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お言葉ですが…第11巻 単行本 – 2006/11/23
高島 俊男
(著)
- 本の長さ350ページ
- 言語日本語
- 出版社連合出版
- 発売日2006/11/23
- ISBN-104897722144
- ISBN-13978-4897722146
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登録情報
- 出版社 : 連合出版 (2006/11/23)
- 発売日 : 2006/11/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 350ページ
- ISBN-10 : 4897722144
- ISBN-13 : 978-4897722146
- Amazon 売れ筋ランキング: - 85,835位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,691位近現代日本のエッセー・随筆
- - 10,498位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年4月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この11巻は、週刊文春に11年にわたって連載された「お言葉ですが」の通巻索引はとても便利です。
2021年2月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
コラム「お言葉ですが」は週刊文春に連載されていました。これを読みたいがために週刊文春を買っていました。
この本に限ったことではないですが、著者の高島俊男氏は痛烈に人を批判します。「敵が多いだろうなぁ・・・大丈夫かなぁ。」とハラハラしてました。連載が終わったときは氏を恨む者が手をまわしたと思っていました。
コラム「お言葉ですが」は週刊誌連載後に文芸春秋社から単行本化され、さらに文庫化されていました。しかし、この巻に記載の分はその流れに乗らず放置されていました。それを連合出版さんが編集して出版しました。
文のうまさ、文章構成の巧みさで何度読んでも飽きないですね。
高島 俊男氏は老人ホームに入られたそうで、新作は期待できません。中古でも、著作が読めるならラッキーです。
追伸1
高島 俊男氏は令和三年四月五日にご逝去されました。
合掌。
追伸2
この本は令和五年二月「ちくま文庫」から【「最後の」お言葉ですが・・・】というタイトルで文庫化されました。貴重な本を発掘してくれた筑摩書店に感謝です。タイトルの「最後の」の意味は週刊文春の連載として最後ということです。連合出版からは別巻形態で続刊が出ています。
この本に限ったことではないですが、著者の高島俊男氏は痛烈に人を批判します。「敵が多いだろうなぁ・・・大丈夫かなぁ。」とハラハラしてました。連載が終わったときは氏を恨む者が手をまわしたと思っていました。
コラム「お言葉ですが」は週刊誌連載後に文芸春秋社から単行本化され、さらに文庫化されていました。しかし、この巻に記載の分はその流れに乗らず放置されていました。それを連合出版さんが編集して出版しました。
文のうまさ、文章構成の巧みさで何度読んでも飽きないですね。
高島 俊男氏は老人ホームに入られたそうで、新作は期待できません。中古でも、著作が読めるならラッキーです。
追伸1
高島 俊男氏は令和三年四月五日にご逝去されました。
合掌。
追伸2
この本は令和五年二月「ちくま文庫」から【「最後の」お言葉ですが・・・】というタイトルで文庫化されました。貴重な本を発掘してくれた筑摩書店に感謝です。タイトルの「最後の」の意味は週刊文春の連載として最後ということです。連合出版からは別巻形態で続刊が出ています。
2013年5月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
週刊文春連載の内単行本が文藝春秋から出なかった部分を収録したもの。連載末期頃は著者の体調はすぐれなかったにも関わらず文章のパワーは圧倒的。以下心ひかれた箇所をいくつか挙げます。
「巡礼死ぬる道の陽炎」芭蕉の句集にある連句の一つ「また泣出す酒のさめぎは」。
昔(近代化の少し前)、男は泣くものだった。柳田国男は百語と続く話をすることが一生のうちに一度も無いことが少し前まで当たり前だったと指摘している。そういう文化にあって、泣き出すこと、泣くことは彼ら唯一の表現手段だった、と。
近代というものが私たちの文化をいかに変えたか。その巨大さを思い知る話。
井真成墓誌に取材した一連の話では、著者は学術界でも日中問わずでたらめがまかり通るのを嘆く。墓誌とは何か、中国の読書人とはどういうものか、といった基礎の理解を通して井真成をめぐるイメージが立ち上がってくるのが心地よい。
「豫言、預言、予言」では、「預言者」と「予言者」に「神の言葉を預かる人」「未来を予測する人」という意味の違いは本来無いことが語られる。この説については、私はちょっと疑問。「予」が「預」の戦後略字であり、本来「預言(予言)」という語には「あらかじめ言う」の意味しかなかったのだが、戦後略字の発生後に表記が2パターンできたことから、意味が分化したとのことだが、戦後略字を自明の前提として育った世代からすれば、表記が違えば違う意味をあてたくなってもおかしくない。ノストラダムスなどの予言者とキリストなどの預言者(啓示を受けた人)を区別して呼ぶ必要が現にあるのだから、この意味の分化は認めていいのではないだろうか?
「巡礼死ぬる道の陽炎」芭蕉の句集にある連句の一つ「また泣出す酒のさめぎは」。
昔(近代化の少し前)、男は泣くものだった。柳田国男は百語と続く話をすることが一生のうちに一度も無いことが少し前まで当たり前だったと指摘している。そういう文化にあって、泣き出すこと、泣くことは彼ら唯一の表現手段だった、と。
近代というものが私たちの文化をいかに変えたか。その巨大さを思い知る話。
井真成墓誌に取材した一連の話では、著者は学術界でも日中問わずでたらめがまかり通るのを嘆く。墓誌とは何か、中国の読書人とはどういうものか、といった基礎の理解を通して井真成をめぐるイメージが立ち上がってくるのが心地よい。
「豫言、預言、予言」では、「預言者」と「予言者」に「神の言葉を預かる人」「未来を予測する人」という意味の違いは本来無いことが語られる。この説については、私はちょっと疑問。「予」が「預」の戦後略字であり、本来「預言(予言)」という語には「あらかじめ言う」の意味しかなかったのだが、戦後略字の発生後に表記が2パターンできたことから、意味が分化したとのことだが、戦後略字を自明の前提として育った世代からすれば、表記が違えば違う意味をあてたくなってもおかしくない。ノストラダムスなどの予言者とキリストなどの預言者(啓示を受けた人)を区別して呼ぶ必要が現にあるのだから、この意味の分化は認めていいのではないだろうか?
2012年5月26日に日本でレビュー済み
内容の素晴らしさ面白さは他のレビュアーさんの通り。
こういう本こそ文庫にして、特に若い読者の手に届きやすくしてほしい。
ただ、文春から文庫で出る気遣いはなし。
で提案なんですが、著者と相性の良いちくま文庫から出す、というのはいかがなもんでしょう。
筑摩書房さん、ご検討よろしくお願いいたします。
本シリーズは文庫になる度に「あとからひとこと」でバージョンアップするので、わたしのような単行本の持ち主でもまた買ってしまう可能性ありますョ。
こういう本こそ文庫にして、特に若い読者の手に届きやすくしてほしい。
ただ、文春から文庫で出る気遣いはなし。
で提案なんですが、著者と相性の良いちくま文庫から出す、というのはいかがなもんでしょう。
筑摩書房さん、ご検討よろしくお願いいたします。
本シリーズは文庫になる度に「あとからひとこと」でバージョンアップするので、わたしのような単行本の持ち主でもまた買ってしまう可能性ありますョ。
2007年2月2日に日本でレビュー済み
本書の白眉は、後半の「預言=予言」でしょう。
多くの聖書学者や辞書編纂者が「預言」を神から預かったと言葉と解するのは誤りである。
予言は預言の略字体であり、どちらも同じ「あらかじめ言う」という意味である。
この誤解のよって来る所以(ゆえん)を述べ、誤りである理由を詳細に述べています。
私は、週刊誌に連載中から注目していましたが、
出版にあたり追記された「あれからひとこと」に読者からの応援がありました。
誤解の元となった大正訳聖書での「預」の用例を調べたものです。
「預じめ定め」など、すべて「あらかじめ」「前もって」の意味で「預」の文字が使われていました。
完璧な証明です。
思わず「やった」と叫び、うれしさと感動で涙してしまいました。
多くの聖書学者や辞書編纂者が「預言」を神から預かったと言葉と解するのは誤りである。
予言は預言の略字体であり、どちらも同じ「あらかじめ言う」という意味である。
この誤解のよって来る所以(ゆえん)を述べ、誤りである理由を詳細に述べています。
私は、週刊誌に連載中から注目していましたが、
出版にあたり追記された「あれからひとこと」に読者からの応援がありました。
誤解の元となった大正訳聖書での「預」の用例を調べたものです。
「預じめ定め」など、すべて「あらかじめ」「前もって」の意味で「預」の文字が使われていました。
完璧な証明です。
思わず「やった」と叫び、うれしさと感動で涙してしまいました。
2007年1月17日に日本でレビュー済み
おなじみ「週刊文春」連載の、ことばに関するおもしろコラムの第11巻であり最終巻であります。連載がおわっちゃった模様で、しかもこの本が文春から出ていないということは、文庫にも入らない恐れがあり、いつもは文庫化を待っていた俺も買いました。みなさんも書店から消えないうちにどうぞ。