著作集第6巻の『科学と近代世界』は、『過程と実在』、『観念の冒険』と並ぶ「形而上学三部作」の中でも、一番よく読まれている著作だと言われている。その理由は、近代自然科学によって何が得られ、何が失われたかを時代ごとに考察した科学史的な議論の鮮やかな論証によるのだろう。
近代科学の登場を天才的な知の革命として評価する一方で、科学的なコスモロジーを「科学的唯物論」だと批判する切り口は、A.コイレなどの先駆ともいえる。今日でも学ぶところの多い考察だ。
本書の最大の見どころは、科学史・科学哲学の明晰で批判的な記述のあいだから、次第に、生きた自然という観点を取り戻そうとする宇宙論的思弁があらわれて、「有機体の哲学」が提唱されていくところだろう。これがホワイトヘッド独自の壮大な哲学体系を形成していくのだが、議論が批判的記述から体系構築へと移っていくと、にわかに内容が難解になってしまう。ラッセルなどもそのあたりを批判している。
だが、この本の本領は、批判的記述を入り口にして、「有機体の哲学」を形成していく思考の展開にある。ホワイトヘッド哲学にはさまざまなアプローチが可能だけれど、ここでは、ラッセルも絶賛した前半の科学史・科学哲学、彼が批判した各章の終わりに論述された形而上学的宇宙論、後半の宗教哲学、最終章の文明論など、読者に多くの入り口が用意されている。科学基礎論的な議論よりも社会哲学や歴史哲学の方面からの方が入りやすいという人は、最終章から読むのもいいと思う。文学、特にロマンティシズムの英詩が扱われている第5章も、ホワイトヘッドの文学的・美的なセンスが科学批判と織り合わさって、近代自然科学の時代の詩人たちが直面した宇宙論的な課題と煩悶を描きだし、奥深い余韻を残してくれる。
訳文も逐語的というより文学的な響きを感じさせて、ホワイトヘッドにしては平易だし、内容的にもこれだけ多彩な間口を用意してくれている本書は、有機体の哲学の思弁的宇宙への最良の入門書だと言える。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
ホワイトヘッド著作集 第6巻 単行本 – 1981/2/1
科学と近代世界
- 本の長さ342ページ
- 言語日本語
- 出版社松籟社
- 発売日1981/2/1
- ISBN-104879840149
- ISBN-13978-4879840141
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 松籟社 (1981/2/1)
- 発売日 : 1981/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 342ページ
- ISBN-10 : 4879840149
- ISBN-13 : 978-4879840141
- Amazon 売れ筋ランキング: - 439,008位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中4.5つ
5つのうち4.5つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
3グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本を読むなら注意すべきは、ホワイトヘッドの形而上学、「有機体の哲学」が開花しているせいで、文中の半分は、彼の晩年の著作「過程と実在」につながる論旨が出てくることだ。この辺が多くの人にこの本を読みにくくしている。
しかし、当時この本は英米の一般書の出版社からも出されて、イタリア語、ドイツ語、オランダ語、スペイン語、そしてこの日本語と翻訳も出されたことで哲学者ホワイトヘッドを有名にした。1925年出版なので、もう100年近く前ではあるが、日本でこの本は一般書としては間違いなく読まれておらず、カントとかニーチェと違って「晦渋」であるとか、「難解」であるとかで研究者からお墨を与えられてしまって、現代でも日本人で何千人がホワイトヘッドの著書を読んだだろうか?という有様だ。
私は、このホワイトヘッドの翻訳が良いとは必ずしも言えない。eventを「出来事」と翻訳しているが、これはそのままイベントとカタカナ表記の方が現代では良さそうと思える。理由は、インターネットの発達と、テレビゲームの流行、そしてライトノベルの流行によって、「ゲーム的世界認識」が日本では「仮想空間」ではなく、<現実>世界との観念が容易に入れ替え可能な時代になったからだ。「出来事」は後の「過程と実在」ではアクチュアル・エンティティ(actual entity )という用語になっており、ホワイトヘッドは新たな用語を考え出すことで、有機的に「つながる」哲学を構築しようとした苦労が伺える。硬直化した用語ではなく、連続的、関係的なコスモロジー=自然哲学をもって、専門化された学の分断を食い止めることで、「延長的抽象化」という方法で体系構築の熱意を感じる。
正直言えば、必ずしも日本ではホワイトヘッドの用語が翻訳されたことで、隠喩や換喩といった本来の英単語ならすぐに判然とする用語の良さが浮上せず、却って難解と呼ばれる様になったせいなのは否定できない。実際にホワイトヘッドの著書の場合、actual entityの一語を取っても、日本語に置き換えると、actualでも「現れ、現実の、実際の、現行の、具象的」、entityは「実体、存在、実在、存在、実在物、実体、本体、自主独立体」という類語が山ほど出てくる。日本語の良い点は、外来語をカタカナ表記にすることで、無理に日本語化しなくても出自が明快のまま語彙を使用出来るところだ。
実際にホワイトヘッドの解説書もアクチュアル・エンティティをそのまま使っている本もある位だ。イベントなどは現代の日本ならカタカナでもOKかと思う。しかし、「抱握」については、prehensionはそのまま日本語に翻訳すると「把握」になってしまう。conprehend(理解する)とも繋がる用語で、apprehension(不安、疑い)とも繋がっていく。この本の解説でもapprehension(意識的把握)からapを取ることでprehension(無意識的把握)という用語を編み出したと書いてある。ホワイトヘッドの苦労が伺える。創発(emergence)に関しては、現代の複雑系理論でもって有名になったおかげで、そのまま使用出来るが、ホワイトヘッドが意識的にこの言葉を使ったことは、この本が初めてとわかる。欧米の生命システム論の著者で、ホワイトヘッドの著書が良く読まれているが当然なのは、今更ながら理解できる。
科学哲学者だったマイケル・ポランニーは、「 個人的知識―脱批判哲学をめざして 」でこの「科学と近代世界」を本を良く読み込んでいることが分かる(引用参考文献に多くの掲載がある)。しかも、ホワイトヘッドとラッセルの共著「プリンキピア・マテマティカ」も読んでいる。これは日本語訳もまだ成されてない大著であるが、これすら読んでいる様だ。ポランニーは、科学批評の水準がホワイトヘッドに近いことには気づいていた(同じことを松岡正剛氏も指摘している)が、何よりも「生命」システム論の用語が、ホワイトヘッドのものにとても似ていることが随分前から、私は気づいていた。このことを日本の研究者達は気づいていないのが不思議な位であるが、怠慢なのか、無視を決め込んでいるかは不明であるが。
包括的存在(comprehensive entity)という用語が「 暗黙知の次元 」にあるが、これなど、今回の本に書かれている「抱握」(prehension)とも繋がっている。創発(emergence)に関する認識論は、この頃のホワイトヘッドの水準をさすがに超えているが、その土台にホワイトヘッドがあったことは、研究者の間では「無視」されている。間接的ではあるが、ホワイトヘッドの著書を読んだことでメルロ=ポンティも「 眼と精神 」を書くきっかけになったことは有名である。メルロ=ポンティは、マイケル・ポランニーの思想で参照している数少ない哲学者である。思想的近接性の高さから同じことに気づいたということは、科学の世界ではよくあることなので、この辺で止めておく。
しかし、ホワイトヘッドの有機体の哲学で全てのことを「この世界」を「この哲学」の「計画」で読み解こうというのはさすがに無理がある。この本の最後にT・S・エリオットの評論「詩と宣伝」が掲載されていて、この本の「ロマン主義的反動」章に関して批評しているが、この論評のエリオットの意見に私は同意する。
M・H・ニコルソン「 暗い山と栄光の山 」という本がある。ここでワーズワースが山の栄光を称える詩を書いているが、僅か100年程前まの17世紀(1600年代)の英国に人々にとって、「山」は<世界>の美観を損ない、地上の調和を脅かす不快な突起物でしかなかった。「疣(いぼ)、瘤(こぶ)、火ぶくれ、腫物(はれもの)」といった語句で山を形容し、高くそびえたつ山々の威容に、貪欲で罪深い人間たちへの神の怒りと、来たるべき審判の予兆を見出していた。この変化はロマン主義的反動などでは決して無く、科学的認識の普及や、博物学的な視点の導入による「無意識的な認識」の変容にこそあることが分かる。「膨大な」資料を元にその変化をトマス・バーネットの奇書「地球の聖なる理論」以前と以後に分け、読み解く大著である。
ホワイトヘッドの哲学は「過剰な」思索を嫌っている点がある。しかし、時代を読み解くのにこの博覧強記とも獰猛とも受け取られかねない「博物学的手法=網羅的手法」にこそ、有効性があることが多い。「抱握」(prehension)はfeeling(感じ)を掴むという意味でもある。従って、その時代を読み解くならそのフィーリングにこそ「どっぷりと漬かる」ことが無ければ、把握することは厳しいのではないか。
その意味では科学以外の分野でのホワイトヘッドの「ロマン主義的反動」の章だけは「勇み足」だったと私は思う。似たようなことはマイケル・ポランニーも経済理論で書いて同じ様な失敗をしている。この辺は兄のカール・ポランニーの方が流石に上かと思う。けれど、ホワイトヘッドによる教育論は今読んでも流石に面白い(理由は本職の教育者だからだ)。得意分野は誰にでもある。「万能理論」、万能哲学など人類には荷が重すぎると私は思う。
しかし、当時この本は英米の一般書の出版社からも出されて、イタリア語、ドイツ語、オランダ語、スペイン語、そしてこの日本語と翻訳も出されたことで哲学者ホワイトヘッドを有名にした。1925年出版なので、もう100年近く前ではあるが、日本でこの本は一般書としては間違いなく読まれておらず、カントとかニーチェと違って「晦渋」であるとか、「難解」であるとかで研究者からお墨を与えられてしまって、現代でも日本人で何千人がホワイトヘッドの著書を読んだだろうか?という有様だ。
私は、このホワイトヘッドの翻訳が良いとは必ずしも言えない。eventを「出来事」と翻訳しているが、これはそのままイベントとカタカナ表記の方が現代では良さそうと思える。理由は、インターネットの発達と、テレビゲームの流行、そしてライトノベルの流行によって、「ゲーム的世界認識」が日本では「仮想空間」ではなく、<現実>世界との観念が容易に入れ替え可能な時代になったからだ。「出来事」は後の「過程と実在」ではアクチュアル・エンティティ(actual entity )という用語になっており、ホワイトヘッドは新たな用語を考え出すことで、有機的に「つながる」哲学を構築しようとした苦労が伺える。硬直化した用語ではなく、連続的、関係的なコスモロジー=自然哲学をもって、専門化された学の分断を食い止めることで、「延長的抽象化」という方法で体系構築の熱意を感じる。
正直言えば、必ずしも日本ではホワイトヘッドの用語が翻訳されたことで、隠喩や換喩といった本来の英単語ならすぐに判然とする用語の良さが浮上せず、却って難解と呼ばれる様になったせいなのは否定できない。実際にホワイトヘッドの著書の場合、actual entityの一語を取っても、日本語に置き換えると、actualでも「現れ、現実の、実際の、現行の、具象的」、entityは「実体、存在、実在、存在、実在物、実体、本体、自主独立体」という類語が山ほど出てくる。日本語の良い点は、外来語をカタカナ表記にすることで、無理に日本語化しなくても出自が明快のまま語彙を使用出来るところだ。
実際にホワイトヘッドの解説書もアクチュアル・エンティティをそのまま使っている本もある位だ。イベントなどは現代の日本ならカタカナでもOKかと思う。しかし、「抱握」については、prehensionはそのまま日本語に翻訳すると「把握」になってしまう。conprehend(理解する)とも繋がる用語で、apprehension(不安、疑い)とも繋がっていく。この本の解説でもapprehension(意識的把握)からapを取ることでprehension(無意識的把握)という用語を編み出したと書いてある。ホワイトヘッドの苦労が伺える。創発(emergence)に関しては、現代の複雑系理論でもって有名になったおかげで、そのまま使用出来るが、ホワイトヘッドが意識的にこの言葉を使ったことは、この本が初めてとわかる。欧米の生命システム論の著者で、ホワイトヘッドの著書が良く読まれているが当然なのは、今更ながら理解できる。
科学哲学者だったマイケル・ポランニーは、「 個人的知識―脱批判哲学をめざして 」でこの「科学と近代世界」を本を良く読み込んでいることが分かる(引用参考文献に多くの掲載がある)。しかも、ホワイトヘッドとラッセルの共著「プリンキピア・マテマティカ」も読んでいる。これは日本語訳もまだ成されてない大著であるが、これすら読んでいる様だ。ポランニーは、科学批評の水準がホワイトヘッドに近いことには気づいていた(同じことを松岡正剛氏も指摘している)が、何よりも「生命」システム論の用語が、ホワイトヘッドのものにとても似ていることが随分前から、私は気づいていた。このことを日本の研究者達は気づいていないのが不思議な位であるが、怠慢なのか、無視を決め込んでいるかは不明であるが。
包括的存在(comprehensive entity)という用語が「 暗黙知の次元 」にあるが、これなど、今回の本に書かれている「抱握」(prehension)とも繋がっている。創発(emergence)に関する認識論は、この頃のホワイトヘッドの水準をさすがに超えているが、その土台にホワイトヘッドがあったことは、研究者の間では「無視」されている。間接的ではあるが、ホワイトヘッドの著書を読んだことでメルロ=ポンティも「 眼と精神 」を書くきっかけになったことは有名である。メルロ=ポンティは、マイケル・ポランニーの思想で参照している数少ない哲学者である。思想的近接性の高さから同じことに気づいたということは、科学の世界ではよくあることなので、この辺で止めておく。
しかし、ホワイトヘッドの有機体の哲学で全てのことを「この世界」を「この哲学」の「計画」で読み解こうというのはさすがに無理がある。この本の最後にT・S・エリオットの評論「詩と宣伝」が掲載されていて、この本の「ロマン主義的反動」章に関して批評しているが、この論評のエリオットの意見に私は同意する。
M・H・ニコルソン「 暗い山と栄光の山 」という本がある。ここでワーズワースが山の栄光を称える詩を書いているが、僅か100年程前まの17世紀(1600年代)の英国に人々にとって、「山」は<世界>の美観を損ない、地上の調和を脅かす不快な突起物でしかなかった。「疣(いぼ)、瘤(こぶ)、火ぶくれ、腫物(はれもの)」といった語句で山を形容し、高くそびえたつ山々の威容に、貪欲で罪深い人間たちへの神の怒りと、来たるべき審判の予兆を見出していた。この変化はロマン主義的反動などでは決して無く、科学的認識の普及や、博物学的な視点の導入による「無意識的な認識」の変容にこそあることが分かる。「膨大な」資料を元にその変化をトマス・バーネットの奇書「地球の聖なる理論」以前と以後に分け、読み解く大著である。
ホワイトヘッドの哲学は「過剰な」思索を嫌っている点がある。しかし、時代を読み解くのにこの博覧強記とも獰猛とも受け取られかねない「博物学的手法=網羅的手法」にこそ、有効性があることが多い。「抱握」(prehension)はfeeling(感じ)を掴むという意味でもある。従って、その時代を読み解くならそのフィーリングにこそ「どっぷりと漬かる」ことが無ければ、把握することは厳しいのではないか。
その意味では科学以外の分野でのホワイトヘッドの「ロマン主義的反動」の章だけは「勇み足」だったと私は思う。似たようなことはマイケル・ポランニーも経済理論で書いて同じ様な失敗をしている。この辺は兄のカール・ポランニーの方が流石に上かと思う。けれど、ホワイトヘッドによる教育論は今読んでも流石に面白い(理由は本職の教育者だからだ)。得意分野は誰にでもある。「万能理論」、万能哲学など人類には荷が重すぎると私は思う。