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六〇年安保: センチメンタル・ジャーニー (Modern Classics新書 17) 新書 – 2007/6/1
西部 邁
(著)
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- 本の長さ254ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2007/6/1
- ISBN-104862481493
- ISBN-13978-4862481498
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2007/6/1)
- 発売日 : 2007/6/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 254ページ
- ISBN-10 : 4862481493
- ISBN-13 : 978-4862481498
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,356,323位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年4月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
若さのばか騒ぎだった何のためにやつていたんだ西部すすむさん。
2008年5月25日に日本でレビュー済み
あなたは知っていましたか?日本保守論壇の雄、西部邁センセイが学生時代、東大の左翼の一番エライ人だったことを。
著者の所属していたブント(共産主義者同盟)に関わっていた人々をオムニバス風に描き出した回想録。
元の本はバブルの始まる1986年、文藝春秋から出ている。
「革命という魔語がまったくの空語にすぎないことを知るために、知らせるために、ブントがあったと認識するのは、苦痛でないはずはなかった。」(本文より)。
この青春時代の”空虚な祭典”の体験が、彼独特の屈折した物言いの原点になっているのだった。
青春を痛罵する思想もまた、青春無しには生まれ得ないのかもしれない。
さよなら〜僕の〜ともだち〜♪
著者の所属していたブント(共産主義者同盟)に関わっていた人々をオムニバス風に描き出した回想録。
元の本はバブルの始まる1986年、文藝春秋から出ている。
「革命という魔語がまったくの空語にすぎないことを知るために、知らせるために、ブントがあったと認識するのは、苦痛でないはずはなかった。」(本文より)。
この青春時代の”空虚な祭典”の体験が、彼独特の屈折した物言いの原点になっているのだった。
青春を痛罵する思想もまた、青春無しには生まれ得ないのかもしれない。
さよなら〜僕の〜ともだち〜♪
2010年12月29日に日本でレビュー済み
60年安保当時のブント指導者の一人であった西部が,自分自身の経験や,唐牛健太郎らブントの面々について書いたもの。
輝ける委員長であった唐牛とは,死の時まで親交があった。安保後,唐牛は,田中清玄の事務所に出入りしたり,土方や漁師をしたりという生活をしていた。なぜ唐牛がそのような生活をせざるを得なかったのか,他方,西部自身はそういう生活に落ち込まずに済んだのか。それは,唐牛が芸者の子で,暖かい家庭に縁薄かったことも影響しているのではなかろうか……という西部の推測が,正しいか間違っているのかは分からない。が,本書は,唐牛ら当時のブント指導者像を陰翳豊かなものにしてくれるものであることは間違いない。
《ブントという得体の知れぬホブゴブリンにたいし自分をサクリファイスとして供するという儀式において,人後に落ちぬ頑張をしたという自信が私にはあった。》(198頁)というような奇っ怪な文章で綴られた本書であるが,「センチメンタル・ジャーニー」というような,読んでいるこっちが恥ずかしくなるようなタイトルを付けなければ「あの時代」を語れなかった西部の恥じらいも,分からないではない。
全共闘世代に比して,最近語られることの少なくなった「あの時代」の貴重な証言の一つである。
輝ける委員長であった唐牛とは,死の時まで親交があった。安保後,唐牛は,田中清玄の事務所に出入りしたり,土方や漁師をしたりという生活をしていた。なぜ唐牛がそのような生活をせざるを得なかったのか,他方,西部自身はそういう生活に落ち込まずに済んだのか。それは,唐牛が芸者の子で,暖かい家庭に縁薄かったことも影響しているのではなかろうか……という西部の推測が,正しいか間違っているのかは分からない。が,本書は,唐牛ら当時のブント指導者像を陰翳豊かなものにしてくれるものであることは間違いない。
《ブントという得体の知れぬホブゴブリンにたいし自分をサクリファイスとして供するという儀式において,人後に落ちぬ頑張をしたという自信が私にはあった。》(198頁)というような奇っ怪な文章で綴られた本書であるが,「センチメンタル・ジャーニー」というような,読んでいるこっちが恥ずかしくなるようなタイトルを付けなければ「あの時代」を語れなかった西部の恥じらいも,分からないではない。
全共闘世代に比して,最近語られることの少なくなった「あの時代」の貴重な証言の一つである。
2016年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本の(そして東アジアの)ニューレフトの魁としてのブンドが世界的にも異例だったのは、学生運動のヘゲモニーを掌握するスピードの速さであることは多くの識者の指摘するところだ。後年の全共闘運動のひな形といえる60年安保時の全学連を当事者から回想するこの本が出版されてから四半世紀が経った現在からすると、この本が元々は文春の「諸君!」に連載されたものであったことに驚きを感じざるをえないのだが、あの雑誌もまた《ある時期まではマトモだった》という説はあながち間違ってはいないのかもしれない。小嵐九八郎の「蜂起には至らず」はこの本を踏まえた上で書かれたのだろうか、とかロウ・イエの「天安門・恋人たち」はこれに比べると青臭い(暴論)、とかいったことを、この本をあくまで歴史書として読む者の気楽さで感じることもある一方、例えば安田浩一の「ネットと愛国」あたりが、竹中労云う処の《理会》し損ねている部分に触れているとも感じた。在特会の最もやっかいな部分(病理)は一見新手の極右に見えてその実メンタリティは新左翼のソレである、ということはスガ秀美あたりが指摘していることだが、この本で語られる西部のブンド体験を読むと、その心理がいかなるものなのかが腑に落ちるのである。大江健三郎が「遅れてきた青年」で描いた《金日成に憧れる軍国少年》は決して珍奇な思いつきでは無かった、ということがよく判った。新左翼を経由したファシズム再評価と地方での実践活動という点で、長崎浩は外山恒一の先輩だったのだということも始めて知った。まさに《戦後》の申し子たちの記録である。
2007年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
60年安保当時東大教養学部自治会委員長だった西部による、当時のブントの活動家たちの評伝。いわゆる「ブント」が書きそうな革命家列伝じゃないのが、本書のいいところだ。右翼田中清玄による全学連への資金供与事件などは、青木昌彦が典型のようにブントの中では「なかったこと」になっている。本書の中で西部はそれが事実であること、また東大の自治会選挙でも自分が不正を行なっていたことを正直に語りながら、しかも皮相的にではなく、唐牛、長崎、森田実といった当時の活動家たちの群像を描いていく。西部、というのはエエカゲンナヤツだと思っていたが、少なくともこの本では、とても誠実だと思う。ブントの活動家のその後の人生によりそいつつ、高度成長という「明るい時代」のなかでブントの経験を行き直そう(引きずろう)とする真面目な元活動家の肖像を描き出しているのだ。革命か、挫折か、といった、短絡的な人間観はここにはない。60年ブントを語る上でかかせない一書といえるだろう。
2010年10月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
西部邁氏の60年安保についての極めて個人的な回想がこの本の内容です。
私は当時彼より1年年上の東大工学部の学生でした。彼らのいわゆるノンポリ
学生の1人でしたが、アメリカの属国にはなりたくない、当時の首相岸信介の
ファシスト的政権は何としてでも退陣してもらわなければならない、という思い
から、1960年6月15日に国会に突入しました。樺美智子さんの死によって、
岸氏の退陣は実現しましたが、安保改定は成立し、その後50年にわたって、
政治家がアメリカに懐きよる状態が続いていることは、政権交代したあとにも、
菅総理や前原外務大臣が、オバマやヒラリークリントンに甘えかけている様子を
テレビで見ていても解ることです。
さて、本論の西部評を申し上げます。彼が、如何に勉強をしないまま、当時の
ブント(日本共産党に対抗して、マルクス主義の原点に戻ろうとする学生の
思想集団・・と言われています。)の手先として、いい加減なアジテーションを
やっていたかが、彼自身の言葉で告白されています。
私自身、東大の駒場キャンパスで、西部邁と書いた看板を前にして、彼が演説を
しているのをチラッと聞いて、無茶苦茶を言っているなと感じて、以後は全学連
を無視することにしました。私は工学部に進学しましたが、駒場には教養コース
というのがあって、社会思想史の単位をとるとマルクスが何を意図したか薄々は
解っていたからです。
1960年に国会を取り巻いたのは、全学連に扇動されてやったのではありません。
だって、あの日は10万人以上の東京都民が集まったのですから。
最後にこの本を読んだ人に申し上げたいこと。60年安保は著者のいうような
センティメンタルな一時の情動にかられた現実をわきまえない行動であったとは、
思わないで頂きたいということです。50年後も日米安保は日本国民の社会的にも
経済的にも重い負担となって残っています。普天間基地の問題や、米軍に対する
思いやり予算のことを考えるとお分かりになると思います。グローバル化による
米国の相対的な地位の低下に伴い、日米安保もやがて見直されることになるのでしょう。
50年前の私の行動と現在の世の中での私の見方をくらべてみても、私の考えが
根本的に変わったとは思われません。ただ、歴史を考えるには50年、100年、
のスパンが必要であり、それには真実を後代へ後代へと伝える不断の努力が必要
だと考えます。
なお、西部邁氏のご著書自体は、ご自分の自分史として、大変興味深く読ませて
頂きました。「任侠の徒、ここにあり」。
私は当時彼より1年年上の東大工学部の学生でした。彼らのいわゆるノンポリ
学生の1人でしたが、アメリカの属国にはなりたくない、当時の首相岸信介の
ファシスト的政権は何としてでも退陣してもらわなければならない、という思い
から、1960年6月15日に国会に突入しました。樺美智子さんの死によって、
岸氏の退陣は実現しましたが、安保改定は成立し、その後50年にわたって、
政治家がアメリカに懐きよる状態が続いていることは、政権交代したあとにも、
菅総理や前原外務大臣が、オバマやヒラリークリントンに甘えかけている様子を
テレビで見ていても解ることです。
さて、本論の西部評を申し上げます。彼が、如何に勉強をしないまま、当時の
ブント(日本共産党に対抗して、マルクス主義の原点に戻ろうとする学生の
思想集団・・と言われています。)の手先として、いい加減なアジテーションを
やっていたかが、彼自身の言葉で告白されています。
私自身、東大の駒場キャンパスで、西部邁と書いた看板を前にして、彼が演説を
しているのをチラッと聞いて、無茶苦茶を言っているなと感じて、以後は全学連
を無視することにしました。私は工学部に進学しましたが、駒場には教養コース
というのがあって、社会思想史の単位をとるとマルクスが何を意図したか薄々は
解っていたからです。
1960年に国会を取り巻いたのは、全学連に扇動されてやったのではありません。
だって、あの日は10万人以上の東京都民が集まったのですから。
最後にこの本を読んだ人に申し上げたいこと。60年安保は著者のいうような
センティメンタルな一時の情動にかられた現実をわきまえない行動であったとは、
思わないで頂きたいということです。50年後も日米安保は日本国民の社会的にも
経済的にも重い負担となって残っています。普天間基地の問題や、米軍に対する
思いやり予算のことを考えるとお分かりになると思います。グローバル化による
米国の相対的な地位の低下に伴い、日米安保もやがて見直されることになるのでしょう。
50年前の私の行動と現在の世の中での私の見方をくらべてみても、私の考えが
根本的に変わったとは思われません。ただ、歴史を考えるには50年、100年、
のスパンが必要であり、それには真実を後代へ後代へと伝える不断の努力が必要
だと考えます。
なお、西部邁氏のご著書自体は、ご自分の自分史として、大変興味深く読ませて
頂きました。「任侠の徒、ここにあり」。
2011年12月31日に日本でレビュー済み
実に素晴らしい内省的ドキュメンタリーで面白すぎる。
どんな小説家もかなわない「文学」と言えるだろう。
哲学史がドラマであるように彼の思想の遍歴はドラマだ。
しかし彼は皮相な、とばかりは言えないかもしれないのだが、反アメリカニズムの方へ傾く心情を隠さない。
彼は保守主義を持ち上げているが、その保守する(べき)内実は「想像の共同体」としての「近代日本国民」では
ないのかと、思われてならない。
この本は60年安保「闘争」そのものをを取り上げている訳ではない。
彼はその後は日米安保「容認」になり今は日本の核保有まで考えていると思われる。
その「遍歴」の軌跡が知りたい。
今の「アラブ・イスラムの春」を見てみると、60年安保があれだけの大規模な違法行為(国会突入!)を伴いながら一発の銃弾も放たれず、死者も一人だけであった事の「特異さ」に誰か気づくべきだ。
戦前も実は「特異」だった。清水幾太郎が書いていたが、治安維持法でも朝鮮での3.1事件でさえ死刑の判決はなかったそうだ。
警察取り調べ段階での拷問やそれによる虐待死はあったとしても。
少なくも、司法の独立があり、裁判を政治的な見せしめにするような事はなかった、ということだ。
それさえ無いのがかってのソ連であり今の中国だ。
どんな小説家もかなわない「文学」と言えるだろう。
哲学史がドラマであるように彼の思想の遍歴はドラマだ。
しかし彼は皮相な、とばかりは言えないかもしれないのだが、反アメリカニズムの方へ傾く心情を隠さない。
彼は保守主義を持ち上げているが、その保守する(べき)内実は「想像の共同体」としての「近代日本国民」では
ないのかと、思われてならない。
この本は60年安保「闘争」そのものをを取り上げている訳ではない。
彼はその後は日米安保「容認」になり今は日本の核保有まで考えていると思われる。
その「遍歴」の軌跡が知りたい。
今の「アラブ・イスラムの春」を見てみると、60年安保があれだけの大規模な違法行為(国会突入!)を伴いながら一発の銃弾も放たれず、死者も一人だけであった事の「特異さ」に誰か気づくべきだ。
戦前も実は「特異」だった。清水幾太郎が書いていたが、治安維持法でも朝鮮での3.1事件でさえ死刑の判決はなかったそうだ。
警察取り調べ段階での拷問やそれによる虐待死はあったとしても。
少なくも、司法の独立があり、裁判を政治的な見せしめにするような事はなかった、ということだ。
それさえ無いのがかってのソ連であり今の中国だ。