老境に入った岡井隆さんの歌に、非常に感銘を受けている。何回も読んでおります。今までの歌集に見られない歌の数々に、驚きを隠せません。
・ヨハン・セバスチャン・バッハの小川暮れゆきて水の響きの高まるころだ / この歌には、痺れました。
術後の安心感からか、読者へのサービスか?、次の歌にホッとした。 ・安堵して悦ぶ妻のくちびるを見上げてゐたり点滴うけつつ
・わたくしはしばしば母を批判した肉体を持つのが悲しくて
・戦ひの終わりが平和の初めでははなかった。今もそれは同じだ
・白い指が鍵盤の上を這っている。今日一日空は愚図つくだろう / 中村紘子はショパコンの審査員、
・真面目に弾くピアニスト、でも真面目には聞いてないぼくがわかる、悲しい / 岡井隆さんは、稀有な歌人です。長く生きて頂きたい。
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暮れてゆくバッハ (現代歌人シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2015/8/4
岡井 隆
(著)
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言の葉の上を這ひずり回るとも一語さへ蝶に化けぬ今宵は
この本は、一見すると、きはめて形而下的な契機によつて成立したやうに見える。しかし、詩歌といふのは、さういふ形而下的な動機を超えて動くものだ。
作者は、それまで長く続けて来たいくつかの仕事を辞めた。そのためもあつて、詩や歌をつくる悦びを覚えるやうになつた。どうやらその流れが、この本の底のところで、ささやかな響きを立ててゐるやうに作者は思つてゐるのだが、錯覚であらうか。
(著者あとがきより)
この本は、一見すると、きはめて形而下的な契機によつて成立したやうに見える。しかし、詩歌といふのは、さういふ形而下的な動機を超えて動くものだ。
作者は、それまで長く続けて来たいくつかの仕事を辞めた。そのためもあつて、詩や歌をつくる悦びを覚えるやうになつた。どうやらその流れが、この本の底のところで、ささやかな響きを立ててゐるやうに作者は思つてゐるのだが、錯覚であらうか。
(著者あとがきより)
- 本の長さ176ページ
- 言語日本語
- 出版社書肆侃侃房
- 発売日2015/8/4
- ISBN-104863851928
- ISBN-13978-4863851924
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商品の説明
著者について
1928年名古屋市生まれ。1945年17歳で短歌を始める。翌1946年「アララギ」入会。1951年現在編集・発行人をつとめる歌誌「未来」創刊に加はる。慶應義塾大学医学部卒。内科医。医学博士。83年歌集『禁忌と好色』により迢空賞受賞。2010年詩集『注解する者』により高見順賞を受賞。『『赤光』の生誕』など評論集多数。1993年より宮中歌会始選者を21年間つとめた。2007年から宮内庁御用掛。日本藝術院会員。
登録情報
- 出版社 : 書肆侃侃房 (2015/8/4)
- 発売日 : 2015/8/4
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 176ページ
- ISBN-10 : 4863851928
- ISBN-13 : 978-4863851924
- Amazon 売れ筋ランキング: - 128,867位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 53位歌集
- カスタマーレビュー:
著者について
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年8月10日に日本でレビュー済み
岡井隆『暮れてゆくバッハ』は歌集。私はいいかげんな人間なので、最初から最後まで順を追って歌集を読むわけではない。テキトウにぱっと開いて、そのとき目に飛び込んできたのが、
<blockquote>
ケータイの在りかをぼくので呼びあてる、弁証法の正と反だね
</blockquote>
あ、おもしろい。
おもしろいと思ったのは「ケータイ(電話)」が歌に詠み込まれていること。もう「ケータイ」は古くて、いまは「スマホ」なのかもしれないが、そういう「新しいもの」を岡井の年代の人が歌に詠み込むことがうれしい。
というのも、この春、「西日本詩人セミナー(だったかな?)」で若手(中堅?)の歌人と話す機会があったのだが、そのとき彼らは「イメージの共有」ということを言った。「葡萄の種」と「梅干しの種」を例にひいて、「葡萄の種」は歌になるが「梅干しの種」はだめだ、と。「葡萄(の種)」には歌として詠まれてきたひとつのイメージがあり、それを共有することが歌の「核心」である、ということらしい。このときの「共有」を「継承」と言い直すと、それは「伝統」につながる。また「結社」というものにもつながる。「結社」とは、ある「イメージ」の共有(継承)の仕方を学び、育てる仕組みである。
まあ、それはそれでわかるけれど、何とも古くさいというか……。
で、そのとき若手の歌が何首か紹介されたのだが、この岡井の歌に比べると、とても古くさい印象がある。「葡萄の種」にひきずられている。どんなに新しいことを詠んでみても、詠み方のなかに「定型」がある。「抒情の定型」がある。
岡井のこの一種には「抒情の定型」がない。「定型」を突き破っている。「抒情の定型」がないとしたら、では何があるのか。
行動(アクション)がある。「動詞」がある。「行動/動詞」というのは「人間」を貫き、「人間」を「ひとつ」にしてしまう。誰の「行動/動詞」であれ、それを他人が「反復(反芻)」するとき、その「行動/動詞」はやすやすと「共有/継承」されてしまう。
具体的に言い直そう。
ケータイをどこに置いたかわからない。ケータイが見当たらない。さて、どうする? 電話を鳴らしてみる。岡井はここでは、誰かが見失った電話を「それじゃあ、ぼくので呼んでみる(鳴らしてみる)」と言って電話をかけている。それに応答してどこかから着信音が聞こえる。見つかった。こういう一連の動き(行動/動詞)を「呼びあてる」ということばで結晶させている。
こういうことは、だれもが一度はしたことがあると思う。これは、さらに言い直せば、岡井のしていること(行動/動詞)を読者の「肉体」がおぼえているということである。岡井のことばによって、読者の「肉体」がおぼえていることが、読者の「肉体」のなかに甦ってきて、あ、「わかる」という感じが生まれる。岡井が「わかる」のではなく、読者が「わかる」。読者はその瞬間、岡井を忘れて、自分の経験を思い出している。
「行動/運動」が、岡井と読者(複数)によって共有される。共有されるけれど、それを実際に味わうのはあくまで「ひとり」。「動詞」は、そんなふうにして、離れて存在している人間の「肉体」をつなぐ力を持っている。
このあと、岡井は、どきっとさせる。
<blockquote>
弁証法の正と反だね
</blockquote>
うーん、弁証法か。弁証法については、私は個人的にいろいろ思うことがある。弁証法では世界は把握できないと思っているのだが、そういうことはわきにおいておいて。
岡井はここでは弁証法を正と反の対立を止揚ととらえている。岡井のケータイが正なのか、探しているケータイが反なのか、どっちでもいいが、呼び出すことで失われたものの在りかを探し当てる(止揚、結論に達する)ときのふたつのケータイの関係が弁証法の正と反のような形で運動している。
ここにも書かれてはいないけれど、「止揚する」という「動詞」が存在する。「弁証法」ということばのなかに「運動/動詞」がある。
これがおもしろい。
岡井は、すでに継承されている存在のイメージを利用して歌を書いているのではない。ひとりの個人に帰って(つまり、伝統に属している自分を深く掘り下げて「私」という肉体に帰って)、そこから動きはじめる。その動きは誰にでも共有できる「動詞」である。「動詞」を生き直しているともいえる。
ここに、岡井のことばの力がある。
失われたケータイを手元にあるケータイで探し当てる。そういうことを「弁証法」のなかにある正と反の対立、さらに対立を止揚するという「動詞の比喩」で言い直す。それがおもしろい。
「比喩」はもっぱら「名詞」と「名詞」の言い換えが多い。「君はバラのように美しい」では「君」と「バラ」が言い換えられている。これは歌人たちがいう「イメージ」の共有(継承)につながるのだけれど、岡井は「比喩」は「動詞」においても成り立つということを実践している。
「呼びあてる」は「さがす」という「動詞」の「比喩」なのだ。「言い直し」なのだ。「言い直す」ことで、見えなかったことを明らかにする。「さがす」は「あてる」(どこにあるか、あてる)でもある。
その直前の歌。
<blockquote>
幾つかの袋のどれかに横たはつてゐる筈なのだ可愛い耳して
</blockquote>
これは前後するが探しているケータイのことを詠んでいる。そこにあるどれかの袋(バッグ)のなかにケータイはあるはずである。そのケータイを「可愛い耳」と呼んでいる。比喩である。この比喩が、文字通り可愛い。
いや、そのケータイの持ち主が誰であるか私は知らないが(もしかすると、妻のケータイなのかもしれないが)、何となく、岡井の若い愛人というものを想像してみる。いいなあ、若い愛人がいて、「今夜、どう?」なんて電話を待っている。その耳のかわいらしさ。誘いをひたすら待っている無言の耳。自分からは催促しない無言の耳。ね、可愛いでしょ?
というのは、私の欲望なのだが……。
歌なんて、というか、文学なんて、作者の「主張/感情」なんか、どうでもいい。自分の「主張/感情」にかってにすりかえて読めばいい。つまり、自分の「欲望(本能)」を発見するためにある。自分の欲望(本能)なのに、あ、岡井もそうなんだと勝手に解釈して、「同士」になったつもり。
「同士」と書こうとしたら「動詞」という変換が先にあらわれて、その瞬間に思ったのだけれど、そうか「同士」というのは「動詞」を共有する人間のことか、と思いなおした。いっしょに行動してこそ「同士」。
「欲望(本能)」というのも、「動詞」だね。動いてはじめて、何かが実現する。
あ、脱線したかな?
でも、脱線したおかげで、「可愛い耳」という比喩にも、どこかで「動詞(欲望/本能)」が潜んでいるということが、偶然発見できた。
若者の歌よりも、さらに先を行っている若々しさ。それは次の歌にも。
<blockquote>
真面目に弾くピアニスト。でも真面目には聞いていないぼくがわかる、悲しい
</blockquote>
ここでも「わかる」という「動詞」が歌の中心である。「わかる」は、このとき「理解する」ではなく、「発見する」である。「新しい」がそこに隠れている。真面目に聞かないというのは別に新しいことではないけれど、ピアニストの真面目がわかった瞬間に、「ぼく」の真面目ではないがわかる。「わかる」というひとつの「動詞」が「真面目」を中心にして大きく動いている。
「動詞」のなかにこそ、「歌」の本質がある。
この大きな変化を、岡井は「悲しい」ということばでしめくくっている。「悲しい」は「抒情的」なニュアンスが強いが、この「悲しい」のつかい方も、私は新鮮に感じた。
「悲しい」は形容詞。形容詞は「用言」、つまり「動詞」のように「動く」。「悲しい」はひとつの状態にとどまっているのではなく、動くのだ。ピアニストの真面目が「わかり」、自分がまじめでないのが「わかる」。その「わかる」のなかの変化が「悲しい」というものを生み出す。生まれてきた「悲しい」。そのときだけの、一回性の感情の「動き」なのである。どんどん動いている「悲しい」。
「わかる」は単に「頭」で「わかる」のではない。「わかる」瞬間、「頭」以外のものも動いている。「感情」とひとは言うかもしれないが、私は「肉体」が動いているのだと思う。ことばで、どこそこと指定(指摘)はできないけれど、「肉体」が全体としてもやもやとして動き、そのことばにならないもやもやから「悲しい」が動きはじめる。
こういう短歌の「革新」を、若い歌人の歌ではなく、岡井の歌で知るというのは、少し残念な感じもする。短歌は岡井の力を必要としているんだなあ、と改めて感じる一冊だ。
途中にスケッチと手書きの歌(手書きの文字)が何ページかあり、岡井は絵も描くのかと思った。どの絵も「線(輪郭)」が明瞭で、姿が歌に似ているとも思った。
<blockquote>
ケータイの在りかをぼくので呼びあてる、弁証法の正と反だね
</blockquote>
あ、おもしろい。
おもしろいと思ったのは「ケータイ(電話)」が歌に詠み込まれていること。もう「ケータイ」は古くて、いまは「スマホ」なのかもしれないが、そういう「新しいもの」を岡井の年代の人が歌に詠み込むことがうれしい。
というのも、この春、「西日本詩人セミナー(だったかな?)」で若手(中堅?)の歌人と話す機会があったのだが、そのとき彼らは「イメージの共有」ということを言った。「葡萄の種」と「梅干しの種」を例にひいて、「葡萄の種」は歌になるが「梅干しの種」はだめだ、と。「葡萄(の種)」には歌として詠まれてきたひとつのイメージがあり、それを共有することが歌の「核心」である、ということらしい。このときの「共有」を「継承」と言い直すと、それは「伝統」につながる。また「結社」というものにもつながる。「結社」とは、ある「イメージ」の共有(継承)の仕方を学び、育てる仕組みである。
まあ、それはそれでわかるけれど、何とも古くさいというか……。
で、そのとき若手の歌が何首か紹介されたのだが、この岡井の歌に比べると、とても古くさい印象がある。「葡萄の種」にひきずられている。どんなに新しいことを詠んでみても、詠み方のなかに「定型」がある。「抒情の定型」がある。
岡井のこの一種には「抒情の定型」がない。「定型」を突き破っている。「抒情の定型」がないとしたら、では何があるのか。
行動(アクション)がある。「動詞」がある。「行動/動詞」というのは「人間」を貫き、「人間」を「ひとつ」にしてしまう。誰の「行動/動詞」であれ、それを他人が「反復(反芻)」するとき、その「行動/動詞」はやすやすと「共有/継承」されてしまう。
具体的に言い直そう。
ケータイをどこに置いたかわからない。ケータイが見当たらない。さて、どうする? 電話を鳴らしてみる。岡井はここでは、誰かが見失った電話を「それじゃあ、ぼくので呼んでみる(鳴らしてみる)」と言って電話をかけている。それに応答してどこかから着信音が聞こえる。見つかった。こういう一連の動き(行動/動詞)を「呼びあてる」ということばで結晶させている。
こういうことは、だれもが一度はしたことがあると思う。これは、さらに言い直せば、岡井のしていること(行動/動詞)を読者の「肉体」がおぼえているということである。岡井のことばによって、読者の「肉体」がおぼえていることが、読者の「肉体」のなかに甦ってきて、あ、「わかる」という感じが生まれる。岡井が「わかる」のではなく、読者が「わかる」。読者はその瞬間、岡井を忘れて、自分の経験を思い出している。
「行動/運動」が、岡井と読者(複数)によって共有される。共有されるけれど、それを実際に味わうのはあくまで「ひとり」。「動詞」は、そんなふうにして、離れて存在している人間の「肉体」をつなぐ力を持っている。
このあと、岡井は、どきっとさせる。
<blockquote>
弁証法の正と反だね
</blockquote>
うーん、弁証法か。弁証法については、私は個人的にいろいろ思うことがある。弁証法では世界は把握できないと思っているのだが、そういうことはわきにおいておいて。
岡井はここでは弁証法を正と反の対立を止揚ととらえている。岡井のケータイが正なのか、探しているケータイが反なのか、どっちでもいいが、呼び出すことで失われたものの在りかを探し当てる(止揚、結論に達する)ときのふたつのケータイの関係が弁証法の正と反のような形で運動している。
ここにも書かれてはいないけれど、「止揚する」という「動詞」が存在する。「弁証法」ということばのなかに「運動/動詞」がある。
これがおもしろい。
岡井は、すでに継承されている存在のイメージを利用して歌を書いているのではない。ひとりの個人に帰って(つまり、伝統に属している自分を深く掘り下げて「私」という肉体に帰って)、そこから動きはじめる。その動きは誰にでも共有できる「動詞」である。「動詞」を生き直しているともいえる。
ここに、岡井のことばの力がある。
失われたケータイを手元にあるケータイで探し当てる。そういうことを「弁証法」のなかにある正と反の対立、さらに対立を止揚するという「動詞の比喩」で言い直す。それがおもしろい。
「比喩」はもっぱら「名詞」と「名詞」の言い換えが多い。「君はバラのように美しい」では「君」と「バラ」が言い換えられている。これは歌人たちがいう「イメージ」の共有(継承)につながるのだけれど、岡井は「比喩」は「動詞」においても成り立つということを実践している。
「呼びあてる」は「さがす」という「動詞」の「比喩」なのだ。「言い直し」なのだ。「言い直す」ことで、見えなかったことを明らかにする。「さがす」は「あてる」(どこにあるか、あてる)でもある。
その直前の歌。
<blockquote>
幾つかの袋のどれかに横たはつてゐる筈なのだ可愛い耳して
</blockquote>
これは前後するが探しているケータイのことを詠んでいる。そこにあるどれかの袋(バッグ)のなかにケータイはあるはずである。そのケータイを「可愛い耳」と呼んでいる。比喩である。この比喩が、文字通り可愛い。
いや、そのケータイの持ち主が誰であるか私は知らないが(もしかすると、妻のケータイなのかもしれないが)、何となく、岡井の若い愛人というものを想像してみる。いいなあ、若い愛人がいて、「今夜、どう?」なんて電話を待っている。その耳のかわいらしさ。誘いをひたすら待っている無言の耳。自分からは催促しない無言の耳。ね、可愛いでしょ?
というのは、私の欲望なのだが……。
歌なんて、というか、文学なんて、作者の「主張/感情」なんか、どうでもいい。自分の「主張/感情」にかってにすりかえて読めばいい。つまり、自分の「欲望(本能)」を発見するためにある。自分の欲望(本能)なのに、あ、岡井もそうなんだと勝手に解釈して、「同士」になったつもり。
「同士」と書こうとしたら「動詞」という変換が先にあらわれて、その瞬間に思ったのだけれど、そうか「同士」というのは「動詞」を共有する人間のことか、と思いなおした。いっしょに行動してこそ「同士」。
「欲望(本能)」というのも、「動詞」だね。動いてはじめて、何かが実現する。
あ、脱線したかな?
でも、脱線したおかげで、「可愛い耳」という比喩にも、どこかで「動詞(欲望/本能)」が潜んでいるということが、偶然発見できた。
若者の歌よりも、さらに先を行っている若々しさ。それは次の歌にも。
<blockquote>
真面目に弾くピアニスト。でも真面目には聞いていないぼくがわかる、悲しい
</blockquote>
ここでも「わかる」という「動詞」が歌の中心である。「わかる」は、このとき「理解する」ではなく、「発見する」である。「新しい」がそこに隠れている。真面目に聞かないというのは別に新しいことではないけれど、ピアニストの真面目がわかった瞬間に、「ぼく」の真面目ではないがわかる。「わかる」というひとつの「動詞」が「真面目」を中心にして大きく動いている。
「動詞」のなかにこそ、「歌」の本質がある。
この大きな変化を、岡井は「悲しい」ということばでしめくくっている。「悲しい」は「抒情的」なニュアンスが強いが、この「悲しい」のつかい方も、私は新鮮に感じた。
「悲しい」は形容詞。形容詞は「用言」、つまり「動詞」のように「動く」。「悲しい」はひとつの状態にとどまっているのではなく、動くのだ。ピアニストの真面目が「わかり」、自分がまじめでないのが「わかる」。その「わかる」のなかの変化が「悲しい」というものを生み出す。生まれてきた「悲しい」。そのときだけの、一回性の感情の「動き」なのである。どんどん動いている「悲しい」。
「わかる」は単に「頭」で「わかる」のではない。「わかる」瞬間、「頭」以外のものも動いている。「感情」とひとは言うかもしれないが、私は「肉体」が動いているのだと思う。ことばで、どこそこと指定(指摘)はできないけれど、「肉体」が全体としてもやもやとして動き、そのことばにならないもやもやから「悲しい」が動きはじめる。
こういう短歌の「革新」を、若い歌人の歌ではなく、岡井の歌で知るというのは、少し残念な感じもする。短歌は岡井の力を必要としているんだなあ、と改めて感じる一冊だ。
途中にスケッチと手書きの歌(手書きの文字)が何ページかあり、岡井は絵も描くのかと思った。どの絵も「線(輪郭)」が明瞭で、姿が歌に似ているとも思った。
2016年8月14日に日本でレビュー済み
安堵して悦ぶ妻のくちびるを見上げてゐたり点滴うけつつ 手術のため雨の中来た同じ道だ投票に来ぬ術後二十日で かりがねも白鳥(スワン)もごつちゃに水に在る此の列島に俺も棲んでる ヨハン・セバスチャン・バッハの小川暮れゆきて水の響きの高まるころだ 雨が来るかもしれないと傘もつて出た日の午後は詩話の快晴 だめよだめ言ひながら差す雨傘のやうな女は年とらず逝く