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パスカル「冥想録」に学ぶ生き方の研究 単行本 – 2006/3/1
渡部 昇一
(著)
パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究 の書籍です。
- 本の長さ263ページ
- 言語日本語
- 出版社致知出版社
- 発売日2006/3/1
- ISBN-104884747402
- ISBN-13978-4884747404
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登録情報
- 出版社 : 致知出版社 (2006/3/1)
- 発売日 : 2006/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 263ページ
- ISBN-10 : 4884747402
- ISBN-13 : 978-4884747404
- Amazon 売れ筋ランキング: - 597,680位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 454位フランス・オランダの思想
- - 1,044位西洋哲学入門
- - 157,886位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
渡部昇一さんは好きな作家です。 事実を元に正直な文章に感謝です。
2018年11月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
渡部先生の本は、100冊以上読んでいます。
多くの影響を受け、感謝しています。
読書生活、日本史・東洋史・世界史など歴史の見かた・考え方、時事問題の視点、修養の大切さ、老年の生き方、健康法、語学の深さ、交遊の大切さ、などなどです。
いずれも実益的で、空理空論ではないのは先生の実践、経験に基づいた生きた智慧だからです。
私が先生の考え方の中で、唯一、同調できないのが宗教観です。
先生は、若い頃、上智大学在学中に、カトリック教徒になっています。
バラの花が美しいかどうかは、その種子だけを見てるとわからない。
その種子が、いい種子かそうでないかは、バラが咲いて初めてわかる。
先生はこの例えで、入信当時はカトリックの教義は、あまりわからなかったと言います。
しかし日々接するカトリック教師たちの高潔な姿に、バラの花を見たのです。
先生は、一生涯、カトリック信仰を貫いています。
数百に及ぶ著作の中でも自身の信仰について語ったのは、この本と「魂は存在するのか?」の2冊だけです。
関心のあるテーマでもあり、快刀乱麻の先生が、キリスト教、神、信仰、死後の世界、魂について、どう語ってくれるのか期待が膨らみました。
一読しました。
落胆しました。
私は、葬儀法事は仏教、初詣・七五三・結婚式は神道の典型的な日本人の宗教スタイルです。
戦後、団塊世代に属しています。
その私から見ると、先生の説くところは荒唐無稽で、理解も納得もできません。
キリストの生命は永遠である、人間は現在を背負っている、神の存在は絶対であり議論してはならない、奇跡はある、などです。
江戸時代新井白石はイタリア人のカトリック司祭シドッチを尋問した時の会話を「西洋紀聞」にまとめました。
白石は、シドッチのもっていた地図、ラテン語などは優れていると認めました。
シドッチは、キリスト教の素晴らしいことを力説し、神が天地を創造した、人類救済のためキリストを地上に遣わしたと教えを説きます。
白石は、「神がこの世界や人間を創ったと言うなら、その神は誰が創ったのか」「そんな素晴らしい神が数千年も前に現れていたと言うなら、なぜ日本にもっと以前に来なかったのか?」と問います。
シドッチは返答に窮し、答えることが出来ません。
現代のカトリック教徒も、白石の質問には答えられないでしょう。
白石は、仏教に比べれるキリスト教の教義は、子供だましのような程度の低い理屈だと一蹴しました。
多くの影響を受け、感謝しています。
読書生活、日本史・東洋史・世界史など歴史の見かた・考え方、時事問題の視点、修養の大切さ、老年の生き方、健康法、語学の深さ、交遊の大切さ、などなどです。
いずれも実益的で、空理空論ではないのは先生の実践、経験に基づいた生きた智慧だからです。
私が先生の考え方の中で、唯一、同調できないのが宗教観です。
先生は、若い頃、上智大学在学中に、カトリック教徒になっています。
バラの花が美しいかどうかは、その種子だけを見てるとわからない。
その種子が、いい種子かそうでないかは、バラが咲いて初めてわかる。
先生はこの例えで、入信当時はカトリックの教義は、あまりわからなかったと言います。
しかし日々接するカトリック教師たちの高潔な姿に、バラの花を見たのです。
先生は、一生涯、カトリック信仰を貫いています。
数百に及ぶ著作の中でも自身の信仰について語ったのは、この本と「魂は存在するのか?」の2冊だけです。
関心のあるテーマでもあり、快刀乱麻の先生が、キリスト教、神、信仰、死後の世界、魂について、どう語ってくれるのか期待が膨らみました。
一読しました。
落胆しました。
私は、葬儀法事は仏教、初詣・七五三・結婚式は神道の典型的な日本人の宗教スタイルです。
戦後、団塊世代に属しています。
その私から見ると、先生の説くところは荒唐無稽で、理解も納得もできません。
キリストの生命は永遠である、人間は現在を背負っている、神の存在は絶対であり議論してはならない、奇跡はある、などです。
江戸時代新井白石はイタリア人のカトリック司祭シドッチを尋問した時の会話を「西洋紀聞」にまとめました。
白石は、シドッチのもっていた地図、ラテン語などは優れていると認めました。
シドッチは、キリスト教の素晴らしいことを力説し、神が天地を創造した、人類救済のためキリストを地上に遣わしたと教えを説きます。
白石は、「神がこの世界や人間を創ったと言うなら、その神は誰が創ったのか」「そんな素晴らしい神が数千年も前に現れていたと言うなら、なぜ日本にもっと以前に来なかったのか?」と問います。
シドッチは返答に窮し、答えることが出来ません。
現代のカトリック教徒も、白石の質問には答えられないでしょう。
白石は、仏教に比べれるキリスト教の教義は、子供だましのような程度の低い理屈だと一蹴しました。
2010年8月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
三木清(『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫)以来、日本では『パンセ』は哲学書として扱われ、またそう解説されてきた。しかし、著者は「パスカルの核心は奇蹟にある」と喝破する。これが突飛な意見でないことは、パスカル自身、二度の<奇蹟>を体験した後きわめて熱心なキリスト者になった、という事実からもわかる。
最初は1654年11月――31歳の彼の目の前に<神>の姿があらわれたという。心を震わせたパスカルは、涙を流し歓喜している(いわゆる「火の夜」)。
二度目はその翌年、長いあいだ涙膿炎にかかっていた彼の姪が、イエスのかぶったイバラの冠に触れたとたん、病が癒えたというのだ(いわゆる「聖荊の奇蹟」)。
そこでキリスト教を顕揚すべく書きはじめたのが『瞑想録』(『パンセ』)である。したがって『パンセ』とは、厳密にいえばキリスト教の護教論なのだ。
もちろん、パスカルは稀代の人間通であるから、護教論を展開するにあたっても、まず<人間論>からスタートして、いがみあったり気晴らしを求めたりする人間がいかにして<隠れています神>に出会うか……という具合に論を展開する。
著者もそうした<人間論>から「生き方」を学んでいるわけであるが、そのとき<奇蹟>(人知を超えたものを畏れる心)を見落としてはならない、と強調する。
こう書くと、なにやらカタい書物のように誤解されそうだが、談話をまとめた本だからとても読みやすく、パスカルの絶好の入門書にもなっている。
最初は1654年11月――31歳の彼の目の前に<神>の姿があらわれたという。心を震わせたパスカルは、涙を流し歓喜している(いわゆる「火の夜」)。
二度目はその翌年、長いあいだ涙膿炎にかかっていた彼の姪が、イエスのかぶったイバラの冠に触れたとたん、病が癒えたというのだ(いわゆる「聖荊の奇蹟」)。
そこでキリスト教を顕揚すべく書きはじめたのが『瞑想録』(『パンセ』)である。したがって『パンセ』とは、厳密にいえばキリスト教の護教論なのだ。
もちろん、パスカルは稀代の人間通であるから、護教論を展開するにあたっても、まず<人間論>からスタートして、いがみあったり気晴らしを求めたりする人間がいかにして<隠れています神>に出会うか……という具合に論を展開する。
著者もそうした<人間論>から「生き方」を学んでいるわけであるが、そのとき<奇蹟>(人知を超えたものを畏れる心)を見落としてはならない、と強調する。
こう書くと、なにやらカタい書物のように誤解されそうだが、談話をまとめた本だからとても読みやすく、パスカルの絶好の入門書にもなっている。
2006年4月22日に日本でレビュー済み
「人間は考える葦である」というパスカルの言葉はもちろん知っているが、その出典である原著にまで当たることはなかった。
著者は若くしてこの原著に当たって、それに感銘を受け、この思想家の行き方の実践をして来たということを記述している。
私にも何冊かの座右の書があるが、ここまでのめりこんで50年にわたって影響を受け続けることがあるかというと、まだ51歳だから分からないけど、多分ないと思う。
そういう点で、若くして自身に影響し得る名著に出会えた著者は幸せな人だと思う。
著者は若くしてこの原著に当たって、それに感銘を受け、この思想家の行き方の実践をして来たということを記述している。
私にも何冊かの座右の書があるが、ここまでのめりこんで50年にわたって影響を受け続けることがあるかというと、まだ51歳だから分からないけど、多分ないと思う。
そういう点で、若くして自身に影響し得る名著に出会えた著者は幸せな人だと思う。