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これはパイプではない 単行本 – 1986/4/1

3.4 5つ星のうち3.4 4個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 哲学書房 (1986/4/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1986/4/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 135ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 488679002X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4886790026
  • カスタマーレビュー:
    3.4 5つ星のうち3.4 4個の評価

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読む人の思考力を試すための書物です!!
5 星
読む人の思考力を試すための書物です!!
ルネ・マグリットの絵画「これはパイプではない」(1929年)の、フーコーによる謎解きである。さて、絵画は、表象=再現=模倣というラインで表現できる。しかし、西洋絵画では、印象派の登場以降、こんな単純な理解をする者はいなくなる。絵画の作成性、絵画という商品と市場価値、市場の存在と流通過程、そして絵画を所有するプチブルジョア(petitbourgeois)の消費=所蔵者の存在、それらが、絵画(ひいては芸術品)という記号に大きな変化と多様性をもたらした。表象としての絵画から離陸(takeoff)におおいなる貢献をしたのが、シュールレアリズム運動である。マグリットの絵画も、そのような流れに位置付けられる。マグリットの遊び心は、パイプの絵を大描きして「これはパイプではない」と説明を伏したことだ。この説明の部分は、絵画ないしは絵画の一部だろうか?それとも、説明なのだろか?もし、説明なら「これは絵画なんだから、パイプの絵ではない」という常識の確認なのだろうか、いやいや、シュールレアリズムの大家のマグリットのことだから、そんな単純なことはないはずだ、我々の想像は広がるばかりである。フーコーの解釈の、種明かしを先にしておくと、これは「絵画という表象システム」と「文字による表象システム」の併置があるが、この絵画を訳知り顔で、講釈する人は、この2つの全く異なった、表象システムを、あたかも、表象システムとして同一のカテゴリーとして取り扱い、それらの関係について、みんな好き勝手な議論を始めるということなのだ。したがって、これは、私に言わせれば世界ではじめて「鑑賞者を巻き込む議論参加型絵画」なのだ。したがって、フーコーの秀逸なエッセー「これはパイプではない」は、マグリットの絵画にひっぱられた、フーコーの表象システムの講釈であり、マグリットの「意図」などどうでもいいし、マグリットが、この絵画がちょっとした、センセーショナルを引き起こして、さまざまな美術評論家が彼に質問したり、マグリット自身がそれに応えたり/応えなかったり/はぐらかしたりしても、この絵画の議論生産は拡大する一方で、絶対に議論に収束はないし、また、収束などあってはならないのだ。なぜなら、この絵画こそが、世界ではじめて「鑑賞者を巻き込む議論参加型絵画」だからである。あるいは、私が、(フーコーの議論を受けて)絵画と言語という2つの表象のシステムが単に併置されており、絵画は、そこに何の関連性を持たしていない。あるいは、関連づけることで、議論が生産される人間 ——ないしは近代人——の性質(さが)を知る「思想のリトマス試験紙」なのだ、と言っても、多くの人は議論をやめないだろう。フーコーの議論について、アマゾンのブックレビューは、サイコーとサイテーの評価の二極分化しているが、サイコーな評価は、フーコーの(知ってしまえばそれほどではないがそれでもなお)斬新な解釈に賛美し、サイテーの評価を与えている(バカと断定したいが)書評子は「俺はなんでも知っている」という自惚れ屋にすぎないのである。
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上位レビュー、対象国: 日本

2022年6月14日に日本でレビュー済み
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5つ星のうち5.0 読む人の思考力を試すための書物です!!
2022年6月14日に日本でレビュー済み
ルネ・マグリットの絵画「これはパイプではない」(1929年)の、フーコーによる謎解きである。さて、絵画は、表象=再現=模倣というラインで表現できる。しかし、西洋絵画では、印象派の登場以降、こんな単純な理解をする者はいなくなる。絵画の作成性、絵画という商品と市場価値、市場の存在と流通過程、そして絵画を所有するプチブルジョア(petitbourgeois)の消費=所蔵者の存在、それらが、絵画(ひいては芸術品)という記号に大きな変化と多様性をもたらした。

表象としての絵画から離陸(takeoff)におおいなる貢献をしたのが、シュールレアリズム運動である。マグリットの絵画も、そのような流れに位置付けられる。マグリットの遊び心は、パイプの絵を大描きして「これはパイプではない」と説明を伏したことだ。この説明の部分は、絵画ないしは絵画の一部だろうか?それとも、説明なのだろか?もし、説明なら「これは絵画なんだから、パイプの絵ではない」という常識の確認なのだろうか、いやいや、シュールレアリズムの大家のマグリットのことだから、そんな単純なことはないはずだ、我々の想像は広がるばかりである。

フーコーの解釈の、種明かしを先にしておくと、これは「絵画という表象システム」と「文字による表象システム」の併置があるが、この絵画を訳知り顔で、講釈する人は、この2つの全く異なった、表象システムを、あたかも、表象システムとして同一のカテゴリーとして取り扱い、それらの関係について、みんな好き勝手な議論を始めるということなのだ。したがって、これは、私に言わせれば世界ではじめて「鑑賞者を巻き込む議論参加型絵画」なのだ。したがって、フーコーの秀逸なエッセー「これはパイプではない」は、マグリットの絵画にひっぱられた、フーコーの表象システムの講釈であり、マグリットの「意図」などどうでもいいし、マグリットが、この絵画がちょっとした、センセーショナルを引き起こして、さまざまな美術評論家が彼に質問したり、マグリット自身がそれに応えたり/応えなかったり/はぐらかしたりしても、この絵画の議論生産は拡大する一方で、絶対に議論に収束はないし、また、収束などあってはならないのだ。なぜなら、この絵画こそが、世界ではじめて「鑑賞者を巻き込む議論参加型絵画」だからである。

あるいは、私が、(フーコーの議論を受けて)絵画と言語という2つの表象のシステムが単に併置されており、絵画は、そこに何の関連性を持たしていない。あるいは、関連づけることで、議論が生産される人間 ——ないしは近代人——の性質(さが)を知る「思想のリトマス試験紙」なのだ、と言っても、多くの人は議論をやめないだろう。フーコーの議論について、アマゾンのブックレビューは、サイコーとサイテーの評価の二極分化しているが、サイコーな評価は、フーコーの(知ってしまえばそれほどではないがそれでもなお)斬新な解釈に賛美し、サイテーの評価を与えている(バカと断定したいが)書評子は「俺はなんでも知っている」という自惚れ屋にすぎないのである。
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1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2021年11月9日に日本でレビュー済み
2005年4月5日に日本でレビュー済み
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8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2006年2月28日に日本でレビュー済み
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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