素敵なイラストが、表紙になりましたね!
内容は、当然ながら、当初のまま素晴らしいです。
この作品を読むと、学生時代のこっぱずかしい感情が胸のうちに蘇る。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
ボヘミアンガラス・ストリ-ト: マジカルラヴスト-リ- (第1部) 単行本 – 1995/3/4
平井 和正
(著)
- 本の長さ214ページ
- 言語日本語
- 出版社アスペクト
- 発売日1995/3/4
- ISBN-104893663348
- ISBN-13978-4893663344
登録情報
- 出版社 : アスペクト (1995/3/4)
- 発売日 : 1995/3/4
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 214ページ
- ISBN-10 : 4893663348
- ISBN-13 : 978-4893663344
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2016年4月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2016年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「地球樹の女神」以降の平井和正作品群は、「人狼白書」以降どころではない途方もない小説的結構からの逸脱を現象化する。解りにくい言い方だ……だって、分かりにくいんだもの。紛れもなく。
「幻魔大戦」が小説的結構からの逸脱といわれながらも、十二分に「小説」として成り立っていたのに比べ、「地球樹の女神」中盤からはまさに夢幻的世界に入り込んだことを思わせる。現実と夢見との区別が意味をなさなくなり、事実とイリュージョンは等価となり、世界は“移される”。
その最も途方もないものはもちろん「アブダクション」シリーズに集約されるのだが、「ボヘミアンガラス・ストリート」はその先駆として「神様ファミリー」とその主軸たる大上円くんの存在をもって語られる。
円くんは「神様」として、自らの封印を剥がして「世界を移す」のだ。前作「地球樹の女神」で、フィロデンドロンの教授が「世界を移す」と告げるとき、その意味を知る者は誰もいなかったのではないか? しかし、円くんは世界を移した……
刊行時に順を追って読んでいったとき、各巻ごとに暗示される喪失の未来に戦きながら読んでいたのを思い出せる。平井和正の筆致は、本当にボヘミアンガラスの脆い崩壊を、その未来の映像を、感覚を、投射してきていたのだ。
しかし、最初のうち、「きまぐれオレンジロード」のイメージに困惑しながら読んでいかざるを得なかった。円くんはとりあえずいいとして、百合川螢と白山小雪の二人についてはどうしても鮎川まどかと檜山ひかるの二人としか思えなかったからだ。特に、鮎川と百合川という共通した名前の部分、また小雪とのコンタクト時に異動されてはいるが煙草のエピソードなど、「インスパイア」を表明しているにしても「きまオレ」をあまりにも思い出させすぎた。それ以外の登場人物たちや家族のシチュエーション等も、故意にはちがいないが、あまりにダブらせすぎていた感じがある。
それが、伊福部が登場した辺りから、風が変わった。たぶん、これは伊福部の力だったのだろうと思う。オマージュ、インスパイアの呪縛を捨象する、転換する。だから伊福部にはまさしく女神様の資格があったのだ。……が、これは続巻になってからのことである。
「幻魔大戦」が小説的結構からの逸脱といわれながらも、十二分に「小説」として成り立っていたのに比べ、「地球樹の女神」中盤からはまさに夢幻的世界に入り込んだことを思わせる。現実と夢見との区別が意味をなさなくなり、事実とイリュージョンは等価となり、世界は“移される”。
その最も途方もないものはもちろん「アブダクション」シリーズに集約されるのだが、「ボヘミアンガラス・ストリート」はその先駆として「神様ファミリー」とその主軸たる大上円くんの存在をもって語られる。
円くんは「神様」として、自らの封印を剥がして「世界を移す」のだ。前作「地球樹の女神」で、フィロデンドロンの教授が「世界を移す」と告げるとき、その意味を知る者は誰もいなかったのではないか? しかし、円くんは世界を移した……
刊行時に順を追って読んでいったとき、各巻ごとに暗示される喪失の未来に戦きながら読んでいたのを思い出せる。平井和正の筆致は、本当にボヘミアンガラスの脆い崩壊を、その未来の映像を、感覚を、投射してきていたのだ。
しかし、最初のうち、「きまぐれオレンジロード」のイメージに困惑しながら読んでいかざるを得なかった。円くんはとりあえずいいとして、百合川螢と白山小雪の二人についてはどうしても鮎川まどかと檜山ひかるの二人としか思えなかったからだ。特に、鮎川と百合川という共通した名前の部分、また小雪とのコンタクト時に異動されてはいるが煙草のエピソードなど、「インスパイア」を表明しているにしても「きまオレ」をあまりにも思い出させすぎた。それ以外の登場人物たちや家族のシチュエーション等も、故意にはちがいないが、あまりにダブらせすぎていた感じがある。
それが、伊福部が登場した辺りから、風が変わった。たぶん、これは伊福部の力だったのだろうと思う。オマージュ、インスパイアの呪縛を捨象する、転換する。だから伊福部にはまさしく女神様の資格があったのだ。……が、これは続巻になってからのことである。
2016年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
誤植の類まではわかりませんが、後書き等が増えたといった変化は何もありません。買い直す必要はないでしょう。
あと、これは個人的な好みの問題になるのでしょうが、こっちのイラストは好きになれません。
イラスト描きが掃いて捨てても後から腐るほど沸いてくる時代に、このレベルのイラストレータをあえて採用した意味と意義がわかりません。
あと、これは個人的な好みの問題になるのでしょうが、こっちのイラストは好きになれません。
イラスト描きが掃いて捨てても後から腐るほど沸いてくる時代に、このレベルのイラストレータをあえて採用した意味と意義がわかりません。
2015年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「地球樹の女神」以降の平井和正作品群は、「人狼白書」以降どころではない途方もない小説的結構からの逸脱を現象化する。解りにくい言い方だ……だって、分かりにくいんだもの。紛れもなく。
「幻魔大戦」が小説的結構からの逸脱といわれながらも、十二分に「小説」として成り立っていたのに比べ、「地球樹の女神」中盤からはまさに夢幻的世界に入り込んだことを思わせる。現実と夢見との区別が意味をなさなくなり、事実とイリュージョンは等価となり、世界は“移される”。
その最も途方もないものはもちろん「アブダクション」シリーズに集約されるのだが、「ボヘミアンガラス・ストリート」はその先駆として「神様ファミリー」とその主軸たる大上円くんの存在をもって語られる。
円くんは「神様」として、自らの封印を剥がして「世界を移す」のだ。前作「地球樹の女神」で、フィロデンドロンの教授が「世界を移す」と告げるとき、その意味を知る者は誰もいなかったのではないか? しかし、円くんは世界を移した……
刊行時に順を追って読んでいったとき、各巻ごとに暗示される喪失の未来に戦きながら読んでいたのを思い出せる。平井和正の筆致は、本当にボヘミアンガラスの脆い崩壊を、その未来の映像を、感覚を、投射してきていたのだ。
しかし、最初のうち、「きまぐれオレンジロード」のイメージに困惑しながら読んでいかざるを得なかった。円くんはとりあえずいいとして、百合川螢と白山小雪の二人についてはどうしても鮎川まどかと檜山ひかるの二人としか思えなかったからだ。特に、鮎川と百合川という共通した名前の部分、また小雪とのコンタクト時に異動されてはいるが煙草のエピソードなど、「インスパイア」を表明しているにしても「きまオレ」をあまりにも思い出させすぎた。それ以外の登場人物たちや家族のシチュエーション等も、故意にはちがいないが、あまりにダブらせすぎていた感じがある。
それが、伊福部が登場した辺りから、風が変わった。たぶん、これは伊福部の力だったのだろうと思う。オマージュ、インスパイアの呪縛を捨象する、転換する。だから伊福部にはまさしく女神様の資格があったのだ。……が、これは続巻になってからのことである。
「幻魔大戦」が小説的結構からの逸脱といわれながらも、十二分に「小説」として成り立っていたのに比べ、「地球樹の女神」中盤からはまさに夢幻的世界に入り込んだことを思わせる。現実と夢見との区別が意味をなさなくなり、事実とイリュージョンは等価となり、世界は“移される”。
その最も途方もないものはもちろん「アブダクション」シリーズに集約されるのだが、「ボヘミアンガラス・ストリート」はその先駆として「神様ファミリー」とその主軸たる大上円くんの存在をもって語られる。
円くんは「神様」として、自らの封印を剥がして「世界を移す」のだ。前作「地球樹の女神」で、フィロデンドロンの教授が「世界を移す」と告げるとき、その意味を知る者は誰もいなかったのではないか? しかし、円くんは世界を移した……
刊行時に順を追って読んでいったとき、各巻ごとに暗示される喪失の未来に戦きながら読んでいたのを思い出せる。平井和正の筆致は、本当にボヘミアンガラスの脆い崩壊を、その未来の映像を、感覚を、投射してきていたのだ。
しかし、最初のうち、「きまぐれオレンジロード」のイメージに困惑しながら読んでいかざるを得なかった。円くんはとりあえずいいとして、百合川螢と白山小雪の二人についてはどうしても鮎川まどかと檜山ひかるの二人としか思えなかったからだ。特に、鮎川と百合川という共通した名前の部分、また小雪とのコンタクト時に異動されてはいるが煙草のエピソードなど、「インスパイア」を表明しているにしても「きまオレ」をあまりにも思い出させすぎた。それ以外の登場人物たちや家族のシチュエーション等も、故意にはちがいないが、あまりにダブらせすぎていた感じがある。
それが、伊福部が登場した辺りから、風が変わった。たぶん、これは伊福部の力だったのだろうと思う。オマージュ、インスパイアの呪縛を捨象する、転換する。だから伊福部にはまさしく女神様の資格があったのだ。……が、これは続巻になってからのことである。
2014年4月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
以前小説で購入してたんだけど、久し振りに
読んだらやっぱり面白かった。
読んだらやっぱり面白かった。
2013年8月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
安さにつられて購入しましたが、分けわからん。
今時は良いのかしら??
今時は良いのかしら??