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アナ・ボル論争 単行本 – 2005/12/1
- 本の長さ375ページ
- 言語日本語
- 出版社同時代社
- 発売日2005/12/1
- ISBN-104886835651
- ISBN-13978-4886835659
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登録情報
- 出版社 : 同時代社 (2005/12/1)
- 発売日 : 2005/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 375ページ
- ISBN-10 : 4886835651
- ISBN-13 : 978-4886835659
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,222,812位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年11月14日に日本でレビュー済み
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仲間でいる。論争がある。協働がある。対立がある。そして、1922年、憲兵による殺害で論争は終結した。その後、すべての日本の左翼はボルを源流として発展し、1990年代前半、すべての日本の左翼は死んだと著者はいう。
しかし、いま、官邸・国会前で情況は、急展開しつつある。アナ的ボル、ボル的アナが、いやアナでもボルでもない「現実的な運動」がたちあらわれている。ボルが陥った「客観的矛盾の深まりと主体的条件の立ち遅れ」の閉塞はない。今度こそは、対立のままの終結に終わらず、止揚に向かうことができるのではないか。2022年は1922年と重なると予感する。ただし、人類の本史の始まりの年として。
しかし、いま、官邸・国会前で情況は、急展開しつつある。アナ的ボル、ボル的アナが、いやアナでもボルでもない「現実的な運動」がたちあらわれている。ボルが陥った「客観的矛盾の深まりと主体的条件の立ち遅れ」の閉塞はない。今度こそは、対立のままの終結に終わらず、止揚に向かうことができるのではないか。2022年は1922年と重なると予感する。ただし、人類の本史の始まりの年として。
2006年7月5日に日本でレビュー済み
解説者はいう、左翼は終わったと。しかしそれは終わりのはじまりである。いまこそ、過去の論争に改めて立ち返る必要がある。本書は大杉栄−山川均の間で論争され未完におわった「アナボル論争」を論点を軸に整理したものである。解説者の論点整理によれば、対立点は「自然発生か目的意識か」「生き方が政治運動か」「感情か理論か」「自己陶冶か外部注入か」、である。世界社会フォーラムについての論文集フィッシャー「もうひとつの世界は可能だ」のなかでの論点も、よくにたところがある。グローバリズムの時代の運動でもこうした論点は妥当するのである。「左翼は終わった」終わったというのは一区切りがついたということである。だから過去をたちかえらない「進歩主義的」左翼は許されない。「左翼は死んだ」は死んだのだからある意味社民、コミュニズム、アナキズムという垣根も低くなったかもしれないのだから、本書で試みられているように、論争は敵対のためにではなく、共同と建設のために立ち返られるべきだろう。