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映像の発見: アヴァンギャルドとドキュメンタリー 単行本 – 2005/10/1
松本 俊夫
(著)
- 本の長さ246ページ
- 言語日本語
- 出版社清流出版
- 発売日2005/10/1
- ISBN-104860291352
- ISBN-13978-4860291358
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登録情報
- 出版社 : 清流出版 (2005/10/1)
- 発売日 : 2005/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 246ページ
- ISBN-10 : 4860291352
- ISBN-13 : 978-4860291358
- Amazon 売れ筋ランキング: - 752,168位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年5月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
経年劣化は防ぎようとありませんが。60年前の本としては上出来です。すぐに配送いただき感謝します。60年前の本ですが、作者の言葉が、グサグサと刺さります。良い買い物をしました。
2015年12月19日に日本でレビュー済み
“映像”という用語を日本に広め、映画『ドグラマグラ』の監督である著者が1958年から63年にかけて映画に関して書いた論文を集めた評論集。初版は1963年。1979年までに13刷を重ね、この本は再版として2005年に出されたもの。
作る側として、アヴァンギャルド映画とドキュメンタリー映画を統一することを目的とした論文集と言えますが、同時に私個人としては、どう物事を見て捉えるべきかのヒントとしても読むことができました。
内容は以下。若干長くなりますが感想を含めて一部内容をご紹介します。
「映画芸術の現代的視座」
ドキュメンタリー映画は世界の外側を描き、アヴァンギャルド映画は内側の世界を描き出そうとするのだが、その両者は対立するものではなく、互いに陽画と陰画の様に重なり合い、そのいずれかを突き詰めようとすると必然的に他方にも目を注がなければならないとし、さらにネオリアリズムもヌーベル・バーグいずれもドキュメンタリーとアヴァンギャルドの影響下にあるとしている。
その他、音をどの様に映像に重ねるか、無意識をどの様に映画固有の表現として形象化するか、またロブ=グリエの『不滅の女』を取り上げ、現代の映画が“事実のドラマ”から“存在のドラマ”への視点の質的転回によって生み出されたこと、またこの後の幾つかの論評の中でも取り上げられるレネの『二十四時間の情事』を題材として、“主体的に見る”こと“客体を主体化”することの意味について述べられている。
「前衛記録映画論」
作家としての著者が新たなリアリズムを目指すうえで、レネの『ゲルニカ』を取り上げ、眼に見える対象から眼に見えない内部世界を探ろうとするアヴァンギャルド的観点を、外部世界を映し出すドキュメンタリーと止揚することが必要なのだとし、その止揚された映画を“前衛的記録映画”あるいは“ネオ・ドキュメンタリー”と称するという宣言である。
「方法とイメージ」
映画に固有の創造とは何か?カフカの変身は何故映画化するのが困難なのか?
映画はフレイミングとモンタージュとコンストラクションという三つの操作により映画に固有のイメージが形成され、そこで映像の対象である客観の世界とそれを意味づける主観の世界とが一体となってスクリーン上の像に組み込まれるのだとし、映画には他の表現様式に変えられない意味があり、それは優れた小説においても同様であるとしている。
「ネオドキュメンタリズムとは」
「隠された世界の記録」
前衛的なドキュメンタリー芸術を思考する上で基本としなければならない“不気味なもの”を捉えようとする志向性について。
ドキュメンタリストは実存主義を止揚したマルキスト、シュールレアリスムを止揚したリアリストでなければならないとし、世界を捉えるためには隠された内面と隠された現実のいずれをも主体的にあるいは主体として掴み取らなければならないとする。マルクスの読み方としても面白い。
「残酷を見つめる眼」
「モダニズムとクリティック」
「追体験の主体的意味」
「日常性と凝視」
戦後リアリズムはネオリアリズムに始まり、その特徴は対象を凝視することそれ自体が映像を作りあげていること、そしてそれにより“対象が主体化され”、“主体が客体化される”のだとする。しかし出来事が潜在化し凝視すべき対象が表面化しなくなった時、映画はどの様な陥穽に陥るのか、それに関係して二点議論され、その中で『二十四時間の情事』はそれらの問題点を乗り越えているとする。現代において横たわる問題に関しても通底すべき視点である。
「ドラマの無いドラマ」
内面化し潜在化した人間の疎外を、どの様に外化したドラマとして表現するのかに関して、幾つかのヌーベル・バーグ作品が目指したものが何だったのかを繙きながら解説していく。
「存在の形而上学」
アントニオーニの愛に関する「なぜ」という問いは、より普遍的な人間に関する「なぜ」であり、同時に「なぜ」映画を作るのかという「なぜ」でもあるのだとする。さらにウェルズの『審判』における“そこに属する・そこに属さない”存在の意味の問題、レネの『去年マリエンバートで』の脚本を解題(映画自体はこの論考を書く段階では見られなかったようです)しながら、この映画を人間の条件・自由の条件など存在の根源に迫ろうとした作品であると解釈している。
「敗戦と戦後の不在」
「芸術的サド・マゾヒストの意識」
「変身の論理」
「大衆という名の物神について」
「運動の変革」
一部ではありますがドイツ語やラテン語がちりばめられ意味を調べるのが大変ではあります。また初出一覧がないため何年に書かれた論文なのかがわからないのが残念です。ただし多くの古い映画が紹介されており、それらを見直し、新たに自分なりに意味づけをする良い機会になりました。
ドゥールズに先行する映画論として優れた古典的教科書であり、沢山の若い映画好きの方に是非読んでいただきたい一冊です。
作る側として、アヴァンギャルド映画とドキュメンタリー映画を統一することを目的とした論文集と言えますが、同時に私個人としては、どう物事を見て捉えるべきかのヒントとしても読むことができました。
内容は以下。若干長くなりますが感想を含めて一部内容をご紹介します。
「映画芸術の現代的視座」
ドキュメンタリー映画は世界の外側を描き、アヴァンギャルド映画は内側の世界を描き出そうとするのだが、その両者は対立するものではなく、互いに陽画と陰画の様に重なり合い、そのいずれかを突き詰めようとすると必然的に他方にも目を注がなければならないとし、さらにネオリアリズムもヌーベル・バーグいずれもドキュメンタリーとアヴァンギャルドの影響下にあるとしている。
その他、音をどの様に映像に重ねるか、無意識をどの様に映画固有の表現として形象化するか、またロブ=グリエの『不滅の女』を取り上げ、現代の映画が“事実のドラマ”から“存在のドラマ”への視点の質的転回によって生み出されたこと、またこの後の幾つかの論評の中でも取り上げられるレネの『二十四時間の情事』を題材として、“主体的に見る”こと“客体を主体化”することの意味について述べられている。
「前衛記録映画論」
作家としての著者が新たなリアリズムを目指すうえで、レネの『ゲルニカ』を取り上げ、眼に見える対象から眼に見えない内部世界を探ろうとするアヴァンギャルド的観点を、外部世界を映し出すドキュメンタリーと止揚することが必要なのだとし、その止揚された映画を“前衛的記録映画”あるいは“ネオ・ドキュメンタリー”と称するという宣言である。
「方法とイメージ」
映画に固有の創造とは何か?カフカの変身は何故映画化するのが困難なのか?
映画はフレイミングとモンタージュとコンストラクションという三つの操作により映画に固有のイメージが形成され、そこで映像の対象である客観の世界とそれを意味づける主観の世界とが一体となってスクリーン上の像に組み込まれるのだとし、映画には他の表現様式に変えられない意味があり、それは優れた小説においても同様であるとしている。
「ネオドキュメンタリズムとは」
「隠された世界の記録」
前衛的なドキュメンタリー芸術を思考する上で基本としなければならない“不気味なもの”を捉えようとする志向性について。
ドキュメンタリストは実存主義を止揚したマルキスト、シュールレアリスムを止揚したリアリストでなければならないとし、世界を捉えるためには隠された内面と隠された現実のいずれをも主体的にあるいは主体として掴み取らなければならないとする。マルクスの読み方としても面白い。
「残酷を見つめる眼」
「モダニズムとクリティック」
「追体験の主体的意味」
「日常性と凝視」
戦後リアリズムはネオリアリズムに始まり、その特徴は対象を凝視することそれ自体が映像を作りあげていること、そしてそれにより“対象が主体化され”、“主体が客体化される”のだとする。しかし出来事が潜在化し凝視すべき対象が表面化しなくなった時、映画はどの様な陥穽に陥るのか、それに関係して二点議論され、その中で『二十四時間の情事』はそれらの問題点を乗り越えているとする。現代において横たわる問題に関しても通底すべき視点である。
「ドラマの無いドラマ」
内面化し潜在化した人間の疎外を、どの様に外化したドラマとして表現するのかに関して、幾つかのヌーベル・バーグ作品が目指したものが何だったのかを繙きながら解説していく。
「存在の形而上学」
アントニオーニの愛に関する「なぜ」という問いは、より普遍的な人間に関する「なぜ」であり、同時に「なぜ」映画を作るのかという「なぜ」でもあるのだとする。さらにウェルズの『審判』における“そこに属する・そこに属さない”存在の意味の問題、レネの『去年マリエンバートで』の脚本を解題(映画自体はこの論考を書く段階では見られなかったようです)しながら、この映画を人間の条件・自由の条件など存在の根源に迫ろうとした作品であると解釈している。
「敗戦と戦後の不在」
「芸術的サド・マゾヒストの意識」
「変身の論理」
「大衆という名の物神について」
「運動の変革」
一部ではありますがドイツ語やラテン語がちりばめられ意味を調べるのが大変ではあります。また初出一覧がないため何年に書かれた論文なのかがわからないのが残念です。ただし多くの古い映画が紹介されており、それらを見直し、新たに自分なりに意味づけをする良い機会になりました。
ドゥールズに先行する映画論として優れた古典的教科書であり、沢山の若い映画好きの方に是非読んでいただきたい一冊です。
2015年6月25日に日本でレビュー済み
『記録映画作家』時代の松本俊夫の批評をまとめたこの本は、60年代の映画青年たちのバイブルとした熱心に読まれたという。僕が所有しているものも、以前の所有者による傍線が大量に加えられている。『日本のヌーヴェル・ヴァーグ』の重要マニフェストである「前衛記録映画論」で名高いこの本には、たとえば、貧困問題を題材にした社会改良映画で表象される、わかりやすく図式化された『貧困』像が貧困のイメージを固定化する弊害など、現在でもなお有効な問題提起が随所に見られる。短編映画作家時代のアラン・レネの「ゲルニカ」「ヴァン・ゴッホ」がかれらに与えた衝撃の大きさもよくわかる。2000年代における松本俊夫再評価とは、『記録の時代』の松本の発見のことだったわけだが、『松本俊夫の代表作は(映画作品ではなく)「映像の発見」だ』という説があったことからわかるように、この時代の松本の実作は自論を裏切るような作品しか残せていないではないかという感が強い。あの時代のアヴァンギャルドらしいキッチュさは味わえるとはいえ生産力向上を謳い上げる産業PR映画以上でも以下でもない「白い長い線」がある一方、社会科教材映画のフリをした現状批判映画「春を待つ子ら」もあるので、われわれが見ることのできる作品だけで判断するのは早計かもしれず、更なる作品の発掘が望まれるのだが、戦中期プロパガンダとの類似性が気になる「安保条約」は表現の先進性なるものだけで評価していいのかどうかひっかかるものがある。当時プロパガンダ研究会を組織していたというから、いわゆる確信犯だと見ていいのだろうが、表現の質としては『記録映画の戦争/戦後責任』論争とは何だったのかと思わざるをえないようなレベルである。党員時代の松本の実現しなかった企画に中国を撮ったドキュメンタリーがある。そのために訪中団に加わってもいる(訪中団には竹中労もいたらしい)。松本の中国体験がどのようなもので、どういった映画を構想していたのかが気になる。(2017年9月18日一部削除修正)
追記(2019年3月10日):昨年、『安保条約』を十数年ぶりに見直す機会があった。その作品に対する僕の評価には誤解が混じっていたのかもしれない、と思った一方、この時期の松本の「左翼性」にいかがわしいものを改めて感じた。
追記2(2020年10月3日):63年刊行の三一書房版(粟津潔の装丁仕事の代表作としても知られている版)へのレビューとして記したはずが05年刊行の清流出版版のページにも掲載されていることに先日気がついた。僕は清流版は手にしたことが無いので、三一版との違いはわからないのだが、三一版では何故か省かれていた初出一覧は、記載されているのだろうか?
追記(2019年3月10日):昨年、『安保条約』を十数年ぶりに見直す機会があった。その作品に対する僕の評価には誤解が混じっていたのかもしれない、と思った一方、この時期の松本の「左翼性」にいかがわしいものを改めて感じた。
追記2(2020年10月3日):63年刊行の三一書房版(粟津潔の装丁仕事の代表作としても知られている版)へのレビューとして記したはずが05年刊行の清流出版版のページにも掲載されていることに先日気がついた。僕は清流版は手にしたことが無いので、三一版との違いはわからないのだが、三一版では何故か省かれていた初出一覧は、記載されているのだろうか?