本書の第1部で問題提起がされ、第2部で考察が進められる。第1部の「討議」では越境者の発言に対して野矢氏が自分の立脚点を譲らずに頑として主張する場面があり、そこが第2部の理解を深めるポイントとなる。そうした主張部分に野矢氏の強力な思考方法が輝いている。
しかし私には、「不完全な言葉を幾ら定義しても不十分であり、従ってパラドクスに落ち込む危険性やパラドクスをカモフラージュする可能性が常につきまとう」という哲学に対する不信観が拭えない。
例えば、本書の主要な主張である「四次元個体(連続体)」は(人間には連続としか見えない)量子断面がぎっしり詰まって連続体のように見えると考えても良い筈である。実際に、p.221で野矢氏は“刹那化され寸断された自我。そんなことにならないためにはどうすればよいのか。実はぼくにはまだよく分かりません。”と述べている。面白いことに、ウィトゲンシュタインも同様なことを考えていた。(文証:鬼界彰夫氏の『ウィトゲンシュタインはこう考えた』のp.218で、“独我性を言葉で捉えようという『考察』期の試みは、常に逃げ去る現在の体験を記述する試みという形を取ることになる。1929年の早い時期、ウィトゲンシュタインは瞬間的現在を記述するための様々な試みを行っている。しかし、次第にこの試みに懐疑的になってゆく。”と紹介している。)
哲学ならば「刹那化され寸断された自我」の場合も議論すべきであるのに、最初から議論を避けているようにしか思えない。古典物理学から量子物理学へパラダイムシフトが起こったように、量子化を導入した哲学が創出されても良いのではないだろうか?その場合は、各量子断面が時間と変化を表し、我々が量子断面を把握できないために、隣り合う量子断面の同質性を四次元連続体の同一性と誤解していることになりそうである。
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同一性・変化・時間 単行本 – 2002/9/1
野矢 茂樹
(著)
- 本の長さ284ページ
- 言語日本語
- 出版社哲学書房
- 発売日2002/9/1
- ISBN-10488679081X
- ISBN-13978-4886790811
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
同一であるものが、どうして変化しうるのか。変化するものが、どうしてなおも同一でありうるのか。同一性と変化について、そして時間について考察する。第2回養老シンポジウム、東京大学における講義をもとにまとめる。
登録情報
- 出版社 : 哲学書房 (2002/9/1)
- 発売日 : 2002/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 284ページ
- ISBN-10 : 488679081X
- ISBN-13 : 978-4886790811
- Amazon 売れ筋ランキング: - 599,193位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,242位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 4,075位哲学 (本)
- - 4,853位思想
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2006年9月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2009年4月17日に日本でレビュー済み
論理哲学者でありウィトゲンシュタイン研究家としても知られる野矢茂樹氏には多くの著作があるが、本書のように時間論に照準を合わせたものは珍しいのではないだろうか。
「どうして時は流れるのか」というのが野矢の問いである。「時は流れてなどいない」という哲学的反論はとりあえず正しいが、事実としてわれわれは時の流れという表現を使うし実感することさえある(たとえそれが錯覚だとしても)。
野矢によれば時の流れが発生するためには、時制話法的(有視点的)時間了解と日付話法的(無視点的)時間了解の両方(複視点的時間了解)が必要であるが、これはマクタガートのA系列とB系列にほぼ相当する。さらに流れすなわち変化が発生するためには同一性が不可欠であるが、この同一性をわれわれは言語すなわち固有名詞によって獲得しているという指摘が、個人的には最も興味深かった。(もう一つ、時が流れるためには死の発見が必要ではないかと個人的には思っているのだが、その点については野矢は言及していない)
シンポジウムや大学での講義を元に構成されているが、レベルは決して低くはない。臨場感あふれる哲学的対話と論理に裏打ちされた哲学的思索の双方を読者は楽しむことができる。
「どうして時は流れるのか」というのが野矢の問いである。「時は流れてなどいない」という哲学的反論はとりあえず正しいが、事実としてわれわれは時の流れという表現を使うし実感することさえある(たとえそれが錯覚だとしても)。
野矢によれば時の流れが発生するためには、時制話法的(有視点的)時間了解と日付話法的(無視点的)時間了解の両方(複視点的時間了解)が必要であるが、これはマクタガートのA系列とB系列にほぼ相当する。さらに流れすなわち変化が発生するためには同一性が不可欠であるが、この同一性をわれわれは言語すなわち固有名詞によって獲得しているという指摘が、個人的には最も興味深かった。(もう一つ、時が流れるためには死の発見が必要ではないかと個人的には思っているのだが、その点については野矢は言及していない)
シンポジウムや大学での講義を元に構成されているが、レベルは決して低くはない。臨場感あふれる哲学的対話と論理に裏打ちされた哲学的思索の双方を読者は楽しむことができる。
2006年6月13日に日本でレビュー済み
本書は前半と後半に分かれる。前半がシンポジウムでの発表と質疑応答を記録したもので、後半が同じテーマについての後年の考察を書き下ろしたものである。こう書くと後半の方が難しいような印象だが、実は、後半の方がずっと分かりやすい。前半は、あくまでも導入あるいは問題提起だと考えたほうがよい。つまり何が言いたいかというと、前半でつまずく箇所があっても、諦めずに後半まで読了すべきだということだ。
本書は、かなりくだけた文体で書かれている。大学受験の参考書で「実況中継シリーズ」というのがあるが、ちょうどあんな感じである。専門用語には必ず説明があるし、重要な点は繰り返し強調される。ところどころ冗談もある。その結果、ちょっと背伸びすれば、高校生でもついて行けるような内容になっている。
というわけで、本書は哲学に興味のある全ての人に勧めることのできるものだが、唯一引っかかるのは、「何のためにそういう議論をするのか?」がいまひとつピンと来ないという点である。哲学というのは元来役に立たないものなので、実用的な意義など求めるべきではないのだろうとは思う。また、本書の分析的思考のプロセスは文句なしに面白いので、それだけでも本書には価値があるとも思う。ただ、問い自体の切実さのようなものが、もう少し強調されていても良かったようにも思うのである。
それでもトータルで良著であることは間違いないので、星5つ。
本書は、かなりくだけた文体で書かれている。大学受験の参考書で「実況中継シリーズ」というのがあるが、ちょうどあんな感じである。専門用語には必ず説明があるし、重要な点は繰り返し強調される。ところどころ冗談もある。その結果、ちょっと背伸びすれば、高校生でもついて行けるような内容になっている。
というわけで、本書は哲学に興味のある全ての人に勧めることのできるものだが、唯一引っかかるのは、「何のためにそういう議論をするのか?」がいまひとつピンと来ないという点である。哲学というのは元来役に立たないものなので、実用的な意義など求めるべきではないのだろうとは思う。また、本書の分析的思考のプロセスは文句なしに面白いので、それだけでも本書には価値があるとも思う。ただ、問い自体の切実さのようなものが、もう少し強調されていても良かったようにも思うのである。
それでもトータルで良著であることは間違いないので、星5つ。
2004年1月3日に日本でレビュー済み
この本は、「時間の中における対象の自己同一性をどう理解するか」がテーマの2部構成の本である。第1部のシンポジウム記録では、著者が問題提起し、他の参加者がそれぞれ個性的な反応を返していて、それなりに興味深いが、私には第2部の論文の方がずっと面白かった。
第2部の文章はとても親切である。著者は常に議論の見通しを示し、読者が疑問を感じそうな所ではあらかじめ先回りして答え、話の筋道に迷いそうな所では注意してくれる。そして、この本で最終的に提示される、対象と時間に関するモデルは実に魅力的である。要するにケチのつけようがない。
私がつまずくのは議論の開始点である。つまり、私自身に哲学的感受性あるいは適性が欠けているせいか、なぜ同一性や時間が問題になるのかよく理解できないのだ。「ぜひ問題を共有してもらいたい」という著者の熱意と配慮は分かるが、著者の「同一性は不毛な問題とずっと思っていた」という回想の方に共感してしまう。
著者も言及している、「時間とは何か?問われても説明できない」というアウグスティヌスの悩みは、私は見当外れに感じる。著者が他の様々な時間理解のモデル(年表のような直線的時間・現在中心の遠近法的時間など)に関して言う「時間が流れていない」とか、「変化ではなく、変化の軌跡しか表現していない」というような言い方もそうだ。ここには何か時間表現の機能についての勘違いがあるように思う。人間は、年表のような表現が便利な場面では年表を使い、その他脈絡に応じて様々な時間表現を適切に使う、それが事実の全てであり、時間とは強いて言えばその総体としかいいようがない。
そういうわけで私はあまり素直でない読者なのだが、「同一性は他の関係に還元できない原初的概念である」「時制はできごとのありかたを表すような述語ではない」など、個々の文法的分析は文句なくいいと思う。
第2部の文章はとても親切である。著者は常に議論の見通しを示し、読者が疑問を感じそうな所ではあらかじめ先回りして答え、話の筋道に迷いそうな所では注意してくれる。そして、この本で最終的に提示される、対象と時間に関するモデルは実に魅力的である。要するにケチのつけようがない。
私がつまずくのは議論の開始点である。つまり、私自身に哲学的感受性あるいは適性が欠けているせいか、なぜ同一性や時間が問題になるのかよく理解できないのだ。「ぜひ問題を共有してもらいたい」という著者の熱意と配慮は分かるが、著者の「同一性は不毛な問題とずっと思っていた」という回想の方に共感してしまう。
著者も言及している、「時間とは何か?問われても説明できない」というアウグスティヌスの悩みは、私は見当外れに感じる。著者が他の様々な時間理解のモデル(年表のような直線的時間・現在中心の遠近法的時間など)に関して言う「時間が流れていない」とか、「変化ではなく、変化の軌跡しか表現していない」というような言い方もそうだ。ここには何か時間表現の機能についての勘違いがあるように思う。人間は、年表のような表現が便利な場面では年表を使い、その他脈絡に応じて様々な時間表現を適切に使う、それが事実の全てであり、時間とは強いて言えばその総体としかいいようがない。
そういうわけで私はあまり素直でない読者なのだが、「同一性は他の関係に還元できない原初的概念である」「時制はできごとのありかたを表すような述語ではない」など、個々の文法的分析は文句なくいいと思う。
2004年7月3日に日本でレビュー済み
時間について最近考えることがあったので、この本を読んでみたらなかなか面白いし、非常にわかりやすくもあった。同一性の問題とかは、養老孟司や茂木健一郎の本でもちょくちょく出てきているくらいなかなか面白い話題である。
この本だと、野矢さんは非常に砕けているのだけど他の著書もそうなのだろうか。それにしても収録されているシンポジウムはそうそうたる面々でとても刺激たっぷりな内容でした。
この本だと、野矢さんは非常に砕けているのだけど他の著書もそうなのだろうか。それにしても収録されているシンポジウムはそうそうたる面々でとても刺激たっぷりな内容でした。
2002年9月23日に日本でレビュー済み
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