確かに津田真一氏の論点は鋭い。読んでいて手に汗握る明快さと面白さに満ちている。
だが、彼の論点はそもそもの出発点からして「誤謬」である。
華厳に関する論説に限定して述べる限り、
ゴータマブッダの宗教と華厳の教えは確かにcriticalであろう。
しかしながらこの「華厳経」そもそも人間がそれを学び、実践して仏の悟りを開くプロセスなど描いてはいないのだ。
華厳の教えは高度である。
それは、声聞や菩薩乗より「遥かに高い」
いったい華厳は何を説いた経典なのか?
その文脈に従って、意味内容を厳しく吟味検討せねばならない。
わたしの華厳に関する研究によって得られた結論は、華厳は「仏乗」だと言うことだ。
経典内容にはさまざまな菩薩行がおびただしく列挙されているが、およそ普通の人間によって達成される「行」などひとつも存在しない。
なぜなら、華厳経そのものは「仏のみ」(ここでは釈迦牟尼仏)のみに実践可能な菩薩行のみが書き記されているからだ。
つまりは、初めから「凡夫の出る幕」など描いてはいない。
では、救いはどこにあるのか?大乗の目的とはいったい何か?という重大問題に逢着するが、それは「法華経」や「浄土三部経」のような「通常の」経典を読めば事足りる。
資質の劣った凡夫はとうてい厳しい修行など出来るはずもなく、
結果として、法華経を学び信じることや念仏のような「易行」を選択せざるを得ない。
津田氏の華厳の論説は、大乗仏教徒による「在家主義の肯定化」
がその動機であるにせよ、そもそも人間にとって仏教とは、大乗小乗を問わずcriticalなものである。
手取り早く言えば「悟り」とは人間の無明が生み出した儚い夢に過ぎない。
津田氏の誤りは、出家者と在家者の危機的な分裂にこそあったはずだが、彼は知ってか知らでか?
「出家する菩薩」の存在を意図的に無視ないし、隠蔽して自説を展開している。
あまり、信用のおける学説ではないと思った
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反密教学 単行本 – 1987/9/1
津田 真一
(著)
- 本の長さ333ページ
- 言語日本語
- 出版社リブロポート
- 発売日1987/9/1
- ISBN-104845702754
- ISBN-13978-4845702756
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登録情報
- 出版社 : リブロポート (1987/9/1)
- 発売日 : 1987/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 333ページ
- ISBN-10 : 4845702754
- ISBN-13 : 978-4845702756
- Amazon 売れ筋ランキング: - 733,196位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
第7章空海の解釈学だけでも十分価値があります。空海に関する本としてこれ一冊で十分です。
他の本は頼富本宏など宗門の学僧や一般人の松岡正剛(「空海の夢」)などの著書はすべからく空海は「天才、超人、すごい、でも解らない」に終始しています。
人間空海を垣間見ることができます。空海は「端倪すべからざる韜晦家であったのである」との記述は目からうろこが落ちます。
もちろん密教の歴史が後期密教まですべてカバーされています。
他の本は頼富本宏など宗門の学僧や一般人の松岡正剛(「空海の夢」)などの著書はすべからく空海は「天才、超人、すごい、でも解らない」に終始しています。
人間空海を垣間見ることができます。空海は「端倪すべからざる韜晦家であったのである」との記述は目からうろこが落ちます。
もちろん密教の歴史が後期密教まですべてカバーされています。
2009年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は他の仏教解説本とはまったく違う。
津田真一という人間が、仏教という思想が宗教として成り立つ意味を理解しようと、
学者としての人生をかけ、格闘している様子が手にとるように分かる。
本書はその最初の成果である。
後期密教から俯瞰した仏教思想の全体像とはなにか。
インドで生まれ千年をかけて辿りついた思想から読み取れる、人間の救いとはなにか。
最初はかなり読みにくいと思うが、次第に著者の考えがわかってくるのは快感である。
二十年たっても座右の書として置いている。
近年の成果が加わったとのこと。また、新たな読者が本書を手に取ることが出来るのは幸せである。
津田真一という人間が、仏教という思想が宗教として成り立つ意味を理解しようと、
学者としての人生をかけ、格闘している様子が手にとるように分かる。
本書はその最初の成果である。
後期密教から俯瞰した仏教思想の全体像とはなにか。
インドで生まれ千年をかけて辿りついた思想から読み取れる、人間の救いとはなにか。
最初はかなり読みにくいと思うが、次第に著者の考えがわかってくるのは快感である。
二十年たっても座右の書として置いている。
近年の成果が加わったとのこと。また、新たな読者が本書を手に取ることが出来るのは幸せである。
2013年3月4日に日本でレビュー済み
津田真一氏が、大日経と金剛頂経のcriticalな関係を言うのは、密教学問としては面白い。しかし氏は、仏教とインド教のcriticalな関係には、たいへん寛容である。と言うよりも、かつて流行したホラ学者や新興宗教のように、同一視していると言っても過言ではない。そのような立ち位置には、神への愛によって自己を救済せんとするインド教とその自己を空じて苦しみを超えようとする仏教のどちらでもない、安全かつ上から目線で(それは慈悲ではない!)世間の悲惨さを肯定できると思い上がった、錯覚した(実は絶望的な)自己存在感、傲慢さが見える。
思想というものは、後のものが前のものよりも進歩しているという考え方は間違っている。それは氏が解説する、ブッタがあえて説かなかった、過剰な観念のなかを滅びていく「仏教」といわれた潮流にも言える。
思想というものは、後のものが前のものよりも進歩しているという考え方は間違っている。それは氏が解説する、ブッタがあえて説かなかった、過剰な観念のなかを滅びていく「仏教」といわれた潮流にも言える。
2007年5月19日に日本でレビュー済み
幸いにも、2008年10月、春秋社から再販され、
とても手に入りやすくなりました。
この本は、反・「密教」ではなく、
密教を否定しているわけではありません。
この“反密教学”というタイトルの意味は、
決して密教に反対する立場をとるというのではなく、
密教は反密教として完結し、そこではじめて
仏教そのものの思想的原則をわれわれに示す、ということです。
この本は、津田師の初の著作であり、
初期の津田仏教学が網羅されています。
弘法大師空海に関する記述は、
未だに色褪せることなく輝きを放ち、
我々を真言密教の核心へと誘ってくれます。
実物は80年代テイストのデジタルなデザインで、
外観も非常に革新的です。
とても手に入りやすくなりました。
この本は、反・「密教」ではなく、
密教を否定しているわけではありません。
この“反密教学”というタイトルの意味は、
決して密教に反対する立場をとるというのではなく、
密教は反密教として完結し、そこではじめて
仏教そのものの思想的原則をわれわれに示す、ということです。
この本は、津田師の初の著作であり、
初期の津田仏教学が網羅されています。
弘法大師空海に関する記述は、
未だに色褪せることなく輝きを放ち、
我々を真言密教の核心へと誘ってくれます。
実物は80年代テイストのデジタルなデザインで、
外観も非常に革新的です。