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学力とは何か (新書y) 新書 – 2008/12/6
諏訪 哲二
(著)
学力低下は実は学力の問題ではない。
学力低下は「ゆとり教育」のせいではなく、子ども・若者の生きる姿勢や社会とのつながりの変化から発生したことを直視せよ!
学力低下は「ゆとり教育」のせいではなく、子ども・若者の生きる姿勢や社会とのつながりの変化から発生したことを直視せよ!
- 本の長さ190ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2008/12/6
- ISBN-104862483372
- ISBN-13978-4862483379
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2008/12/6)
- 発売日 : 2008/12/6
- 言語 : 日本語
- 新書 : 190ページ
- ISBN-10 : 4862483372
- ISBN-13 : 978-4862483379
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,143,267位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年2月28日に日本でレビュー済み
ベストセラーの教育書にはない新たな視点に目が覚める思いがした。和田秀樹も受験で点数をとるための本ばかり書いているわけではなく,大人の人生を豊かにするための本や会社や地域社会の中で生きていくための実用本なども出しており,小林公夫も受験で点数をとることだけを全てとは思っていない。2000年代のゆとり教育で進められた生活力を高めるための時間や自分で課題を設定し調査する力を高める「総合的な時間」がうまく機能しなかった反動で,受験に勝てる学力を身に付けることを優先する風潮が強まったように感じる。中学校の現場で勤務していると,テストで点数はとれるが,生活的な能力は全くだめで,忘れ物を平気で繰り返したり,学校の公共物を紛失したりするなど,テストで点数をとれればあとはどうでもよいという偏った考えの生徒に出会うことがある。難関大学に入れるかもしれないが,一般常識や社会性に欠けているので,大学を卒業した後に社会人として失敗するのではないかと思ってしまう。IQだけではなくIQとEQ(生活能力指数)をバランス良く育てていくことが大切だということをこの本は考えさせてくれる。
2009年11月28日に日本でレビュー済み
興味深いタイトルだったため、買って読んでみたが、個人的には
読みにくい印象を受けた。また、全体を通してとげがある本で
あるようにも感じた。
その理由としては、本書を通して、筆者の主張は強く、はっきりし
たものが主として批判的に打ち出されるのだが、しかし、その代替案
や、著者ご自身が実際にどのような教育実践をなさってきたかについて
の記述はほとんどなされていない。批判をするのはいいのだが、
それならば、筆者ご自身ならばどうするのか(またどうされてきたのか)
を具体的に記述していただきたかったという印象がまずある。
それは、齊藤孝氏、渡部昇一氏、陰山英男氏といった、教育界、言語学界
の大物たちへの批判にも当てはまる。本書では、こういった方々に所々で
批判をしている記述があるが、そのほとんどは批判のみで終わっており、
建設的な代替案や、あるいはご自身の長い教育経験における実践例が
書かれていないため、とげとげしい印象ばかりが残ってしまう。
また、読み進めていくと、私自身は筆者の教育観とは異なる教育観を持っている
ことに気づくのだが、筆者の教育観を挙げるだけではなく、なぜその教育観
が正しいと考えるのか、その根拠も論理的に示されないと、納得いかないまま
読み進めることになってしまう。
このような点で、読みにくい印象を受けた本であり、また読了後、筆者の
主張がぼやけてしまう印象を受けた。
読みにくい印象を受けた。また、全体を通してとげがある本で
あるようにも感じた。
その理由としては、本書を通して、筆者の主張は強く、はっきりし
たものが主として批判的に打ち出されるのだが、しかし、その代替案
や、著者ご自身が実際にどのような教育実践をなさってきたかについて
の記述はほとんどなされていない。批判をするのはいいのだが、
それならば、筆者ご自身ならばどうするのか(またどうされてきたのか)
を具体的に記述していただきたかったという印象がまずある。
それは、齊藤孝氏、渡部昇一氏、陰山英男氏といった、教育界、言語学界
の大物たちへの批判にも当てはまる。本書では、こういった方々に所々で
批判をしている記述があるが、そのほとんどは批判のみで終わっており、
建設的な代替案や、あるいはご自身の長い教育経験における実践例が
書かれていないため、とげとげしい印象ばかりが残ってしまう。
また、読み進めていくと、私自身は筆者の教育観とは異なる教育観を持っている
ことに気づくのだが、筆者の教育観を挙げるだけではなく、なぜその教育観
が正しいと考えるのか、その根拠も論理的に示されないと、納得いかないまま
読み進めることになってしまう。
このような点で、読みにくい印象を受けた本であり、また読了後、筆者の
主張がぼやけてしまう印象を受けた。
2012年1月10日に日本でレビュー済み
第1章 学力とは何か
第2章 学力低下の原因は何か
第3章 学力はどう論じられてきたか
第4章 学ぶことはひとの本能ではない
第5章 学校教育はそもそもなぜ必要なのか
第6章 高校教師はなぜ成績だけで合否判定をしたがるのか
第7章 教育におけるグローバルスタンダードを受容してはならない
第8章 学校だけで子どもたちの学力の責任を負うべきなのか――東京・杉並区和田中「夜スペ」問題をめぐって
第9章 学力イコール受験力は,なぜいかがわしいのか――カリスマ教師・陰山英男『本当の学力をつける本』をめぐって
第10章 得をするから勉強するって本当なのか――受験研究家・和田秀樹『学力崩壊』をめぐって
最終章 学力低下は「ゆとり教育」の結果ではない
著者は1941年(千葉県)生まれ。定時制高校卒業(60年)。東京教育大学(文学部,(現)筑波大学)卒業(64年)。高校教師(英語,1964-2001年)。日本教育大学院大学(客員教授)。「プロ教師の会」代表。埼玉県川越市在住。著書に『なぜ勉強させるのか』のほか,評者未読の『「平等主義」が学校を殺した』,『「管理教育」のすすめ』,『教師と生徒は“敵”である』,『オレ様化する子どもたち』など。本書は著者67歳の時の作品。
一般的かつ素朴に言えば,「効率的な学習」というのは得点伸張度/投入学習時間の値が大きいことをいうだろう。数値的な条件を設定して初めて“効率”という用語が妥当性と説得力を持つ。「カリスマ教師・陰山英男」氏が大々的に喧伝され,その「百マス計算」が注目されたのは,彼の小学校時代の教え子の2割が難関大学に進学したという事実による(ちなみに陰山氏のお嬢さんも東大に進学されたらしい)。ここでは大学進学者数が単位となっている。翻って本書では,学力をどう定義しているのだろうか? 結論は―――学力イコール「知識」はやむをえない(21頁)・・・。なぁんだ。著者は学力を二種類,すなわち「見える学力」=知識(量)と「見えない学力」=「構成力」に分ける(厳密には食い違う部分もあるらしいが)。後者の測定は難しいので,知識(量)が学力と同定されるのは暫定的妥協策だというのである。ここで素朴な疑問が浮かぶ。計測手段が明確でないにも拘らず,著者はなぜ各生徒に備わっている「構成力」の大小・多寡・優劣がわかるのだろうか?というものだ。
たしかにこれを感じることは誰にでもあるだろう。低偏差値大学卒業生でも見通しや配慮に優れ,業務予定の策定力や人的協力調整力に長けているために,社会人になってから上司の覚えがいい人材が稀にいる。しかし,これをどう測るのだろうか? もし計測可能なら,人事部はそれを10億円借金してでも購入するだろう。よい人材だけを雇用できるなら,10億ぐらいは確実に回収できる。
著者はこの計測困難な「構成力」の価値を高調する。知力増強を共通の狙いとする学校と塾が違うのは,学校だけがしつけや清掃などを生徒に課すことができる点である(「学校は『学習』(授業は入るが授業だけではない)と『生活』(単に授業以外の時間のことではない)とで構成されている」(67頁,第5章)。しかし,著者は別の箇所でこう述べている。「生来の能力の相違,家庭環境の相違を持って子供たちは育ってくる。学校にやってくるときには,顕在的な能力にしろ,潜在的な能力にしろ,もうほぼ決定されているだろう」,「子供を知的に構成するのは家庭であり,ことによると,子供が学校に来たときには,知的[潜在?]能力の差が確定しているかもしれないのである」(135‐6頁)。家庭で育つ(育成可能な)能力は,「知識」(量)なのだろうか?それとも「構成力」なのだろうか? この135‐6ページにわたる二ヶ所からの引用を素朴に一直線に載せて著者を理解しようとすれば,家庭の「文化資本」が育成できるのは知力のほうだと読める。しかし,私はそう考えない。家庭資本が育成するのは「構成力」であって,知力ではない。「構成力」が知識を渇望するのだ。普通の主婦に,小学校理科がどこまで教えられるだろうか?
PISA学力測定には日本教育の実情にそぐわない側面があるという著者の指摘は(第7章),私は現物を見たことがないのでもっともだと従う気分もあるが,他方で,日本経済は世界との連携を抜きに存続できない。頭の悪い東大卒(形容矛盾?)が率いる文科省は,「ゆとり」のあとに慌てて「小学校英語」を注入した。私はこんなのの代わりに,PISAに照準を合わせる教育があってもいいと思う。
勉強に実利を求める和田を批判しているが(第10章),実利は勉強を継続する誘引となっている事実も無視できまい。私は,学歴差別が嫌だというのが大学受験までの動機となった(もっとも現在,悲しいことに私は差別されているが)。
「学ぶことはひとの本能ではない」というのには個人的経験上同感できるし,「学力低下は「ゆとり教育」の結果ではない」(最終章)というのにも納得する。堅実な子供は堅実な保護者の堅実な躾によって生まれる。詰め込み教育の結果ではない。子供が不堅実なのは,親が不堅実なのだ。子供が企業を父親から継承して倒産させ,従業員を路頭に迷わせている。名経営者が優れた親であることは保障されていない。それは,子供が親である自分に敬意を抱かせる資質のない未熟な社会人の家計図上の帰結なのである。
(2191字)
第2章 学力低下の原因は何か
第3章 学力はどう論じられてきたか
第4章 学ぶことはひとの本能ではない
第5章 学校教育はそもそもなぜ必要なのか
第6章 高校教師はなぜ成績だけで合否判定をしたがるのか
第7章 教育におけるグローバルスタンダードを受容してはならない
第8章 学校だけで子どもたちの学力の責任を負うべきなのか――東京・杉並区和田中「夜スペ」問題をめぐって
第9章 学力イコール受験力は,なぜいかがわしいのか――カリスマ教師・陰山英男『本当の学力をつける本』をめぐって
第10章 得をするから勉強するって本当なのか――受験研究家・和田秀樹『学力崩壊』をめぐって
最終章 学力低下は「ゆとり教育」の結果ではない
著者は1941年(千葉県)生まれ。定時制高校卒業(60年)。東京教育大学(文学部,(現)筑波大学)卒業(64年)。高校教師(英語,1964-2001年)。日本教育大学院大学(客員教授)。「プロ教師の会」代表。埼玉県川越市在住。著書に『なぜ勉強させるのか』のほか,評者未読の『「平等主義」が学校を殺した』,『「管理教育」のすすめ』,『教師と生徒は“敵”である』,『オレ様化する子どもたち』など。本書は著者67歳の時の作品。
一般的かつ素朴に言えば,「効率的な学習」というのは得点伸張度/投入学習時間の値が大きいことをいうだろう。数値的な条件を設定して初めて“効率”という用語が妥当性と説得力を持つ。「カリスマ教師・陰山英男」氏が大々的に喧伝され,その「百マス計算」が注目されたのは,彼の小学校時代の教え子の2割が難関大学に進学したという事実による(ちなみに陰山氏のお嬢さんも東大に進学されたらしい)。ここでは大学進学者数が単位となっている。翻って本書では,学力をどう定義しているのだろうか? 結論は―――学力イコール「知識」はやむをえない(21頁)・・・。なぁんだ。著者は学力を二種類,すなわち「見える学力」=知識(量)と「見えない学力」=「構成力」に分ける(厳密には食い違う部分もあるらしいが)。後者の測定は難しいので,知識(量)が学力と同定されるのは暫定的妥協策だというのである。ここで素朴な疑問が浮かぶ。計測手段が明確でないにも拘らず,著者はなぜ各生徒に備わっている「構成力」の大小・多寡・優劣がわかるのだろうか?というものだ。
たしかにこれを感じることは誰にでもあるだろう。低偏差値大学卒業生でも見通しや配慮に優れ,業務予定の策定力や人的協力調整力に長けているために,社会人になってから上司の覚えがいい人材が稀にいる。しかし,これをどう測るのだろうか? もし計測可能なら,人事部はそれを10億円借金してでも購入するだろう。よい人材だけを雇用できるなら,10億ぐらいは確実に回収できる。
著者はこの計測困難な「構成力」の価値を高調する。知力増強を共通の狙いとする学校と塾が違うのは,学校だけがしつけや清掃などを生徒に課すことができる点である(「学校は『学習』(授業は入るが授業だけではない)と『生活』(単に授業以外の時間のことではない)とで構成されている」(67頁,第5章)。しかし,著者は別の箇所でこう述べている。「生来の能力の相違,家庭環境の相違を持って子供たちは育ってくる。学校にやってくるときには,顕在的な能力にしろ,潜在的な能力にしろ,もうほぼ決定されているだろう」,「子供を知的に構成するのは家庭であり,ことによると,子供が学校に来たときには,知的[潜在?]能力の差が確定しているかもしれないのである」(135‐6頁)。家庭で育つ(育成可能な)能力は,「知識」(量)なのだろうか?それとも「構成力」なのだろうか? この135‐6ページにわたる二ヶ所からの引用を素朴に一直線に載せて著者を理解しようとすれば,家庭の「文化資本」が育成できるのは知力のほうだと読める。しかし,私はそう考えない。家庭資本が育成するのは「構成力」であって,知力ではない。「構成力」が知識を渇望するのだ。普通の主婦に,小学校理科がどこまで教えられるだろうか?
PISA学力測定には日本教育の実情にそぐわない側面があるという著者の指摘は(第7章),私は現物を見たことがないのでもっともだと従う気分もあるが,他方で,日本経済は世界との連携を抜きに存続できない。頭の悪い東大卒(形容矛盾?)が率いる文科省は,「ゆとり」のあとに慌てて「小学校英語」を注入した。私はこんなのの代わりに,PISAに照準を合わせる教育があってもいいと思う。
勉強に実利を求める和田を批判しているが(第10章),実利は勉強を継続する誘引となっている事実も無視できまい。私は,学歴差別が嫌だというのが大学受験までの動機となった(もっとも現在,悲しいことに私は差別されているが)。
「学ぶことはひとの本能ではない」というのには個人的経験上同感できるし,「学力低下は「ゆとり教育」の結果ではない」(最終章)というのにも納得する。堅実な子供は堅実な保護者の堅実な躾によって生まれる。詰め込み教育の結果ではない。子供が不堅実なのは,親が不堅実なのだ。子供が企業を父親から継承して倒産させ,従業員を路頭に迷わせている。名経営者が優れた親であることは保障されていない。それは,子供が親である自分に敬意を抱かせる資質のない未熟な社会人の家計図上の帰結なのである。
(2191字)
2008年12月11日に日本でレビュー済み
学力を知識の量で測る立場と、知識を構成する能力を込みで測る立場とがあることを説き、学校(及び文部省)は、「国民」を育てることを使命としてきたため、伝統的に後者の立場をとってきた。実はゆとり教育も社会の全般的な学力低下に合わせたもので、国民教育という線上にあったのだ、という論点から、塾や予備校にない学校の機能を論じています。そこから、ゆとり教育論議が噛み合ない理由を説き、欧米追随の教育論への警鐘を鳴らしています。
新書判ということもあり、役に立つ勉強 = 大学受験 = 知識の量で勝負的な単純化が過ぎていると思いますし、文部省が「学習指導要領は最低限学習すべきミニマムラインなのだ」と明言したのは、ゆとり教育が愚民化政策だという批判が高まった後だったと記憶します。
必ずしも納得できない点もありますが、現場の声が聞こえてきます。また、教育・学力を巡る論議を交通整理するにはこの程度単純化した図式も有用でしょう。
新書判ということもあり、役に立つ勉強 = 大学受験 = 知識の量で勝負的な単純化が過ぎていると思いますし、文部省が「学習指導要領は最低限学習すべきミニマムラインなのだ」と明言したのは、ゆとり教育が愚民化政策だという批判が高まった後だったと記憶します。
必ずしも納得できない点もありますが、現場の声が聞こえてきます。また、教育・学力を巡る論議を交通整理するにはこの程度単純化した図式も有用でしょう。
2012年1月24日に日本でレビュー済み
本のタイトルを考えると、学力とは何かを考えるに留まり、
具体的にどうしていくかに本書は踏み込まないというスタンスかも
しれませんが、やはり具体的な解決策が欲しかったです。
他者の批判が多いように思われ、著者のビジョンが
伝わってきませんでした。
私は大学受験でノイローゼになった経験があるので、
今の学力重視の流れには賛成できませんが、
では別の手段を提案できるかというと、
正直思いつきません。
ただ、教育を論ずる上で、学歴が就職活動に見られるよう、
人性のキャリアパスになっている日本において、
テスト重視は不可避だと思います。いくら人間力が
大事だとか理想を述べたところで、日本社会という
レールに乗った以上、大きな流れからの脱線は勇気のいる事です。
社会構造の大変革が必要かと思います。
そういう現実も踏まえた上での、著者の意見が欲しかったです。
具体的にどうしていくかに本書は踏み込まないというスタンスかも
しれませんが、やはり具体的な解決策が欲しかったです。
他者の批判が多いように思われ、著者のビジョンが
伝わってきませんでした。
私は大学受験でノイローゼになった経験があるので、
今の学力重視の流れには賛成できませんが、
では別の手段を提案できるかというと、
正直思いつきません。
ただ、教育を論ずる上で、学歴が就職活動に見られるよう、
人性のキャリアパスになっている日本において、
テスト重視は不可避だと思います。いくら人間力が
大事だとか理想を述べたところで、日本社会という
レールに乗った以上、大きな流れからの脱線は勇気のいる事です。
社会構造の大変革が必要かと思います。
そういう現実も踏まえた上での、著者の意見が欲しかったです。