気分がのらなくていまいち世界に入り込めなかった。
主人公がある本を読んでいる、という「読み手」を追う二重構造は面白いのだけど
タイトルの通り、おしまいや終末へ向かいどんどんどんどん沈んでいく様が今の気分ではなかった。
高齢の著者がおしまいを前にして感じたことはこういった感覚だったのか。
救いや感謝や光を感じなかったのか、最近祖母を亡くした私にはちょっと寂しさを感じた。
時をおいて再度読んでみたいと思う。
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沈みゆく人: 私ファンタジ- 単行本 – 2010/12/1
眉村 卓
(著)
- 本の長さ251ページ
- 言語日本語
- 出版社出版芸術社
- 発売日2010/12/1
- 寸法13 x 1.8 x 19 cm
- ISBN-104882934019
- ISBN-13978-4882934011
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登録情報
- 出版社 : 出版芸術社 (2010/12/1)
- 発売日 : 2010/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 251ページ
- ISBN-10 : 4882934019
- ISBN-13 : 978-4882934011
- 寸法 : 13 x 1.8 x 19 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,406,133位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 363,558位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年12月19日に日本でレビュー済み
170頁の表題作中篇と、あと30頁に満たない短篇3本を収録。著者はあとがきで、本書に就て「私(わたくし)ファンタジー」と名づけている。たしかに各篇の主人公の名前こそ、それぞれに違うけれども、住んでいる地域や、何年か前に妻を亡くした男やもめであることなど、いかにも著者自身を髣髴とさせる設定になっているのは間違いない。とはいえ「私小説」ではない。リアリズム小説ではないからだ。
「沈みゆく人」の主人公である「私」は、ひょんなことで自費出版本と思しい本を贈呈される。それは読む者の内面を反映してストーリーが変化するというもので、読者がストーリーに同調してしまうと、本の中にとり込まれてしまい、あとには「抜け殻」が残されるようになってしまうというものらしい。
試みに読み始めた主人公だったが、最初はストーリー(エピソード?)も短く、読者である主人公に完全にフィットするものではなかった。が、読み返すごとに物語は変化し、次第に主人公に同調した話になっていく。ストーリーも長くなり、詳細にもなっていったのだ。
この作中作というべき(太字で表現された)ストーリーというかエピソードがなかなか面白い。とりわけ作中の「私」がXYZの3人に分裂してしまうエピソードは実にもって興味深い。
そうこうするうちに主人公は、本の文字の色が少し薄くなっていることに気づく。――ここまでが、いわゆる序破急の序にあたる部分といえよう。そして破がくる。すなわち、次に主人公がその本を開けたとき、文字は消え去って白紙になっていたのだ……。
本が白紙になってしまったということは、要するに読者が本の中にとり込まれてしまったということなのだろう(説明はいっさいない)。なぜなら、それまでは、主人公はかつて結婚していて、妻は既に亡くなっているけれども、子供は海外で暮らしているという設定だったはずなのに、ここに至って突然、子供はいないという設定に変わっており、やがて結婚もしていないとなる。そしてなぜか、とうに亡くなった妻がいたという「偽記憶」がありありと身に迫ってきて、主人公を当惑させる。
かかる相転移を見逃すと(ガイドする説明はいっさいないので。というかそのような変化がサインになっているのだが)、著者がうっかりミスしているのではないかと誤認してしまう方が、万一いないとも限らないのでご注意。なお、更に蛇足を重ねるならば、本の中に飛び込んだ主人公の抜け殻が、現実世界に残されて日常生活を送っているはずなのだが、それは本篇では描かれていない。
さて、その世界で主人公は、体の調子も思わしくなく、死がすぐ間近にせまって来ているような予感をいだいている。そしてなぜか世界そのものも、終末を迎えようとしている風なのだ。かくのごとく作品の背景には、最初から通奏低音のように「滅び」の予兆がひしひしと漲っている。主人公はなかば傍観者の態度で、ときおり「はは」と薄く笑うのだが、それはまさに主人公と世界の間の離人症的乖離感を表現している。
私はこのへん、ヴォネガットに非常に近しい《世界への構え》を感じないではいられなかったのだが……。
ともあれかくのごとく本が白紙になって、主人公はいつのまにか、現実とそっくりながら、少しずつ違う世界に放りこまれている。その世界では、若者は不思議なファッションに身を包み、世界はガンマ線バーストやら小惑星の衝突やらが目前に迫っているらしい。そんな世界で、主人公は「偽記憶」として現われる「現実の」記憶の、ありありとした「現実」らしさに当惑する。それはまるでディックの現実崩壊的悪夢世界を想起させるものだ。
全てにおいて生き生きとした現実感を失った主人公は、そのときくだんの、白紙になった本を思い出す。もしここに自分自身が物語を書き込めばどうなるのか? 主人公が書き込んだのは、無限の砂漠にまっすぐに伸びた一本の道だった……
私はこの安部公房的な開示に、ちょっと違和感を持った。ここはやはり(著者がいくつかの著書で繰り返し還っていった、戦後の、あの)「原っぱ」が展けているべきではないのか。
しかし、あとがきを読んで私は、私のその疑問が浅はかなものであったことを知る。「原っぱ」では畢竟過去への逃避でしかない――そう気づかされたのだ。一本の道は、まっすぐ「未来」へと伸びているのだ。だから「原っぱ」ではいけない。あとがきで著者は、「エイやん」(『新・異世界分岐点』所収/出版芸術社刊)は挽歌だったと述べている。では本篇は? そう「始まり」「出生の歌」なのだ。あるいは「再生」の歌。
――「終末」の暗い予兆に満ちた本篇は、しかし最後に「未来」への一条の光を見いだして幕を閉じる……
引き締まった傑作だ。
あとの短篇も、それぞれ面白い。とりわけ「板返し」の繰り返しのアイデアは、一見「しゃっくり」の後追いみたいだけれども、観念性はぜんぜん別ものである。私は思うのだが、著者はこれを書いているとき、ラストの暴力シーンでは、いったいどちらに思い入れして書いたのだろうかと。私は加害者の方だと思うのだが。
「じきにこけるよ」は、最初と最後が対応する短篇小説の教科書のような佳篇。「住んでいた号室」で、主人公がテレポートしたのは一体どこだったんだろう?
以上、著者4年ぶり、待望の新作である本書は、まさにその期待を裏切らない、期待にこたえて余りある秀作集でした。
「沈みゆく人」の主人公である「私」は、ひょんなことで自費出版本と思しい本を贈呈される。それは読む者の内面を反映してストーリーが変化するというもので、読者がストーリーに同調してしまうと、本の中にとり込まれてしまい、あとには「抜け殻」が残されるようになってしまうというものらしい。
試みに読み始めた主人公だったが、最初はストーリー(エピソード?)も短く、読者である主人公に完全にフィットするものではなかった。が、読み返すごとに物語は変化し、次第に主人公に同調した話になっていく。ストーリーも長くなり、詳細にもなっていったのだ。
この作中作というべき(太字で表現された)ストーリーというかエピソードがなかなか面白い。とりわけ作中の「私」がXYZの3人に分裂してしまうエピソードは実にもって興味深い。
そうこうするうちに主人公は、本の文字の色が少し薄くなっていることに気づく。――ここまでが、いわゆる序破急の序にあたる部分といえよう。そして破がくる。すなわち、次に主人公がその本を開けたとき、文字は消え去って白紙になっていたのだ……。
本が白紙になってしまったということは、要するに読者が本の中にとり込まれてしまったということなのだろう(説明はいっさいない)。なぜなら、それまでは、主人公はかつて結婚していて、妻は既に亡くなっているけれども、子供は海外で暮らしているという設定だったはずなのに、ここに至って突然、子供はいないという設定に変わっており、やがて結婚もしていないとなる。そしてなぜか、とうに亡くなった妻がいたという「偽記憶」がありありと身に迫ってきて、主人公を当惑させる。
かかる相転移を見逃すと(ガイドする説明はいっさいないので。というかそのような変化がサインになっているのだが)、著者がうっかりミスしているのではないかと誤認してしまう方が、万一いないとも限らないのでご注意。なお、更に蛇足を重ねるならば、本の中に飛び込んだ主人公の抜け殻が、現実世界に残されて日常生活を送っているはずなのだが、それは本篇では描かれていない。
さて、その世界で主人公は、体の調子も思わしくなく、死がすぐ間近にせまって来ているような予感をいだいている。そしてなぜか世界そのものも、終末を迎えようとしている風なのだ。かくのごとく作品の背景には、最初から通奏低音のように「滅び」の予兆がひしひしと漲っている。主人公はなかば傍観者の態度で、ときおり「はは」と薄く笑うのだが、それはまさに主人公と世界の間の離人症的乖離感を表現している。
私はこのへん、ヴォネガットに非常に近しい《世界への構え》を感じないではいられなかったのだが……。
ともあれかくのごとく本が白紙になって、主人公はいつのまにか、現実とそっくりながら、少しずつ違う世界に放りこまれている。その世界では、若者は不思議なファッションに身を包み、世界はガンマ線バーストやら小惑星の衝突やらが目前に迫っているらしい。そんな世界で、主人公は「偽記憶」として現われる「現実の」記憶の、ありありとした「現実」らしさに当惑する。それはまるでディックの現実崩壊的悪夢世界を想起させるものだ。
全てにおいて生き生きとした現実感を失った主人公は、そのときくだんの、白紙になった本を思い出す。もしここに自分自身が物語を書き込めばどうなるのか? 主人公が書き込んだのは、無限の砂漠にまっすぐに伸びた一本の道だった……
私はこの安部公房的な開示に、ちょっと違和感を持った。ここはやはり(著者がいくつかの著書で繰り返し還っていった、戦後の、あの)「原っぱ」が展けているべきではないのか。
しかし、あとがきを読んで私は、私のその疑問が浅はかなものであったことを知る。「原っぱ」では畢竟過去への逃避でしかない――そう気づかされたのだ。一本の道は、まっすぐ「未来」へと伸びているのだ。だから「原っぱ」ではいけない。あとがきで著者は、「エイやん」(『新・異世界分岐点』所収/出版芸術社刊)は挽歌だったと述べている。では本篇は? そう「始まり」「出生の歌」なのだ。あるいは「再生」の歌。
――「終末」の暗い予兆に満ちた本篇は、しかし最後に「未来」への一条の光を見いだして幕を閉じる……
引き締まった傑作だ。
あとの短篇も、それぞれ面白い。とりわけ「板返し」の繰り返しのアイデアは、一見「しゃっくり」の後追いみたいだけれども、観念性はぜんぜん別ものである。私は思うのだが、著者はこれを書いているとき、ラストの暴力シーンでは、いったいどちらに思い入れして書いたのだろうかと。私は加害者の方だと思うのだが。
「じきにこけるよ」は、最初と最後が対応する短篇小説の教科書のような佳篇。「住んでいた号室」で、主人公がテレポートしたのは一体どこだったんだろう?
以上、著者4年ぶり、待望の新作である本書は、まさにその期待を裏切らない、期待にこたえて余りある秀作集でした。