文学批評でクイアスタディーズの研究者だった竹村和子が、映像についての批評もこれだけ残してきたというのは、ちょっと意外。でも、ハリウッドにおけるレズビアニズムといった読みも、なるほど、と思わせると同時に、どこか竹村の趣味的な心地よさも感じます。
映像に埋め込まれたクイアな表現というのは、もっと研究して欲しかったと思うし、とりわけ執筆されなかったジョディ・フォスター論はどんな内容だったのか、想像するのみです。
でも、そんな、ある意味での想いを強く感じる、愛すべき本だとおもいました。絶版になっているのが残念です。
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彼女は何を視ているのか――映像表象と欲望の深層 単行本 – 2012/12/14
私たちの性意識や欲望は、映像・映画によっていかに創られているのか?
惜しくも急逝した、日本を代表する批評理論家・竹村和子が、その理論・思想を映像分析に応用した、挑戦的ジェンダー映画論。
トリン・ミンハとの対話、レイ・チョウ、ローラ・マルビィとの対論も収録。
【本書の解説より】 竹村氏が視覚に収めた映画とは、物語化できぬもの、されぬものを「暗号化」し、観者に「委ねる」創作形態の謂いであった。ちなみに氏は、いくつかの論考で、このような委ねに則って視る行為を、「プンクトゥム」という概念(ロラン・バルト)を用いて説明している。ローラ・マルヴィへの応答〔本書第12章〕の中で、「映画の画像を文字通り引き裂き、突き刺し、そして別の意味を呼び喚こすもの」と、それを定義づけた氏は、さらにそのような視の営為を「穿視(せんし)」という、おそらくは氏自身の造語によって表そうとしていたのである。穿視する女(ひと)、竹村和子の映像論は、一見シームレスな映画の時間を凍てつかせつつ立ち上がる、像の解明に賭けられていたといってよかろう。そしてそれは、人の生死を決定づける性の心的構成を探ることと同義であったと思われる……。(新田啓子「解説 穿視する女」より)
惜しくも急逝した、日本を代表する批評理論家・竹村和子が、その理論・思想を映像分析に応用した、挑戦的ジェンダー映画論。
トリン・ミンハとの対話、レイ・チョウ、ローラ・マルビィとの対論も収録。
【本書の解説より】 竹村氏が視覚に収めた映画とは、物語化できぬもの、されぬものを「暗号化」し、観者に「委ねる」創作形態の謂いであった。ちなみに氏は、いくつかの論考で、このような委ねに則って視る行為を、「プンクトゥム」という概念(ロラン・バルト)を用いて説明している。ローラ・マルヴィへの応答〔本書第12章〕の中で、「映画の画像を文字通り引き裂き、突き刺し、そして別の意味を呼び喚こすもの」と、それを定義づけた氏は、さらにそのような視の営為を「穿視(せんし)」という、おそらくは氏自身の造語によって表そうとしていたのである。穿視する女(ひと)、竹村和子の映像論は、一見シームレスな映画の時間を凍てつかせつつ立ち上がる、像の解明に賭けられていたといってよかろう。そしてそれは、人の生死を決定づける性の心的構成を探ることと同義であったと思われる……。(新田啓子「解説 穿視する女」より)
- 本の長さ299ページ
- 言語日本語
- 出版社作品社
- 発売日2012/12/14
- 寸法15.5 x 3.2 x 21.8 cm
- ISBN-104861824184
- ISBN-13978-4861824180
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商品の説明
著者について
竹村和子(たけむら・かずこ) 1954年、愛媛県生まれ。前お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科教授。博士(人文科学)(2003、お茶の水女子大学)。琉球大学名誉博士(2010)。専門は、英語圏文学、表象研究、批評理論、とくにフェミニズム研究、セクシュアリティ研究、ポストコロニアル/グローバル化研究。2011年12月13日没。
登録情報
- 出版社 : 作品社 (2012/12/14)
- 発売日 : 2012/12/14
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 299ページ
- ISBN-10 : 4861824184
- ISBN-13 : 978-4861824180
- 寸法 : 15.5 x 3.2 x 21.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,044,651位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 928位近代西洋哲学
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
個人的に著者、編者を知っていたので購入。
内容もさることながら、表紙の写真がとても綺麗なのが、印象的でした。
内容もさることながら、表紙の写真がとても綺麗なのが、印象的でした。
2013年2月18日に日本でレビュー済み
著者はハリウッド映画に関して「この異性愛社会のなかで同性愛者として存在することの苦しみも、絶望も、諦観も何ひとつとして彼/彼女らに教えはしなかった」(p13)などとして同性愛はまったくハリウッド映画に現れなかったことをことさらに強調しているのだが、別の箇所では「ハリウッド映画スターで、ジュディ・ガーランドと並んで永くゲイ・アイコンとして君臨しているグレタ・ガルボのセクシュアリティは『謎』である」(p31)としている。
これではハリウッド映画に同性愛が取り上げられたのかどうかということでさえ謎に思えてくるが、そもそもまったく映画に同性愛が描かれていなければ映画の中の同性愛を論じることはできないはずで著者の立論の前提に疑問がわく。
その疑問が解消されないまま上記の引用のように映画におけるセクシュアリティと俳優の実際の性が結び付けられ映画だけでなく多くの有名人の同性愛が指摘されるが、「『噂』の俳優」と題された第2章では以下のようなくだりがある。
k・d・ラングとナブラチロワの「噂」に象徴されるように、カミングアウト以前ではなく、カミングアウトのその後のモデルが噂を介して模索される。
ここで著者が何を言いたいのかは自分には不明であるがK・Dラングもナブラチロワもカミングアウトしているのだからガルボに関するレズビアンの噂というようなことではないだろう。
理解に苦しむのはナブラチロワをなぜここで著者が持ちだしたかということで「その後のモデルが噂を介して模索される」とはどういうことなのかまるで理解に苦しむ。
ナブラチロワの同性愛の恋人は別れたあと裁判を起こしたり暴露本Love Match: Nelson Vs. Navratilova を出していることは周知の事実であり、そうしたことをまったく書かないのは同性愛を常に抑圧され隠蔽されるものとして美化して位置づける意図があるとしか考えられない。
つまり同性愛にも異性愛同様怨恨のどろどろとした部分があるのにそうしたことを著者のほうこそ隠蔽して同性愛全体を論じているのである。
トリン・T.ミン・ハなる人物との対談なども載せられているが自分の撮った映画について小難しい理屈を並べているのに違和感を覚える。
トリン・T.ミン・ハはいろいろと検索してみても国内でも海外でもそれほど評価されているように思えず、大学教授などにもなってはいないようだ。
付録のチームKによる著者の看護、最期の状況報告?はいかにも美談のようだが「和子さんの周りに介護のできる親族のなかったことがチームの結束力を強めた」とまるで家族がいないことがよかったかのように書いているのにはあきれ果ててものも言えない。
このような中途半端な看護日誌は著作物としては別のものにすべきであり、そもそも公開すべきことでもないだろう。
自分たちの名声のために奉仕したかのようであまりにも利己的で恩着せがましい。一人いると書かれた叔母の面倒はでは誰がみるのか?
フェミニストだと言っても結局家族がいなければ他人に死んだ後まで利用される。異性愛で家族を持つことに超えるものをフェミニストは産み出せないということを本書全体で証明してしまった。
著者の名前を冠した奨学金だのなんだのあまりにも騒ぎすぎである。あとがきの中には著者が喫煙していたこともほのめかされているが病名もはっきりとは書かれていない。
健康管理ができずに命をちぢめるのはおろかなことであり、痴愚神礼賛もほどほどにすべきである。
ゲイ・アイコンで検索すればゲイをとりあげたTVシリーズや映画は続々と出てくるので著者が主張するようにゲイがハリウッド映画で隠蔽されたというのはおかしい。
同性愛は隠蔽されている、抑圧されているという前提のもとに作り上げられた著者の名声もまやかしである。
死後2冊の独立した論考が出版されたということも著者の年代としては決して多くの業績があったわけではないことを示すもので平凡な学者を祭り上げる取り巻きの工作には閉口させられる。
学者と言うのは所詮他人を神格化して自分の地位や名声に利用するものであるが、自分の知己を無理やりたいした知性に仕立て上げて騒ぎ立てるのはあまりにも見苦しい。
数々の賞に輝いた著作を出した黒岩比沙子の友人たちも終末期にはいろいろと尽力したようで彼女のブログも死後も継続されているが、協力者の名前もほとんど表には出てきたりはせず、ひっそりと故人を偲ぶ努力が続けられている。
短めのあとがきなどを書いて「業績」にしようとしている学者の薬にしてもらいたいものである。
これではハリウッド映画に同性愛が取り上げられたのかどうかということでさえ謎に思えてくるが、そもそもまったく映画に同性愛が描かれていなければ映画の中の同性愛を論じることはできないはずで著者の立論の前提に疑問がわく。
その疑問が解消されないまま上記の引用のように映画におけるセクシュアリティと俳優の実際の性が結び付けられ映画だけでなく多くの有名人の同性愛が指摘されるが、「『噂』の俳優」と題された第2章では以下のようなくだりがある。
k・d・ラングとナブラチロワの「噂」に象徴されるように、カミングアウト以前ではなく、カミングアウトのその後のモデルが噂を介して模索される。
ここで著者が何を言いたいのかは自分には不明であるがK・Dラングもナブラチロワもカミングアウトしているのだからガルボに関するレズビアンの噂というようなことではないだろう。
理解に苦しむのはナブラチロワをなぜここで著者が持ちだしたかということで「その後のモデルが噂を介して模索される」とはどういうことなのかまるで理解に苦しむ。
ナブラチロワの同性愛の恋人は別れたあと裁判を起こしたり暴露本Love Match: Nelson Vs. Navratilova を出していることは周知の事実であり、そうしたことをまったく書かないのは同性愛を常に抑圧され隠蔽されるものとして美化して位置づける意図があるとしか考えられない。
つまり同性愛にも異性愛同様怨恨のどろどろとした部分があるのにそうしたことを著者のほうこそ隠蔽して同性愛全体を論じているのである。
トリン・T.ミン・ハなる人物との対談なども載せられているが自分の撮った映画について小難しい理屈を並べているのに違和感を覚える。
トリン・T.ミン・ハはいろいろと検索してみても国内でも海外でもそれほど評価されているように思えず、大学教授などにもなってはいないようだ。
付録のチームKによる著者の看護、最期の状況報告?はいかにも美談のようだが「和子さんの周りに介護のできる親族のなかったことがチームの結束力を強めた」とまるで家族がいないことがよかったかのように書いているのにはあきれ果ててものも言えない。
このような中途半端な看護日誌は著作物としては別のものにすべきであり、そもそも公開すべきことでもないだろう。
自分たちの名声のために奉仕したかのようであまりにも利己的で恩着せがましい。一人いると書かれた叔母の面倒はでは誰がみるのか?
フェミニストだと言っても結局家族がいなければ他人に死んだ後まで利用される。異性愛で家族を持つことに超えるものをフェミニストは産み出せないということを本書全体で証明してしまった。
著者の名前を冠した奨学金だのなんだのあまりにも騒ぎすぎである。あとがきの中には著者が喫煙していたこともほのめかされているが病名もはっきりとは書かれていない。
健康管理ができずに命をちぢめるのはおろかなことであり、痴愚神礼賛もほどほどにすべきである。
ゲイ・アイコンで検索すればゲイをとりあげたTVシリーズや映画は続々と出てくるので著者が主張するようにゲイがハリウッド映画で隠蔽されたというのはおかしい。
同性愛は隠蔽されている、抑圧されているという前提のもとに作り上げられた著者の名声もまやかしである。
死後2冊の独立した論考が出版されたということも著者の年代としては決して多くの業績があったわけではないことを示すもので平凡な学者を祭り上げる取り巻きの工作には閉口させられる。
学者と言うのは所詮他人を神格化して自分の地位や名声に利用するものであるが、自分の知己を無理やりたいした知性に仕立て上げて騒ぎ立てるのはあまりにも見苦しい。
数々の賞に輝いた著作を出した黒岩比沙子の友人たちも終末期にはいろいろと尽力したようで彼女のブログも死後も継続されているが、協力者の名前もほとんど表には出てきたりはせず、ひっそりと故人を偲ぶ努力が続けられている。
短めのあとがきなどを書いて「業績」にしようとしている学者の薬にしてもらいたいものである。
2013年2月19日に日本でレビュー済み
図書新聞2013年2月9日号における池田雄一氏の談話の中でも指摘されていたように、『マルホランド・ドライヴ』論がことのほか素晴らしい。