プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
¥1,980¥1,980 税込
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
¥1,980¥1,980 税込
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥1¥1 税込
配送料 ¥350 6月13日-14日にお届け
発送元: もったいない本舗 ※通常24時間以内に出荷可能です。 ※商品状態保証。 販売者: もったいない本舗 ※通常24時間以内に出荷可能です。 ※商品状態保証。
¥1¥1 税込
配送料 ¥350 6月13日-14日にお届け
発送元: もったいない本舗 ※通常24時間以内に出荷可能です。 ※商品状態保証。
販売者: もったいない本舗 ※通常24時間以内に出荷可能です。 ※商品状態保証。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
本当の翻訳の話をしよう 単行本 – 2019/5/9
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,980","priceAmount":1980.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,980","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"PZH4GfZZuiaYzXOyyLpL8%2Bs2GR4ofEUzZlaPYgFXSIGPCh5%2FezWOVKiDXxBEE9Tc1XhMnn5Nf3xtQ7TQjJqtDWwRvZEeby0cofRHi%2BzGqJRrLtYgmrLvbwimxL3U9JmauKh02q8xZLk%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥1","priceAmount":1.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"PZH4GfZZuiaYzXOyyLpL8%2Bs2GR4ofEUzZ99SiWkBhsY7gkT0vzVYXg3oiYhHlu8it%2B%2F4AmSGv2uU%2FAHvftnL1PLUfHe7myUJPkU8BvwtsnjnE4exCaGi99ZA%2BJsm7znph9Vy%2BLfXPLu98fuNs24xrtcL8juk%2FDgq2i5l1JVfuyuasiKCvX04PA%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
村上春樹と柴田元幸の対談集、ついに刊行決定。
文芸誌『MONKEY』を主な舞台に重ねられた、
小説と翻訳をめぐる対話が一冊に。
【CONTENTS】
帰れ、あの翻訳(村上+柴田)
翻訳の不思議(村上+柴田)
日本翻訳史 明治篇(柴田)
小説に大事なのは礼儀正しさ(村上+柴田)
短篇小説のつくり方(村上+柴田)
共同体から受け継ぐナラティブ——『チャイナ・メン』(村上+柴田)
饒舌と自虐の極北へ——『素晴らしいアメリカ野球』(村上+柴田)
翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう(村上+柴田)
文芸誌『MONKEY』を主な舞台に重ねられた、
小説と翻訳をめぐる対話が一冊に。
【CONTENTS】
帰れ、あの翻訳(村上+柴田)
翻訳の不思議(村上+柴田)
日本翻訳史 明治篇(柴田)
小説に大事なのは礼儀正しさ(村上+柴田)
短篇小説のつくり方(村上+柴田)
共同体から受け継ぐナラティブ——『チャイナ・メン』(村上+柴田)
饒舌と自虐の極北へ——『素晴らしいアメリカ野球』(村上+柴田)
翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう(村上+柴田)
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社スイッチパブリッシング
- 発売日2019/5/9
- ISBN-104884184661
- ISBN-13978-4884184667
よく一緒に購入されている商品
対象商品: 本当の翻訳の話をしよう
¥1,980¥1,980
最短で6月12日 水曜日のお届け予定です
残り1点(入荷予定あり)
¥1,650¥1,650
最短で6月12日 水曜日のお届け予定です
残り6点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : スイッチパブリッシング (2019/5/9)
- 発売日 : 2019/5/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4884184661
- ISBN-13 : 978-4884184667
- Amazon 売れ筋ランキング: - 416,271位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 434位論文集・講演集・対談集
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中4.2つ
5つのうち4.2つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
33グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年5月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Hardをタフと訳したことはどうなのだろう。
ここで知り得た秘密が凄い。
やはり原書は大切だと実感。
ここで知り得た秘密が凄い。
やはり原書は大切だと実感。
2019年11月24日に日本でレビュー済み
『本当の翻訳の話をしよう』(村上春樹・柴田元幸著、スイッチ・パブリッシング)は、作家・翻訳家の村上春樹と、翻訳家の柴田元幸の翻訳を巡る対談集です。
「●村上=南部からはマッカラーズ、カポーティ、フォークナーのような荒っぽい風が吹いてきて、東部と南部がとてもいい具合にお互いを刺激していた。僕はカポーティやマッカラーズが南部に落着いているんじゃなくて、ニューヨークに出てきて、そこで違和感を覚えながらも創作活動を続けている感じが、割に好ましいと思っていて、そうした南部からの文化の流入は、60年代にラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスやボルヘスが入り込んできたときのインパクトに匹敵するんじゃないかと」。
レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」という有名な台詞について。「●村上=そもそもハード(hard)とタフ(tough)は違いますよね。●柴田=はい、違います。hardは『無情』『非情』という完全に否定的な意味ですが、日本語の『タフ』はそうでない。だから、もしhardを『タフ』と訳すと、彼女の最初の問いが成り立たなくなる。hardな人間がgentle(優しい)という逆説に彼女は驚いているわけだから、タフ=強い人間が優しくなるというのは全然逆説ではない。●村上=あと、ここに2回出てくるaliveという言葉が大事だと思うんです。『生きていけない』のところは原文ではI wouldn’t be aliveですが、これは『生き続けてはいけない』という意味ですよね。●柴田=ええ、ロサンゼルスの厳しい裏世界で今ごろ生きちゃいないだろう、ということですね。●村上=そういう意味では『タフでなければ生きていけない』というのはかなりの意訳なんですが、響きとしてはいいんですよ。●柴田=かっこいいですよね。●村上=読む方としては気持ちいいんだけど、翻訳としてはちょっとまずい。翻訳者としては難しいところです。僕はhardを『厳しい心を持つ』というふうに置き換えている。ずいぶん迷って何度も書き直し、ゲラの段階でも何度も書き直して,やっとこの訳に落着いたんだけど。●柴田=たぶん『無情』ではネガティブすぎると思われたのでは。●村上=というか言葉の響きがあまり好きじゃない。●柴田=この文脈をいったん離れて考えると、人をhardだ、というのはすごく否定的です。たとえば“You are a hard man, Mr. Murakami”と言ったら『村上さん、あんたは血も涙もない人だ』みたいな意味だから、ここでもhardはかなりネガティブに訳す方が妥当です。それで僕は『無情でなければ』と否定的な感じを強調して訳したんですが、さすがにこれでは読者がマーロウを好きにならないだろうなという自覚はあります(笑)。●村上=そうですね(笑)。●柴田=村上さんがhardを『厳しい心を持たずに』と訳したのは、そのあたりをやや和らげた感じでしょうか? ●村上=うん。ちょっと引き延ばして訳したんですね。もう少しネガティブな要素があった方がいいかもしれない。●柴田=ただ、ここで大事なのはhardとgentleのコントラストであって、村上さんの訳では、『厳しい』と『優しい』というふうに漢字一文字+『しい』のペアになっていてコントラストがきれいにわかる。そこはさすがだと思いました。●村上=I wouldn’t be aliveのところですが、僕はこのaliveを『生きていけない』と訳すのはちょっと荒っぽいと思うんですよね。『生きてはいなかっただろう』というニュアンスがないといけないと思う。●柴田=なるほど。で、村上さんの訳は『生きのびてはいけない』となっているんですね。●村上=でも、僕の訳も柴田さんの訳も口には出しにくいですね。有名な『タフでなければ・・・』の方が覚え易い」。
村上訳は、「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」、一方の柴田訳は、「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなれなければ、生きている資格がない」となっています。
本書からは、翻訳の難しさがひしひしと伝わってきます。
「●村上=南部からはマッカラーズ、カポーティ、フォークナーのような荒っぽい風が吹いてきて、東部と南部がとてもいい具合にお互いを刺激していた。僕はカポーティやマッカラーズが南部に落着いているんじゃなくて、ニューヨークに出てきて、そこで違和感を覚えながらも創作活動を続けている感じが、割に好ましいと思っていて、そうした南部からの文化の流入は、60年代にラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスやボルヘスが入り込んできたときのインパクトに匹敵するんじゃないかと」。
レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」という有名な台詞について。「●村上=そもそもハード(hard)とタフ(tough)は違いますよね。●柴田=はい、違います。hardは『無情』『非情』という完全に否定的な意味ですが、日本語の『タフ』はそうでない。だから、もしhardを『タフ』と訳すと、彼女の最初の問いが成り立たなくなる。hardな人間がgentle(優しい)という逆説に彼女は驚いているわけだから、タフ=強い人間が優しくなるというのは全然逆説ではない。●村上=あと、ここに2回出てくるaliveという言葉が大事だと思うんです。『生きていけない』のところは原文ではI wouldn’t be aliveですが、これは『生き続けてはいけない』という意味ですよね。●柴田=ええ、ロサンゼルスの厳しい裏世界で今ごろ生きちゃいないだろう、ということですね。●村上=そういう意味では『タフでなければ生きていけない』というのはかなりの意訳なんですが、響きとしてはいいんですよ。●柴田=かっこいいですよね。●村上=読む方としては気持ちいいんだけど、翻訳としてはちょっとまずい。翻訳者としては難しいところです。僕はhardを『厳しい心を持つ』というふうに置き換えている。ずいぶん迷って何度も書き直し、ゲラの段階でも何度も書き直して,やっとこの訳に落着いたんだけど。●柴田=たぶん『無情』ではネガティブすぎると思われたのでは。●村上=というか言葉の響きがあまり好きじゃない。●柴田=この文脈をいったん離れて考えると、人をhardだ、というのはすごく否定的です。たとえば“You are a hard man, Mr. Murakami”と言ったら『村上さん、あんたは血も涙もない人だ』みたいな意味だから、ここでもhardはかなりネガティブに訳す方が妥当です。それで僕は『無情でなければ』と否定的な感じを強調して訳したんですが、さすがにこれでは読者がマーロウを好きにならないだろうなという自覚はあります(笑)。●村上=そうですね(笑)。●柴田=村上さんがhardを『厳しい心を持たずに』と訳したのは、そのあたりをやや和らげた感じでしょうか? ●村上=うん。ちょっと引き延ばして訳したんですね。もう少しネガティブな要素があった方がいいかもしれない。●柴田=ただ、ここで大事なのはhardとgentleのコントラストであって、村上さんの訳では、『厳しい』と『優しい』というふうに漢字一文字+『しい』のペアになっていてコントラストがきれいにわかる。そこはさすがだと思いました。●村上=I wouldn’t be aliveのところですが、僕はこのaliveを『生きていけない』と訳すのはちょっと荒っぽいと思うんですよね。『生きてはいなかっただろう』というニュアンスがないといけないと思う。●柴田=なるほど。で、村上さんの訳は『生きのびてはいけない』となっているんですね。●村上=でも、僕の訳も柴田さんの訳も口には出しにくいですね。有名な『タフでなければ・・・』の方が覚え易い」。
村上訳は、「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」、一方の柴田訳は、「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなれなければ、生きている資格がない」となっています。
本書からは、翻訳の難しさがひしひしと伝わってきます。
2020年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
翻訳に興味がある人にはお勧めの本だが,村上春樹好きには特に読まなくても良い本かもしれない。
これが読後の率直な感想です。
これが読後の率直な感想です。
2019年7月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本作は海外の作家の作品を翻訳者としての村上と柴田が論じる一冊である。従い、
当該作家の本を読んだことが無い読者にとっては、いささか理解しがたい点が
出てくる点はやむを得ない。但し、それでも二人の話術ともいうべき語り口で
読ませてしまうところが徳と言えるか。
本書の興趣は、「作家としての村上」と「翻訳者としての柴田」の相似と相違を
読む点にあると僕は思う。
村上は徹底して「作家」という立場から翻訳をしてきている。彼がしばしば本書
で語る「翻訳から学ぶこと」の目的とは、シンプルに自らの執筆に活かすという
点である。対象とする作家の一文、一単語を日本語に直すという作業を通じて
村上はその作家に「寄り添う」ことになる。若しくは、その作家が作品を書き上げた
路を「追体験する」とでも言えば良いのかもしれない。ほの暗い路を村上が
時としては手探りで歩いていく姿が目に浮かぶ。
一方柴田はどうなのか。
柴田はプロの翻訳家であってプロの作家ではない。彼が行う「作業」は基本的には
村上と同じだという点では「相似」である。
但し、目的はおそらく全く違うところにあるはずだ。少なくとも柴田は自らの文体を
作家として磨いていこうというようには思わないような気がする。
村上が作家として文体に徹底的に拘ってきた地点とは違う場所に柴田は立っている
のではなかろうか。そう考えることで村上と柴田の「相違」が浮かび上がってくるように
思える。やや曖昧な話なのだと反省するが、現段階では、僕もここまでしか
語りえない。語りえないことには沈黙するしかないとはどこかの哲学者の言葉
だったことも思い出した。
当該作家の本を読んだことが無い読者にとっては、いささか理解しがたい点が
出てくる点はやむを得ない。但し、それでも二人の話術ともいうべき語り口で
読ませてしまうところが徳と言えるか。
本書の興趣は、「作家としての村上」と「翻訳者としての柴田」の相似と相違を
読む点にあると僕は思う。
村上は徹底して「作家」という立場から翻訳をしてきている。彼がしばしば本書
で語る「翻訳から学ぶこと」の目的とは、シンプルに自らの執筆に活かすという
点である。対象とする作家の一文、一単語を日本語に直すという作業を通じて
村上はその作家に「寄り添う」ことになる。若しくは、その作家が作品を書き上げた
路を「追体験する」とでも言えば良いのかもしれない。ほの暗い路を村上が
時としては手探りで歩いていく姿が目に浮かぶ。
一方柴田はどうなのか。
柴田はプロの翻訳家であってプロの作家ではない。彼が行う「作業」は基本的には
村上と同じだという点では「相似」である。
但し、目的はおそらく全く違うところにあるはずだ。少なくとも柴田は自らの文体を
作家として磨いていこうというようには思わないような気がする。
村上が作家として文体に徹底的に拘ってきた地点とは違う場所に柴田は立っている
のではなかろうか。そう考えることで村上と柴田の「相違」が浮かび上がってくるように
思える。やや曖昧な話なのだと反省するが、現段階では、僕もここまでしか
語りえない。語りえないことには沈黙するしかないとはどこかの哲学者の言葉
だったことも思い出した。
2020年7月23日に日本でレビュー済み
2014年から18年にわたって翻訳家で東大(元)教授の柴田元幸氏が主宰する雑誌〚MONKEY〛に断続的に掲載された、柴田氏と村上春樹氏(以下敬称略)の対話7本からなる対談集である。主にアメリカ小説の魅力を肩の力を抜いて語り合う好書だ。
一読して二人の知識の広さに驚かされる。柴田は学者だから当然かもしれないが、村上の読破量も凄まじい。初章「帰れ、あの翻訳」で二人の読書歴が披露されるが、読んだ作家と作品の多さに呆れてため息もでない。「読書家」として多少の自負もあった私だったが、初めて知る作家名にただただ恥じ入るばかりだ。
私が知らないのは仕方ないとしても、では文学者はどうか、と思って、愛用している平石貴樹〚アメリカ文学史〛(2010年)という1600頁の大著の巻末にある「アメリカ人名索引」を引いてみたら、以下のアメリカ作家は載っていなかった。平石教授も見逃している「問題作家」がいるのかと思うと、柴田村上両氏の蘊蓄の深さに唸る。
エルモア・レナード、ウイリアム・ドレーパー、リング・ラードナー、パトリック・マグラア、ホリス・ヴィアン、ラッセル・バンクス、ジム・ハリスン、デニス・ジョンソン、トム・ジョーンズ
二人とも絶版が多いのに嘆いておられるが、毎年新作が山のように出るのに、旧作を常に揃えて置くというのは、出版社にとって大変だろう。賞味期限切れの翻訳版でも、電子書籍のような形で保存できれば良いと思う。
村上は自分を「長編作家」と称しているが、数え切れないほどの短編も書いており、私自身は彼の短編がひどく好きだ。彼独特の文体は、特に英語版で読むと(翻訳者の能力が勝っているのだが)情感が一層深まる。同じことを考えている人もいて、加藤典洋は〚村上春樹の短編を英語で読む1979-2011〛(講談社)と言う本を出したくらいだ。
書名の話題に戻るが、勿論二人の翻訳方法の違いも例を挙げて説明されている。興味深く読んだが、私の英語力では、両大家に優劣つけるほど資格はない。言えるのは、後の人のほうが、近ごろやかましい「剽窃」問題もあるし、プライドもあり、先人の訳を「無理して」変えざるを得ないと言った御苦労があると思う。例えばギャツビーの”Old sport”などは大変だろう。小川高義氏は二人称として訳出していない。
村上は短編と長編とは本質的に異なると述べ、自作の動機や秘訣についてあっけらかんと語っている。「短編を書こうと思ったら必ずまとめて書きます。ばらばらには書かず、六つか七つ、ざっと書いてしまう。」とか、「昔は短編からふくらませて長編を書くということもありましたが」最近はない。自分の中で「短編の位置が変わって」しまい、「(以)前よりも短編として完結しちゃっているという気がするんです。」短編の完成度を自分で認める、こういった貴重な発言は大変参考になるし、短編ファンとして嬉しい。
さらに興味深いのは、二人が読んだり訳したりしてきたアメリカ作家たちの寸評である。ごく短い言葉で、作家の本質をえぐりだす力が痛快だ。例えば―
「エリスは身銭を切って書いている」が「マキナリーは安全路線の方に移行しつつある」、「カーバー作品は立ち位置が変わる」、「ジョン・ル・カレはぐしゃぐしゃ感が魅力」、「フィッツジェラルドの六割五分は一流半から二流作品」、「チーバーの登場人物は礼儀をわきまえている」、「サリンジャーの短編はムラが多い」、「アップダイクやキャロル・オーツの短編には驚きがない」、「キングストンの作品にはナラティブと言う表現が一番近い」、「自虐的なフィリップ・ロス」、「ピンチョン/ドン・デリーロの評価はまだ不確定」等々、まさに快刀乱麻を断つだ。
最後にアメリカ小説を総評して二人は言う。アメリカには「偉大なアメリカ小説」という概念がある。それは「これだけ立派な国をほとんどゼロから築いたわけだから、文学においてもグレートなノヴェルが書かれなくてならないというところから始まっている」、そして「そういうものを我々(アメリカ人)はまだ持っていないと思っている」と。
そういうアメリカ自体が限りなく変化している。もうWASPの国ではない。作家も今は南米、東欧、アジア出身者が多く、彼らのアメリカへの「疎外」を描く作品がアメリカ文学とされている状態だ。現実のアメリカの混乱もひどく、今は誰もが「偉大なアメリカ小説」を書くことを逡巡していると感じる。いつの日か作家たちのそんなためらいを突き破る新しい「全体」小説が出てくるだろうか。私は期待しつつ、想像もつかないが―。
一読して二人の知識の広さに驚かされる。柴田は学者だから当然かもしれないが、村上の読破量も凄まじい。初章「帰れ、あの翻訳」で二人の読書歴が披露されるが、読んだ作家と作品の多さに呆れてため息もでない。「読書家」として多少の自負もあった私だったが、初めて知る作家名にただただ恥じ入るばかりだ。
私が知らないのは仕方ないとしても、では文学者はどうか、と思って、愛用している平石貴樹〚アメリカ文学史〛(2010年)という1600頁の大著の巻末にある「アメリカ人名索引」を引いてみたら、以下のアメリカ作家は載っていなかった。平石教授も見逃している「問題作家」がいるのかと思うと、柴田村上両氏の蘊蓄の深さに唸る。
エルモア・レナード、ウイリアム・ドレーパー、リング・ラードナー、パトリック・マグラア、ホリス・ヴィアン、ラッセル・バンクス、ジム・ハリスン、デニス・ジョンソン、トム・ジョーンズ
二人とも絶版が多いのに嘆いておられるが、毎年新作が山のように出るのに、旧作を常に揃えて置くというのは、出版社にとって大変だろう。賞味期限切れの翻訳版でも、電子書籍のような形で保存できれば良いと思う。
村上は自分を「長編作家」と称しているが、数え切れないほどの短編も書いており、私自身は彼の短編がひどく好きだ。彼独特の文体は、特に英語版で読むと(翻訳者の能力が勝っているのだが)情感が一層深まる。同じことを考えている人もいて、加藤典洋は〚村上春樹の短編を英語で読む1979-2011〛(講談社)と言う本を出したくらいだ。
書名の話題に戻るが、勿論二人の翻訳方法の違いも例を挙げて説明されている。興味深く読んだが、私の英語力では、両大家に優劣つけるほど資格はない。言えるのは、後の人のほうが、近ごろやかましい「剽窃」問題もあるし、プライドもあり、先人の訳を「無理して」変えざるを得ないと言った御苦労があると思う。例えばギャツビーの”Old sport”などは大変だろう。小川高義氏は二人称として訳出していない。
村上は短編と長編とは本質的に異なると述べ、自作の動機や秘訣についてあっけらかんと語っている。「短編を書こうと思ったら必ずまとめて書きます。ばらばらには書かず、六つか七つ、ざっと書いてしまう。」とか、「昔は短編からふくらませて長編を書くということもありましたが」最近はない。自分の中で「短編の位置が変わって」しまい、「(以)前よりも短編として完結しちゃっているという気がするんです。」短編の完成度を自分で認める、こういった貴重な発言は大変参考になるし、短編ファンとして嬉しい。
さらに興味深いのは、二人が読んだり訳したりしてきたアメリカ作家たちの寸評である。ごく短い言葉で、作家の本質をえぐりだす力が痛快だ。例えば―
「エリスは身銭を切って書いている」が「マキナリーは安全路線の方に移行しつつある」、「カーバー作品は立ち位置が変わる」、「ジョン・ル・カレはぐしゃぐしゃ感が魅力」、「フィッツジェラルドの六割五分は一流半から二流作品」、「チーバーの登場人物は礼儀をわきまえている」、「サリンジャーの短編はムラが多い」、「アップダイクやキャロル・オーツの短編には驚きがない」、「キングストンの作品にはナラティブと言う表現が一番近い」、「自虐的なフィリップ・ロス」、「ピンチョン/ドン・デリーロの評価はまだ不確定」等々、まさに快刀乱麻を断つだ。
最後にアメリカ小説を総評して二人は言う。アメリカには「偉大なアメリカ小説」という概念がある。それは「これだけ立派な国をほとんどゼロから築いたわけだから、文学においてもグレートなノヴェルが書かれなくてならないというところから始まっている」、そして「そういうものを我々(アメリカ人)はまだ持っていないと思っている」と。
そういうアメリカ自体が限りなく変化している。もうWASPの国ではない。作家も今は南米、東欧、アジア出身者が多く、彼らのアメリカへの「疎外」を描く作品がアメリカ文学とされている状態だ。現実のアメリカの混乱もひどく、今は誰もが「偉大なアメリカ小説」を書くことを逡巡していると感じる。いつの日か作家たちのそんなためらいを突き破る新しい「全体」小説が出てくるだろうか。私は期待しつつ、想像もつかないが―。
2019年5月19日に日本でレビュー済み
前作は二人の競訳が読み所であっが、今回は二人の翻訳談義が面白い。英語歌詞の翻訳から始まったという柴田氏と高校時代からアメリカ文学を読んできたという村上氏。
二人の翻訳スタンスは少し違う。カポーティ作品の同じある箇所を村上氏は「彼は通行人の顔をひとつひとつたしかめるようにながめていったが、捜し求める相手はほどなくみつかった。緑色のレインコートを着た若い娘だ。」と訳し、柴田氏は「ヴィンセントは通行人一人ひとりの顔を眺め、ある人物を探し、やがて彼女が見えたー緑のレインコートを着た若い女。」と訳した。村上氏の翻訳はどこまでも小説的だ。しかも、文章が上手く、丁寧だ。それに対して柴田氏の訳は、文学的で、小説の場面が浮かぶように筋道を通して訳している。優劣はつけがたい。好みの問題だ。
欲を言えば、トマス・ピンチョンの翻訳の難業を柴田氏に語り尽くして欲しかった。これは次回の楽しみに取っておこう。
お勧めの一冊だ。
二人の翻訳スタンスは少し違う。カポーティ作品の同じある箇所を村上氏は「彼は通行人の顔をひとつひとつたしかめるようにながめていったが、捜し求める相手はほどなくみつかった。緑色のレインコートを着た若い娘だ。」と訳し、柴田氏は「ヴィンセントは通行人一人ひとりの顔を眺め、ある人物を探し、やがて彼女が見えたー緑のレインコートを着た若い女。」と訳した。村上氏の翻訳はどこまでも小説的だ。しかも、文章が上手く、丁寧だ。それに対して柴田氏の訳は、文学的で、小説の場面が浮かぶように筋道を通して訳している。優劣はつけがたい。好みの問題だ。
欲を言えば、トマス・ピンチョンの翻訳の難業を柴田氏に語り尽くして欲しかった。これは次回の楽しみに取っておこう。
お勧めの一冊だ。