ここの書評で小谷野敦さんが、「にわか勉強の古典をハイデッガーで味つけしてみましたという作品。研究者はこんなもの読むべきでない」とありますが、事実その通りの著作で誤りも多いのでしょうけれど、「学者・研究者」が書いた「科学的・注釈引用羅列的」著作では、若者の生きる糧や浪漫にはならんでしょう。
これを書いているレビュワーの青春を決定付けた一冊。著者福田和也氏の若き不遇時の、渾身の作品。
友なき人に友を与え、元気がないときに元気を与え、リキんでいる人間には力を抜くよう諭してくれるような一冊。福田和也はこれ一冊読むだけで良い。
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日本の家郷 (洋泉社MC新書) 新書 – 2009/1/7
福田 和也
(著)
ナチスに加担したフランスの対独協力作家たちの研究で鮮烈なデビューを果たした著者が、
同様の問題意識をもって「日本」を論じた、初の文芸評論集。
著者は、彷徨の果てに幻影としての日本を見た倭建命、「くらい」小説を書き続けた徳田秋声、き穴の向こうに彼方を見出した永井荷風らの彷徨に家郷を見る。「みやび」を「離宮」に囲ってしまった後水尾院と、荻生徂徠、本居宣長に対し、連鎖、生成、流離としての「日本」を再興するための新しい国学を求める。西欧と対峙して絶望した横光利一、「何処でもない場所」への情熱につかれたモダニストとしての保田與重郎、そしてモダニズムの帰結としての日本を追求した萩原朔太郎らの凝視した、「虚妄としての日本」を見据える。「批評は一個の独立した作品である」と宣言する著者の真骨頂が表れた珠玉の名著。
同様の問題意識をもって「日本」を論じた、初の文芸評論集。
著者は、彷徨の果てに幻影としての日本を見た倭建命、「くらい」小説を書き続けた徳田秋声、き穴の向こうに彼方を見出した永井荷風らの彷徨に家郷を見る。「みやび」を「離宮」に囲ってしまった後水尾院と、荻生徂徠、本居宣長に対し、連鎖、生成、流離としての「日本」を再興するための新しい国学を求める。西欧と対峙して絶望した横光利一、「何処でもない場所」への情熱につかれたモダニストとしての保田與重郎、そしてモダニズムの帰結としての日本を追求した萩原朔太郎らの凝視した、「虚妄としての日本」を見据える。「批評は一個の独立した作品である」と宣言する著者の真骨頂が表れた珠玉の名著。
- 本の長さ184ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2009/1/7
- ISBN-104862483291
- ISBN-13978-4862483294
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商品の説明
著者について
1960年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。
慶應義塾大学環境情報学部教授。文芸評論家。おもな著書に『奇妙な廃墟』(国書刊行会、ちくま学芸文庫) 『甘美な人生』(新潮社、ちくま学芸文庫、平林たい子文学賞受賞)『日本人の目玉』(新潮社、ちくま学芸文庫) 『作家の値うち』(飛鳥新社)『地ひらく』(文春文庫、山本七平賞受賞)『乃木希典』『山下奉文』(文春文庫)
『悪女の美食術』(講談社、講談社エッセイ賞受賞)『昭和天皇』(文藝春秋)などがある。
慶應義塾大学環境情報学部教授。文芸評論家。おもな著書に『奇妙な廃墟』(国書刊行会、ちくま学芸文庫) 『甘美な人生』(新潮社、ちくま学芸文庫、平林たい子文学賞受賞)『日本人の目玉』(新潮社、ちくま学芸文庫) 『作家の値うち』(飛鳥新社)『地ひらく』(文春文庫、山本七平賞受賞)『乃木希典』『山下奉文』(文春文庫)
『悪女の美食術』(講談社、講談社エッセイ賞受賞)『昭和天皇』(文藝春秋)などがある。
登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2009/1/7)
- 発売日 : 2009/1/7
- 言語 : 日本語
- 新書 : 184ページ
- ISBN-10 : 4862483291
- ISBN-13 : 978-4862483294
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,079,592位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1960(昭和35)年東京生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学環境情報学部教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。1993年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、2002年『地ひらく』で山本七平賞受賞。著書に『日本の近代(上・下)』『昭和天皇』など多数。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年2月16日に日本でレビュー済み
ああ汝 寂寥の人/悲しき落日の坂を上りて/意志なき断崖を漂泊ひ行けど/いづこに家郷はあらざるべし。/汝の家郷は有らざるべし!(萩原朔太郎「漂泊者の歌」『氷島』)
彷徨者の様式としての近代小説、その一例を挙げれば、永井荷風の徘徊によって、東京は互いにコスモロジィを内包した、彷徨者の家郷として建設された。その作品は今日もなお、禍々しく朱色に塗られた鳥居として、日本を睥睨している。
かつて日本人は、満州の野に、南の島に鳥居を建てた。その後も焦土に鳥居を建て、今も建て続けている。ここを立ち去って、彼方に往き、死んでも歩みを止めない我々は、「ミコト」であり、「マレビト」なのである。(折口信夫はミコトという言葉の原形を、ミコトモチという語と想定。御言、貴い言葉を取り次ぎ、伝達する意)人がさまざまな鳥居を建てるように、妄想は国土を生み出していく。不毛な徘徊を続けることが、家郷の建設であり、文人の暮らしであり、国学の学びであると、著者一流の警句めいた言葉で本章を結ぶ。
彷徨者の様式としての近代小説、その一例を挙げれば、永井荷風の徘徊によって、東京は互いにコスモロジィを内包した、彷徨者の家郷として建設された。その作品は今日もなお、禍々しく朱色に塗られた鳥居として、日本を睥睨している。
かつて日本人は、満州の野に、南の島に鳥居を建てた。その後も焦土に鳥居を建て、今も建て続けている。ここを立ち去って、彼方に往き、死んでも歩みを止めない我々は、「ミコト」であり、「マレビト」なのである。(折口信夫はミコトという言葉の原形を、ミコトモチという語と想定。御言、貴い言葉を取り次ぎ、伝達する意)人がさまざまな鳥居を建てるように、妄想は国土を生み出していく。不毛な徘徊を続けることが、家郷の建設であり、文人の暮らしであり、国学の学びであると、著者一流の警句めいた言葉で本章を結ぶ。
2008年11月5日に日本でレビュー済み
批評もまた作品であると公言してはばからない著者の初期の評論である。
タイトル通り、著者は日本の家郷とは何かについて提示しようと試みている。
彼が提示した日本の家郷に読者が共感するかはさておき、この本は「作品としての批評」として素晴らしい。つまり内容いかんにかかわらず、読み物として、味わい深い名文の連なりとして、批評もまた作品であるという自身の言葉を履行している。
タイトル通り、著者は日本の家郷とは何かについて提示しようと試みている。
彼が提示した日本の家郷に読者が共感するかはさておき、この本は「作品としての批評」として素晴らしい。つまり内容いかんにかかわらず、読み物として、味わい深い名文の連なりとして、批評もまた作品であるという自身の言葉を履行している。
2009年4月4日に日本でレビュー済み
「虚妄としての日本」のラスト数ページの加速感が素晴らしい。
批評として分析の精度をかなぐり捨てることによって作品としての強度を獲得している。
山城つぐみ氏は「“日本”の導入が右翼だからダメということではなく、そこに論理が飛躍する点で知的に不徹底である。」というが、当然、日本という概念は、"知的"に処理すべきではなく、また不可能である。
ファシズムとサンボリズムを同様のロマン主義の落伍者たちが行った同根の精神運動と定義し問いを発し続ける福田和也の姿勢は、凡百の保守論客のはるか遠くにある。
個人的には後年の著書「イデオロギーズ」の初めの章「テクノロジー」と重ねて読むことで非常に腑に落ちた。
批評として分析の精度をかなぐり捨てることによって作品としての強度を獲得している。
山城つぐみ氏は「“日本”の導入が右翼だからダメということではなく、そこに論理が飛躍する点で知的に不徹底である。」というが、当然、日本という概念は、"知的"に処理すべきではなく、また不可能である。
ファシズムとサンボリズムを同様のロマン主義の落伍者たちが行った同根の精神運動と定義し問いを発し続ける福田和也の姿勢は、凡百の保守論客のはるか遠くにある。
個人的には後年の著書「イデオロギーズ」の初めの章「テクノロジー」と重ねて読むことで非常に腑に落ちた。
2004年3月15日に日本でレビュー済み
私はついこの本を売ってしまったのですが、今それを後悔しています。とにかく国土としての日本という感じだっただろうとは思います。内容も少なからず忘れてしまったのですが、たしか、ヤシロシロチドリという古事記に出てくる神の鳥がどこまでも飛翔し続け、その追跡を「打ち切っている」と紹介されていて、それがまるで現代のハリウッド映画でヘリコプターが去っていくような感があって手に汗にぎりました。
また彷徨った神が「倭の国はナントかのまほろば」と、たどり着いた国土でつぶやくのが、息づいている子のような神話で素敵でした。うまく言えませんが何というか、うーん、死んだと思ったところでもう一度生まれ直している、という感じでしょうか。
あとは、もうよく思い出せないのですが、現代の日本人が「この山の深さ測るべからず」とされた山々にトンネルや高速道路を造り、禁忌を超えるどころか、「グラスファイヴァ―の鳥居」までも造り出すということが書かれていて、そのことは私が思うに、「あぁ、古代の日本は日本人としての自覚のない、彷徨者としての日本人であるとしても、生き続け、この国土と共に思惟は増殖し、生成し続けるんだなぁ」と思いました。
何でこの本を売ってしまったのだろう、と悔やまれる一冊です。もっといろんなことを思い出したいのに覚えてない(笑)。
また彷徨った神が「倭の国はナントかのまほろば」と、たどり着いた国土でつぶやくのが、息づいている子のような神話で素敵でした。うまく言えませんが何というか、うーん、死んだと思ったところでもう一度生まれ直している、という感じでしょうか。
あとは、もうよく思い出せないのですが、現代の日本人が「この山の深さ測るべからず」とされた山々にトンネルや高速道路を造り、禁忌を超えるどころか、「グラスファイヴァ―の鳥居」までも造り出すということが書かれていて、そのことは私が思うに、「あぁ、古代の日本は日本人としての自覚のない、彷徨者としての日本人であるとしても、生き続け、この国土と共に思惟は増殖し、生成し続けるんだなぁ」と思いました。
何でこの本を売ってしまったのだろう、と悔やまれる一冊です。もっといろんなことを思い出したいのに覚えてない(笑)。