私の会社のホームページに使い、私の仕事に役立ちました。
とても参考になりました。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
事典古代の発明: 文化生活技術 単行本 – 2005/12/1
- 本の長さ526ページ
- 言語日本語
- 出版社東洋書林
- 発売日2005/12/1
- ISBN-104887217102
- ISBN-13978-4887217102
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 東洋書林 (2005/12/1)
- 発売日 : 2005/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 526ページ
- ISBN-10 : 4887217102
- ISBN-13 : 978-4887217102
- Amazon 売れ筋ランキング: - 474,014位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 696位世界史一般の本
- - 45,026位科学・テクノロジー (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2007年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あの『古代文明の謎はどこまで解けたか』の著者ピーター ジェームズ, ニック ソープの出世作、待望の邦訳。
宇宙考古学系の安直なビリーバー論は、当然ながら却下するし、異端的な仮説は救える限り救おうとする。あまり知られていない正当派考古学の情報もたんまりである。本当に面白くてわくわくさせられる。有名なところでは神殿の自動ドア、聖水の自動販売機、インドの整形外科技術、馬車の走行距離メーター、、、とにかく面白い。
ただ『古代文明の謎はどこまで解けたか』よりも、さらに異端仮説に肩入れしているきらいはあり、全てを鵜呑みにしてしまうのはよろしくない。とくに、批判の多い実験考古学の知見に基づく仮説に、通常よりも寛大な傾向があるのも事実であり、その辺りは心して読もう。テクノロジー以外にも、文化風俗などなどなど、いろいろな知見を紹介しており、当時の世界がどういった風景で、どんな人達が、どんな生活をしていたかなどを想像することができる。
そこには、宇宙考古学のオーパーツ系ヨタ本では味わえない種類の、真のロマンがある。
宇宙考古学系の安直なビリーバー論は、当然ながら却下するし、異端的な仮説は救える限り救おうとする。あまり知られていない正当派考古学の情報もたんまりである。本当に面白くてわくわくさせられる。有名なところでは神殿の自動ドア、聖水の自動販売機、インドの整形外科技術、馬車の走行距離メーター、、、とにかく面白い。
ただ『古代文明の謎はどこまで解けたか』よりも、さらに異端仮説に肩入れしているきらいはあり、全てを鵜呑みにしてしまうのはよろしくない。とくに、批判の多い実験考古学の知見に基づく仮説に、通常よりも寛大な傾向があるのも事実であり、その辺りは心して読もう。テクノロジー以外にも、文化風俗などなどなど、いろいろな知見を紹介しており、当時の世界がどういった風景で、どんな人達が、どんな生活をしていたかなどを想像することができる。
そこには、宇宙考古学のオーパーツ系ヨタ本では味わえない種類の、真のロマンがある。
2014年12月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
電池作るのにもそれなりの電気化学の知識はいるし、金属を電気メッキするのにはさらに高度な知識が必要になる。
そういった点を十分考慮せずセンセーショナルに「2千年前に電池が存在した!」等と喧伝するのは、歴史修正主義もいいところだ。
電気メッキ説は電池説に肯定的な学者も否定的である。
それなのに、あたかもそういうことを古代イラク人がやっていたかのように書くのはデタラメ。
「電気メッキの秘密は油断なく守られ、決して書いた形で直接に伝えられることはなかった」等と書いてあるが、
「秘密だったから証拠はない」みたいな反証不可能な主張は無意味である。
また、安直に「1.5ボルトの電流を生み出した」などと書いてあるのも、電池に関する知識に乏しいことを露呈している。
鉄と銅を電極とする「電池」単体でこの電圧を生じさせるのは理論的に不可能。
もちろん直列に3個以上つなげれば可能だが、そもそも「バグダッド電池」を直列や並列につないでいた形跡はみつかっていない。
実際に「バグダッド電池」1個で生じる電気は0.5V、1mA程度であり、両極を舌に当ててもたいしてびりびりしない。
(実際に私は模型を作ってなめてみたが、まったくびりびりしなかった)
当時は豆電球(LEDでもいいけど)も電気モータもなかったわけで、「バグダッド電池」1個だけではまったく実用性がない。
この本には「コロラド大学のポール・カイザー」が「電気魚の代わりとして局部麻酔にバビロニアの医師たちが使った」という説を唱えているとあるが、
おそらく「局部麻酔」というのは誤訳で、「鎮痛作用」というのが本当のカイザーの説。
しかし、「バグダッド電池」1個ではそんな使い方は当然できない。
それなら、何個つないだら「電気魚の代わり」になるくらいの電力を発揮できるか?というと、これも確認していないので机上の空論に過ぎない。
この本によると、「ロンドンにある科学博物館の物理学者ウォルター・ウィントン」なる人物が、
その物体が電池であったことは、「まったく明白で完全に信じるに足る」ことであると述べたらしい。
しかし、電池としての性能を定量的に確かめもせず「見た目が電池だから電池」的な主張をする人物は相手にしないほうがいい。
(「懐疑論者の祈り」というサイトの「バグダットの電池」の項目には、ウィントンが「どうみても電池なんだよな」と報告したという記述がある)
さらに問題なのは、本書に書いてあるように「電池のようなもの」はフユート・ラッブーアで見つかった「一点のみ」しか存在しないようなのである。
もちろんクテシフォンやセレウキアからも類似遺物は見つかっているが、鉄の棒がつぼの中に入っていなかったようなのだ。
クテシフォンから出土した遺物には、つぼの大きさに合わせて、銅の筒が1個、3個、10個入ったものも見つかっている。
これに対して、「鉄の棒は使う時に差し込んだ」とか、
「銅の筒がいっぱい入っているものは、部品を入れた道具箱のようなもの」等の説があるが、
どれも電池説を補強するようなものではない。
電池の劣化が心配なら、使う時だけ電解液を注ぎ入れればいいだけの話であって、使う時にいちいち部品を組み立てる必要はない。
また、電池説肯定派は「どう見ても電池」的な主張をよくするが、少なくとも電気化学の基礎を理解した上で作られたようには見えない。
電気でビリビリすることを目的に作られていたとしたら、そのビリビリ感を高めるためになんらかの工夫をするだろう。
ところが、そういった工夫がなされた様子はない。
電流量を上げるには電極の表面積を大きくすることが有効で、薄い板のほうが面積は増えるが、「バグダッド電池」には鉄の棒が使われている。
電圧を上げるには、電解液を染み込ませたセパレータを挟んで銅と鉄の薄い板を交互に積み重ねるのが有効だがそうはなっていない。
事実、実際にボルタが作った世界初の電池はそうした構造をしていた。
さらに、果汁由来の弱い有機酸を電解液として使用すると、陽極では酸素と水が反応して水酸化物イオン(OH-)が発生する。
(陰極では鉄がイオン化して溶出)つまり、電極反応で酸素が消費される。
よって、つぼ等に入れて密閉してしまうと電気が発生しなくなってしまう可能性がある。
「バグダットの電池」は素焼きのつぼなので、入り口が密閉されていてもつぼの壁を酸素が透過することは可能だが、
つぼの壁の厚さの分だけ酸素の拡散が阻害され、電池の設計としてはあまりいいものではない。
(詳細については実験による検証が必要)
つまり、電池として一番よいのは、皿のような開放系にし、電解液と空気のあいだの界面を大きくする設計である。
「バグダット電池」は鉄の棒が銅の筒の中に入り、これがつぼの入り口からアスファルト(ビチュメン)によってつり下がった構造をしている。
(この本に掲載されている図はケーニッヒのスケッチとは若干構造が異なっている)
何かにぶつけるなどして強い衝撃を与えると、アスファルトの部分が壊れて筒と棒がつぼの中に落ちてしまいそうだ。
電池がこういう構造をしている必然性はない。
鉄と銅の両電極が外に露出していないと電池としては使えないが、
肝心なこの部分の詳細が記載されている文献は見たことがない。
そもそも「バグダット電池」が発見されたのは1930年代で、今これらの遺物がどこでどうなっているのかもよくわからない。
その後、新たな発掘調査がなされたという話も聞かない。
今のところ、「バグダット電池」を電池であったと考えなくてはいけない必然性はない。
しかし、私は考古学者ではないので、「電池でなけりゃいったいなんなんだ?」という問いに答えることはできない。
考古学の先生方には、謙虚な気持ちで物証に基づき論理的・客観的に、この問いに対する解答に取り組んでいただきたいと思っている。
そういった点を十分考慮せずセンセーショナルに「2千年前に電池が存在した!」等と喧伝するのは、歴史修正主義もいいところだ。
電気メッキ説は電池説に肯定的な学者も否定的である。
それなのに、あたかもそういうことを古代イラク人がやっていたかのように書くのはデタラメ。
「電気メッキの秘密は油断なく守られ、決して書いた形で直接に伝えられることはなかった」等と書いてあるが、
「秘密だったから証拠はない」みたいな反証不可能な主張は無意味である。
また、安直に「1.5ボルトの電流を生み出した」などと書いてあるのも、電池に関する知識に乏しいことを露呈している。
鉄と銅を電極とする「電池」単体でこの電圧を生じさせるのは理論的に不可能。
もちろん直列に3個以上つなげれば可能だが、そもそも「バグダッド電池」を直列や並列につないでいた形跡はみつかっていない。
実際に「バグダッド電池」1個で生じる電気は0.5V、1mA程度であり、両極を舌に当ててもたいしてびりびりしない。
(実際に私は模型を作ってなめてみたが、まったくびりびりしなかった)
当時は豆電球(LEDでもいいけど)も電気モータもなかったわけで、「バグダッド電池」1個だけではまったく実用性がない。
この本には「コロラド大学のポール・カイザー」が「電気魚の代わりとして局部麻酔にバビロニアの医師たちが使った」という説を唱えているとあるが、
おそらく「局部麻酔」というのは誤訳で、「鎮痛作用」というのが本当のカイザーの説。
しかし、「バグダッド電池」1個ではそんな使い方は当然できない。
それなら、何個つないだら「電気魚の代わり」になるくらいの電力を発揮できるか?というと、これも確認していないので机上の空論に過ぎない。
この本によると、「ロンドンにある科学博物館の物理学者ウォルター・ウィントン」なる人物が、
その物体が電池であったことは、「まったく明白で完全に信じるに足る」ことであると述べたらしい。
しかし、電池としての性能を定量的に確かめもせず「見た目が電池だから電池」的な主張をする人物は相手にしないほうがいい。
(「懐疑論者の祈り」というサイトの「バグダットの電池」の項目には、ウィントンが「どうみても電池なんだよな」と報告したという記述がある)
さらに問題なのは、本書に書いてあるように「電池のようなもの」はフユート・ラッブーアで見つかった「一点のみ」しか存在しないようなのである。
もちろんクテシフォンやセレウキアからも類似遺物は見つかっているが、鉄の棒がつぼの中に入っていなかったようなのだ。
クテシフォンから出土した遺物には、つぼの大きさに合わせて、銅の筒が1個、3個、10個入ったものも見つかっている。
これに対して、「鉄の棒は使う時に差し込んだ」とか、
「銅の筒がいっぱい入っているものは、部品を入れた道具箱のようなもの」等の説があるが、
どれも電池説を補強するようなものではない。
電池の劣化が心配なら、使う時だけ電解液を注ぎ入れればいいだけの話であって、使う時にいちいち部品を組み立てる必要はない。
また、電池説肯定派は「どう見ても電池」的な主張をよくするが、少なくとも電気化学の基礎を理解した上で作られたようには見えない。
電気でビリビリすることを目的に作られていたとしたら、そのビリビリ感を高めるためになんらかの工夫をするだろう。
ところが、そういった工夫がなされた様子はない。
電流量を上げるには電極の表面積を大きくすることが有効で、薄い板のほうが面積は増えるが、「バグダッド電池」には鉄の棒が使われている。
電圧を上げるには、電解液を染み込ませたセパレータを挟んで銅と鉄の薄い板を交互に積み重ねるのが有効だがそうはなっていない。
事実、実際にボルタが作った世界初の電池はそうした構造をしていた。
さらに、果汁由来の弱い有機酸を電解液として使用すると、陽極では酸素と水が反応して水酸化物イオン(OH-)が発生する。
(陰極では鉄がイオン化して溶出)つまり、電極反応で酸素が消費される。
よって、つぼ等に入れて密閉してしまうと電気が発生しなくなってしまう可能性がある。
「バグダットの電池」は素焼きのつぼなので、入り口が密閉されていてもつぼの壁を酸素が透過することは可能だが、
つぼの壁の厚さの分だけ酸素の拡散が阻害され、電池の設計としてはあまりいいものではない。
(詳細については実験による検証が必要)
つまり、電池として一番よいのは、皿のような開放系にし、電解液と空気のあいだの界面を大きくする設計である。
「バグダット電池」は鉄の棒が銅の筒の中に入り、これがつぼの入り口からアスファルト(ビチュメン)によってつり下がった構造をしている。
(この本に掲載されている図はケーニッヒのスケッチとは若干構造が異なっている)
何かにぶつけるなどして強い衝撃を与えると、アスファルトの部分が壊れて筒と棒がつぼの中に落ちてしまいそうだ。
電池がこういう構造をしている必然性はない。
鉄と銅の両電極が外に露出していないと電池としては使えないが、
肝心なこの部分の詳細が記載されている文献は見たことがない。
そもそも「バグダット電池」が発見されたのは1930年代で、今これらの遺物がどこでどうなっているのかもよくわからない。
その後、新たな発掘調査がなされたという話も聞かない。
今のところ、「バグダット電池」を電池であったと考えなくてはいけない必然性はない。
しかし、私は考古学者ではないので、「電池でなけりゃいったいなんなんだ?」という問いに答えることはできない。
考古学の先生方には、謙虚な気持ちで物証に基づき論理的・客観的に、この問いに対する解答に取り組んでいただきたいと思っている。
2010年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルのとおり、古代の発明や発見についての事典です。
通り一遍の著名な発明品だけでなく、美食や娯楽、風俗にいたるまでのさまざまな文化についても詳しく述べられており、古代というものが決して現在と隔絶したものではなく地続きであるということを改めて認識できます。
ただ、一部オーパーツ的なもの――はっきり言えば「トンデモ」に分類されるような内容までも含まれており、そこを加味して★一つ減。
そういった内容もあるということを理解した上で読めば、きっと古代と言うものについての見方が変わる名著だと思います。
通り一遍の著名な発明品だけでなく、美食や娯楽、風俗にいたるまでのさまざまな文化についても詳しく述べられており、古代というものが決して現在と隔絶したものではなく地続きであるということを改めて認識できます。
ただ、一部オーパーツ的なもの――はっきり言えば「トンデモ」に分類されるような内容までも含まれており、そこを加味して★一つ減。
そういった内容もあるということを理解した上で読めば、きっと古代と言うものについての見方が変わる名著だと思います。