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鉄砲隊と騎馬軍団: 真説・長篠合戦 (新書y 86) 新書 – 2003/5/1
鈴木 眞哉
(著)
- 本の長さ246ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2003/5/1
- ISBN-104896917278
- ISBN-13978-4896917277
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2003/5/1)
- 発売日 : 2003/5/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 246ページ
- ISBN-10 : 4896917278
- ISBN-13 : 978-4896917277
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,122,654位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年4月3日に日本でレビュー済み
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アジア侵略に向かう明治陸軍がイデオロギー操作として日本史を歪曲。その一つとして本書は「馬防柵・火縄銃三千丁・三段撃ちが武田騎馬隊を撃滅」の<長篠=戦術革命>論が成り立たないことを論証。
2018年6月6日に日本でレビュー済み
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本書は、〈長篠=戦術革命〉論が支持されていることを憂えた著者が、以下の内容で否定しているものです。
・戦国大名の戦争観を紹介し、多大な被害を避けたと説きます。
・どのように〈戦術革命論〉が唱えられてきたのかを紹介し、論の三本柱となる騎馬、鉄砲、柵それぞれの疑問点を揚げ
騎馬戦術、鉄砲戦術と徒歩兵、柵などの砦塞を検証します。
本書の目的が上記のため、真実の長篠合戦はこうだったと論じているものではありません。
そのため、三段撃ちや武田の騎馬軍団を虚構と考えている方が読んでも、役には立ちません。
・戦国大名の戦争観を紹介し、多大な被害を避けたと説きます。
・どのように〈戦術革命論〉が唱えられてきたのかを紹介し、論の三本柱となる騎馬、鉄砲、柵それぞれの疑問点を揚げ
騎馬戦術、鉄砲戦術と徒歩兵、柵などの砦塞を検証します。
本書の目的が上記のため、真実の長篠合戦はこうだったと論じているものではありません。
そのため、三段撃ちや武田の騎馬軍団を虚構と考えている方が読んでも、役には立ちません。
2016年11月6日に日本でレビュー済み
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日本史の授業で必須の長篠合戦。誰もが圧倒的優位の武田騎馬軍団に対し、劣勢の織田信長が新兵器と新戦術で圧勝したとおおいこんでいるのでは。しかし真実は違う。1万2千の兵力で2正面作戦を強いられ劣勢に立った武田軍に対し、織田軍は3万5千の兵力で圧倒した。
史料に基づく客観的・合理的分析で歴史の真実を明らかにする。
史料に基づく客観的・合理的分析で歴史の真実を明らかにする。
2003年12月1日に日本でレビュー済み
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この著者の本は結構持っていて、好きな著者ではありますが
ほかの本「鉄砲と日本人」などや「刀と首取り」などと重複が目立ちます。
又、信長鉄砲隊にたいする幻想を払拭しようと啓蒙するくどさが目立ち
いまいち感をおぼえました。
ほかの本「鉄砲と日本人」などや「刀と首取り」などと重複が目立ちます。
又、信長鉄砲隊にたいする幻想を払拭しようと啓蒙するくどさが目立ち
いまいち感をおぼえました。
2016年9月8日に日本でレビュー済み
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もうかなり内容は古くなったものだが、やはり、一冊で日本と西洋の軍事が比較できそうな感じで書いてある。
ここだけが、鈴木眞哉の戦国軍事本の特典だ。
ここだけが、鈴木眞哉の戦国軍事本の特典だ。
2009年12月1日に日本でレビュー済み
1936年に生まれ、防衛庁や神奈川県に勤務した日本戦国時代史研究者が、2003年に刊行した本。1575年の長篠・設楽原合戦は一般に、織田・徳川連合軍が馬防柵の背後での鉄砲三段撃ちという戦術革命によって、白兵を用いる武田騎馬軍団を壊滅させた戦いであるとされるが、これは当時の史料から導き出された史実ではなく、小瀬甫庵『信長記』を種本としたらしき陸軍参謀本部の戦史(1903年)と、それに続く戦前の歴史家の学説に由来する。しかし第一に、当時の軍隊ではどの大名家でも徒歩兵が主体で、騎乗したのは指揮官クラスのみであり、武田家の騎馬兵比率も高くはない。第二に、封建的軍役においては、騎馬軍団を組織し訓練することは困難である(歩騎混合軍隊)。第三に、その騎馬兵においても南北朝以降下馬戦闘が一般化しており、騎乗するのは追撃か逃走の場合であった。第四に、鉄砲以前の負傷原因の分析によれば、矢傷が切り傷よりはるかに多く、もとより白兵戦は稀少である(遠戦主義)。第五に、鉄砲の大量使用の事例は日本内外で長篠合戦以前から存在し、信長自身も敵の鉄砲隊に苦しめられている。また長篠以後も幕末まで、日本では鉄砲戦術がそれほど進化しない。第六に、信長の鉄砲隊は臨時編成のものであり、集団的な訓練を受けていないため、三段撃ちのような高度な戦法は不可能である。第七に、野戦築城(柵、土塁、壕など)もそれと鉄砲の組み合わせも、日本内外で長篠以前から行われていた。史料・文献・実地調査に基づく以上のような理由から、著者は長篠合戦は戦術革命ではありえないと主張し、またこうした正確な史実の提示によって、白兵重視の戦前日本の誤りをも正そうとしている。その実証性と提示される結論の衝撃、常識を問い直す姿勢によって、御勧めできる本である。
2008年5月24日に日本でレビュー済み
「長篠の戦い」というと、守旧勢力である武田軍を新進の織田、徳川軍が破った戦いとして知られている。
また、旧来の戦法である武田の騎馬軍団を、新鋭織田軍が新たな武器、鉄砲の集団利用により打ち破ったことでも知られている。
そして、長かった戦国時代に終わりの始まりを告げ、従来の戦法を一新させたエポックメーキングな出来事となっている。
本書では、そうした長篠の戦いのイメージに真っ向から反論する。
つまり、武田騎馬軍団の怒涛の突撃を、織田軍が馬防柵と三千丁の鉄砲による三段撃ちという、組織的集団利用により
打ち破ったという長篠の戦いの定説は、与太話だという。
これを戦国当時の資料、戦前の日本軍資料、また西洋の軍事資料など数々の資料を用い検証している。
現在信じられている長篠の戦いの原型は、江戸時代初期の小瀬甫庵「信長記」(信憑性の低い軍記物)を
明治になり陸軍参謀本部が無批判に史実のように扱ったことに発している。
そして、その説が、多くの学者に支持され、教科書に採用され、定説となってしまったというのが結論だ。
教科書に採用されている事といえども、果たして「史実」なのか、疑ってかからなければいけないということを一考させられた。
そういえば、かつて教科書に採用されていた、足利尊氏や源頼朝の肖像画は、現在では別人とされているし、
捏造だった旧石器時代人もかつては教科書に採用されていたのだった。
また、旧来の戦法である武田の騎馬軍団を、新鋭織田軍が新たな武器、鉄砲の集団利用により打ち破ったことでも知られている。
そして、長かった戦国時代に終わりの始まりを告げ、従来の戦法を一新させたエポックメーキングな出来事となっている。
本書では、そうした長篠の戦いのイメージに真っ向から反論する。
つまり、武田騎馬軍団の怒涛の突撃を、織田軍が馬防柵と三千丁の鉄砲による三段撃ちという、組織的集団利用により
打ち破ったという長篠の戦いの定説は、与太話だという。
これを戦国当時の資料、戦前の日本軍資料、また西洋の軍事資料など数々の資料を用い検証している。
現在信じられている長篠の戦いの原型は、江戸時代初期の小瀬甫庵「信長記」(信憑性の低い軍記物)を
明治になり陸軍参謀本部が無批判に史実のように扱ったことに発している。
そして、その説が、多くの学者に支持され、教科書に採用され、定説となってしまったというのが結論だ。
教科書に採用されている事といえども、果たして「史実」なのか、疑ってかからなければいけないということを一考させられた。
そういえば、かつて教科書に採用されていた、足利尊氏や源頼朝の肖像画は、現在では別人とされているし、
捏造だった旧石器時代人もかつては教科書に採用されていたのだった。
2004年6月25日に日本でレビュー済み
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無敵の武田騎馬軍団はなかった。(当時の馬は荷物運搬程度の駄馬)信長が考案したとされる3000丁にも及ぶ組織的な火縄銃三段打ちもなかった。(技術的に不可能)織田・徳川連合軍の方が武田の3倍ぐらいの兵力があり、かつ十分な野戦築城を行っていたので結果としてそうなったのであり世情に言うような目覚しい戦術革命でもなんでもなかったということを資料統計に基づき立証....(少しくどい)歴史のロマンはなくなるが、この考え方の正当性はは300年後の幕末における長州征伐、戊辰の役などの徳川方の惨めな戦い方が立証しているといえる。(長篠の勝利者である徳川家がそれらの戦術を家訓としていないはずがないし、近世の軍学にも何の影響も与えていないのだから)