イラクで日本人が人質になった直後に発表された本なので、多くの人に注目されたが、中身は筆者の専門領域、特に臓器移植に関する話が中心である。
多くのエピソードを紹介しながら話が進行するので、散漫な印象は免れないが、読みやすさを考えて意図的にとった書き方であろう。
そのうちのひとつの印象的なエピソード――
「人は死んだらどこへ行くのか」衰弱した盟友にそう問われたとき、作家の中井英夫は答えることができなかった。だが、やがて自分の番がやってきたとき、自分に寄り添って世話する人に向かって「わかった。人は死んだら、残された者の心の中に行くんだ」と言ったそうだ。
――この本を貫いているのは、「たましい」に関わるレベルを足場にして臓器移植や自己決定権というものを考えてみようという筆者の愚直な姿勢である。ある意味では常識的、ある意味では時代遅れ。ここのレヴューには「非論理的」という批判も散見されるがそもそも人の生き死にをどこまで論理的・科学的に割り切れるのか。そういう人間的な迷いを肯定し、自分をさらけ出しながら語る筆者の率直な姿勢に共感します。
希望をもって生きるための一冊!
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自己決定権は幻想である (新書y 114) 新書 – 2004/7/1
小松 美彦
(著)
- 本の長さ222ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2004/7/1
- ISBN-104896918339
- ISBN-13978-4896918335
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2004/7/1)
- 発売日 : 2004/7/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 222ページ
- ISBN-10 : 4896918339
- ISBN-13 : 978-4896918335
- Amazon 売れ筋ランキング: - 387,441位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2010年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者が自己決定権を批判する根拠は以下の3つである。
1.個人が何かを決めるということが、個人の問題にとどまることなど、決してない:「眼前の他者が不幸でいるときには、私たちもまた、不幸になってしまう」(43)、「幸福を自分一人のもの」とすることはできない、人間は「関係性のなかでしか生きていけない」、「私たちは、他人事を私事にすることによって生きていく」(44)というようなことが見えなくなってしまう。
2.ナチスドイツにおいて優生政策の根拠として利用された歴史的事実:「不治の病に犯された者は、自ら死を選ぶ権利を有する」、「自己決定能力のない人は、行政体や医師が、本人に成り代って死の権利を代行することができる」(39)。「自己決定権によって遺伝子や生殖細胞や組織や臓器という人体の要素を売買するようになっていけば、それが、やがて死体を丸ごと売買するところにまで直結していく」(57)、「自己決定権による安楽死などと言うけれど、実際は、殺されているに近いのではないか」(138)というようなことが批判できなくなってしまう。
3.わがままを保障することになる:「自分のことは自分で決めればいいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまい、結果として自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある」(40)。「周りに迷惑をかけなければ何をしてもいいじゃない。」、「自分の身体は自分のものだ。だから自分の判断で何をしてもいい」という感覚(58)を認めることになってしまう。
結局、「自己決定とは、よくよく考えてみれば、そういう他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであって、そういう意味では、純粋な自己決定はありません」(100)。また、「自己決定権は、普遍的だと措定されている抽象的な規範」なので「個々の具体的な場面の悩みや葛藤には、はじめから配慮していません」(100)。したがって、自己決定権は強者の論理にからめとられる危険性を常に内包している。つまり、自己決定に至った経緯・原因・背景というものを隠蔽することによって、実は自己決定「させられている」のに、自己決定「している」と思わされてしまうことにもなる。まさに、「自己決定権は幻想」なのである。
では、望ましい自己決定とはどういうものなのか。それは著者が「共決定」と呼ぶもので、たとえば「医療側の一方的な押し付けではなく、自己決定権を盾にした患者の単純なわがままでもなく、家族が本人の意向を無視して行うのでもない、三者による決定」(104-105)のようなものである。また、「私たちは私たち、あなたたちはあなたたち、私たちの地域は私たちの、あなたたちの地域はあなたたちの、そして、日本は日本の、アメリカはアメリカのというように、内と外に縁取りをこしらえて、二つを区分けし固定していこうとする」共同性ではなく、「内と外を区別」せず「個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする」(106)関係性を大切にすることである。
本来、人に支えられ、人に助けられ、人との関係の中でしか生きていけない人間を社会から切り離したうえで成立する近代的概念である「個人」というとらえかたから出てきた「自己決定権」が幻想でしかなく、関係性という現実を無視したり破壊したりするものとして機能してしまうのは当然のことかもしれない。そういう意味で本書は近代批判の書と言えるかもしれない。
1.個人が何かを決めるということが、個人の問題にとどまることなど、決してない:「眼前の他者が不幸でいるときには、私たちもまた、不幸になってしまう」(43)、「幸福を自分一人のもの」とすることはできない、人間は「関係性のなかでしか生きていけない」、「私たちは、他人事を私事にすることによって生きていく」(44)というようなことが見えなくなってしまう。
2.ナチスドイツにおいて優生政策の根拠として利用された歴史的事実:「不治の病に犯された者は、自ら死を選ぶ権利を有する」、「自己決定能力のない人は、行政体や医師が、本人に成り代って死の権利を代行することができる」(39)。「自己決定権によって遺伝子や生殖細胞や組織や臓器という人体の要素を売買するようになっていけば、それが、やがて死体を丸ごと売買するところにまで直結していく」(57)、「自己決定権による安楽死などと言うけれど、実際は、殺されているに近いのではないか」(138)というようなことが批判できなくなってしまう。
3.わがままを保障することになる:「自分のことは自分で決めればいいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまい、結果として自己決定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧がある」(40)。「周りに迷惑をかけなければ何をしてもいいじゃない。」、「自分の身体は自分のものだ。だから自分の判断で何をしてもいい」という感覚(58)を認めることになってしまう。
結局、「自己決定とは、よくよく考えてみれば、そういう他者との複雑な網の目のなかで行われるしかないものであって、そういう意味では、純粋な自己決定はありません」(100)。また、「自己決定権は、普遍的だと措定されている抽象的な規範」なので「個々の具体的な場面の悩みや葛藤には、はじめから配慮していません」(100)。したがって、自己決定権は強者の論理にからめとられる危険性を常に内包している。つまり、自己決定に至った経緯・原因・背景というものを隠蔽することによって、実は自己決定「させられている」のに、自己決定「している」と思わされてしまうことにもなる。まさに、「自己決定権は幻想」なのである。
では、望ましい自己決定とはどういうものなのか。それは著者が「共決定」と呼ぶもので、たとえば「医療側の一方的な押し付けではなく、自己決定権を盾にした患者の単純なわがままでもなく、家族が本人の意向を無視して行うのでもない、三者による決定」(104-105)のようなものである。また、「私たちは私たち、あなたたちはあなたたち、私たちの地域は私たちの、あなたたちの地域はあなたたちの、そして、日本は日本の、アメリカはアメリカのというように、内と外に縁取りをこしらえて、二つを区分けし固定していこうとする」共同性ではなく、「内と外を区別」せず「個々の人間的な交渉から目をそらさないことを原則として、これを守ることができるのであれば、どこまでも外に広がっていこうとする」(106)関係性を大切にすることである。
本来、人に支えられ、人に助けられ、人との関係の中でしか生きていけない人間を社会から切り離したうえで成立する近代的概念である「個人」というとらえかたから出てきた「自己決定権」が幻想でしかなく、関係性という現実を無視したり破壊したりするものとして機能してしまうのは当然のことかもしれない。そういう意味で本書は近代批判の書と言えるかもしれない。
2011年6月1日に日本でレビュー済み
著者による自己決定権批判は、人権に対する誤った認識から出発しており、自己決定と自己決定権は違うといった無意味な区別を導入するなど、不毛で的外れなものとなっている。
自己決定権を認めると、他人の口出しを排除する道具になってしまう危惧があると著者は主張するが、それは人権について誤解しているからだ。わがままな人間が口出しを禁じようとする相手にも、自己決定権や言論の自由がある。自己決定権の名を借りて特定の価値観を推奨する人々がいるのは事実だが、人権について誤った認識を広めているという点では著者も同類である。
そもそも、濫用や悪用の危惧を根拠とする短絡的な否定は、著者の主張に対しても成り立ってしまう。包丁は犯罪に使える、と非難するようなものだろう。それで?
著者の姿勢は結論ありきで、自分の主張の証拠になりそうなものなら、信頼性を問わずになんでも持ちだすようだ。たとえば著者は、自己決定権を主張するのは自己のない人間で、だから女性は自己決定権を主張するのだという、どこかの社会学者による発言を好意的に紹介する。それは差別的な偏見なのでは?
こうした著者の姿勢から判断すると、この本で扱われている生命倫理に関する問題についても、自分の主張に都合のよいことだけを書き並べているのではないかという疑いが拭えない。
自己決定権を認めると、他人の口出しを排除する道具になってしまう危惧があると著者は主張するが、それは人権について誤解しているからだ。わがままな人間が口出しを禁じようとする相手にも、自己決定権や言論の自由がある。自己決定権の名を借りて特定の価値観を推奨する人々がいるのは事実だが、人権について誤った認識を広めているという点では著者も同類である。
そもそも、濫用や悪用の危惧を根拠とする短絡的な否定は、著者の主張に対しても成り立ってしまう。包丁は犯罪に使える、と非難するようなものだろう。それで?
著者の姿勢は結論ありきで、自分の主張の証拠になりそうなものなら、信頼性を問わずになんでも持ちだすようだ。たとえば著者は、自己決定権を主張するのは自己のない人間で、だから女性は自己決定権を主張するのだという、どこかの社会学者による発言を好意的に紹介する。それは差別的な偏見なのでは?
こうした著者の姿勢から判断すると、この本で扱われている生命倫理に関する問題についても、自分の主張に都合のよいことだけを書き並べているのではないかという疑いが拭えない。
2007年1月13日に日本でレビュー済み
タイトルだけでも、その真意は伝わってきます。
この著者は臓器関連の本も出しているので、それの延長上というか、それに絡めての謂いだと思います。
そこから語ると、やはり、「自己責任」とか「自己決定権」なんて如何に嘘であるかが判ってきます。
そもそも「自己」なんて頭につけりゃあ個人が確立されたと思いがちですからね。
この著者は臓器関連の本も出しているので、それの延長上というか、それに絡めての謂いだと思います。
そこから語ると、やはり、「自己責任」とか「自己決定権」なんて如何に嘘であるかが判ってきます。
そもそも「自己」なんて頭につけりゃあ個人が確立されたと思いがちですからね。
2005年8月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
個人のためにシステムやルールがあるべきなのに、システムのために個人が存在する形になっている。システムのために個人が存在する仕組みを意図して作っている(もっと怖いのは、作り手側は自分達の意図を「正義」「善意」「民意」に基づいていると信じこんでいる場合)にもかかわらず、個人のためにシステムが存在しているかのように見せかけようとしている。そう見せかけるための道具立ての一つが「自己決定権」なんだと著者は言っている。
私は「9.11後のアメリカの為政者の動き」、「アフガン攻撃」、「イラク戦争」の中にこのからくりを見た。この場合は「民主主義」「テロとの戦い」等の言葉が見せかけの道具として使われた。初めて思ったのはシステム側が用意する、マスをのせようとする論理の土台、文脈の中で対抗するのは無駄なのではと。例えば従来型の「反戦運動」とかも含め。個人個人が理窟抜きで「戦いたくない。嫌だ。殺すのは嫌だ。死ぬのは怖い」て叫べばいいだけではないかと。
私は「9.11後のアメリカの為政者の動き」、「アフガン攻撃」、「イラク戦争」の中にこのからくりを見た。この場合は「民主主義」「テロとの戦い」等の言葉が見せかけの道具として使われた。初めて思ったのはシステム側が用意する、マスをのせようとする論理の土台、文脈の中で対抗するのは無駄なのではと。例えば従来型の「反戦運動」とかも含め。個人個人が理窟抜きで「戦いたくない。嫌だ。殺すのは嫌だ。死ぬのは怖い」て叫べばいいだけではないかと。
2007年3月21日に日本でレビュー済み
書かれていることはごく当たり前のことである。しかし、著者も述べているように、当たり前のことを叫び続けなくてはいけない世の中なのだからしょうがない。私の死は私の近しい人すべてに影響を与える。こんな当たり前のことが自己決定権というもっともな言葉によって見えなくなってまう。私たちは関係性の中でしか生きていけないのに、この言葉は関係性を破壊してしまう。
この本は自己決定権そのものを批判する箇所より、自己決定権によって引き起こされる弊害について述べている箇所の方が分量が多い気がする。その意味で純粋な自己決定批判にはなっていない。また、自らの行為が他者に影響を与えるとしても、なおその上で、自らの決定と他者の気持ちどちらを優先させるべきかについては述べられていない。この本の射程を超えているのだろうと思われる。
総合して考えると、この本には一読の価値があるだろう。純粋な自己決定批判以外の箇所からも得ることが多い。個人的には自己決定権はあらゆることを他人事にしてしまう(本人がよければいいんだから、遺伝子操作、クローンも…)という箇所と、具体的な場面においてはもっともな事でも、抽象化してしまうと問題が生じるという箇所が勉強になった。
この本は自己決定権そのものを批判する箇所より、自己決定権によって引き起こされる弊害について述べている箇所の方が分量が多い気がする。その意味で純粋な自己決定批判にはなっていない。また、自らの行為が他者に影響を与えるとしても、なおその上で、自らの決定と他者の気持ちどちらを優先させるべきかについては述べられていない。この本の射程を超えているのだろうと思われる。
総合して考えると、この本には一読の価値があるだろう。純粋な自己決定批判以外の箇所からも得ることが多い。個人的には自己決定権はあらゆることを他人事にしてしまう(本人がよければいいんだから、遺伝子操作、クローンも…)という箇所と、具体的な場面においてはもっともな事でも、抽象化してしまうと問題が生じるという箇所が勉強になった。
2004年8月8日に日本でレビュー済み
「自己決定権」という言い回しが、自立した人間の責任ある選択行為として市民権を持ちつつあるようだ。自己決定権により、子供は産まない。安楽死を選択する、臓器のドナーとなる。また、売春も自己決定権により正当化されるかもしれない。誰にも迷惑はかけない範囲において、すべて自己決定し、誰にも文句は言わせない。
しかし、著者は批判する。自己決定権論者は自己中心である。ひらたくいえば、わがままである。自己完結しており、他者との関係性を捨象している。人間はたった1人では生きられない。空間的にも時間的にも。関係性の中に愛が、思いやりが、やさしさが生まれる。関係性の中で生き、生かされている人間にとって「自己決定権は幻想である」と著者は訴える。
抽象化された人間像、人間には自己決定権は理論的に存在するかもしれない。自分だけで自分の選択だけで一生、生きていけるかもしれない。しかし、われわれは具体的人間である。ごはんも家内に作ってもらっている(^o^)。支え合って生きている。抽象化した途端、血が通わなくなってしまう。著者は言う「清潔な抽象より、泥の臭いのする個別性を探る」と。
著者の子供時代の出来事、人間関係が、現在の思想にどう影響しているかも書かれており、著者の思想形成が理解できる。
良識、正気を基礎として、現代の正気を失った抽象化された皮相な言説に対し、本質的な批判をできる著者を、私は大いに信頼している。良識ある人々に一読をお勧めします。勇気を得られることでしょう。
しかし、著者は批判する。自己決定権論者は自己中心である。ひらたくいえば、わがままである。自己完結しており、他者との関係性を捨象している。人間はたった1人では生きられない。空間的にも時間的にも。関係性の中に愛が、思いやりが、やさしさが生まれる。関係性の中で生き、生かされている人間にとって「自己決定権は幻想である」と著者は訴える。
抽象化された人間像、人間には自己決定権は理論的に存在するかもしれない。自分だけで自分の選択だけで一生、生きていけるかもしれない。しかし、われわれは具体的人間である。ごはんも家内に作ってもらっている(^o^)。支え合って生きている。抽象化した途端、血が通わなくなってしまう。著者は言う「清潔な抽象より、泥の臭いのする個別性を探る」と。
著者の子供時代の出来事、人間関係が、現在の思想にどう影響しているかも書かれており、著者の思想形成が理解できる。
良識、正気を基礎として、現代の正気を失った抽象化された皮相な言説に対し、本質的な批判をできる著者を、私は大いに信頼している。良識ある人々に一読をお勧めします。勇気を得られることでしょう。
2004年7月27日に日本でレビュー済み
最近よく言われる「自己責任」「自己決定権」という風潮に対する、筆者の骨太な批判。
自己決定をすることができてもそれは権利ではない、という点に関する説明は(やや話が逸れるところはあっても)うまくまとまっていると思う。
「自己責任論に対する批判」は稚拙なものが多いが、この本に関してはそのような心配はない。
ただ、3章後半以降では本人の語りになってしまい、メインテーマである「自己決定権は幻想である」テーマから離れてしまうため、人によっては退屈に感じるかも知れない。
これは、インタビューによる語り下ろしを元にした本であることも影響しているであろう。
自己決定をすることができてもそれは権利ではない、という点に関する説明は(やや話が逸れるところはあっても)うまくまとまっていると思う。
「自己責任論に対する批判」は稚拙なものが多いが、この本に関してはそのような心配はない。
ただ、3章後半以降では本人の語りになってしまい、メインテーマである「自己決定権は幻想である」テーマから離れてしまうため、人によっては退屈に感じるかも知れない。
これは、インタビューによる語り下ろしを元にした本であることも影響しているであろう。