この本の著者は、セイロンの学会の中では確かに著名人であります。内容的にも確かに立派な論文です。だから学問的に仏教の歴史を含めて学ぶ方々には良著の一つでしょう。
しかし、仏陀の教えは、あくまでも世間の生き方から出世間への生き方の教えであります。なぜなら四聖諦にあるように苦滅の教えであるからです。
そこで、僕(Samadhi-Chan)の「仏陀の真の教え」に対する理解、見解を述べさせていただきます。
なぜかというと、現在のテーラワーダ仏教というのは、釈尊が現存していたときのいわば本当の初期仏教とはかなりかけ離れているものと知ったからです。
僕自身、今日まで初期仏教を30年ちかく学んで瞑想など実践してきました。
当初の約15年間は、来日している、この書籍の推薦者でもあるスリランカ学僧のスマナサーラさんからヴィパッサナー瞑想というミヤンマーのマハシー式瞑想方法なども教わり、15年ほど実践してきました。
しかし、説法内容も含めて、表面的には初期仏教といいながら、かなり本当の釈尊仏教とからはかけ離れていることを知り、スマナサーラさんの教えの内容では苦しみの滅にはならないと判断して、彼から離れました。僕以外にも彼に10~15年間学んだ在家が結局別の指導者へと移っていきました。
僕は彼を離れたその後、パーリ経典、サンスクリット経典などや他のパオ式瞑想方法などを含めて、あらゆる視点から再び初心に帰って、仏陀の教えを学び直して、さらに15年になりました。
その結果、マハシー式、パオ式瞑想などを含めて、現在のテーラワーダ仏教の教えは、釈尊仏教からかなり乖離していると分かりました。
正しい、仏陀の瞑想とは「観察と洞察」です。
禅定もほとんどのテーラワーダの瞑想指導は、世間禅定を得るもので終止しています。
一方、仏陀の説いた禅定は、八正道を起点とした正八正道から得るサマーディ(正定)を縁起として生まれる出世見禅定であります。
八正道の聖正見を据えて正念と正知を得ていくプロセスで正定を経て生じていくものです。
仏陀の説いた、「サティ・パッサーナ・スッタ(念処経)」(原始仏典の「中部経典」第10番)または大念処経(長部経典)に書かれている観察洞察「サティ・パッサーナ」の方法は、身体(色)・感覚(受)、思考・感情の心(想)、行為(行)、認識(識)の五蘊(色受想行識)は、すべて「わたし」でもなく、「わたしのものでもなく」、「それらが(身体などが)私ではない」、と知る方法なのです。
つまりサティ・パッサーナ(四念処)の教えは、無常、非我(無我)を知る方法を説いているのです。
これが仏陀の瞑想です。椅子に座ってでもできることです。通勤電車のなかでもできることです。
つまり、まずは身体、感覚、思考、認識などはすべて「私」ではなく、非我であって、かつ無常なものであることを「サティ・パッサーナ・スッタ」(念処経)に書かれているとおりに実践すべきなのです。余計な話は一切不要です。
そして、二ローダ・サマパッティを得るのです。想受の滅です。
その非我性を自分の心身の観察と洞察にて「知る」ことが、
「私」と言う 「幻想」を破る方法なのです。
これらの教えを抜きにして、苦しみの滅はありません。
非我(無我)、無常のどちらもその念処経に従って観察・洞察するのです。
この四念処の観察はパーリでは「サテイ・パッサーナ」と初期から呼ばれています。
英国の仏教学者リス・ディビスがこのサテイ・パッサーナを英語で「マインドフルネス」と英訳したのが今から150年ほど前です。
それからこのマインドフルネスが欧米などでも普及していきました。ご存知かとは思いますが英国などは歴史的にインドと大昔から関係が深い国です。
人間は、変化極まりないその「自分、わたし」に対して、「常」で「固定された変化しない人物」として無意識に捉えているので、自分の物語(ストーリー)を創り始めてしまいます。
例えば、職場でのあの人物の態度が気に食わない、もっと自分に対して他人は真面目な態度をとるべきとか、物語(ストーリー)をどんどん創作していってしまっているのです。幻想なのにです。そもそもその気に食わないその相手自体も幻想の存在なのです。
ただ注意があります。幻想といっても身体が無い、身体が消えるとか、思考と言うものが全く無いという意味ではありませんよ。
上と下記に書いたとおりです。だから当然、病気になり痛みなどがあれば治療を受けます。
もし、身体や心はないと言う男がいたら、その男の身体をバットで殴って見てください。どんな反応をするでしょうか? 楽しみですね(笑い)。
幻想なので、自分の身体や思考などに対して、
●「執着」にまったく値するものではなかった●
という意味なのです。ここが大事なポイントです。
身体や心に対して無常で幻想なものなので、私の大事な価値あるものとか、貴重なものだとか思えなくなり、
●まったく「執着」「渇愛」するに値しない●という意味です。
身体があることを否定せず、肯定もせず、身体から厭離している心境が「中道」です。
身体や思考という表現があるのはコトバ上のことで説明の道具としてあるのです。
でも、それらを自分のものだ、という執着がないのです。説明上使いますが。
「私はこの身体である」「これは私の思考である」「この思考は私である」という観念(名称と形態)に対する執着・渇愛がないのです。
「名称と形態」(概念のこと)はダンマパダやスッタニパータにも散見されます。
それらが分かってくると、さまざま経典にもありますように、
「私はこの身体ではない」「身体が私ではない」・~・・「心は私ではない」・・・同様です。
四聖諦で説明すると、無常で幻想に過ぎない「私」「自分」「オレ」という有身見に対する「執着・渇愛」が苦しみの最大原因です。
四聖諦の第二聖諦である苦集諦です。これらは八正道の「正見」「正思惟」です。
八正道の「正」とは「中道」という意味です。
これも大事なポイントです。
道徳、モラル、善・悪の「正」ではありません。
善とか悪とか、私のもの、とかいう観念を『超えている』のが「中道」です。
中道では、ただ「気付き」(正念)があるだけなのです。
◎ ここがとても大事なポイントです。
だからそこに善-悪、善・不善などの判断、分析はそこにはありません。それらを『超えている』これが中道の生き方です。
八正道とは、中道のことで、執着していた存在の夢、幻想から目覚めることの実践道です。
なんであれ言葉である「名称と形態」は道具です。だから仏陀も説法では当然言葉を道具として使用して話しました。
そして、四聖諦、八正道、サティ・パッサーナ(四念処)の実践というものもいわば「道具」なのです。でも最初は、道具(概念、観念)は必要なのです。
自分の心身の幻想が分かると、最後、それらの道具は、自然に消えていて捨てています。
もう想受滅の心境です。
ご参考にしていただけたら幸いです。

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K. N. ジャヤティラカ博士論文集 第1巻 (仏教社会哲学の様相/仏教観からの倫理) 単行本 – 2018/11/23
K. N. ジャヤティラカ
(著),
川本佳苗
(翻訳)
スリランカ仏教哲学の巨人、論文集刊行開始!
「ジャヤティラカ博士は、
あらゆる著作、論文を通じて、
多くの人々に、西洋の角度から、
どのように仏教を見るのかということを教えられました。
私は、自分が本当にひろい心で、
物事を適切に判断できる人間になれたのは、
ひとえに博士の書かれた論文のお陰なのだと思っています。
博士は私にとって、大師匠です。」
アルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ初期仏教長老)
「ジャヤティラカ博士は、
あらゆる著作、論文を通じて、
多くの人々に、西洋の角度から、
どのように仏教を見るのかということを教えられました。
私は、自分が本当にひろい心で、
物事を適切に判断できる人間になれたのは、
ひとえに博士の書かれた論文のお陰なのだと思っています。
博士は私にとって、大師匠です。」
アルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ初期仏教長老)
- 本の長さ144ページ
- 言語日本語
- 出版社サンガ
- 発売日2018/11/23
- ISBN-104865641378
- ISBN-13978-4865641370
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登録情報
- 出版社 : サンガ (2018/11/23)
- 発売日 : 2018/11/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 144ページ
- ISBN-10 : 4865641378
- ISBN-13 : 978-4865641370
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,413,759位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 10,542位仏教 (本)
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2019年1月7日に日本でレビュー済み
この本はスマナサーラ長老の推薦があったので買い求めました。スリランカ仏教のことをもっと知りたいと思ったことが動機です。しかもこの本は「倫理」というテーマに焦点を当てていて、それがとても魅力的でした。倫理の普遍性については、昨今のグローバリズムVSローカリズムの世界情勢をみても極めて重大な問題だと思っています。そのことを真正面から扱う本はまれな労作として、この本に注目したわけです。
K. N. ジャヤティラカ博士はスリランカ仏教哲学の巨人として称えられてる人で、スマナサーラ長老は大学生の頃にすべての論文に目を通されたそうです。西洋哲学の視点から仏教を見て描いて見せた点がすばらしい点です。スマナサーラ長老は現在、日本でテーラワーダ仏教を教えていらっしゃいますが、その重要な出発点は文化を超えて仏教を描いたジャヤティラカ博士の論文を読んだことだったそうです。
読んでみて思ったのは、これが倫理の普遍性を考える上での土台の部分にあたる論説だということです。普通は暗黙の前提になって誰も言及しないようなところにしっかりとした考察を加えている良書だと思います。文化間にある深い溝を意識しながら、それぞれの文化が暗黙の前提としていることを超えて、両社を繋ぐ論考をするのはもう離れ業と言ってよいでしょう。仏教の普遍性で文化を繋いでいくという高貴な意思があってこその労作だろうと思います。
わたしは本書の正確な意味を原書にあたって調べてみたいと思っています。
原著:Facets of Buddhist Thought: Collected Essays (英語) ハードカバー – 2011/3/14 K. N. Jayatilleke (著)
K. N. ジャヤティラカ博士はスリランカ仏教哲学の巨人として称えられてる人で、スマナサーラ長老は大学生の頃にすべての論文に目を通されたそうです。西洋哲学の視点から仏教を見て描いて見せた点がすばらしい点です。スマナサーラ長老は現在、日本でテーラワーダ仏教を教えていらっしゃいますが、その重要な出発点は文化を超えて仏教を描いたジャヤティラカ博士の論文を読んだことだったそうです。
読んでみて思ったのは、これが倫理の普遍性を考える上での土台の部分にあたる論説だということです。普通は暗黙の前提になって誰も言及しないようなところにしっかりとした考察を加えている良書だと思います。文化間にある深い溝を意識しながら、それぞれの文化が暗黙の前提としていることを超えて、両社を繋ぐ論考をするのはもう離れ業と言ってよいでしょう。仏教の普遍性で文化を繋いでいくという高貴な意思があってこその労作だろうと思います。
わたしは本書の正確な意味を原書にあたって調べてみたいと思っています。
原著:Facets of Buddhist Thought: Collected Essays (英語) ハードカバー – 2011/3/14 K. N. Jayatilleke (著)