著者の遠藤周作批判の内容にのみ関心があって読んだが
浮かびあがったのはかつて遠藤に世話になりながら
恩を仇で返すような非礼極まりない言葉の端々に現れる
人間性と、本質からまったく外れたところでの独りよがりの
批判と自己顕示、字面と合理性のみへの妄信と宗教的不感症
のみであった。さらに邪推するならばあえて大衆作家の遠藤
を標的にしたところに著者自身が批判する商業的な臭いを
感じぜずにはいられなかった。それくらい内容が薄い。
私自身、遠藤が『イエスの生涯』等で根拠としてあげている
学者や学説の質に疑心があったからこの本を手に取った訳だが
著者が遠藤を不当に矮小化するのみでその本質をまったく理解
できていないためにその批判も的外れで瑣末な議論に終始して
しまっている。もう少し高いレベルでの遠藤批判を期待して
いたのだがまったくの期待外れに終わった。
作家の人物、才能、感性にこれほどまでに差があるのかという
ことを知るには良いサンプルなのでとにかく一読をおすすめしたい。
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宗教批判をめぐる 改訂増補版: 宗教とは何か上 (Modern Classics新書 1) 新書 – 2006/5/1
田川 建三
(著)
- 本の長さ318ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2006/5/1
- ISBN-104862480292
- ISBN-13978-4862480293
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2006/5/1)
- 発売日 : 2006/5/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 318ページ
- ISBN-10 : 4862480292
- ISBN-13 : 978-4862480293
- Amazon 売れ筋ランキング: - 315,118位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 176位神学 (本)
- - 451位キリスト教入門
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年7月6日に日本でレビュー済み
著者自身による懇切丁寧な解説があるので、レビューする必要はありませんが、(主宰誌散逸の為か)著作集出版が絶望的な孤高の思想家・田川建三を読み解きたい方にとっては、(表向きは)空白の'80年代と、著者の原点を再確認することが可能な書でしょう。「批判的主体の形成」(1971),「思想的行動への接近」(1972)で提示された、宗教的なるものを必要とする現代社会批判から、思想の軸足のブレはまったくありません。ただし、今回の再刊にあたり、註記として様々な説明を入れざるを得なかった現在の著者の心境の複雑さがしのばれます。(当時の読者には俎上にのぼす人物・著作については、まったく説明を要しなかったこと自体も驚きですが)
「第一部一.人は何のために生きるか」は、著者のアフリカ体験を踏まえて読むべきでしょう。(初出が逆になりますが)「イエスという男」、「書物としての新約聖書」で示された帝国支配と支配言語、それらとの原始キリスト教の関係の精緻な分析へとつながります。「第一部二,三」は帯の惹句どおりの内容。「第二部」は、サブタイトル「翻訳に現れた思想の問題」そのものずばりの評論集です。これも、「書物としての新約聖書」に結実します。「第二部一」は、共同訳への論評、「第二部二」は、宗教家が持つ「書いてあることを読まず、書いてないことを読み取ろうとする」心性への皮肉交じりの評論、「第二部三」は、E.ブロッホ(と翻訳の)批判。
「第三部一」は、著者が日本のキリスト教作家の中で、唯一人評価していた故・遠藤周作氏に対する本格的な批評です。「附論-論争以前のこと」は、完全に勝負ありの感がありますが、著者がいうところの「タイプライターなみの速筆」で鳴らした論敵氏も、お弟子さんを総動員すれば、ブルドーザー並みの仕事が達成可能なのを既に立証されておいでです。奇麗事では決して済まされない「業界」に、肌が粟立ちました。
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