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クラシックCD名盤バトル (新書y 62) 新書 – 2002/5/1
- 本の長さ317ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2002/5/1
- ISBN-104896916328
- ISBN-13978-4896916324
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2002/5/1)
- 発売日 : 2002/5/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 317ページ
- ISBN-10 : 4896916328
- ISBN-13 : 978-4896916324
- Amazon 売れ筋ランキング: - 827,438位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 135位新書y
- - 262位クラシック音楽論・理論
- - 2,474位全集・選書 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年11月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
こういう滅茶苦茶な企画に、ただただ脱帽です。兎に角面白いの一言。知らない演奏家も程良く散りばめられ勉強になった。登場したCDで手持ちのものは全て聴き直した。なるほど、そういうことかと思うことは少ないが、同じCDでも楽しみが倍増した。禁じ手のチェリビダッケとセルが出てくるのも爽快だ。結局この二人が大好きな私だから、付帯の著者と趣味は一緒なのか。もっとニッチで楽しい続編を期待します(私だけかしらん?)。
2007年2月27日に日本でレビュー済み
「これを聴くべきだ」などというお節介とは無縁。客観的な名盤紹介の体をしていないのにも共感が持てる。
好きな録音を好き勝手に書いているのだろうなという文章は、読んで楽しい。
しかし、買うことが出来ない絶版や希少なものまで紹介されているのはどうなのか。
確かに面白い本だが、もう少し「名盤ガイドブックとして使えるような実用性」にも配慮して欲しかった。
好きな録音を好き勝手に書いているのだろうなという文章は、読んで楽しい。
しかし、買うことが出来ない絶版や希少なものまで紹介されているのはどうなのか。
確かに面白い本だが、もう少し「名盤ガイドブックとして使えるような実用性」にも配慮して欲しかった。
2015年8月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
行方が分からなくなったので中古品で入手し、久しぶりにページをめくり、いろいろ思い出した。みなさんには常識なのかもしれないが、水上の音楽はヴェンツィンガーと思っていたのにセルをこの本で知り、その演奏に圧倒された。ゴルトベルクもグ-ルドに飽きていた時にケンプをこの本で知り、感動し、ケンプの大きな世界に浸るようになった。文章に多少のクセはあるかもしれないが、推薦されているCDには一聴に値するものも多いのではないかと思う。ホントかな?などと思いながら読んでみるのも楽しいのではないでしょうか。ご一読をお勧めする。
2015年1月12日に日本でレビュー済み
「この本を読んで意味があるか?楽しいのか?」と聞かれた場合、「残念だけれど意味はない。楽しくもない」と回答せざるを得ません。
こういったクラシックの評論本で根強い人気なのはテレビなどでは取り上げられないけど隠れた名曲を紹介・・・というものが多いのですが、この本では許光俊と鈴木淳史が探してきた世界の音楽家や評論家でもまずもって知らないであろうすごくニッチな曲について紹介しています。しかも別に客観的な評論をしているわけではなく、許光俊と鈴木淳史がひたすら自分が探してきた曲に対する自分の感想を述べていくという内容です。クラシックに関する知識をはじめとした実用的なものは一切なく、ひたすら許光俊と鈴木淳史が見つけ出した音楽がいかに素晴らしいかを記述しているだけなので読んでいると結構精神的に参ります。許光俊と鈴木淳史の2人がよっぽど好きな人であれば興味があるのかもしれませんが・・実用性が皆無という本としては厳しいと思います。
また2人ともギュンター・ヴァントとチェリビダッケを理想として掲げており、クラシックについて批評する際の基準もこのギュンター・ヴァントとチェリビダッケが基準となっているのですが....ギュンター・ヴァントとチェリビダッケの音楽観はまるで正反対のものなのです。このため「ギュンター・ヴァントとチェリビダッケの素晴らしさから評価すると〜」という感覚の内容で意見を述べられても、読んでいる側としては何を言いたいのかさっぱり分かりません。本当に音楽を理解している者としてはとても考えられない評価基準なのです。たまにギュンター・ヴァントとチェリビダッケ以外の人物の名前も出てくるのですが、結局は名の通った評論家の言っていることをそのまま言っているような気もするので「自分たちはこんなすごい評論家のことも知っているんだよ!」と宣伝されているかのような文章はいただけません。
最後に一番気になるのが、この2人もあの“偽ベートーベン”佐村河内守を大絶賛していたという点です。2人とも上から目線の発言がともかく目立ち、「あの曲は〜に違いない」「まさに〜という思いがこめられているのだろう」など大絶賛する批評が多かったのですが、“本当のベートーベン”新垣隆さんの会見をはじめとしたコメントではそういったものは一切ないと、間接的とはいえこれまで2人が“偽ベートーベン”佐村河内守にしてきた大絶賛が思いっきり否定されてしまっています。もちろん2人にも言いたいことはあるでしょうが、個人的な意見としては「分かる人にだけ分かってもらえればいい」というスタイルで数々の音楽を評論してきた2人が一番クラシックについて理解していなかったのではないか?という疑問を抱かざるえません。
この本を出して一体何がしたかったのか?クラシックという音楽に対しどういう貢献があるのか?最初から最後までそう感じる本でした。許光俊と鈴木淳史の2人がよっぽど好きな人はおすすめでしょうが、それ以外の人にはおすすめできません。“偽ベートーベン”佐村河内守を褒め称えていた評論家がどういうレベルなのかを感じられるという点では少々メリットがあるかもしれません。
こういったクラシックの評論本で根強い人気なのはテレビなどでは取り上げられないけど隠れた名曲を紹介・・・というものが多いのですが、この本では許光俊と鈴木淳史が探してきた世界の音楽家や評論家でもまずもって知らないであろうすごくニッチな曲について紹介しています。しかも別に客観的な評論をしているわけではなく、許光俊と鈴木淳史がひたすら自分が探してきた曲に対する自分の感想を述べていくという内容です。クラシックに関する知識をはじめとした実用的なものは一切なく、ひたすら許光俊と鈴木淳史が見つけ出した音楽がいかに素晴らしいかを記述しているだけなので読んでいると結構精神的に参ります。許光俊と鈴木淳史の2人がよっぽど好きな人であれば興味があるのかもしれませんが・・実用性が皆無という本としては厳しいと思います。
また2人ともギュンター・ヴァントとチェリビダッケを理想として掲げており、クラシックについて批評する際の基準もこのギュンター・ヴァントとチェリビダッケが基準となっているのですが....ギュンター・ヴァントとチェリビダッケの音楽観はまるで正反対のものなのです。このため「ギュンター・ヴァントとチェリビダッケの素晴らしさから評価すると〜」という感覚の内容で意見を述べられても、読んでいる側としては何を言いたいのかさっぱり分かりません。本当に音楽を理解している者としてはとても考えられない評価基準なのです。たまにギュンター・ヴァントとチェリビダッケ以外の人物の名前も出てくるのですが、結局は名の通った評論家の言っていることをそのまま言っているような気もするので「自分たちはこんなすごい評論家のことも知っているんだよ!」と宣伝されているかのような文章はいただけません。
最後に一番気になるのが、この2人もあの“偽ベートーベン”佐村河内守を大絶賛していたという点です。2人とも上から目線の発言がともかく目立ち、「あの曲は〜に違いない」「まさに〜という思いがこめられているのだろう」など大絶賛する批評が多かったのですが、“本当のベートーベン”新垣隆さんの会見をはじめとしたコメントではそういったものは一切ないと、間接的とはいえこれまで2人が“偽ベートーベン”佐村河内守にしてきた大絶賛が思いっきり否定されてしまっています。もちろん2人にも言いたいことはあるでしょうが、個人的な意見としては「分かる人にだけ分かってもらえればいい」というスタイルで数々の音楽を評論してきた2人が一番クラシックについて理解していなかったのではないか?という疑問を抱かざるえません。
この本を出して一体何がしたかったのか?クラシックという音楽に対しどういう貢献があるのか?最初から最後までそう感じる本でした。許光俊と鈴木淳史の2人がよっぽど好きな人はおすすめでしょうが、それ以外の人にはおすすめできません。“偽ベートーベン”佐村河内守を褒め称えていた評論家がどういうレベルなのかを感じられるという点では少々メリットがあるかもしれません。
2008年5月17日に日本でレビュー済み
読み物としてクラシックファンには面白いとは思う。
二人とも一貫して、ギュンター・ヴァントとチェリビダッケという2巨匠を絶対視している。彼らの音楽評はこれを基盤としているのだが、音楽観もセンスもまるで違うヴァントとチェリビダッケが「両雄並び立つ」彼らの批評的観点は、その実さっぱりわからない。
許に関していうなら、ベルティーニとチェリビダッケの「両立」、インバルとチェリビダッケの双方褒め称え、テンシュテットとヴァントの諸手挙げての賞賛は、まともなリスナーや読者からの総スカンを食いかねない問題だと思う。
鈴木はもっと狸というか、彼が本当にどういう演奏に感動しているのかは見えにくい。
で、本書が面白いというのは、以上のような、マアいわば楽屋ネタみたいなクラシック批評業界のアネクドートを面白がる読者としては、まあオモロイという具合である。
文体もそれらしく、「これは宇野功芳調」とか「志鳥ならこういうだろう」「黒田恭一なら」「石井宏なら」とかいうのが頻出する。
つまり、筆者2人は、読者がこうした批評家連に対する訳知りであることを前提にしているのだ。よって、少しはこれらを齧っている評者には面白い。
そうではない読者には全く面白くないだろうし、ここに連ねられた言述は言論公表の水準にあるとは言えないだろう。
二人とも一貫して、ギュンター・ヴァントとチェリビダッケという2巨匠を絶対視している。彼らの音楽評はこれを基盤としているのだが、音楽観もセンスもまるで違うヴァントとチェリビダッケが「両雄並び立つ」彼らの批評的観点は、その実さっぱりわからない。
許に関していうなら、ベルティーニとチェリビダッケの「両立」、インバルとチェリビダッケの双方褒め称え、テンシュテットとヴァントの諸手挙げての賞賛は、まともなリスナーや読者からの総スカンを食いかねない問題だと思う。
鈴木はもっと狸というか、彼が本当にどういう演奏に感動しているのかは見えにくい。
で、本書が面白いというのは、以上のような、マアいわば楽屋ネタみたいなクラシック批評業界のアネクドートを面白がる読者としては、まあオモロイという具合である。
文体もそれらしく、「これは宇野功芳調」とか「志鳥ならこういうだろう」「黒田恭一なら」「石井宏なら」とかいうのが頻出する。
つまり、筆者2人は、読者がこうした批評家連に対する訳知りであることを前提にしているのだ。よって、少しはこれらを齧っている評者には面白い。
そうではない読者には全く面白くないだろうし、ここに連ねられた言述は言論公表の水準にあるとは言えないだろう。
2014年11月1日に日本でレビュー済み
普段は読みたくもない許氏のつまらない文章がまともに見える、それくらい鈴木氏の作文は酷い、文章も内容も小学生の卒業文集以下。
2021年11月19日に日本でレビュー済み
音楽は、先ずFM放送で聴き、次にLPで聴き、最後にCDで聴くことになりました。
わたしは、カトリック修道士を師匠としており、宗教についてのみならず、音楽に関してもいろいろと教わっていました。師は、臺灣、ベルギー、カナダ、米国で修行しましたので、本書で推薦される演奏家のなかに、実際に現地で演奏に接した音楽家が含まれており、どういうわけか、師のお気に入りの演奏家が何人か、本書でも取り上げられているのです。
ケンプへの接近など、非常に尊重する趣旨が近いように思います。
国際派、という用言がありました。ロシアの演奏家でいえば、オイストラフよりコーガン、リヒテルよりギレリスといったところでしょうか。基本にある程度忠実で、そしてそこに留まらないといった、消極的、積極的価値判断の複合があるのです。
わたしは、双方から攻めることにして、両極端な演奏家と目される組み合わせによる音を追いました。いまや、そのすべてが、次へすすむ前の段階のいわば「基礎的音楽」という判断基準を形成していると思います。
それより別のことも思い出します。学生時分ベームが来日し、そして同級生のなかのクラシック音楽愛好家のなかで、カラヤン派とベーム派とがあったのです。本書においては否定的契機が呈示されてもいますが、わたしは、ベーム派でした。その理由は、おそらくヒトの内部律動との相性、であったと考えます。
それにしても、本書の推薦盤には、驚くべき未見、未聴のものが幾つもあって、最初に読んだ時には一向にカンに来ない部分もありました。いま、再読してみて、こちらも耐性ができたようで、比較的多くの記述に、具体的な聴き取りの経験例をあてて解釈、理解することができます。また、今の時代にも、類書があらわれると面白かろうと思います。
わたしは、カトリック修道士を師匠としており、宗教についてのみならず、音楽に関してもいろいろと教わっていました。師は、臺灣、ベルギー、カナダ、米国で修行しましたので、本書で推薦される演奏家のなかに、実際に現地で演奏に接した音楽家が含まれており、どういうわけか、師のお気に入りの演奏家が何人か、本書でも取り上げられているのです。
ケンプへの接近など、非常に尊重する趣旨が近いように思います。
国際派、という用言がありました。ロシアの演奏家でいえば、オイストラフよりコーガン、リヒテルよりギレリスといったところでしょうか。基本にある程度忠実で、そしてそこに留まらないといった、消極的、積極的価値判断の複合があるのです。
わたしは、双方から攻めることにして、両極端な演奏家と目される組み合わせによる音を追いました。いまや、そのすべてが、次へすすむ前の段階のいわば「基礎的音楽」という判断基準を形成していると思います。
それより別のことも思い出します。学生時分ベームが来日し、そして同級生のなかのクラシック音楽愛好家のなかで、カラヤン派とベーム派とがあったのです。本書においては否定的契機が呈示されてもいますが、わたしは、ベーム派でした。その理由は、おそらくヒトの内部律動との相性、であったと考えます。
それにしても、本書の推薦盤には、驚くべき未見、未聴のものが幾つもあって、最初に読んだ時には一向にカンに来ない部分もありました。いま、再読してみて、こちらも耐性ができたようで、比較的多くの記述に、具体的な聴き取りの経験例をあてて解釈、理解することができます。また、今の時代にも、類書があらわれると面白かろうと思います。