小沢牧子さんは、息子はシンガーソングライターの小沢健二さん。義弟には、小沢征爾さんがいるような
有名家系の方です。
この本の、とても気に入っている点は、この方が
実際に臨床心理学を学び、カウンセラーでもあったという点
実際に、この業界で働いたり、臨床心理の大学院で学んでいると
専門家は、自分の専門性に、自信を持ちすぎていたり、特別であると思い込みすぎているんですよね
臨床心理の世界って、もっと反論があって然るべきものだとおもいます。
「専門家は、自分の専門性を疑い続ける」
という視点は、必須でしょう。
文中では、そのことを座布団で例えて、わかりやすく表現されています。
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心の専門家はいらない (新書y 57) 新書 – 2002/3/1
小沢 牧子
(著)
- ISBN-104896916158
- ISBN-13978-4896916157
- 出版社洋泉社
- 発売日2002/3/1
- 言語日本語
- 本の長さ218ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「心の専門家」の氾濫と、それを喧伝するマスコミ、それに浸食されていく世の中。長年、臨床心理学という学問の問い直しに携わってきた著者が、「相談という商品」を「いっしょに考え合う日常の営み」へと取り戻す道を探る。
登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2002/3/1)
- 発売日 : 2002/3/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 218ページ
- ISBN-10 : 4896916158
- ISBN-13 : 978-4896916157
- Amazon 売れ筋ランキング: - 86,294位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5位新書y
- - 431位臨床心理学・精神分析
- - 1,721位心理学入門
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年10月10日に日本でレビュー済み
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2020年10月24日に日本でレビュー済み
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中古本だったので
こんなものではないかなぁ?という感想です
こんなものではないかなぁ?という感想です
2012年11月2日に日本でレビュー済み
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心の問題、心のケア…心関連のセミナーやビジネスが
氾濫する中、このタイトルのような視点は忘れてはならない。
一人一人の心は異なるはず、そのケアのための教科書など
あるはずがない。しかし、心関連のさまざまな専門職が
生まれている今、そのサポートを経た人々はハッピーなのか、
少しでも気になったことがある人は、その生の声を受け取ることが
できる。
しかし、悪いけど、章によってはちょっと日本語が読みにくいのである。
この書、この視点をなくしてはならないと強く思う。
氾濫する中、このタイトルのような視点は忘れてはならない。
一人一人の心は異なるはず、そのケアのための教科書など
あるはずがない。しかし、心関連のさまざまな専門職が
生まれている今、そのサポートを経た人々はハッピーなのか、
少しでも気になったことがある人は、その生の声を受け取ることが
できる。
しかし、悪いけど、章によってはちょっと日本語が読みにくいのである。
この書、この視点をなくしてはならないと強く思う。
2017年7月31日に日本でレビュー済み
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臨床心理士が社会で活躍することが普通になってきた昨今の流れに,再考を促し,警鐘を鳴らす,衝撃の書である。
金銭の授受を伴い,心を扱うことを専門とする行為に対して,何か釈然としない部分をずっと感じていたが,この書を読んでそのモヤモヤの原因が明らかになる。カウンセリングを生業とする専門職以外の援助職,患者・クライアントと対峙するすべての職業の人間が読むべき内容だと思う。 面談中に行われている,見かけの作業と,実際のパワーバランスと操作下にある状況が白日の下にさらされている。結果として,目先のガス抜き的な役割は演じられるものの,社会で起こった問題の本質から目をそらせ,向けられるべき正当な怒りがどこか希釈され矛先がそらされてしまう危険性を見事に指摘している。
また,心の専門家とクライアントの関係性を「深くして親しくない関係」と捉える考えに対して,「不自然でまがいものの関係」と断じている。これには賛否両論あるだろう。当然セラピストの人間性による部分が大きいのだが,私の知人があるセラピーを受けたときに,私という人間を診ているというより,ある事例として学会のデータを取られているような気がした,という話を聞いたことがある。まさにこのセラピーを行ったサイコロジストに猛省しながら読んでもらいたい書である。
所詮,役割や立場は違えど,関係性の中で意味のある交流があるとすれば,それは人間と人間との縁から生じることである。お互いに対等に,humanity - (人間性,人情,思いやり)に基づいた行為でなければならない。そのhumanityが害されるようであってはならず,時に社会や政治に対しても闘う,少なくとも自分で"考える"ことを放棄することに仕向けられてはいけない。とこの書を拝読して思った。またこういった,主流な考えに対抗するような内容であっても,広く読まれるような懐の広い社会であってほしいと願う。
金銭の授受を伴い,心を扱うことを専門とする行為に対して,何か釈然としない部分をずっと感じていたが,この書を読んでそのモヤモヤの原因が明らかになる。カウンセリングを生業とする専門職以外の援助職,患者・クライアントと対峙するすべての職業の人間が読むべき内容だと思う。 面談中に行われている,見かけの作業と,実際のパワーバランスと操作下にある状況が白日の下にさらされている。結果として,目先のガス抜き的な役割は演じられるものの,社会で起こった問題の本質から目をそらせ,向けられるべき正当な怒りがどこか希釈され矛先がそらされてしまう危険性を見事に指摘している。
また,心の専門家とクライアントの関係性を「深くして親しくない関係」と捉える考えに対して,「不自然でまがいものの関係」と断じている。これには賛否両論あるだろう。当然セラピストの人間性による部分が大きいのだが,私の知人があるセラピーを受けたときに,私という人間を診ているというより,ある事例として学会のデータを取られているような気がした,という話を聞いたことがある。まさにこのセラピーを行ったサイコロジストに猛省しながら読んでもらいたい書である。
所詮,役割や立場は違えど,関係性の中で意味のある交流があるとすれば,それは人間と人間との縁から生じることである。お互いに対等に,humanity - (人間性,人情,思いやり)に基づいた行為でなければならない。そのhumanityが害されるようであってはならず,時に社会や政治に対しても闘う,少なくとも自分で"考える"ことを放棄することに仕向けられてはいけない。とこの書を拝読して思った。またこういった,主流な考えに対抗するような内容であっても,広く読まれるような懐の広い社会であってほしいと願う。
2014年1月12日に日本でレビュー済み
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普段は車のダッシュボードに入れて
待ち時間があるような時に
カバンに入れて持ち歩いています。
精神関係の仕事をしているので
役に立っております。
待ち時間があるような時に
カバンに入れて持ち歩いています。
精神関係の仕事をしているので
役に立っております。
2016年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
書いてあることはわかります。過去にカウンセリングを受けていて思った違和感がおおむね言語化されてる感じです。
ただカウンセリングや心の治療をむやみやたらにすべきではないのは『関係性の病』を持ってない人達であり、
私のような境界性人格障害の古典的では治療者と関係をなんとか構築継続してくことがリアルの日常に反映され、治ってゆく(厳密には違うけど)
ので必要とする人になされずに、必要ないであろう人(元々の対人関係は問題ない)に提供されてるというか、
本腰入れて治したほうが経済効果すらありそうな破壊力をもつ疾患が実質嫌がられ、簡単に治せそうとまでいかなくともカウンセラーがいてもいなくても治る力がある『相対的軽症者』中心に治療するからこういう問題がおこるのではないかとも思う面もあるのでこの評価です。
精神医療にもトリアージの概念が入ってくると良いのですが。苦しみは比べられないけど。
ただカウンセリングや心の治療をむやみやたらにすべきではないのは『関係性の病』を持ってない人達であり、
私のような境界性人格障害の古典的では治療者と関係をなんとか構築継続してくことがリアルの日常に反映され、治ってゆく(厳密には違うけど)
ので必要とする人になされずに、必要ないであろう人(元々の対人関係は問題ない)に提供されてるというか、
本腰入れて治したほうが経済効果すらありそうな破壊力をもつ疾患が実質嫌がられ、簡単に治せそうとまでいかなくともカウンセラーがいてもいなくても治る力がある『相対的軽症者』中心に治療するからこういう問題がおこるのではないかとも思う面もあるのでこの評価です。
精神医療にもトリアージの概念が入ってくると良いのですが。苦しみは比べられないけど。
2005年11月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
心の専門家、心のケア等々。
心を商品にして、こころを消費するような文化が芽生え始めている。
臨床心理士、カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、コーチ・・etc
本では主に学校カウンセラーについて多くを割いている。
果たして心の専門家がどれだけ有効なのか。
どれだけ求められているのか。
供給側の都合や行政主導で導入され拡がっていく。
そんな心マーケットに対して疑問を投げかける本。
最近、なにかにつけてカウンセリングという言葉が目に付くようになって来ている気がする。
著者の立場もなんとも微妙な感じがするのだが、なるほどと思うような記述が沢山なので。
心を扱う専門家や予備軍の人たちに一読を勧めたい。
心を商品にして、こころを消費するような文化が芽生え始めている。
臨床心理士、カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、コーチ・・etc
本では主に学校カウンセラーについて多くを割いている。
果たして心の専門家がどれだけ有効なのか。
どれだけ求められているのか。
供給側の都合や行政主導で導入され拡がっていく。
そんな心マーケットに対して疑問を投げかける本。
最近、なにかにつけてカウンセリングという言葉が目に付くようになって来ている気がする。
著者の立場もなんとも微妙な感じがするのだが、なるほどと思うような記述が沢山なので。
心を扱う専門家や予備軍の人たちに一読を勧めたい。
2017年4月24日に日本でレビュー済み
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私は現役のカウンセラーです。タイトルに関心を持ち読んでみましたが、結果どうしても伝えたいことがあり、文章を記しております。
十数年前の本であるため、著者が今も同じ思いでいるのかどうかはわかりません。多少視野が広がっておられることを祈るような気持ちです。
この本を読んでいて浮かんできたのは、「誤解と悪意」という言葉でした。著者が書いていることの中には、確かにそうだと思われる、あるいは「中にはそういうカウンセラーもいる」という意味で完全には否定出来ないことがらもあります。しかしながら、この本に通底する「カウンセリングは社会適応を促すための方法で、それは『管理者にとってなくてはならない手法』である」という考え方は、非常に一方的・一面的なものです。もちろんカウンセリングをそういった形で利用しようとする人もいるでしょう。しかしながら、管理者側のそのような意図に気づくこともなく、易々とその要請に応じるようなカウンセラーは、カウンセラーとして、というより人としてどこかバランスを欠いた人であろうかと考えます。であるにもかかわらず、この「管理のための手法」という側面が、あたかもカウンセリングの本質であるかのように喧伝する姿勢には、悪意すら感じてしまいます。
私たちカウンセラーの仕事は、ここに書かれているような「クライエントの怒りや不安を“鎮める”こと」などではありません。この視点で言うならば、私たちの仕事は、「渦巻く怒りや不安で身動きの取れなくなった対象者が、自分を取り戻していくことの手伝い」です。つまりその結果、自分の怒りの正当性を痛感し、「正しく闘おうとする」人が出てくることは普通にあり得ることなのです。
この本は、こういった側面がカウンセリングにあるのかどうかの検証も怠り、ご自分の知るカウンセリングの姿のみで一方的にその意味を決めつけ、誤解と偏見に基づくネガティブな意見を声高に主張しているように見えてなりません。日々可能な限りの内省を、と考えながらカウンセリング業務にあたっているつもりの私から言わせていただくならば、この本は罪深い、と言わざるを得ません。なぜならこの本は、カウンセリングを求め、然るべきカウンセラーに出会うことで自分を取り戻す機会を得られたかもしれない方を、そこから遠ざけてしまうからです。
もちろん(以前にも記しましたが)この世界も玉石混交です。再度述べますが、この本の用い方としては、「もしここに書かれているような姿勢のカウンセラーがいたら、その人は二流、三流なのだと判断する、その指針にすること」があるように思います。
十数年前の本であるため、著者が今も同じ思いでいるのかどうかはわかりません。多少視野が広がっておられることを祈るような気持ちです。
この本を読んでいて浮かんできたのは、「誤解と悪意」という言葉でした。著者が書いていることの中には、確かにそうだと思われる、あるいは「中にはそういうカウンセラーもいる」という意味で完全には否定出来ないことがらもあります。しかしながら、この本に通底する「カウンセリングは社会適応を促すための方法で、それは『管理者にとってなくてはならない手法』である」という考え方は、非常に一方的・一面的なものです。もちろんカウンセリングをそういった形で利用しようとする人もいるでしょう。しかしながら、管理者側のそのような意図に気づくこともなく、易々とその要請に応じるようなカウンセラーは、カウンセラーとして、というより人としてどこかバランスを欠いた人であろうかと考えます。であるにもかかわらず、この「管理のための手法」という側面が、あたかもカウンセリングの本質であるかのように喧伝する姿勢には、悪意すら感じてしまいます。
私たちカウンセラーの仕事は、ここに書かれているような「クライエントの怒りや不安を“鎮める”こと」などではありません。この視点で言うならば、私たちの仕事は、「渦巻く怒りや不安で身動きの取れなくなった対象者が、自分を取り戻していくことの手伝い」です。つまりその結果、自分の怒りの正当性を痛感し、「正しく闘おうとする」人が出てくることは普通にあり得ることなのです。
この本は、こういった側面がカウンセリングにあるのかどうかの検証も怠り、ご自分の知るカウンセリングの姿のみで一方的にその意味を決めつけ、誤解と偏見に基づくネガティブな意見を声高に主張しているように見えてなりません。日々可能な限りの内省を、と考えながらカウンセリング業務にあたっているつもりの私から言わせていただくならば、この本は罪深い、と言わざるを得ません。なぜならこの本は、カウンセリングを求め、然るべきカウンセラーに出会うことで自分を取り戻す機会を得られたかもしれない方を、そこから遠ざけてしまうからです。
もちろん(以前にも記しましたが)この世界も玉石混交です。再度述べますが、この本の用い方としては、「もしここに書かれているような姿勢のカウンセラーがいたら、その人は二流、三流なのだと判断する、その指針にすること」があるように思います。