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天皇恐るべし: 誰も考えなかった日本の不思議 (ネスコブックス A- 14) ペーパーバック – 1986/11/1
小室 直樹
(著)
- 本の長さ268ページ
- 言語日本語
- 出版社文春ネスコ
- 発売日1986/11/1
- ISBN-104890360344
- ISBN-13978-4890360345
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登録情報
- 出版社 : 文春ネスコ (1986/11/1)
- 発売日 : 1986/11/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 268ページ
- ISBN-10 : 4890360344
- ISBN-13 : 978-4890360345
- Amazon 売れ筋ランキング: - 822,770位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5,148位政治入門
- - 77,191位ビジネス・経済 (本)
- - 125,248位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年3月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
社会科学者 小室直樹氏の著作
本書は、現人神としての天皇の神格を、神学的および宗教社会学的に分析することを目的としており、神としての天皇はキリスト教の神に近いと結論しています
明治維新後、社会の根幹をゆさぶりつくす制度的大改革、社会的慣習の大変革が矢継ぎ早に企画され強行されたが、それがすべて、勅令--天皇の命令--によって行われた
制度の改革はいわずもがな、伝統主義社会において社会風習を変革することはまず不可能と考えられたが、この不可能を可能にした存在が明治維新後の日本天皇であり、かくのごとき奇跡が可能であったのは天皇が神であったからである
(1)教育勅語を例にとり天皇はキリスト教的神であることを証明しています
キリスト教的神とは権威(すなわち正当性の創造)を有する神である
神は万物を創造し「正しさ」も創造した---「これが正しい」とは、神が正しいと意思決定したが故に正しいのであって、神の意志とは独立に客観的な是非善悪があるわけでない
教育勅語およびそれを中核とする天皇イデオロギーは、全く新しい正当性の創造であり、本質的に、儒教イデオロギーとは、異質的なものでありました
i)教育勅語で用いている「臣民」という言葉の概念は、中国にはない-中国では、役人(臣)と民衆とでは天地ほどの開きがあり、また違った規範を持っていた(臣は「義」、民衆は「利」と二重規範)
明治以降の日本では臣と民との区別はなくなりすべての日本人は、天皇の臣であり民であるとされ、儒教に固有的であった二重規範、臣と民、官と庶民、君子と小人とに両極化されていた二重規範はここに解消され、範は一元化された-臣民という一種類の人間しか存在しないので、権利も義務も全く同一となりました
ii)教育勅語では、儒教における絶対規範「孝」を第二規範に落とし臣民の天皇に対する義務「忠」を絶対規範とした
このような規範変更は伝統主義的神にかかる力を有せず、キリスト教的権威を有する神であってはじめて可能であります
iii)教育勅語では「戦争がはじまったならば、必死になって国のために戦え」という命令を天皇が臣民に下しているが、儒教イデオロギーでは国家のために義勇をもって奉じなければならないのは、士・大夫事情の人々だけであり民に義務はない
ユダヤ教においてはユダヤ共同体の内と外では、明確に二重規範をとっており、ユダヤ共同体ないにおける根本規範はモーセの法律で、ユダヤ人以外の民は、法律なき民と呼ばれ差別されるが、キリスト教ではギリシャ人にも野蛮人にも、知者にも無学の物にも、ユダヤ人にも異邦人にも、等しく福音を説き、ひとしく「信仰によって義とされる」という規範の一元化すなわち普遍規範の創造がなされている
教育勅語における規範の一元化を成し得た天皇は正当性の創造をしたという点でまさにキリスト教的神であります
(2)水戸藩の朱子学者 栗山潜鋒は、「保建大記」でなにゆえ古代王朝が没落したか詳細に論じています
i)鳥羽天皇から受禅をうけ、その第一子 崇徳天皇が即位され、鳥羽上皇は院政をとったが、その後、鳥羽上皇の寵姫 美福門院は皇子体仁を産んだ
美福門院のはたらきで鳥羽上皇は嫌がる崇徳天皇を無理やり退位させ体仁皇子が即位した、近衛天皇である
そこへ突然、近衛天皇が崩御され、美福門院は近衛天皇が崩御したのは崇徳上皇が呪詛したのが原因だと鳥羽上皇に吹き込み崇徳上皇の復辟は許されなかった
鳥羽上皇は彼の第四子 雅仁親王をたて天皇とした、後白河天皇である
皇位継承順位は天輪の序によって決められるべきであり、上皇や天皇ともいえども、これを恣意的に変更することは許されないとするのが「保建大記」のテーマの一つ
天皇のみ位は、根本規範であるが他ならぬ鳥羽上皇を美福門院を諌めなかった関白藤原忠道によって破壊された
朝廷が政治権力を喪失したのは、逆臣がこれを奪ったのではなく、朝廷自らこれを放棄したからである
ii)保元元年、鳥羽上皇が鳥羽宮で崩御、崇徳上皇がかけつけるも鳥羽宮の役人に追い返され、崇徳上皇派は大いにいかった
源氏の総司令官為義を家来にしている左大臣藤原頼長(関白藤原忠道の弟)は崇徳上皇のおすまいの白河殿に参って召集令を出した
ここに保元の乱が勃発するが、崇徳上皇に藤原頼長、源為義、平忠正(平清盛の叔父)がつき、かたや後白河天皇に、藤原忠通、源義朝(源為義の嫡男)、平清盛がつき争われ、結局、崇徳上皇が破れ讃岐遠流となり、また義朝は捕らえられた父為義を勅命にて斬り殺すという道を取らされた
鳥羽上皇が天輪を蹂躙し恣意をもって天位を動かしたことによって根本規範は解体し、保元の乱において父子、兄弟、叔姪であらそうという人倫の破壊が生じ、人倫破壊は義朝の父殺しにおいてクライマックスに達した(父殺を命じた朝廷も倫理的に破産した)
讃岐に遷された崇徳上皇は自らの血で五部大乗教を書き写し呪詛し、人々を不幸にし革命を起こして、皇を民とし民を皇とすると誓願して崩じた
誓願は、ひとつひとつ実現され、保元の乱の後、平治の乱、義仲の京都侵入、義経の平家追討などの戦乱を経て、政治権力は急速に朝廷はなれ武家に収束していった
誓願して崩じた崇徳上皇をして祟りの神、怒りの神、人間殺し罰する神たらしむ神格とはキリスト教における神と神学的同型性があり、キリスト教の母体のとなるユダヤ教の神は契約を破るユダヤの頑民にたいし怒りの神、人間殺し罰する神であったと述べています
さらに、政治権力の喪失に気付いた朝廷は承久の乱で討伐の軍を起こすが三上皇は遠流となり、時の執権北条泰時は「貞永式目」制定し民を皇とするという予言は実現は完全となりました
後の後醍醐天皇の建武の中興の失敗も天皇の不徳失政にありました
(3)天皇は現人神であるという命題はニケア信条を想起させます
ニケア宗教会議では、三位一体を正統とし、すなわちイエスキリストは完全に人であると同時に全に神であるされた---両極性の統一、反対の一致、矛盾の弁証法的統一こそ、正当性を与えるものである
また、天皇の位--天位--こそ、主神天照大神と天皇との契約(神勅)であり、根本規範である
キリスト教における救済とは神の恩恵を与えられ永遠の生命を得ることであり、さらに予定説では天地創造がなされときにこの恩恵を与えられる人はすでに決まっているとされている
天皇神話を貫徹する論理は予定説的すなわち予定調和説的であることが、現人神たる天皇の神格が、キリスト教的神とする根本理由となります
(4)故事に失徳した主君を放伐した湯王と武王は民を苦しみから救い聖人として政治を行ったとあるが、これを是認すれば乱臣賊子を認めることになり、これを否定すれば聖人であるべき天子が悪逆非道でもよいことになる--いわゆる「湯武放伐論」である
徳川幕府イデオロギーは、「湯武放伐論」の是認である
しかし、崎門の学 山崎闇斎、その弟子 浅見絅斎による「拘幽操」研究で「湯武放伐論」は否定されます
「拘幽操」の中では、周の文王(西伯)は紂王によって何の罪科もないのに地下牢に拘留されてしまうが、文王は恨むことはなく「わたしの大罪は死刑に値します」「ご主君は聖明であらせられます」と文王の心が忖度されている
これは天子 紂王が罪なき臣下 文王(西伯)に罪を贖わせて聖なる天王として赦免され行くというテーマで、罪深き人類の罰を十字架上で贖った罪なき主たるイエス・キリストの話とネガの関係(双対的)になります
さらに浅見絅斎は「臣が君に仕える義は、いかなる場合でも免除されることのない絶対的な義務である 君が君で無くなってしまうことはありえない」と荘子を引用し、この栗山潜鋒、浅見絅斎の業績により「湯武放伐論」は、明確にかつ決定的に否定されます
徳川光圀と舜水により失政の天子 後醍醐天皇に絶対的な忠義をつくした楠木正成は代表的忠臣とされるに至った
後醍醐天皇が暗君であればあるほど、失政の天子であればあるほど正成の天皇に対する忠義は赫然たるものとなり天皇の忠義は高められ絶対的なものとなりますが、パウロの「ローマ人への手紙」で、人間の罪が深ければ深いほど、人間には何の価値もなければこそ、神の人間に対する愛(アガペー)は絶対的になるというテーマとネガの関係(双対的)になります
かかるユダヤ教の呪いの神、祟りの神、復讐の神は、キリスト教 「ローマ人への手紙」で愛の神に変身をとげたましたが、天皇においてもかくのごとくでありました
これまた内容の濃い書籍でした
氏の書作で天皇については、『 「天皇」の原理 』がありますが、切り口が違っていて、本書では「保建大記」について詳しく書かれています
本書は、現人神としての天皇の神格を、神学的および宗教社会学的に分析することを目的としており、神としての天皇はキリスト教の神に近いと結論しています
明治維新後、社会の根幹をゆさぶりつくす制度的大改革、社会的慣習の大変革が矢継ぎ早に企画され強行されたが、それがすべて、勅令--天皇の命令--によって行われた
制度の改革はいわずもがな、伝統主義社会において社会風習を変革することはまず不可能と考えられたが、この不可能を可能にした存在が明治維新後の日本天皇であり、かくのごとき奇跡が可能であったのは天皇が神であったからである
(1)教育勅語を例にとり天皇はキリスト教的神であることを証明しています
キリスト教的神とは権威(すなわち正当性の創造)を有する神である
神は万物を創造し「正しさ」も創造した---「これが正しい」とは、神が正しいと意思決定したが故に正しいのであって、神の意志とは独立に客観的な是非善悪があるわけでない
教育勅語およびそれを中核とする天皇イデオロギーは、全く新しい正当性の創造であり、本質的に、儒教イデオロギーとは、異質的なものでありました
i)教育勅語で用いている「臣民」という言葉の概念は、中国にはない-中国では、役人(臣)と民衆とでは天地ほどの開きがあり、また違った規範を持っていた(臣は「義」、民衆は「利」と二重規範)
明治以降の日本では臣と民との区別はなくなりすべての日本人は、天皇の臣であり民であるとされ、儒教に固有的であった二重規範、臣と民、官と庶民、君子と小人とに両極化されていた二重規範はここに解消され、範は一元化された-臣民という一種類の人間しか存在しないので、権利も義務も全く同一となりました
ii)教育勅語では、儒教における絶対規範「孝」を第二規範に落とし臣民の天皇に対する義務「忠」を絶対規範とした
このような規範変更は伝統主義的神にかかる力を有せず、キリスト教的権威を有する神であってはじめて可能であります
iii)教育勅語では「戦争がはじまったならば、必死になって国のために戦え」という命令を天皇が臣民に下しているが、儒教イデオロギーでは国家のために義勇をもって奉じなければならないのは、士・大夫事情の人々だけであり民に義務はない
ユダヤ教においてはユダヤ共同体の内と外では、明確に二重規範をとっており、ユダヤ共同体ないにおける根本規範はモーセの法律で、ユダヤ人以外の民は、法律なき民と呼ばれ差別されるが、キリスト教ではギリシャ人にも野蛮人にも、知者にも無学の物にも、ユダヤ人にも異邦人にも、等しく福音を説き、ひとしく「信仰によって義とされる」という規範の一元化すなわち普遍規範の創造がなされている
教育勅語における規範の一元化を成し得た天皇は正当性の創造をしたという点でまさにキリスト教的神であります
(2)水戸藩の朱子学者 栗山潜鋒は、「保建大記」でなにゆえ古代王朝が没落したか詳細に論じています
i)鳥羽天皇から受禅をうけ、その第一子 崇徳天皇が即位され、鳥羽上皇は院政をとったが、その後、鳥羽上皇の寵姫 美福門院は皇子体仁を産んだ
美福門院のはたらきで鳥羽上皇は嫌がる崇徳天皇を無理やり退位させ体仁皇子が即位した、近衛天皇である
そこへ突然、近衛天皇が崩御され、美福門院は近衛天皇が崩御したのは崇徳上皇が呪詛したのが原因だと鳥羽上皇に吹き込み崇徳上皇の復辟は許されなかった
鳥羽上皇は彼の第四子 雅仁親王をたて天皇とした、後白河天皇である
皇位継承順位は天輪の序によって決められるべきであり、上皇や天皇ともいえども、これを恣意的に変更することは許されないとするのが「保建大記」のテーマの一つ
天皇のみ位は、根本規範であるが他ならぬ鳥羽上皇を美福門院を諌めなかった関白藤原忠道によって破壊された
朝廷が政治権力を喪失したのは、逆臣がこれを奪ったのではなく、朝廷自らこれを放棄したからである
ii)保元元年、鳥羽上皇が鳥羽宮で崩御、崇徳上皇がかけつけるも鳥羽宮の役人に追い返され、崇徳上皇派は大いにいかった
源氏の総司令官為義を家来にしている左大臣藤原頼長(関白藤原忠道の弟)は崇徳上皇のおすまいの白河殿に参って召集令を出した
ここに保元の乱が勃発するが、崇徳上皇に藤原頼長、源為義、平忠正(平清盛の叔父)がつき、かたや後白河天皇に、藤原忠通、源義朝(源為義の嫡男)、平清盛がつき争われ、結局、崇徳上皇が破れ讃岐遠流となり、また義朝は捕らえられた父為義を勅命にて斬り殺すという道を取らされた
鳥羽上皇が天輪を蹂躙し恣意をもって天位を動かしたことによって根本規範は解体し、保元の乱において父子、兄弟、叔姪であらそうという人倫の破壊が生じ、人倫破壊は義朝の父殺しにおいてクライマックスに達した(父殺を命じた朝廷も倫理的に破産した)
讃岐に遷された崇徳上皇は自らの血で五部大乗教を書き写し呪詛し、人々を不幸にし革命を起こして、皇を民とし民を皇とすると誓願して崩じた
誓願は、ひとつひとつ実現され、保元の乱の後、平治の乱、義仲の京都侵入、義経の平家追討などの戦乱を経て、政治権力は急速に朝廷はなれ武家に収束していった
誓願して崩じた崇徳上皇をして祟りの神、怒りの神、人間殺し罰する神たらしむ神格とはキリスト教における神と神学的同型性があり、キリスト教の母体のとなるユダヤ教の神は契約を破るユダヤの頑民にたいし怒りの神、人間殺し罰する神であったと述べています
さらに、政治権力の喪失に気付いた朝廷は承久の乱で討伐の軍を起こすが三上皇は遠流となり、時の執権北条泰時は「貞永式目」制定し民を皇とするという予言は実現は完全となりました
後の後醍醐天皇の建武の中興の失敗も天皇の不徳失政にありました
(3)天皇は現人神であるという命題はニケア信条を想起させます
ニケア宗教会議では、三位一体を正統とし、すなわちイエスキリストは完全に人であると同時に全に神であるされた---両極性の統一、反対の一致、矛盾の弁証法的統一こそ、正当性を与えるものである
また、天皇の位--天位--こそ、主神天照大神と天皇との契約(神勅)であり、根本規範である
キリスト教における救済とは神の恩恵を与えられ永遠の生命を得ることであり、さらに予定説では天地創造がなされときにこの恩恵を与えられる人はすでに決まっているとされている
天皇神話を貫徹する論理は予定説的すなわち予定調和説的であることが、現人神たる天皇の神格が、キリスト教的神とする根本理由となります
(4)故事に失徳した主君を放伐した湯王と武王は民を苦しみから救い聖人として政治を行ったとあるが、これを是認すれば乱臣賊子を認めることになり、これを否定すれば聖人であるべき天子が悪逆非道でもよいことになる--いわゆる「湯武放伐論」である
徳川幕府イデオロギーは、「湯武放伐論」の是認である
しかし、崎門の学 山崎闇斎、その弟子 浅見絅斎による「拘幽操」研究で「湯武放伐論」は否定されます
「拘幽操」の中では、周の文王(西伯)は紂王によって何の罪科もないのに地下牢に拘留されてしまうが、文王は恨むことはなく「わたしの大罪は死刑に値します」「ご主君は聖明であらせられます」と文王の心が忖度されている
これは天子 紂王が罪なき臣下 文王(西伯)に罪を贖わせて聖なる天王として赦免され行くというテーマで、罪深き人類の罰を十字架上で贖った罪なき主たるイエス・キリストの話とネガの関係(双対的)になります
さらに浅見絅斎は「臣が君に仕える義は、いかなる場合でも免除されることのない絶対的な義務である 君が君で無くなってしまうことはありえない」と荘子を引用し、この栗山潜鋒、浅見絅斎の業績により「湯武放伐論」は、明確にかつ決定的に否定されます
徳川光圀と舜水により失政の天子 後醍醐天皇に絶対的な忠義をつくした楠木正成は代表的忠臣とされるに至った
後醍醐天皇が暗君であればあるほど、失政の天子であればあるほど正成の天皇に対する忠義は赫然たるものとなり天皇の忠義は高められ絶対的なものとなりますが、パウロの「ローマ人への手紙」で、人間の罪が深ければ深いほど、人間には何の価値もなければこそ、神の人間に対する愛(アガペー)は絶対的になるというテーマとネガの関係(双対的)になります
かかるユダヤ教の呪いの神、祟りの神、復讐の神は、キリスト教 「ローマ人への手紙」で愛の神に変身をとげたましたが、天皇においてもかくのごとくでありました
これまた内容の濃い書籍でした
氏の書作で天皇については、『 「天皇」の原理 』がありますが、切り口が違っていて、本書では「保建大記」について詳しく書かれています
2014年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読みやすい。
日本の天皇について、歴史的経緯と倫理論をもとに解説している。
大切な天皇のご存在について、吾妻鏡・平家物語・保元平治物語・神道・仏教・儒教・キリスト教等を引き合いに出して解説している。
ただ、これだけあちこちから引っ張ってきているので、どうしてもまとまりがない感じになってしまっている。
私は、天皇陛下・日本史・記紀について下調べをしてからこの本を読んだので、書かれなかった言葉を脳内補足しながら読んだことになるが、それでも読み取れなかったことがたくさんある。
たとえば、「キリスト教では、神は祟る存在であったが、キリストが出現することにより愛の神へと変わった。日本の天皇もそれと同じプロセスを踏んだ」と主張するのだが、そのキリストにあたるものが何なのかの説明が抜けている。
「天皇がキリスト」だというのだろうか?
戒律と罰が好きなキリスト教の神と、尊いという以外には何もない日本の神様とは全く一緒にはならないので、もう少し説明してほしいところである。
本書はそういう欠点もありながらも、非常に魅力的な本である。
いろんな角度から、「ああ、そういう考え方もあったんだ」と気づかせてくれる一冊である。
著者が、現在(平成27年)も多くの評論家・著名人から尊敬されている理由がよくわかります。
日本の天皇について、歴史的経緯と倫理論をもとに解説している。
大切な天皇のご存在について、吾妻鏡・平家物語・保元平治物語・神道・仏教・儒教・キリスト教等を引き合いに出して解説している。
ただ、これだけあちこちから引っ張ってきているので、どうしてもまとまりがない感じになってしまっている。
私は、天皇陛下・日本史・記紀について下調べをしてからこの本を読んだので、書かれなかった言葉を脳内補足しながら読んだことになるが、それでも読み取れなかったことがたくさんある。
たとえば、「キリスト教では、神は祟る存在であったが、キリストが出現することにより愛の神へと変わった。日本の天皇もそれと同じプロセスを踏んだ」と主張するのだが、そのキリストにあたるものが何なのかの説明が抜けている。
「天皇がキリスト」だというのだろうか?
戒律と罰が好きなキリスト教の神と、尊いという以外には何もない日本の神様とは全く一緒にはならないので、もう少し説明してほしいところである。
本書はそういう欠点もありながらも、非常に魅力的な本である。
いろんな角度から、「ああ、そういう考え方もあったんだ」と気づかせてくれる一冊である。
著者が、現在(平成27年)も多くの評論家・著名人から尊敬されている理由がよくわかります。
2022年1月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
なかなか理解するのが難しい
特に、後半は!
自分はよく分かりませんでした
特に、後半は!
自分はよく分かりませんでした
2013年8月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
天皇制については、今まで否定的に考えていましたが、日本にとって、重要な役割も持っていたことが分かりました。戦後のアノミー状態を考える良い視点になると思います。
2014年4月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本史、世界史を考える上での考え方が非常に簡潔に、わかりやすく記述されています。
キリスト教の「予定説」すなわち「神が決めたことだから正しい」
これと同じに、明治天皇は「天皇が決めたことだから正しい」という論理で「廃藩置県」を行い、日本を中央集権国家にし、身分制をなくし武士を廃して、国民を作りました。神とはなにか、人力では不可能なものを可能とする力である。
ここに「天皇はキリスト的神である」という氏の説の妥当性があり、日本は西欧のキリスト教国に近い考え方をする国なのです。
儒教の国、中国、韓国では「君子(指導者階級)」と「小人(一般大衆)」は厳然と区分されています。現在もこの伝統は強く残っています。
日本の平等主義は「一君万民」の天皇制にそのもとがあります。
キリスト教の「予定説」すなわち「神が決めたことだから正しい」
これと同じに、明治天皇は「天皇が決めたことだから正しい」という論理で「廃藩置県」を行い、日本を中央集権国家にし、身分制をなくし武士を廃して、国民を作りました。神とはなにか、人力では不可能なものを可能とする力である。
ここに「天皇はキリスト的神である」という氏の説の妥当性があり、日本は西欧のキリスト教国に近い考え方をする国なのです。
儒教の国、中国、韓国では「君子(指導者階級)」と「小人(一般大衆)」は厳然と区分されています。現在もこの伝統は強く残っています。
日本の平等主義は「一君万民」の天皇制にそのもとがあります。