりも夫への尊敬や愛情の方が印象に残りました。
そして、この部分を読む限り、「樹下の家族」は実に昭和的なものであると私には思えたのでした。というのも、一つは、「樹下の家族」では大きな意味を持つ、「夫と私との間で何かが違っている」と感じられる「現代社会」と自分との間の違和感を、平成の今では女性も感じられなくなって来ていること (このことには、平成では、女性もどっぷりと「現代社会」に浸かってしまっているという背景があります)。もう一つは、「樹下の家族」では主人公と夫との関係が大きく扱われている一方で、主人公と実父との関係があまり扱われていないこと。これら二つのことを理由として、そう思えたのでした。
つまり、平成的なものというのは、昭和に女性が感じていた「現代社会」との違和感が薄れていったと同時に、自分の夫ではなく父親の存在感が濃くなっていったものであると思えるのです。言い換えると、平成の女性は、男性と同じ「現代社会」にとりかこまれつつ、(偉大な夫との間の綱引きをする存在ではなく)偉大な父と情けない男たちとの間で揺れ動いている存在であると思えるのです。
一般的に、女性がパートナーを探す時に男性を見る目は、企業の人事採用担当者の目と同じであると言われます。つまり、女性は自分が痛い目に遭わない様に、あらかじめ無意識的に経済力のない男性をふるい落としてから、経済力のある男性を好きになる傾向があるということです。そして、経済力のある父を持った場合、父との生活と、結婚して夫と暮らす生活とを比較することになるので、父と周りの男性の経済力を無意識的に比較する様になります。今の世の中、高齢者男性は、周りの男性と比較して圧倒的に大きな経済力を持つケースが多いため、自然と周りの男性は頼りない男たちと映り、そのために「情けない男たち」というレッテルが貼られることになります。
そのため、何かの切っ掛けで感覚が麻痺して、情けない男たちの一人と、文字通り恋に落ちたりしない限りは、そのまま、偉大な父のもとで、生活レベルを落とさずに暮らして行くことになるのです。
また、困ったことに、それらの情けない男たちがパートナーを探す時には、その女性を他の女性と比較してしまいます。そのため、例えば女性の体重が百キロほどあった場合など、他のよりスリムな女性に目を向けてしまいます。つまり、その百キロの女性は、情けない男たちにもモテナイという、その女性当人にとっては理解不能な状況に陥ってしまうのです。そんな場合は、ますます偉大な父のもとで暮らそうと思うこととなります。そうすれば、周りの情けない男たちに対して持つ自分のプライドを傷つけることも無くなるからです。
こうして、偉大な父と暮らすことになりますが、そうした女性は普通父親をとても大切にすることになります。これは、もちろん血の繋がった父親に対する理屈を越えた愛情があるからでもありますが、それ以外に、経済力がある父親が、女性の無意識の中でふるい落とされることが無く、少なくとも嫌いにはなりにくいという事情にもよります。そのため、偉大な父と暮らす精神的負担は小さいものです(介護が必要になると一変しますが)。
ただ、ここで分かることがあります。それは、偉大な父がその娘の人生にとってとても大きな存在となってしまっているため、なんらかの事情で偉大な父と娘の間の関係が悪化すると、ストーンと貧困女子に陥ってしまう危うさがあるということです。例えば、その偉大な父が、母以外の女性に夢中になった結果、母と離婚してしまい、娘とも関係が疎遠になったりすると、その娘である女性にとっては「アァウゥアァウゥアァウゥ」な状況になってしまうのです。
また、当然のことながら、偉大な実父との間に子供をつくることはできないので、もし、娘である女性が自分の子供を欲した場合、周りの、情けない(にも関わらず、必ずしも自分を好きになるとは限らない)男たちにアプローチし、パートナーを作っていかなければならなくなります。これまた、とても「アァウゥアァウゥアァウゥ」な状況と言えます。
平成の女性は、この様に、偉大な父と情けない男たちの間で揺れ動いているのだと思います。そして、偉大な夫との関係に集中していた昭和の女性とはその点が決定的に違うと言えます。そして先程の文章は、偉大な夫との格闘に集中している妻の言葉であり、そのため私には非常に昭和的なものに感じられたのでした。昭和と今との違いを考える際、「樹下の家族」は非常に興味深いものであると思います。本書のご一読をお薦め致します。
ところで、お気づきだとは思いますが、昭和の偉大な夫が、その後、平成の偉大な父になって来た訳で、それらは実は同じ男性たちです。そして、時間は掛かるかもしれませんが、徐々に明らかになっていくことがあると思います。つまり、昭和・平成を通じて「偉大」であり続けた、これら一定の世代の男性達が、冷戦下の温室であたかも自分がモーレツ社員であるかの様に装い、冷戦終結後も、単に人数が多いために、雇用・年金制度の改革を延期させてもらって自分たちに有利にしてもらえただけの、実に空っぽな人達だった、ということがです。
私の思うに、その空っぽな人達をしみじみ回顧するということが、次の時代の文学のテーマとなるのではないかと思います。つまり、昭和では(「樹下の家族」の様に)偉大な夫を思い、平成では偉大な父を思い、その後は、今は亡きそれら偉大な男性達の本当の姿を(彼らが遺していった荒涼とした日本を目の前にして)思うという具合に。
なお、私には以下部分がとても印象的でした。
「アァウゥアァウゥアァウゥ、私はあなたが好き、男が好き、仕事も認めている、働いてくれて有難いとも思っている、でも、もう仕事はいいから、こっちへ来て・・・・・・。」(本書87頁)
※この「アァウゥ」という声を、著者の言葉によって説明すると、「女たちが言葉にならない言葉で訴えようとしている」「失語症的奇声」(87頁)ということになります。
私はこの部分を読んだ時、この旦那さんは本当に愛されているんだなぁと感じました。そして、その旦那さんに対し、妻である著者は、以下の記述にある様な「現代社会」から、夫が「こっちへ来て」ほしいと、本気で思っているんだなぁとも感じました。
「でも、夫と私との間で何かが違っている。たしかに夫は特別に仕事の好きな人間だけれど、その背後に彼をとりかこんでいる巨大な現代社会というものを感じるのです。」(86頁)
仕事を一生懸命する、経済力のある偉大な夫に対して、夫をとりかこんでいる「現代社会」から抜け出してこっちへ来て欲しいと、「言葉にならない言葉で」表現する妻。「言葉にならない言葉」であるが故に、夫には理解されずに終わってしまうという点では、とても悲哀に満ちています。しかし、平成20年代も後半を生きている身から率直に言うと、悲哀よりも夫への尊敬や愛情の方が印象に残りました。
そして、この部分を読む限り、「樹下の家族」は実に昭和的なものであると私には思えたのでした。というのも、一つは、「樹下の家族」では大きな意味を持つ、「夫と私との間で何かが違っている」と感じられる「現代社会」と自分との間の違和感を、平成の今では女性も感じられなくなって来ていること (このことには、平成では、女性もどっぷりと「現代社会」に浸かってしまっているという背景があります)。もう一つは、「樹下の家族」では主人公と夫との関係が大きく扱われている一方で、主人公と実父との関係があまり扱われていないこと。これら二つのことを理由として、そう思えたのでした。
つまり、平成的なものというのは、昭和に女性が感じていた「現代社会」との違和感が薄れていったと同時に、自分の夫ではなく父親の存在感が濃くなっていったものであると思えるのです。言い換えると、平成の女性は、男性と同じ「現代社会」にとりかこまれつつ、(偉大な夫との間の綱引きをする存在ではなく)偉大な父と情けない男たちとの間で揺れ動いている存在であると思えるのです。
一般的に、女性がパートナーを探す時に男性を見る目は、企業の人事採用担当者の目と同じであると言われます。つまり、女性は自分が痛い目に遭わない様に、あらかじめ無意識的に経済力のない男性をふるい落としてから、経済力のある男性を好きになる傾向があるということです。そして、経済力のある父を持った場合、父との生活と、結婚して夫と暮らす生活とを比較することになるので、父と周りの男性の経済力を無意識的に比較する様になります。今の世の中、高齢者男性は、周りの男性と比較して圧倒的に大きな経済力を持つケースが多いため、自然と周りの男性は頼りない男たちと映り、そのために「情けない男たち」というレッテルが貼られることになります。
そのため、何かの切っ掛けで感覚が麻痺して、情けない男たちの一人と、文字通り恋に落ちたりしない限りは、そのまま、偉大な父のもとで、生活レベルを落とさずに暮らして行くことになるのです。
また、困ったことに、それらの情けない男たちがパートナーを探す時には、その女性を他の女性と比較してしまいます。そのため、例えば女性の体重が百キロほどあった場合など、他のよりスリムな女性に目を向けてしまいます。つまり、その百キロの女性は、情けない男たちにもモテナイという、その女性当人にとっては理解不能な状況に陥ってしまうのです。そんな場合は、ますます偉大な父のもとで暮らそうと思うこととなります。そうすれば、周りの情けない男たちに対して持つ自分のプライドを傷つけることも無くなるからです。
こうして、偉大な父と暮らすことになりますが、そうした女性は普通父親をとても大切にすることになります。これは、もちろん血の繋がった父親に対する理屈を越えた愛情があるからでもありますが、それ以外に、経済力がある父親が、女性の無意識の中でふるい落とされることが無く、少なくとも嫌いにはなりにくいという事情にもよります。そのため、偉大な父と暮らす精神的負担は小さいものです(介護が必要になると一変しますが)。
ただ、ここで分かることがあります。それは、偉大な父がその娘の人生にとってとても大きな存在となってしまっているため、なんらかの事情で偉大な父と娘の間の関係が悪化すると、ストーンと貧困女子に陥ってしまう危うさがあるということです。例えば、その偉大な父が、母以外の女性に夢中になった結果、母と離婚してしまい、娘とも関係が疎遠になったりすると、その娘である女性にとっては「アァウゥアァウゥアァウゥ」な状況になってしまうのです。
また、当然のことながら、偉大な実父との間に子供をつくることはできないので、もし、娘である女性が自分の子供を欲した場合、周りの、情けない(にも関わらず、必ずしも自分を好きになるとは限らない)男たちにアプローチし、パートナーを作っていかなければならなくなります。これまた、とても「アァウゥアァウゥアァウゥ」な状況と言えます。
平成の女性は、この様に、偉大な父と情けない男たちの間で揺れ動いているのだと思います。そして、偉大な夫との関係に集中していた昭和の女性とはその点が決定的に違うと言えます。そして先程の文章は、偉大な夫との格闘に集中している妻の言葉であり、そのため私には非常に昭和的なものに感じられたのでした。昭和と今との違いを考える際、「樹下の家族」は非常に興味深いものであると思います。本書のご一読をお薦め致します。
ところで、お気づきだとは思いますが、昭和の偉大な夫が、その後、平成の偉大な父になって来た訳で、それらは実は同じ男性たちです。そして、時間は掛かるかもしれませんが、徐々に明らかになっていくことがあると思います。つまり、昭和・平成を通じて「偉大」であり続けた、これら一定の世代の男性達が、冷戦下の温室であたかも自分がモーレツ社員であるかの様に装い、冷戦終結後も、単に人数が多いために、雇用・年金制度の改革を延期させてもらって自分たちに有利にしてもらえただけの、実に空っぽな人達だった、ということがです。
私の思うに、その空っぽな人達をしみじみ回顧するということが、次の時代の文学のテーマとなるのではないかと思います。つまり、昭和では(「樹下の家族」の様に)偉大な夫を思い、平成では偉大な父を思い、その後は、今は亡きそれら偉大な男性達の本当の姿を(彼らが遺していった荒涼とした日本を目の前にして)思うという具合に。