ついに施川ユウキ「バーナード嬢曰く」神林のお薦め本に手を出してしまいました(笑)。
漫画の中での紹介され方で内容の予想はしていましたが、いやはや、ここまで徹底しているとは!
漱石の高等遊民も真っ青の自意識を振りかざす主人公。そして世界がどうなるか、これは宇宙戦争では?という状況にありながら、漱石の高等遊民のような意識の変革はついぞこの主人公には訪れません。
読みながら疑問に思ったのは、この小説は本当にYAなのだろうか、ということ。「ボクラノSF」という叢書タイトルなので、YA世代を狙っているのだろうし、ド嬢の面々もそう楽しんでいたようだし...
でも今時の普通の中高校生は、この主人公に共感できるのかなあ...
実際には、こんな時期を過ぎてしまった大人のほうが、自虐混じりの共感を持って楽しく読めるのではないか、と思うのです。
コーニィ「ハローサマー・グッドバイ」の主人公よりはるかに拗らせている主人公の青春模様を読んでみたい大人になら、諸手を挙げてお薦めの作品です。ある意味、YA向けSFの極北に位置していると思います。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
シンドローム (ボクラノSFシリーズ) 単行本 – 2015/1/15
八幡山に落下し、深く巨大な穴を残して消えた謎の火球。ほどなくして、ぼくの住む町のあちこちで、大規模な陥没が起こる。破滅の気配がする。それでもぼくは、中間試験のことが、そして、久保田との距離が気になって仕方がない。ゆるやかに彼女と距離を縮めながら、この状況を制御し、迷妄を乗りこなそうとしている。静かに迫る危機を前に、高校生のぼくが送る日々を圧倒的なリアリティで描く、未だかつてない青春小説。
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社福音館書店
- 発売日2015/1/15
- ISBN-104834081370
- ISBN-13978-4834081374
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
著者
佐藤哲也(さとうてつや)
1960年、静岡県浜松市生まれ。1993年『イラハイ』でデビュー。他の作品に『沢蟹まけると意志の力』、『妻の帝国』、『熱帯』、『サラミス』、『下りの船』、『ノベル氏』、『テラシティ』などがある。東京在住。
ホームページ「大蟻食の亭主の繰り言」
http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/someone/index.html
ブログ「くまのあな」
http://fallofbears.blogspot.jp/
画家
西村ツチカ(にしむらつちか)
1984年、兵庫県神戸市生まれ。漫画家。 2010年、『なかよし団の冒険』でデビュー。2011年、同作で、第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞。他の作品に『かわいそうな真弓さん』『さよーならみなさん』がある。東京在住。
佐藤哲也(さとうてつや)
1960年、静岡県浜松市生まれ。1993年『イラハイ』でデビュー。他の作品に『沢蟹まけると意志の力』、『妻の帝国』、『熱帯』、『サラミス』、『下りの船』、『ノベル氏』、『テラシティ』などがある。東京在住。
ホームページ「大蟻食の亭主の繰り言」
http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/someone/index.html
ブログ「くまのあな」
http://fallofbears.blogspot.jp/
画家
西村ツチカ(にしむらつちか)
1984年、兵庫県神戸市生まれ。漫画家。 2010年、『なかよし団の冒険』でデビュー。2011年、同作で、第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞。他の作品に『かわいそうな真弓さん』『さよーならみなさん』がある。東京在住。
登録情報
- 出版社 : 福音館書店 (2015/1/15)
- 発売日 : 2015/1/15
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 320ページ
- ISBN-10 : 4834081370
- ISBN-13 : 978-4834081374
- Amazon 売れ筋ランキング: - 515,011位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 33,491位絵本・児童書 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.8つ
5つのうち4.8つ
8グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年4月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年1月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本一きれいな文章を書く方だと思っています。
たぶん全作読みました。
『イラハイ』の面白さには衝撃を受けた。
寓意のない寓話集『異国伝』は抑制の効いた笑いが絶妙な逸品だった。
今回も味わい深かった。
新作出ているの知らずに読むのが遅れましたが。
描かれているのは非現実なできごとですが、未曽有の大災害に遭ったときはこんな感じになるんだろうかと、ふと思ったりしました。
万人にお薦めとは言いません。
ただ才能と作品の完成度にふさわしい知名度を得ていない気がします。
私も伊坂幸太郎さんが絶賛していなければ出会っていなかったですし。
上の『異国伝』が電子書籍サービス「パブー」で『アニシカ王』として無料公開されていますので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。
たぶん全作読みました。
『イラハイ』の面白さには衝撃を受けた。
寓意のない寓話集『異国伝』は抑制の効いた笑いが絶妙な逸品だった。
今回も味わい深かった。
新作出ているの知らずに読むのが遅れましたが。
描かれているのは非現実なできごとですが、未曽有の大災害に遭ったときはこんな感じになるんだろうかと、ふと思ったりしました。
万人にお薦めとは言いません。
ただ才能と作品の完成度にふさわしい知名度を得ていない気がします。
私も伊坂幸太郎さんが絶賛していなければ出会っていなかったですし。
上の『異国伝』が電子書籍サービス「パブー」で『アニシカ王』として無料公開されていますので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。
2015年5月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
地球外生物の襲来というSF小説の形をとりながら主人公である高校生男子の揺れ動く性的心理をメタファーに表現した意欲作。読ませるだけでなく見せる文章表現は特筆ものだ。
2015年12月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
髪が風に吹かれている。川原の光をにじませている。
ぼくは久保田の顎を見つめる。
ぼくは久保田の手を見つめる。
ぼくは久保田の頬を見つめる。
ぼくは久保田の見つめている。
ぼくはまぶしさを感じている。
久保田の隣で、ぼくはサンドイッチを手にしている。
ある日、天から謎の火球が落下してくるのを、教室の窓から目撃した「ぼく」たち。
落下速度に制動がかかったことから、ただの隕石ではないと感じた四人の高校生は、自転車で落下現場に向かいます。
これが、七日間の物語の、最初の出来事でした。
自意識過剰で、頭の中は理屈だらけの「ぼく」
僕の後ろの席の、気持ちを表面に出さないが「松本零士の漫画に出てくる女性似の、なにかしらの美人」である久保田。
ぼくの中学からの友人で、現実的、行動的で「結論」を急ぎたがる平岩。
膨大なSFの知識を持ち、起きている状況をたちどころに作品に置き換えて事件の「可能性」を説明する倉石。
物語は「ぼく」の一人称で進行していきます。
落下現場のクレーターからは、隕石らしいものは発見できず、
しかしまもなく、街のあちこちが陥没し、穴同士が繋がって深い谷となり、
人々や家々を次々と飲み込んでいく事態が到来します。
谷の底からは、悪臭を放ち人を襲う触手のような異生物(?)も出現。
四人の通う高校も、この災厄に巻き込まれ、校舎もろとも谷底に転落します。
液状化した谷底に飲み込まれていく逆転した校舎の中で、生徒や教師の生き残るための苦闘が続きます。
ストーリーだけを取れば、80年代のパニック映画を思い出させるような「SFジュブナイル」らしい展開です。
ところが、読み出してまもなく「これは、どういう話なんだ」と読者は途方にくれるかもしれません。
なんだか、ストーリーが背景に回っている。
かわりに、尋ねてもいない「ぼく」の奇妙な内面が、これでもか、というくらいに詳しくしつこく、語られていくのです。
「ぼく」にとって最優先は、久保田です。
特別な関係にはないといいつつも、実は、考えているのは彼女のことばかり。
「ぼく」の切実な願望は、久保田との「精神的な距離を縮める」ことです。
「ぼく」は自分を「精神的で、中庸を好む人間」であるとし、久保田に好意を持っているらしい平岩の、久保田への「非精神的」アクションをとても気にしています。
平岩を心の中で繰り返し「非精神的な迷妄の奴隷」と罵倒し、軽蔑しますが、そんな気持ちはおくびにも出さない。
それは、実は「ぼく」自身が持っている、非精神的な部分への嫌悪の情に他ならないからです。
ぼくは久保田を久保田と呼ぶ。…久保田を久保田と呼んで抽象化し、言わば非精神的な要素を排除することで久保田とのあいだに距離をたもち、安定させているのかもしれない、とぼくは思った。つまり久保田は精神的な存在だった。その範囲で久保田に肉体はなかった。しかし抽象化をやめれば、久保田は非精神的な存在になるに違いない。そのとき、距離はどうなるのか。暗黒の領域を手探りで進めば、距離を誤ることになるだろう。暗黒の領域には罠が多い。そこでは現実と迷妄を見分けることができなくなっている。すべてが非精神的な期待と願望に還元される。…期待と願望が真実をゆがめて迷妄を呼び出し、精神的な人間を非精神的な人間に変え、非精神的な人間は迷妄の亡者となって闇の中をさまようのだ。気をつけなければならない、とぼくは思った。
彼の頭の中は、あきれるくらいに「理屈」でいっぱい。
周囲のちょっとした一言や動作が、疑念と、嫉妬と、憎悪をよび、同じ理屈を何度も何度も反芻する。その軽蔑ぶりはかなり徹底していて、「ぼく」は人ばかりか、今陥っているパニック状況、迫りくる異生物にすら恐怖と軽蔑を感じ
「恥ずかしい」
と意識から退けようとするのです。
そんな彼の内面を、これでもか、というくらいリアルに語りつくそうとする異様な文体。傷の入ったレコードのように反復される「繰言」。
巧妙に配置され、文章と一体化したような感情表現の豊かな挿絵や、
台詞の置き方、紙面の文字の配分にいたるまで考え抜かれた「視覚的効果」が、いっそう異様さを際立たせています。
読者は読み進むうちに、そんな「ぼく」にすっかり閉口するでしょう。
それでも、どこかで密かに「共感」するかもしれません。
老いたネコパパも、これを読んでいて、
自分の奥底に隠れた「愚かな少年」が覚醒するような、いやあな、気分になったのです。
そんな、どうしようもない自意識を抱えた「ぼく」ですが、それを主体的な行動として外部に現し、他者と対立したり、物語に波風を立てたりすることは、ありません。
「ぼく」はひたすら受身で、何もしない。
本作が三人称で書かれていたとしたら、オーソドックスな「SFジュブナイル」あるいはパニック小説の枠内にとどまっただけでなく、
主人公は、「ぼく」ではなく、より行動的な平岩になっていたかもしれません。
外部から隔絶し、自らも外部を隔絶した「ぼく」の息苦しい物語は、
そのまま、私たちの現代に繋がるリアリティを感じさせます。
2011年3月11日、私たちは事態に遭遇しました。
本作を「大震災」を投影した作品と読む人もきっといるでしょう。
2015年3月29日に池袋で行われた読書会では、
「6日目(第六章)の最後のページが311なのは、3月11日を意識しているのか?」
との意見もあったそうです。
極限の事態に、私たちはいかに目の前の現実を認識するか、あるいはしないか…
少年の内面を冷酷に描くことで、目の前の事態に目をふさぎがちな私たちに「覚醒」を呼び起こす…
そんな意図が含まれているのかもしれません。
物語の終わりの言葉は、こうです。
これはどこかで終わるのか、とぼくは思う。
ここに戻って来れるのか、とぼくは思う。
ぼくは思う。
いまはもう、思うことをやめようと思う。
ぼくは久保田の顎を見つめる。
ぼくは久保田の手を見つめる。
ぼくは久保田の頬を見つめる。
ぼくは久保田の見つめている。
ぼくはまぶしさを感じている。
久保田の隣で、ぼくはサンドイッチを手にしている。
ある日、天から謎の火球が落下してくるのを、教室の窓から目撃した「ぼく」たち。
落下速度に制動がかかったことから、ただの隕石ではないと感じた四人の高校生は、自転車で落下現場に向かいます。
これが、七日間の物語の、最初の出来事でした。
自意識過剰で、頭の中は理屈だらけの「ぼく」
僕の後ろの席の、気持ちを表面に出さないが「松本零士の漫画に出てくる女性似の、なにかしらの美人」である久保田。
ぼくの中学からの友人で、現実的、行動的で「結論」を急ぎたがる平岩。
膨大なSFの知識を持ち、起きている状況をたちどころに作品に置き換えて事件の「可能性」を説明する倉石。
物語は「ぼく」の一人称で進行していきます。
落下現場のクレーターからは、隕石らしいものは発見できず、
しかしまもなく、街のあちこちが陥没し、穴同士が繋がって深い谷となり、
人々や家々を次々と飲み込んでいく事態が到来します。
谷の底からは、悪臭を放ち人を襲う触手のような異生物(?)も出現。
四人の通う高校も、この災厄に巻き込まれ、校舎もろとも谷底に転落します。
液状化した谷底に飲み込まれていく逆転した校舎の中で、生徒や教師の生き残るための苦闘が続きます。
ストーリーだけを取れば、80年代のパニック映画を思い出させるような「SFジュブナイル」らしい展開です。
ところが、読み出してまもなく「これは、どういう話なんだ」と読者は途方にくれるかもしれません。
なんだか、ストーリーが背景に回っている。
かわりに、尋ねてもいない「ぼく」の奇妙な内面が、これでもか、というくらいに詳しくしつこく、語られていくのです。
「ぼく」にとって最優先は、久保田です。
特別な関係にはないといいつつも、実は、考えているのは彼女のことばかり。
「ぼく」の切実な願望は、久保田との「精神的な距離を縮める」ことです。
「ぼく」は自分を「精神的で、中庸を好む人間」であるとし、久保田に好意を持っているらしい平岩の、久保田への「非精神的」アクションをとても気にしています。
平岩を心の中で繰り返し「非精神的な迷妄の奴隷」と罵倒し、軽蔑しますが、そんな気持ちはおくびにも出さない。
それは、実は「ぼく」自身が持っている、非精神的な部分への嫌悪の情に他ならないからです。
ぼくは久保田を久保田と呼ぶ。…久保田を久保田と呼んで抽象化し、言わば非精神的な要素を排除することで久保田とのあいだに距離をたもち、安定させているのかもしれない、とぼくは思った。つまり久保田は精神的な存在だった。その範囲で久保田に肉体はなかった。しかし抽象化をやめれば、久保田は非精神的な存在になるに違いない。そのとき、距離はどうなるのか。暗黒の領域を手探りで進めば、距離を誤ることになるだろう。暗黒の領域には罠が多い。そこでは現実と迷妄を見分けることができなくなっている。すべてが非精神的な期待と願望に還元される。…期待と願望が真実をゆがめて迷妄を呼び出し、精神的な人間を非精神的な人間に変え、非精神的な人間は迷妄の亡者となって闇の中をさまようのだ。気をつけなければならない、とぼくは思った。
彼の頭の中は、あきれるくらいに「理屈」でいっぱい。
周囲のちょっとした一言や動作が、疑念と、嫉妬と、憎悪をよび、同じ理屈を何度も何度も反芻する。その軽蔑ぶりはかなり徹底していて、「ぼく」は人ばかりか、今陥っているパニック状況、迫りくる異生物にすら恐怖と軽蔑を感じ
「恥ずかしい」
と意識から退けようとするのです。
そんな彼の内面を、これでもか、というくらいリアルに語りつくそうとする異様な文体。傷の入ったレコードのように反復される「繰言」。
巧妙に配置され、文章と一体化したような感情表現の豊かな挿絵や、
台詞の置き方、紙面の文字の配分にいたるまで考え抜かれた「視覚的効果」が、いっそう異様さを際立たせています。
読者は読み進むうちに、そんな「ぼく」にすっかり閉口するでしょう。
それでも、どこかで密かに「共感」するかもしれません。
老いたネコパパも、これを読んでいて、
自分の奥底に隠れた「愚かな少年」が覚醒するような、いやあな、気分になったのです。
そんな、どうしようもない自意識を抱えた「ぼく」ですが、それを主体的な行動として外部に現し、他者と対立したり、物語に波風を立てたりすることは、ありません。
「ぼく」はひたすら受身で、何もしない。
本作が三人称で書かれていたとしたら、オーソドックスな「SFジュブナイル」あるいはパニック小説の枠内にとどまっただけでなく、
主人公は、「ぼく」ではなく、より行動的な平岩になっていたかもしれません。
外部から隔絶し、自らも外部を隔絶した「ぼく」の息苦しい物語は、
そのまま、私たちの現代に繋がるリアリティを感じさせます。
2011年3月11日、私たちは事態に遭遇しました。
本作を「大震災」を投影した作品と読む人もきっといるでしょう。
2015年3月29日に池袋で行われた読書会では、
「6日目(第六章)の最後のページが311なのは、3月11日を意識しているのか?」
との意見もあったそうです。
極限の事態に、私たちはいかに目の前の現実を認識するか、あるいはしないか…
少年の内面を冷酷に描くことで、目の前の事態に目をふさぎがちな私たちに「覚醒」を呼び起こす…
そんな意図が含まれているのかもしれません。
物語の終わりの言葉は、こうです。
これはどこかで終わるのか、とぼくは思う。
ここに戻って来れるのか、とぼくは思う。
ぼくは思う。
いまはもう、思うことをやめようと思う。
2020年10月2日に日本でレビュー済み
内容に関しては文句ないです。
青春期の青年の鬱陶しく自意識過剰で独善的な内面がネタ的に面白いです。
この文庫版を購入してとても残念だったのは、単行本にはあると思われる西村ツチカさんによる挿絵が全て無くなってしまったことです。
ただ、その為に単行本買いなおすのもなあ。と思っていたのですが、文庫版には編集かわら版というピラ紙が挟まれておりそこに文庫化するにあたって単行本時の原稿と1か所大きな変更がある(一文が消された)と書かれています。
お話のほぼ終盤でのキャラの心情描写に大きな意味をもつ一文だけにこれは単行本を読まざるを得ないという気にさせられます。
ということで、個人的には単行本を買ったほうがスッキリするかなと思います。
もちろんその一文を消すことで生まれる読者の想像こそが作者の意図だとは思うので、両方買って私のように文庫から読んでみるとその一文がさらに楽しめるのかもしれません。※単行本も文庫本と同じ内容でした。
私もこれから単行本を買ってみようと思います。安い中古で。
追記10/5
単行本が届きました。
挿絵が大量に入っていて驚きました。
見開きだったり1ページ使ってたり小さかったり、表面に凸凹加工された表紙を外すと背表紙、裏表紙にも挿絵が施されていて、もはや小説+挿絵がお互いを補完しているとても楽しいアートブック的作品という趣でした。
単行本の出来を見てから文庫本を見ると残念な感じになるのは否めないと思います。
文庫版は文庫版としてあるべき姿をしていますがそれだけ単行本の出来が良かったということです。
絵なんて関係ないという人以外には絶対に単行本を購入することをお勧めします。
消えた一文については残念ながら単行本も文庫版と同じ内容でした。
青春期の青年の鬱陶しく自意識過剰で独善的な内面がネタ的に面白いです。
この文庫版を購入してとても残念だったのは、単行本にはあると思われる西村ツチカさんによる挿絵が全て無くなってしまったことです。
ただ、その為に単行本買いなおすのもなあ。と思っていたのですが、文庫版には編集かわら版というピラ紙が挟まれておりそこに文庫化するにあたって単行本時の原稿と1か所大きな変更がある(一文が消された)と書かれています。
お話のほぼ終盤でのキャラの心情描写に大きな意味をもつ一文だけにこれは単行本を読まざるを得ないという気にさせられます。
ということで、個人的には単行本を買ったほうがスッキリするかなと思います。
もちろんその一文を消すことで生まれる読者の想像こそが作者の意図だとは思うので、両方買って私のように文庫から読んでみるとその一文がさらに楽しめるのかもしれません。※単行本も文庫本と同じ内容でした。
私もこれから単行本を買ってみようと思います。安い中古で。
追記10/5
単行本が届きました。
挿絵が大量に入っていて驚きました。
見開きだったり1ページ使ってたり小さかったり、表面に凸凹加工された表紙を外すと背表紙、裏表紙にも挿絵が施されていて、もはや小説+挿絵がお互いを補完しているとても楽しいアートブック的作品という趣でした。
単行本の出来を見てから文庫本を見ると残念な感じになるのは否めないと思います。
文庫版は文庫版としてあるべき姿をしていますがそれだけ単行本の出来が良かったということです。
絵なんて関係ないという人以外には絶対に単行本を購入することをお勧めします。
消えた一文については残念ながら単行本も文庫版と同じ内容でした。