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清朝とは何か 別冊環16 (別冊環 16) 単行本 – 2009/5/25
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- ISBN-104894346826
- ISBN-13978-4894346826
- 出版社藤原書店
- 発売日2009/5/25
- 言語日本語
- 本の長さ335ページ
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登録情報
- 出版社 : 藤原書店 (2009/5/25)
- 発売日 : 2009/5/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 335ページ
- ISBN-10 : 4894346826
- ISBN-13 : 978-4894346826
- Amazon 売れ筋ランキング: - 279,877位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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2017年12月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、以前から世界市場がいかにして形成されたかに興味を持っていて、岡田氏による説明、モンゴルのシルクロードにより西洋文明と中華・東洋文明が繋がり成立したかに、個人的な国際経験から非常に納得した次第でした。今回は、中国の今後を見通す意味で重要な示唆を与えてくれる書籍として当書籍を選びました。歴史を考える際に、現在の国民国家の観点で、過去の国家を判断してはいけないということが重要ですが、実際には知らず知らずのうちに、この国民国家の考え方がしみこんでおり、見当違いな批判・評論をしてしまいます。この書籍は、この見当違いを明確に排除して、論点を立てておられるようで、実務的視点からも有益と考えられました。
現在の中国は、清朝の領土をほぼ維持して成立しております。また、先日のファイナンシャルタイムズでも興味深いことに、現在の中国を共産党という皇帝が支配している国と分析していました。そのため、今後の中国の行方を考えるうえでは清朝の歴史を研究することは重要な示唆を与えてくれると考えこの書籍を選択しました。この書籍では、私達が持っている、国民国家の観点を排除して、清朝を満州が中心となって・モンゴル・チベット等の合同による漢人を支配した政権と分析して、イデオロギーから離れた冷静な過去の現状(?)分析となっており、今後のため、非常に有益な示唆を得ることが出来る書籍と考えられます。
現在の中国は、清朝の領土をほぼ維持して成立しております。また、先日のファイナンシャルタイムズでも興味深いことに、現在の中国を共産党という皇帝が支配している国と分析していました。そのため、今後の中国の行方を考えるうえでは清朝の歴史を研究することは重要な示唆を与えてくれると考えこの書籍を選択しました。この書籍では、私達が持っている、国民国家の観点を排除して、清朝を満州が中心となって・モンゴル・チベット等の合同による漢人を支配した政権と分析して、イデオロギーから離れた冷静な過去の現状(?)分析となっており、今後のため、非常に有益な示唆を得ることが出来る書籍と考えられます。
2013年4月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現代日本の「世界史」は、高等学校のカリキュラムの中にしか実質上存在しない。その教科書に描かれた「世界史像」は、文部科学省が定めた「学習指導要領」の「世界史像」を肉付けして、若干の味付けをしたものである。元外務官僚の佐藤優は異色の論客だが、その彼が「高等学校受験参考書」を世界史的知識を整理する際のツールとして挙げていたのを読み、驚いた。さしあたっていいものがないから、という意味では理解するが、歴史は本来「解釈の産物」であり、「区分」「見出し」の一つ一つに来歴がある。受験参考書には様々な立場からの評価が不用意に入っていることがある。もっとも、佐藤優くらいになれば先刻ご承知のことだろうが。
岡田英弘氏が1970年代から指摘するように、日本の歴史教育は、「ヘロドトス以来の地中海文明の物語」と「司馬遷の史記的世界」、それに「古事記、日本書紀以来の日本文明の物語」の三つの部分から成り立っていた。前の二つを「西洋史+東洋史=世界史」と呼び、後の一つを「日本史」という。
これをどうにか一つに再構成できないものか、という問いは、「歴史学」「歴史教育」の関係者の中には古くからあった。しかし、統一的な視点を見いだすことは非常に困難であった。その理由は、岡田氏が書かれているような「古代日本から、日本人の来歴を説明するために、朝鮮、中国及び中国経由の西域世界との関係を踏まえて日本の歴史を描き、西欧との接触は16世紀ポルトガル以降から触れ、古代オリエント、古代ギリシア・ローマ、西欧中世などは割愛する」という大胆な世界史像は、明治以降、日本教養主義文化が慣れ親しんできた「西洋史」からほど遠いからである。余りに大きな抵抗が、予想できたからである。
以下に記そうというような事柄は、本来「日本人のための歴史学」(WAC)という、岡田氏が1970年代から「歴史と地理」「諸君」などの雑誌に書かれてきたことを一本にまとめた本のレビューとして書くことかも知れない。しかし、思いついたままに書き記す。
文部科学省の「教科調査官」は、学者と教育者の中間的存在であり、学問的には折衷主義者である。1960年代に活躍した世界史担当教科調査官は、人文地理学にヒントを得て「文化圏」という方法論を「高等学校世界史」に導入した。その考え方は、例えば、「ギリシア・ローマ文化圏」「インド文化圏」「中国文化圏」「スラブ文化圏」「イスラム文化圏」といったものが地球上のあちこちに生まれて地域史と文化・文明を形成するが、15世紀の「大航海時代」に地球の一体化が始まる。やがて市民革命と産業革命によって近代「市民社会」と「国民国家」が形成される。そして「帝国主義の時代」に突入する、といったものである。「文化圏」の数を適度に増やしていけば、ことは穏便にまとまり、トインビーの文明論とも整合性を図ることができる。様々な学説も程ほどに租借して織り込むことで、可能な範囲で多くの人々を納得させ、イデオロギー上の争いになど巻き込まれない「良識的な歴史教育」ができる。これは現在まで続いている文部科学省の、つまり、日本国政府の「世界史像」である。序でにいえば、彼は、戦後「高等学校世界史」を確立した調査官として現在まで評価されている。
その一方、「国史・日本史」は、時折海外との交渉があるだけで、近現代まで世界史とは関わらない。「明治維新」「日清・日露戦争」、日本の興隆が世界史に与えた影響などタブーのタブーである。また、戦後史は「進歩的民主主義」に反しない範囲で書くということが続いた。
こういった「世界史」が、全く「日本人のための世界史」になっていないことは明らかである。「歴史が地球上の自然現象のように描かれた世界像」である。しかし、この考え方は、「歴史」が自然科学ではなく、あくまで「一つの解釈」であり「物語」であることを無視している。そして何よりもおかしなことは、「地球上の自然現象」のように思い込んでいる歴史像が、近代ヨーロッパの歴史観と司馬光の正統論に立つ歴史観の「自己本位の解釈」を深く秘めたものであるという事実から完全に眼をそらしてしまっていることである。
しかし、文部省の担当者には、同情の余地は存在した。左翼からの攻撃に耐えつつ、「(大正)教養主義的世界史像」であれ、イデオロギーの攻勢に対して辛うじて穏健主義を保っていたからである。
こういった現状の中で、「モンゴル帝国から世界史は始まる」という「岡田史観」のダイナミズムを、現代日本人の歴史意識の中にどうすれば取り込んでいけるのか? 批判的に書いたが、「文化圏」というくくりも「モンゴル帝国以前」の地域史を論述するには、案外有効かも知れない。しかし、「モンゴル帝国」のアモルフさは、農耕民的心性の濃厚な日本人的感覚には抵抗があるかも知れない。それでもこの視点なしに「中国」が理解できるとは思えないし、「ハザール帝国」も含めて、中央ヨーロッパから東ヨーロッパ草原の国家形成をもう少し緻密にたどりたい。
西洋史での偏りは「ローマ→ゲルマン諸民族→中世封建制世界の成立→都市文明とルネッサンス」というふうに西ヨーロッパの地域史に偏っていることと、「フランク王国」の歴史的意義に見られるようにカトリシズムやヘレニズム文化の正統的継承者といった後付の論理で歴史を解釈することが問題である。「ピレンヌ・テーゼ」の有効性を疑うものではないが、何度でも考え直していきたい願望を感ずる。
最近、中国について書かれた本を読んでいると、明らかに岡田・宮脇夫妻の識見に影響された分析を書かれているものを見いだすことがある。しかし、アカデミズムの世界ではどうなのだろうか?
「別冊 環'16 清朝とは何か」巻頭は、藤原書店編集長による岡田英弘氏へのインタビューである。評者は、五度六度と読み返し、その都度心の中に生まれてくるものがある。
岡田英弘氏が1970年代から指摘するように、日本の歴史教育は、「ヘロドトス以来の地中海文明の物語」と「司馬遷の史記的世界」、それに「古事記、日本書紀以来の日本文明の物語」の三つの部分から成り立っていた。前の二つを「西洋史+東洋史=世界史」と呼び、後の一つを「日本史」という。
これをどうにか一つに再構成できないものか、という問いは、「歴史学」「歴史教育」の関係者の中には古くからあった。しかし、統一的な視点を見いだすことは非常に困難であった。その理由は、岡田氏が書かれているような「古代日本から、日本人の来歴を説明するために、朝鮮、中国及び中国経由の西域世界との関係を踏まえて日本の歴史を描き、西欧との接触は16世紀ポルトガル以降から触れ、古代オリエント、古代ギリシア・ローマ、西欧中世などは割愛する」という大胆な世界史像は、明治以降、日本教養主義文化が慣れ親しんできた「西洋史」からほど遠いからである。余りに大きな抵抗が、予想できたからである。
以下に記そうというような事柄は、本来「日本人のための歴史学」(WAC)という、岡田氏が1970年代から「歴史と地理」「諸君」などの雑誌に書かれてきたことを一本にまとめた本のレビューとして書くことかも知れない。しかし、思いついたままに書き記す。
文部科学省の「教科調査官」は、学者と教育者の中間的存在であり、学問的には折衷主義者である。1960年代に活躍した世界史担当教科調査官は、人文地理学にヒントを得て「文化圏」という方法論を「高等学校世界史」に導入した。その考え方は、例えば、「ギリシア・ローマ文化圏」「インド文化圏」「中国文化圏」「スラブ文化圏」「イスラム文化圏」といったものが地球上のあちこちに生まれて地域史と文化・文明を形成するが、15世紀の「大航海時代」に地球の一体化が始まる。やがて市民革命と産業革命によって近代「市民社会」と「国民国家」が形成される。そして「帝国主義の時代」に突入する、といったものである。「文化圏」の数を適度に増やしていけば、ことは穏便にまとまり、トインビーの文明論とも整合性を図ることができる。様々な学説も程ほどに租借して織り込むことで、可能な範囲で多くの人々を納得させ、イデオロギー上の争いになど巻き込まれない「良識的な歴史教育」ができる。これは現在まで続いている文部科学省の、つまり、日本国政府の「世界史像」である。序でにいえば、彼は、戦後「高等学校世界史」を確立した調査官として現在まで評価されている。
その一方、「国史・日本史」は、時折海外との交渉があるだけで、近現代まで世界史とは関わらない。「明治維新」「日清・日露戦争」、日本の興隆が世界史に与えた影響などタブーのタブーである。また、戦後史は「進歩的民主主義」に反しない範囲で書くということが続いた。
こういった「世界史」が、全く「日本人のための世界史」になっていないことは明らかである。「歴史が地球上の自然現象のように描かれた世界像」である。しかし、この考え方は、「歴史」が自然科学ではなく、あくまで「一つの解釈」であり「物語」であることを無視している。そして何よりもおかしなことは、「地球上の自然現象」のように思い込んでいる歴史像が、近代ヨーロッパの歴史観と司馬光の正統論に立つ歴史観の「自己本位の解釈」を深く秘めたものであるという事実から完全に眼をそらしてしまっていることである。
しかし、文部省の担当者には、同情の余地は存在した。左翼からの攻撃に耐えつつ、「(大正)教養主義的世界史像」であれ、イデオロギーの攻勢に対して辛うじて穏健主義を保っていたからである。
こういった現状の中で、「モンゴル帝国から世界史は始まる」という「岡田史観」のダイナミズムを、現代日本人の歴史意識の中にどうすれば取り込んでいけるのか? 批判的に書いたが、「文化圏」というくくりも「モンゴル帝国以前」の地域史を論述するには、案外有効かも知れない。しかし、「モンゴル帝国」のアモルフさは、農耕民的心性の濃厚な日本人的感覚には抵抗があるかも知れない。それでもこの視点なしに「中国」が理解できるとは思えないし、「ハザール帝国」も含めて、中央ヨーロッパから東ヨーロッパ草原の国家形成をもう少し緻密にたどりたい。
西洋史での偏りは「ローマ→ゲルマン諸民族→中世封建制世界の成立→都市文明とルネッサンス」というふうに西ヨーロッパの地域史に偏っていることと、「フランク王国」の歴史的意義に見られるようにカトリシズムやヘレニズム文化の正統的継承者といった後付の論理で歴史を解釈することが問題である。「ピレンヌ・テーゼ」の有効性を疑うものではないが、何度でも考え直していきたい願望を感ずる。
最近、中国について書かれた本を読んでいると、明らかに岡田・宮脇夫妻の識見に影響された分析を書かれているものを見いだすことがある。しかし、アカデミズムの世界ではどうなのだろうか?
「別冊 環'16 清朝とは何か」巻頭は、藤原書店編集長による岡田英弘氏へのインタビューである。評者は、五度六度と読み返し、その都度心の中に生まれてくるものがある。
2015年1月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
論文集のような形態ではありますが一般向けに用語の説明や通史的なまとめを記す等配慮があり、大清帝国史の導入本に良いかもしれません。一方、各著者は皆歴史学の第一線で活躍する学者であり、東洋史専攻の学生には是非とも目を通してもらいたい内容です。
2015年7月20日に日本でレビュー済み
清朝の歴史を扱っているようなタイトルだが、その中身は、清帝国成立と解体を中心とした東ユーラシア史の本だ。中国一辺倒でない、東ユーラシアの実態を知るのに、最適の一里塚と思う。そもそも東アジアは中華帝国の歴史がすべてではない。そこに、清帝国を打ち立てた満洲族、満州勃興の先駆となったモンゴルらの歴史が拮抗、あるいは優越していることを解きあかす。とくに冒頭の岡田英弘氏の談話は、東ユーラシア史の実相を知るに、じつに適していて、しかもわかりやすい。宮脇淳子氏の中国、満洲、モンゴル史総括りも、頭の整理になる。しかも、日本、琉球、蝦夷、ジュンガル、ロシアなどから見た清朝といった考察もあり、多面的に東ユーラシア史を解読していける。歴史書で、こんなに刺激的な本も少ないと思う。足りないのは、朝鮮半島と台湾の扱いくらいか。
また、最後に清帝国と満州帝国のつながりが考察されている。現代の日本では、満洲帝国にはふれたくない風潮があるが、たんに関東軍の都合でない、より巨視的な視野での満洲帝国の解析はやがて必要になってくる。そのための補助線が叙述されている。
一読して思うのは、栄光を極めた民族でも、100年で文字を失うという恐ろしい現実があったことだ。満洲族の打ち立てた清朝の第一公用語は、満洲語であり、満洲文字は中国大陸にあった。江戸時代の日本人も満洲文字を解読しようとしているのだが、清朝崩壊ののち、満洲文字、満洲語は急速にすたれていく。中国大陸の覇者となった国民党、共産党に、消え行く言語を残そう、保護しようという姿勢はかけらもない。これが、中国大陸の恐ろしさなのかと思ってしまう。
また、最後に清帝国と満州帝国のつながりが考察されている。現代の日本では、満洲帝国にはふれたくない風潮があるが、たんに関東軍の都合でない、より巨視的な視野での満洲帝国の解析はやがて必要になってくる。そのための補助線が叙述されている。
一読して思うのは、栄光を極めた民族でも、100年で文字を失うという恐ろしい現実があったことだ。満洲族の打ち立てた清朝の第一公用語は、満洲語であり、満洲文字は中国大陸にあった。江戸時代の日本人も満洲文字を解読しようとしているのだが、清朝崩壊ののち、満洲文字、満洲語は急速にすたれていく。中国大陸の覇者となった国民党、共産党に、消え行く言語を残そう、保護しようという姿勢はかけらもない。これが、中国大陸の恐ろしさなのかと思ってしまう。