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自殺の思想 単行本 – 2005/7/26
朝倉 喬司
(著)
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購入オプションとあわせ買い
- 本の長さ421ページ
- 言語日本語
- 出版社太田出版
- 発売日2005/7/26
- ISBN-104872339452
- ISBN-13978-4872339451
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登録情報
- 出版社 : 太田出版 (2005/7/26)
- 発売日 : 2005/7/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 421ページ
- ISBN-10 : 4872339452
- ISBN-13 : 978-4872339451
- Amazon 売れ筋ランキング: - 380,822位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 749位サブカルチャー一般の本
- - 1,241位社会病理
- - 3,729位社会一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年4月27日に日本でレビュー済み
日本の近代の『自死』を、漱石の教え子の藤村操から現在の「いじめ自殺」に至るまで、その本質と社会とのかかわり、さらに歴史的意義を追及したノンフィクション。作者のジャーナリストとしての膨大な資料の分析と、著名なデュルケームの社会学的分析、モーリス・パンゲの『自死の日本史』に代表される哲学的考察なども踏まえた、『統計やありきたりの病理解釈』からかけ離れた画期的な作品です。紹介されるすべての自殺者の「生きることの困難やそれとの戦いの、『死』のもってする生々しい提示」が余すことろなく発揮され、その魂と命の尊厳が作品によって甦る気迫を覚えました。ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』やパンゲの『自死の日本史』を凌ぎ得る書物にやっと出会えた気持ちです。
2023年2月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
どうも「自死」という「異常な死」を考えると、通常では決してありえない「事件」
であるために、自死に何らかの意味づけをつけなくてはならなくなる。たぶん、
その「自死」を理解することで、「自死」そのものを「了解可能なこと」に置き換えて、
「納得」したく(そして「安心」したく)なるのだろう。
本書は、独自視点のルポルタージュで定評のある朝倉喬司(敬称略 以下同じ
惜しむらくは2010年に他界された)の自死についての論考的ルポ、といっていい
だろうか。第1章から第6章まで、その時代を象徴するような自死事件から、そ
の当時の社会も描こうとするもの。
第1章は、「万有の真相は唯一言に悉す。曰く不可解、我この恨を懐て煩悶終に
死を決す」で有名な藤村操の自死(明治三六年 1903年)をとりあげている。失恋
のためであったのかという下世話な話も出てくる(私は本書で初めて知った)が、
自死の原因が何であったにせよ、藤村の死はかなりの衝撃を社会に与えた。朝倉
はデュルケームをかなり引用していて、自死の分析のために援用している。
「人生そのものに煩悶して」死を選ぶという行為は、どうにも足下が定まらない
ような不安を覚える。この意味で、「ぼんやりした不安」で死を選んだ芥川龍之介
の死も、他人はただ呆然とするだけであったろう。(ただ芥川の死にある女性が関
わっているとの説もあるが)
第2章では、「三原山の連続自殺幇助事件」が語られる。「自死を決意した」母
校の先輩と同級生の自殺行に随った女性の話である(本人は自死していない)。高
橋たか子(高橋和巳の妻)の、この事件に題材を取った「誘惑者」も引用される。た
か子のこの小説は、随分と観念的であり、現実の「生」の匂いのしない乾いた小説、
と読んだ記憶がある。
この連続自死事件(昭和8年 1933年)に続く、三原山でのさらなる「連続自死」。
「三ヶ月間に九十九名」という驚くべき数に達する。朝倉はこれらの「後追い自死」
を「アノミー的自死」と規定する。
「人々の旧来の営且つの枠組み」が崩壊するときに、「社会が人々の欲望や、それ
をめぐる諸々の感情を適切に規制する力を急激に失い」欲望は自足しなくなる。「方
向性や落ち着き場所を失った欲望が生への意欲を翻弄したあげく、疲れ果てさせ、
死に至らしめる」。こう主張するが、これもデュルケームの分析によるものだろう。
ただ「厭世観」はどこの時代であっても常に存在し、わざわざ「アノミー」概念を
持ち出すことに意味があるのか、いささか疑問だった。
第3章。「戦争と自殺」。戦前の(昭和8年 1933年)の「死なう団」から説いてい
る。この「死なう団」のおぼろげなイメージはあったが、具体的に事件のあらまし
をが記載されていてありがたい。保坂正康の「死なう団事件」を参考にしたとある。
日蓮が弟子に伝えた「不惜身命」というキーワードでつながる教主と信者。
いつの世でも。日蓮から派生した宗派はやはり過激であったとつくづく思う。
死なう団事件の前年(昭和7年1932年)に「血盟団」による要人暗殺事件がおきて
いる。血盟団のリーダー井上日召もまた法華経信者だった。
ここでもデュルケームが引用される。「歴史にしばしばあらわれる宗教に起因す
る自殺を、集団本位的自殺の一形態と位置づけている」。つまりは、「(死へと傾斜
する)憂鬱な希望からなっている。すなわちそれは、この世の生の彼岸にはるかに
うるわしい前途がのぞまれるということに由来する憂鬱だから」こそ「自死を願う」
のだろう。軍人広田弘毅の死と死なう団、この二つはリンクするとしている。
第4章。「戦後の自殺の閃光」。この章はあまり心に残らなかった。関連書がそ
れなりにあり、朝倉の分析も新味がない。
あまりにも「目的意識」の高い自死は、どうにも遺書等を読んでいても疲れる。「二
十歳のエチュード」もまともに読んだことのない私には、何とも言いようがない。
高野悦子の「二十歳の原点」では、その自死と「政治の季節」を重ね合わせることが
できる。恐ろしく感受性が豊かでなお自省的傾向の強い人。だから死を選んだのか。
また戦後の、「法律(闇売買を否定して、配給だけで暮らした)を守って餓死した
裁判官」は自死なのだろうか。自死と死をも覚悟した行動とは明らかに異なると思
えるのだが。
朝倉は徹底的な反権力志向の持ち主だろう。文中に自死した学生のことを、見
下ろすような視線で語る大河内(当時 大学教授)が登場するが、朝倉は大河内に
隠しようもない軽蔑心を露わにしている。この部分はかなり感情的なものを感じ
る部分だった。教授という肩書きだけで分かったふりをする人間を、朝倉は許せ
ないのだろう。
第5章。「闘争の季節の自殺」。この章はかなり異論もあろうかと思う。岸上大
作、奥浩平の自死は「闘争の中」でのことだが、心中には現実への幻滅の度合いが
大きく、「現実からの一時退出」といったものが感じられる。
斉藤和(東アジア反日武装戦線)の死は、権力への抵抗として、捕らわれた場合
の唯一の反権力の姿勢の現れであったのか。奥浩平の死とはかなり意味合いが違
うだろう。斉藤については、松下竜一の著作(「狼煙を見よ」)があり、本書と比べ
ても興味深い。
この斉藤和と朝倉が一時行動を共にしていた(もちろん 爆弾闘争ではないが)
ことを知り仰天した。かなり親しく付き合っており、斉藤の妻であった浴田とも
会っていたとは。この第5章は期待薄かと思っていた、実は一番興味深い。
こう書いていても、いくつかの耳目を引く自死のパターンを見せられただけと
いう感もある。自死はやはりあってはならない「異常なこと」ではあるが、「了解可
能」な行為であることも事実。
ただ「自死を意味づける」ことによって、死を軽く感じはしないかと危惧する。
自死を意味づけるより、「生」を意味づけることが大切かと、何やら道徳を説く
お爺さんになった気分。
本書の取り扱う自死の例が少なすぎることもあり、最後は何ともいえない尻切
れトンボのようでもある。この意味で、☆は ☆☆☆ くらいか。
であるために、自死に何らかの意味づけをつけなくてはならなくなる。たぶん、
その「自死」を理解することで、「自死」そのものを「了解可能なこと」に置き換えて、
「納得」したく(そして「安心」したく)なるのだろう。
本書は、独自視点のルポルタージュで定評のある朝倉喬司(敬称略 以下同じ
惜しむらくは2010年に他界された)の自死についての論考的ルポ、といっていい
だろうか。第1章から第6章まで、その時代を象徴するような自死事件から、そ
の当時の社会も描こうとするもの。
第1章は、「万有の真相は唯一言に悉す。曰く不可解、我この恨を懐て煩悶終に
死を決す」で有名な藤村操の自死(明治三六年 1903年)をとりあげている。失恋
のためであったのかという下世話な話も出てくる(私は本書で初めて知った)が、
自死の原因が何であったにせよ、藤村の死はかなりの衝撃を社会に与えた。朝倉
はデュルケームをかなり引用していて、自死の分析のために援用している。
「人生そのものに煩悶して」死を選ぶという行為は、どうにも足下が定まらない
ような不安を覚える。この意味で、「ぼんやりした不安」で死を選んだ芥川龍之介
の死も、他人はただ呆然とするだけであったろう。(ただ芥川の死にある女性が関
わっているとの説もあるが)
第2章では、「三原山の連続自殺幇助事件」が語られる。「自死を決意した」母
校の先輩と同級生の自殺行に随った女性の話である(本人は自死していない)。高
橋たか子(高橋和巳の妻)の、この事件に題材を取った「誘惑者」も引用される。た
か子のこの小説は、随分と観念的であり、現実の「生」の匂いのしない乾いた小説、
と読んだ記憶がある。
この連続自死事件(昭和8年 1933年)に続く、三原山でのさらなる「連続自死」。
「三ヶ月間に九十九名」という驚くべき数に達する。朝倉はこれらの「後追い自死」
を「アノミー的自死」と規定する。
「人々の旧来の営且つの枠組み」が崩壊するときに、「社会が人々の欲望や、それ
をめぐる諸々の感情を適切に規制する力を急激に失い」欲望は自足しなくなる。「方
向性や落ち着き場所を失った欲望が生への意欲を翻弄したあげく、疲れ果てさせ、
死に至らしめる」。こう主張するが、これもデュルケームの分析によるものだろう。
ただ「厭世観」はどこの時代であっても常に存在し、わざわざ「アノミー」概念を
持ち出すことに意味があるのか、いささか疑問だった。
第3章。「戦争と自殺」。戦前の(昭和8年 1933年)の「死なう団」から説いてい
る。この「死なう団」のおぼろげなイメージはあったが、具体的に事件のあらまし
をが記載されていてありがたい。保坂正康の「死なう団事件」を参考にしたとある。
日蓮が弟子に伝えた「不惜身命」というキーワードでつながる教主と信者。
いつの世でも。日蓮から派生した宗派はやはり過激であったとつくづく思う。
死なう団事件の前年(昭和7年1932年)に「血盟団」による要人暗殺事件がおきて
いる。血盟団のリーダー井上日召もまた法華経信者だった。
ここでもデュルケームが引用される。「歴史にしばしばあらわれる宗教に起因す
る自殺を、集団本位的自殺の一形態と位置づけている」。つまりは、「(死へと傾斜
する)憂鬱な希望からなっている。すなわちそれは、この世の生の彼岸にはるかに
うるわしい前途がのぞまれるということに由来する憂鬱だから」こそ「自死を願う」
のだろう。軍人広田弘毅の死と死なう団、この二つはリンクするとしている。
第4章。「戦後の自殺の閃光」。この章はあまり心に残らなかった。関連書がそ
れなりにあり、朝倉の分析も新味がない。
あまりにも「目的意識」の高い自死は、どうにも遺書等を読んでいても疲れる。「二
十歳のエチュード」もまともに読んだことのない私には、何とも言いようがない。
高野悦子の「二十歳の原点」では、その自死と「政治の季節」を重ね合わせることが
できる。恐ろしく感受性が豊かでなお自省的傾向の強い人。だから死を選んだのか。
また戦後の、「法律(闇売買を否定して、配給だけで暮らした)を守って餓死した
裁判官」は自死なのだろうか。自死と死をも覚悟した行動とは明らかに異なると思
えるのだが。
朝倉は徹底的な反権力志向の持ち主だろう。文中に自死した学生のことを、見
下ろすような視線で語る大河内(当時 大学教授)が登場するが、朝倉は大河内に
隠しようもない軽蔑心を露わにしている。この部分はかなり感情的なものを感じ
る部分だった。教授という肩書きだけで分かったふりをする人間を、朝倉は許せ
ないのだろう。
第5章。「闘争の季節の自殺」。この章はかなり異論もあろうかと思う。岸上大
作、奥浩平の自死は「闘争の中」でのことだが、心中には現実への幻滅の度合いが
大きく、「現実からの一時退出」といったものが感じられる。
斉藤和(東アジア反日武装戦線)の死は、権力への抵抗として、捕らわれた場合
の唯一の反権力の姿勢の現れであったのか。奥浩平の死とはかなり意味合いが違
うだろう。斉藤については、松下竜一の著作(「狼煙を見よ」)があり、本書と比べ
ても興味深い。
この斉藤和と朝倉が一時行動を共にしていた(もちろん 爆弾闘争ではないが)
ことを知り仰天した。かなり親しく付き合っており、斉藤の妻であった浴田とも
会っていたとは。この第5章は期待薄かと思っていた、実は一番興味深い。
こう書いていても、いくつかの耳目を引く自死のパターンを見せられただけと
いう感もある。自死はやはりあってはならない「異常なこと」ではあるが、「了解可
能」な行為であることも事実。
ただ「自死を意味づける」ことによって、死を軽く感じはしないかと危惧する。
自死を意味づけるより、「生」を意味づけることが大切かと、何やら道徳を説く
お爺さんになった気分。
本書の取り扱う自死の例が少なすぎることもあり、最後は何ともいえない尻切
れトンボのようでもある。この意味で、☆は ☆☆☆ くらいか。