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ああ、顔文不一致 (新書y 144) 新書 – 2005/12/1
勢古 浩爾
(著)
- 本の長さ219ページ
- 言語日本語
- 出版社洋泉社
- 発売日2005/12/1
- ISBN-104896919750
- ISBN-13978-4896919752
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登録情報
- 出版社 : 洋泉社 (2005/12/1)
- 発売日 : 2005/12/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 219ページ
- ISBN-10 : 4896919750
- ISBN-13 : 978-4896919752
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,267,969位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2009年11月12日に日本でレビュー済み
私はあまり面白くなかった。以前の著作はなる程と思うこともあったが。
2005年12月13日に日本でレビュー済み
ナンシー関ばりの「顔面至上主義」にもとづくタレント評、作家・知識人論かとおもいきや、最後はやはりこの人の業とでもいうべきか、「文」という人の生き様の比喩をめぐって、しみじみと語りだす。自分のアイデンティティの根源ではなるけれど、しかし所詮は自分で選び取ったものではない「顔」への執着を薄め、むしろ自分で努力して美しくしていくべき「文」の立派さ品の良さへの道を探し求めるために、とても役立つ本であると思う。
残念ながら、というのは不適当なのだが、著者と世代がだいぶ異なる自分としては(著者より30歳以上年下)、「顔」の具体例としてあげられる有名人がよくわからず、実感に乏しかったのが難点だった。最初の方の、福山雅治はじめ若手ミュージシャンの話や、著名な作家論(五木寛之や村上春樹や重松清や石田衣良など)のところはとにかく「ふむふむ」という感じだったのだが、マイナー度(あくまでこちら側の基準ですが)の高いセレブらしき人々を例にあげられても、???でけっこう当惑した。手前勝手な当惑だが。
けれど、本書は「顔論」として春日武彦の『顔面孝』以来の深い考察になっていると思うし、また「人生論」としても、これは著者のほかの本にくらべると、「文」というより哲学的なアレンジがなされているだけに難解になってはいるのだが、色々と考えさせられまた気づかせてくれる部分は相変わらず圧倒的で、とてもおもしろかった。
残念ながら、というのは不適当なのだが、著者と世代がだいぶ異なる自分としては(著者より30歳以上年下)、「顔」の具体例としてあげられる有名人がよくわからず、実感に乏しかったのが難点だった。最初の方の、福山雅治はじめ若手ミュージシャンの話や、著名な作家論(五木寛之や村上春樹や重松清や石田衣良など)のところはとにかく「ふむふむ」という感じだったのだが、マイナー度(あくまでこちら側の基準ですが)の高いセレブらしき人々を例にあげられても、???でけっこう当惑した。手前勝手な当惑だが。
けれど、本書は「顔論」として春日武彦の『顔面孝』以来の深い考察になっていると思うし、また「人生論」としても、これは著者のほかの本にくらべると、「文」というより哲学的なアレンジがなされているだけに難解になってはいるのだが、色々と考えさせられまた気づかせてくれる部分は相変わらず圧倒的で、とてもおもしろかった。
2005年12月13日に日本でレビュー済み
ああ、笑った。やっぱこの人の文章好きだわ。
著者がこれまでの著作で一貫してテーマにしてきた承認論は、吉本隆明論をもって完結したと思っていた。加えて、最近の『ああ、自己嫌悪』が個人的にちょっと期待はずれだったもんで、「これが最後なのかなあ」と、好きなバンドの解散コンサートを見るような切ない読後感があった。
でもこの人にはこのギャグのセンスがあるのよ。こういうギャグの切れ味も、学者のように高くなく、俗に埋没するほど低くもない、「中二階で考える」著者ならではのもの。『まれに見るバカ』以来のギャグ密度で、顔と文(生き方)の不一致を斬りまくる。渡辺淳一や齋藤孝あたりの料理の仕方は、誰もがやって欲しいとひそかに思っていたことに違いない。
電車の中で吹き出してしまい、周りの人から変な目で見られながら、一気に読みました。読み終わって、なんだかすごく元気になりました。
著者がこれまでの著作で一貫してテーマにしてきた承認論は、吉本隆明論をもって完結したと思っていた。加えて、最近の『ああ、自己嫌悪』が個人的にちょっと期待はずれだったもんで、「これが最後なのかなあ」と、好きなバンドの解散コンサートを見るような切ない読後感があった。
でもこの人にはこのギャグのセンスがあるのよ。こういうギャグの切れ味も、学者のように高くなく、俗に埋没するほど低くもない、「中二階で考える」著者ならではのもの。『まれに見るバカ』以来のギャグ密度で、顔と文(生き方)の不一致を斬りまくる。渡辺淳一や齋藤孝あたりの料理の仕方は、誰もがやって欲しいとひそかに思っていたことに違いない。
電車の中で吹き出してしまい、周りの人から変な目で見られながら、一気に読みました。読み終わって、なんだかすごく元気になりました。
2007年2月9日に日本でレビュー済み
「やはり人間は基本的に「見かけ」によるのではないか(P.117)。」と著者は書いている。ところで本のタイトルというのはその本の‘顔’といえるのではないか。例えば本書のタイトルを『人は見た目が9割』としていたらベストセラーになっていたのではないのか。2ヶ月遅れをとってしまったからなのか、あるいはそれぞれの著者の‘顔’と内容が一致することを身をもって証明したということなのか。
しかし本書はやはり『ああ、顔文不一致』とせざるを得ない理由は、第六章を読めば理解できる。‘ああ’と感嘆せざるを得ないのだ。著者の業というべきか。今までの著者の本のタイトルを見ても、『わたしを認めよ!』、『まれに見るバカ』、『ぶざまな人生』、『この俗物が!』...。著者の‘悪意’がタイトルに滲み出てしまっている。隠しきれないのだ。勿論私は著者の‘悪意’が嫌いではないが、やはり‘人は見た目が9割’?
しかし本書はやはり『ああ、顔文不一致』とせざるを得ない理由は、第六章を読めば理解できる。‘ああ’と感嘆せざるを得ないのだ。著者の業というべきか。今までの著者の本のタイトルを見ても、『わたしを認めよ!』、『まれに見るバカ』、『ぶざまな人生』、『この俗物が!』...。著者の‘悪意’がタイトルに滲み出てしまっている。隠しきれないのだ。勿論私は著者の‘悪意’が嫌いではないが、やはり‘人は見た目が9割’?