同じ内容が、たしかテーラワーダ仏教協会で音源で売っていたはず。
しかし、紙で読み直せるのはありがたいと思います。
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大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ) 単行本 – 2016/1/28
アルボムッレ・スマナサーラ
(著)
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- 本の長さ414ページ
- 言語日本語
- 出版社サンガ
- 発売日2016/1/28
- ISBN-104865640363
- ISBN-13978-4865640366
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登録情報
- 出版社 : サンガ (2016/1/28)
- 発売日 : 2016/1/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 414ページ
- ISBN-10 : 4865640363
- ISBN-13 : 978-4865640366
- Amazon 売れ筋ランキング: - 255,445位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 241位仏教の経典
- カスタマーレビュー:
著者について
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スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を とった後、1980年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事。全国で 講演やセミナーなども行い、ブッダの根本の教えを説き続けている。また、朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務める(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『くじけないこと 角川SSC新書』(ISBN-10:4047315354)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大念処経は初期仏教の経典で、仏教の伝えるとても大切な実践の教えです。その大切な経典の内容をスマナサーラ長老の解説によって学べるこの本は、わたしにとっては最高でした。
2016年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もう随分と長いあいだ大乗仏教を学んできた。
しかしながら大乗仏典には具体的になにをどう瞑想実践すれば良いか?
あまり詳しく記載されていない。
ただひたすらに美しい理想や菩薩たちの不可思議な活動の描写のオンパレードで、贔屓目に見ても実践的とは言えない。
人間としての生存は苦であり、老、病、死も苦である。
諸行無常の道理も良くわかる。
しかしながら長いあいだ大乗のみを愛好していた私には何かが足りないと思うようになった。
悟りに至れなくとも、せめてヨルカの境地には生きている間に到達したい。
そう思うようになった。
この大念処経というお経は仏教を瞑想実践する人にとって極めて重要なお経との事で、
思い切って購入してみた次第である。
私はもう二度と人間には生まれ変わりたくない。
人間の生存には、根本的な救いや安らぎ、そして真実の愛などありはしないとニヒリストぶって考える。
事実、この世界がいかに怖ろしく悲惨かを自分はよく知っているからだ。
私は神を信じていたけど、もはやこれ以上、神を信じることは出来ない。
一度でも神が自分を助けただろうか?
一度でも神が自分のために姿をあらわしたであろうか?
否。
してみると仏教の無霊魂説を受け入れざるを得なくなってくる。
大乗仏教における空の思想についても、それは認識の対象ではないという。
有神論的なブラフマンもやはり認識の対象ではない。
そんなものに関わっているヒマがあるなら、ほんのちょっとだけでも真理に近付きたい、苦しみから逃れたい。
瞑想する人にとって、本書は役に立つのなら、絶対に購入すべきであろう。
そして、そのためには一時、大乗仏教的なきれいごとを脇に押しやる必要があると思う。
要するに心を入れ替えて、大乗からお釈迦さまの根本仏教を学ぶことがいまの自分にとって急務であると感じた。
同じような感想を持つ人々にとっても本書はとても貴重な存在ではなかろうか?
しかしながら大乗仏典には具体的になにをどう瞑想実践すれば良いか?
あまり詳しく記載されていない。
ただひたすらに美しい理想や菩薩たちの不可思議な活動の描写のオンパレードで、贔屓目に見ても実践的とは言えない。
人間としての生存は苦であり、老、病、死も苦である。
諸行無常の道理も良くわかる。
しかしながら長いあいだ大乗のみを愛好していた私には何かが足りないと思うようになった。
悟りに至れなくとも、せめてヨルカの境地には生きている間に到達したい。
そう思うようになった。
この大念処経というお経は仏教を瞑想実践する人にとって極めて重要なお経との事で、
思い切って購入してみた次第である。
私はもう二度と人間には生まれ変わりたくない。
人間の生存には、根本的な救いや安らぎ、そして真実の愛などありはしないとニヒリストぶって考える。
事実、この世界がいかに怖ろしく悲惨かを自分はよく知っているからだ。
私は神を信じていたけど、もはやこれ以上、神を信じることは出来ない。
一度でも神が自分を助けただろうか?
一度でも神が自分のために姿をあらわしたであろうか?
否。
してみると仏教の無霊魂説を受け入れざるを得なくなってくる。
大乗仏教における空の思想についても、それは認識の対象ではないという。
有神論的なブラフマンもやはり認識の対象ではない。
そんなものに関わっているヒマがあるなら、ほんのちょっとだけでも真理に近付きたい、苦しみから逃れたい。
瞑想する人にとって、本書は役に立つのなら、絶対に購入すべきであろう。
そして、そのためには一時、大乗仏教的なきれいごとを脇に押しやる必要があると思う。
要するに心を入れ替えて、大乗からお釈迦さまの根本仏教を学ぶことがいまの自分にとって急務であると感じた。
同じような感想を持つ人々にとっても本書はとても貴重な存在ではなかろうか?
2018年7月5日に日本でレビュー済み
大念処経の解説本は日本語のものが少なく、おそらく片山一良氏の「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む」、それから同氏の「瞑想経典」などどれから入ろうか?と思っている方もいるかと思います。一概には言えないでしょうが、本書はスマナサーラ長老によってヴィパッサナー冥想をより具体的に捉えるため、同じことを様々な切り口から解説がなされたものという印象を受けています。口語体なので比較的読みやすいと思います。片山氏のものは禅や他の大乗仏教などを持ち出しながらの大念処経そのものの位置づけの解説という印象です。大乗仏教の用語が出てくるので、慣れていない人には難解に感じる部分はあると思いますが、禅と瞑想は何が違うのか、どう捉えるべきなのかを把握するには最適だと思います。スマナサーラ長老の口調はたとえ真理を捉えた正論だとしてもテーラワーダ仏教の視点であり、勉強不足の私にはどうしても偏りの印象を受けることがあります。その点は片山氏のもので禅との関連性を読み解くことでちょうどいい視座を持とうとしています。どういう経緯で仏教が成り立ち、具体的な方法が説かれ、大乗仏教が生まれ、禅が生まれたのか、実践の上で知っておきたいところです。もうひとつ、スマナサーラ長老の「瞑想経典」は四諦・八正道を基本にしたヴィパッサナーのガイドラインという感じを受けています。この大念処経でもその辺りは十分に触れられているし、いきなりこっちからでもいいかもしれません。内容はスマナサーラ長老の講演をただそのまま使ったわけではなく編集したものなので、大念処経のテキスト感覚で使えると思います。
2016年3月11日に日本でレビュー済み
長時間にわたる講話の末にたくさんの人々の努力の結晶として生み出されたこの書は、どのページを開いても、仏教の核心に至る示唆を与えるものである。心底仏教とは何かを知りたいと考えている真摯な探究者には垂涎の書に違いない。単に近年話題の仏教瞑想のためにだけこの書があるのではない。その実践に立ち返って語られたれ、そこへこの書が踏み込んだものであるからこそ仏教のエッセンスが随所に垣間見られる。
本当に仏教を知りたい人はぜひ時間をかけてじっくりと読み解いてほしい。漢訳仏典のみを長年研究してきた日本において、これだけの書がわかりやすい日本語で解説されたことは、仏教のとらえ方を根本から変える影響力があるに違いない。必ずや日本仏教史にその名をとどめる著作となるであろう。
もちろん、この書が、いま全世界で注目され話題を集める、大企業のトップビジネスマンから精神医学、心理学の研究者までが求め実践しているヴィパッサナー瞑想の最高の実践解説書であることは間違いない。仏教の実践を志す人は誰でも手に取って読んでみるべきであろう。
本当に仏教を知りたい人はぜひ時間をかけてじっくりと読み解いてほしい。漢訳仏典のみを長年研究してきた日本において、これだけの書がわかりやすい日本語で解説されたことは、仏教のとらえ方を根本から変える影響力があるに違いない。必ずや日本仏教史にその名をとどめる著作となるであろう。
もちろん、この書が、いま全世界で注目され話題を集める、大企業のトップビジネスマンから精神医学、心理学の研究者までが求め実践しているヴィパッサナー瞑想の最高の実践解説書であることは間違いない。仏教の実践を志す人は誰でも手に取って読んでみるべきであろう。
2016年3月16日に日本でレビュー済み
大念処経を解説した本。お経を読んだだけでは分からないことを、非常に詳しく解説していて、感動的だ。
修行をする人にはいいガイドブックになるのではないかと思う。
ただ、ヴィパッサナー瞑想についてはあらかじめ長老の本を読むなどして、知っておく必要があると思う。
修行をする人にはいいガイドブックになるのではないかと思う。
ただ、ヴィパッサナー瞑想についてはあらかじめ長老の本を読むなどして、知っておく必要があると思う。
2018年11月5日に日本でレビュー済み
本書では、内容のほとんどは、「長部経典」のなかのパーリ経典「大念処経」の内容です。そしてそのパーリ経典の和訳文章は、スマナサーラ学僧が駒沢大学に留学したときの先生であった片山教授の長部経典パーリ和訳『長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇〈1〉 (パーリ仏典)』の和訳文をそのままコピー使用しています。だからスマナサーラ学僧のオリジナルではありません。スマナサーラ学僧は日本語での会話はできますが、パーリを日本語に訳することは100%できません。だから、僕は片山教授のオリジナル訳本を買われた方がベターだと思います。だから、『長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇〈1〉 」を購入されることをお薦めします。
テーラワーダ仏教国の各国の僧団においては、近年の唯一の教科書ともいえる。ヴィパッサナー瞑想法については、現在テーラワーダ仏教として、日本でもクローズアップされてきました。僕も15年以上、在日している、著者であるスマナサーラ学僧に師事して講演聴講、本、瞑想実践してきましたが、こころは落ち着くものの、15年以上過ぎてもやはり強い「我」や「怒り」が残っており、また、そのスマナサーラ学僧自身も「無我」などを説法するものの時々、怒りの発言を突発的にしたり、講演会場で怒鳴ったりしていることから、指導者といえども、苦しみから抜けておられないことをはっきりと知りました。多分、スリランカの大学などで学んだことの教学を中心に一生懸命勉強されてきていたのだと思います。
そして今のヴィパッサナー瞑想やその僧の説法内容は、はやり2500年前のブッダの説いた瞑想や説法内容とかなりズレた内容になっていることに8年ほど前に気が付き、今はテーラワーダ仏教を完全に捨てています。
この本のパーリ原本は各国で自国の言語に翻訳されていますが、その経典自体が言おうとしていることの説明、解説がなければ、単なる翻訳本になってしまします。
長い間、スマナサーラさんの説法を聞いたり、本は他にも購入してあらゆる本も読みましたが、この「大念処経」にしても決定的にまずいのは、仏陀が説いた肝心で要の「中道」が説明されていないこと、無我(非我)も説明されていないことことが大変まずいのです。またその「大念処経」のどこの部分に「中道」の教えがある説明が一切なく、欠落しているのです。
実は、それは僕だけでなく、10年以上そのスリランカ僧の指導のもとで講演を聞いたり本を読んだり、瞑想実践されていた他の方々もその僧を離れて別の指導者へ移っている現状があります。多くの方々が別の僧や指導者へ移っている現状があります。
この「中道」というのは、「我」や「無我」という二元性や「善」と「悪」などの二元性を超えるところにあるのです。
そんなこともあり、僕は、ここ数年間は、ラマナ・マハルシやその弟子たち、スコット・キロビー「悟りを生きる」、ダリル・ベイリー「ファンタジーの終焉」、クリシュナムーティ「自我の終焉」などなど他の多数のインド、北米、欧州の仏教などを広くそして長く考察、実践されてきた方々が説く「気づき」をベースにした「非二元性」「ワンネス」「ダイレクトパス」などの自己観察が本当の観察瞑想だと、ここ数年は理解し始めています。
是非、それらの方々の日本語書籍を購入されて読まれることをお勧めいたします。英語が得意な方は、英語版もAmazonで購入できると思います。
なぜかというと、皮肉なことにも、それら仏教国の方々でない方々の方が「中道」の意味することが自然と説かれているからです。本当に驚きました。本当です。これらの人々の本を読みますと、仏陀の説いた「無我(非我)」の意味もとても良くわかると思います。
また、日本人では、例えばですが、東京大学宮本啓一教授の書籍「インドの一元論哲学を学ぶ」は、インドのシャンカラが説いた「ウパデーシャサーハスリー」の解説です。また、京都大学教授梶山雄一著「スタディーズ 空」は、「中道」を理解するのにとても役にたち、貴重な内容です。
僕もそうでしたが、思い込みを避けなければいけません。テーラワーダ仏教国の指導者なら純粋な仏陀の教えを学べるだろう、という自分の「信仰」みたいになってしまっているのです。ブッダは自分で確かめて、それを「信(サッダー)」としなさい、と説かれました。カーラーマ経(ネット検索可能)でも、指導者の話が分かり易い、有名だ、人気がある、という基準で信じ込んではならないと説かれました。
「自分は、このヴィパッサナー瞑想を実践していれば、いつか悟れるだろう」とか「預流果にまず悟らなければ・・・」とか、まったく「時間軸での思考」の塊でみなさん生きてしまっているのです。また、テーラーワーダ仏教でも「気づき」を説きますが、仏滅後1000年の学僧ブッダゴーサの「清浄道論」という論文をベースにしてしまっています。僕も読みましたが、まったく、概念的分析な説明でこれでは、まずいと感じました。本当のブッダの教えは、テーラワーダ仏教を含めて、仏滅2500年という経過のなかで、かなり変質してきてしまっているのです。
一方、「非二元性」「ワンネス」「ダイレクトパス」などを理解して自己観察しているやり方が、例えば、思考している者はおらず、思考、感情を「私」「我」と昔からの習性でもって誤認していただけと分かってきます。「気づき」の「空間、スペース」にただ思考や感情が生まれては消滅している、その流れだけだったと分かってきます。思考がなくなるのではなく、思考あるのですが、それを「自分(私)の思考」と捉えなくなります。だから「非二元性」つまり「中道」です。
「我」や「無我」の二元性を超えた、仏陀の説いた「中道」を自己観察して、もうそれを体得できれば、その時、すでに「目覚めている、悟っている」のです。将来何々になるという「時間軸」がある話は、思考内容そのものであり、つまり幻想です。「ここ、今」しかないからです。
「思考」を否定するのではなく、「気づき」でもって、思考と無思考を超える観方を身に着けるだけで良いのです。それを養っていくしかありません。これが得られないと、心の本当の平安や慈悲の気持ちは生まれてきません。
悟りとは、何か「将来、ヴィパッサナー瞑想していけば、何かインスピレーションが生まれる」ことで悟ることではないのです。
テーラワーダ仏教国の各国の僧団においては、近年の唯一の教科書ともいえる。ヴィパッサナー瞑想法については、現在テーラワーダ仏教として、日本でもクローズアップされてきました。僕も15年以上、在日している、著者であるスマナサーラ学僧に師事して講演聴講、本、瞑想実践してきましたが、こころは落ち着くものの、15年以上過ぎてもやはり強い「我」や「怒り」が残っており、また、そのスマナサーラ学僧自身も「無我」などを説法するものの時々、怒りの発言を突発的にしたり、講演会場で怒鳴ったりしていることから、指導者といえども、苦しみから抜けておられないことをはっきりと知りました。多分、スリランカの大学などで学んだことの教学を中心に一生懸命勉強されてきていたのだと思います。
そして今のヴィパッサナー瞑想やその僧の説法内容は、はやり2500年前のブッダの説いた瞑想や説法内容とかなりズレた内容になっていることに8年ほど前に気が付き、今はテーラワーダ仏教を完全に捨てています。
この本のパーリ原本は各国で自国の言語に翻訳されていますが、その経典自体が言おうとしていることの説明、解説がなければ、単なる翻訳本になってしまします。
長い間、スマナサーラさんの説法を聞いたり、本は他にも購入してあらゆる本も読みましたが、この「大念処経」にしても決定的にまずいのは、仏陀が説いた肝心で要の「中道」が説明されていないこと、無我(非我)も説明されていないことことが大変まずいのです。またその「大念処経」のどこの部分に「中道」の教えがある説明が一切なく、欠落しているのです。
実は、それは僕だけでなく、10年以上そのスリランカ僧の指導のもとで講演を聞いたり本を読んだり、瞑想実践されていた他の方々もその僧を離れて別の指導者へ移っている現状があります。多くの方々が別の僧や指導者へ移っている現状があります。
この「中道」というのは、「我」や「無我」という二元性や「善」と「悪」などの二元性を超えるところにあるのです。
そんなこともあり、僕は、ここ数年間は、ラマナ・マハルシやその弟子たち、スコット・キロビー「悟りを生きる」、ダリル・ベイリー「ファンタジーの終焉」、クリシュナムーティ「自我の終焉」などなど他の多数のインド、北米、欧州の仏教などを広くそして長く考察、実践されてきた方々が説く「気づき」をベースにした「非二元性」「ワンネス」「ダイレクトパス」などの自己観察が本当の観察瞑想だと、ここ数年は理解し始めています。
是非、それらの方々の日本語書籍を購入されて読まれることをお勧めいたします。英語が得意な方は、英語版もAmazonで購入できると思います。
なぜかというと、皮肉なことにも、それら仏教国の方々でない方々の方が「中道」の意味することが自然と説かれているからです。本当に驚きました。本当です。これらの人々の本を読みますと、仏陀の説いた「無我(非我)」の意味もとても良くわかると思います。
また、日本人では、例えばですが、東京大学宮本啓一教授の書籍「インドの一元論哲学を学ぶ」は、インドのシャンカラが説いた「ウパデーシャサーハスリー」の解説です。また、京都大学教授梶山雄一著「スタディーズ 空」は、「中道」を理解するのにとても役にたち、貴重な内容です。
僕もそうでしたが、思い込みを避けなければいけません。テーラワーダ仏教国の指導者なら純粋な仏陀の教えを学べるだろう、という自分の「信仰」みたいになってしまっているのです。ブッダは自分で確かめて、それを「信(サッダー)」としなさい、と説かれました。カーラーマ経(ネット検索可能)でも、指導者の話が分かり易い、有名だ、人気がある、という基準で信じ込んではならないと説かれました。
「自分は、このヴィパッサナー瞑想を実践していれば、いつか悟れるだろう」とか「預流果にまず悟らなければ・・・」とか、まったく「時間軸での思考」の塊でみなさん生きてしまっているのです。また、テーラーワーダ仏教でも「気づき」を説きますが、仏滅後1000年の学僧ブッダゴーサの「清浄道論」という論文をベースにしてしまっています。僕も読みましたが、まったく、概念的分析な説明でこれでは、まずいと感じました。本当のブッダの教えは、テーラワーダ仏教を含めて、仏滅2500年という経過のなかで、かなり変質してきてしまっているのです。
一方、「非二元性」「ワンネス」「ダイレクトパス」などを理解して自己観察しているやり方が、例えば、思考している者はおらず、思考、感情を「私」「我」と昔からの習性でもって誤認していただけと分かってきます。「気づき」の「空間、スペース」にただ思考や感情が生まれては消滅している、その流れだけだったと分かってきます。思考がなくなるのではなく、思考あるのですが、それを「自分(私)の思考」と捉えなくなります。だから「非二元性」つまり「中道」です。
「我」や「無我」の二元性を超えた、仏陀の説いた「中道」を自己観察して、もうそれを体得できれば、その時、すでに「目覚めている、悟っている」のです。将来何々になるという「時間軸」がある話は、思考内容そのものであり、つまり幻想です。「ここ、今」しかないからです。
「思考」を否定するのではなく、「気づき」でもって、思考と無思考を超える観方を身に着けるだけで良いのです。それを養っていくしかありません。これが得られないと、心の本当の平安や慈悲の気持ちは生まれてきません。
悟りとは、何か「将来、ヴィパッサナー瞑想していけば、何かインスピレーションが生まれる」ことで悟ることではないのです。