プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥2,000以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 40pt
(3%)
無料お届け日:
3月21日 木曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 40pt
(3%)
無料お届け日:
3月21日 木曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥372
中古品:
¥372

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
愛の縫い目はここ 単行本(ソフトカバー) – 2017/7/27
最果 タヒ
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,320","priceAmount":1320.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,320","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"qL53ya%2BiOQ5F3ZhW%2Bv2QejTGCvfWUb4b7qAn1i2GUn0JdDRla5bkoMk3Qt8u%2BnufmL1WxY4JRoom3tFfcQBbDK5OZtcp1P5gXhX8sGfB77YHnTenTngy0DZgwwsj1WRF8KvupThYl5Q%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥372","priceAmount":372.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"372","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"qL53ya%2BiOQ5F3ZhW%2Bv2QejTGCvfWUb4btPwjOd7YBeqFdd9RCto5CqnRhYQEZM%2FpQhBvtWA%2BwfaKt8WdxINobP2yVU0bau9jNkAW6upXwhqAoU%2FFw5f1y1J8Awb5onW14Zsx1%2Bn1TpShbv13sStEZH8Xr5BriGT%2B18fiZMyiMRUHGYrCFC9QXQ%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
日本語から詩がこぼれてくる。
言葉にひそむ光、声を支える日々の足音、
最果てを抱えこんでいる私たち。——谷川俊太郎(帯コメントより)
第33回現代詩花椿賞受賞作『死んでしまう系のぼくらに』と、
映画化でも話題となった『夜空はいつでも最高密度の青色だ』に連なる
詩集三部作、完結!
最果タヒ自身が拓いた、詩の新時代を決定づける傑作。
「グッドモーニング」「ふれた永遠」「糸」
「光の匂い」「5年後、太陽系、みずいろ」
…ほか、書き下ろし含む全43篇収録。
この本から、また始まる。
- 本の長さ96ページ
- 言語日本語
- 出版社リトル・モア
- 発売日2017/7/27
- 寸法13 x 1 x 18.8 cm
- ISBN-104898154646
- ISBN-13978-4898154649
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 愛の縫い目はここ
¥1,320¥1,320
最短で3月21日 木曜日のお届け予定です
残り14点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : リトル・モア (2017/7/27)
- 発売日 : 2017/7/27
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 96ページ
- ISBN-10 : 4898154646
- ISBN-13 : 978-4898154649
- 寸法 : 13 x 1 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 32,666位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 92位詩集
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

さいはて・たひ
詩人
現代詩手帖賞、中原中也賞、現代詩花椿賞。
http://tahi.jp
詩集
『グッドモーニング』
『空が分裂する』
『死んでしまう系のぼくらに』
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
『愛の縫い目はここ』
『天国と、とてつもない暇』
『恋人たちはせーので光る』
『夜景座生まれ』
『さっきまでは薔薇だったぼく』
エッセイ集
『きみの言い訳は最高の芸術』
『もぐ∞』
『百人一首という感情』
『コンプレックス・プリズム』
『「好き」の因数分解』
『神様の友達の友達の友達はぼく』
小説単行本
『星か獣になる季節』
『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』
『渦森今日子は宇宙に期待しない。』
『少女ABCDEFGHIJKLMN』
『十代に共感する奴はみんな嘘つき』
『パパララレレルル』
絵本
及川賢治+最果タヒ『ここは』
対談集
『ことばの恐竜』
共著
大森靖子+最果タヒ著『かけがえのないマグマ』
清川あさみ+最果タヒ著『千年後の百人一首』
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最果タヒの本を手に入れたのは初めてで、ざざーっとページを見開いて、明朝体っぽい縦書きとゴシックぽい横書きがどのような世界を紡ぐのかとおもったのである。そして僕の子供の下の方に属する世代の作者との最初の出会いは「スクールゾーン」で僕はこれに吸い込まれて何度も何度も目で追った。声を出した。僕はなぜか中学1年生になっていた。きっとあの娘は僕にこう言いたかったんだろうと確信した。いつまできみでいられるつもりなの。でも僕は今でも僕でいることできた。でもきみはいない。きみは僕を忘れたけれど、僕は今でも僕でいる。仕付け糸がまだ残っていて洋服にまとわりついている。フーッと息をかければ飛んでいきそうな糸かけらがしがみついている。しがみついているのは僕の方だとわかっている。最果タヒの本を手に入れたのは初めてで、ざざーっとページを見開いて、そして読んでも読んでも終わらない。モノトーンの刺繍のようにまとわりついているようだ。読んでも読んでも終わらない。おかげで僕は中学1年生に逆戻りした。
2017年8月6日に日本でレビュー済み
最果タヒ『愛の縫い目はここ』を読みながら「肉体」について考える。最果のことばから感じる「肉体」は、「肉体」という具体的な形よりも、「肉体」になる前の「いのち」のように感じられる。何にでも変わることのできる「いのち」、いま身近にあることばでいえば「iPS細胞」か。
たとえば「ビニール傘の詩」
<blockquote>
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
私が生まれるまえ、あの建物ができるまえ、合戦の気配、開拓の気配、
走り抜けるニホンオオカミと、黒くなるほど生い茂った緑。
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
</blockquote>
「命のひとかけら」とは「細胞」と言い換えることができるだろう。その細胞をさらにどう言いなおすかというと、最果は「建物」「合戦(の気配)」「開拓(の気配)」「ニホンオオカミ」「緑」につながっているものととらえている。「生まれるまえ」とは、最果が最果になるまえのこと。他のものにもなる可能性はあったのだ。そういうものを感じている。他のものになりうる可能性--ここから私は「iPS細胞」を比喩として感じる。
「生まれるまえ」、何にでもなりうるなら。
「生まれたあと」、やはり何かのタイミング(突然変異?)で、何にでもなることがだできるだろう。
「何になるか」というのは重要な問題だろうけれど、最果は「何になるか」は書かない。「未来」というか、「目標」を書かない。逆に「過去」を書く。「私はこうであったかもしれない」と「生まれるまえ」の「いのち」を肯定する。そうすることで「未来」を全方向に解放する。「いのち」というもの、「生きるということ」そのものになる。
でも、こういうことは「論理」として語ってしまうと「論理的」になりすぎて、実はおもしろくない。
最果の詩は、私が要約したように「整合性」が取れていない。
と、私は感じる。
そこに、私の「つまずき」がある。読んでいて、つまずく部分がある。そのことをこれから書く。(ここから書き始めて、前に書いた部分につなげると、ふつうの批評のスタイルになると思うのだが、あえて逆の書き方をしてみる。)
<blockquote>
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
</blockquote>
雨のなかを歩いている二人。川が流れている。そういう「情景」の描写である。「恋とは呼べない(関係)」は「気配」と言いなおされる。「気配」とははっきりしないが、なんとなく感じられるものである。それは「遠く」とさらに言いなおされる。
「気配」は何かが(存在が)「隣(近く)」にあるとき感じるのではなく、直につかみとれないときに感じるものである。ただし、その「遠く」にあるものは、なぜか「直接」触れてくる感じもする。感じなければ「気配」は存在しない。そういう「矛盾」が「気配」である。
このあいまいな、しかし直接的な「予感」のようなものは、「恋」をより強く意識させる。
ここまでは、私は私のなじんできた「文学の文法」で読むことができる。
しかし、
<blockquote>
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
</blockquote>
この一行は、私の「文学文法」からは非常に遠い。「文学文法」を破壊する。否定する。言い換えると、ことばが「情景」ではなくなる。「描写」ではなくなる。
感情の説明、精神の説明、「むき出しの説明」と、私は感じてしまう。「主張」と言ってもいい。
詩に限らず、あらゆる芸術は感情や精神を語るものだが、むき出しのままさらけだしては「読者」とのあいだに「あつれき」を起こす、あるいは「拒絶されてしまう」ので、それを別の何かに置き換えてつたえるのが文学、芸術である。
恋になるのかならないのか、わからない不安な状態。それをたとえば雨のなかを歩くふたり、透明な(?)ビニール傘の「空間」で体を寄せる二人、という具合に。
私は最初の三行を、まあ、そう読んだわけである。
このとき「私(最果)」が何かを思う。感じる。その思い、感じは、やはり「情景」として説明されるのが、私の身につけいてる「文学文法」である。
<blockquote>
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
</blockquote>
という一行は、そういう私の「先入観」をたたき壊す。
そして、一気に「内面」を「情景描写」とは違った形で展開する。
<blockquote>
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
</blockquote>
「心地」と「命のひとかけら」と言いなおされていると思う。「こころ」というのは「命のひとかけら」。言い換えると「命の細胞」。「細胞」とは「肉体」のことでもある。「心」と「肉体」が入れ替わる。というか、混同する。あるいは融合すると言った方がいいのか。
つまり、「ここ数年でいちばん、心地いい時間。」とは「心」の状態というよりも、
<blockquote>
ここ数年でいちばん、「肉体の調子」がいい時間。
</blockquote>
ということになる。この「肉体の調子がいい」というのは、何でもできる、ということ。言い換えると何にでもなれるということ。
建物になって、雨からひとを守る。合戦という「こと(事件)」になってしまう、「開拓」するという「こと」、誰かと合戦するときの強い肉体、未開の土地を開拓するときの頼もしい肉体、ニホンオオカミ、黒々と繁る巨大な森。
それは「人間」の枠を超える。「命」はいつでも「人間」だけにとらわれない。世界は「命」に満ちていて、そのどれにでもなりうる可能性がある、と感じるくらいに「肉体」に可能性が満ちてくる。そう感じる。
「命」の「過去(歴史)」が、そのまま「未来」として噴出する。そういう果てしないエネルギーを実感する。「心地いい」「肉体の調子がいい」。
それは、
<blockquote>
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
</blockquote>
ということである。
「何にでもなれる(可能性)」は「すべて」と言いなおされている。それは「私の知らないもの」のことである。「知っている」ものは「すべて」ではない。「知らないもの」を「知らないまま」、直に「見ている」。「肉眼」でとらえている。「知らないもの」が見えるくらいに「肉体の調子」がいい。「心(眼)」が生きている。
で。
ここでも、私は「論理」的に書きすぎているかもしれない。
そういうことを感じながらも、私は最果のことばの「文法」にどこかとまどっている。
<blockquote>
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
</blockquote>
「はずだった」は「過去形」。
うーん、どうして「過去形」なのかなあ。「現在形」として私は読みたい。
「私が生まれるまえ」からつづく行は「過去」の思い出ではなく、「いま」の可能性として書かれていると思った方が、私にはリアル。
もちろん最果文法にしたがって説明しなおすことはできる。「誤読」することができる。
<blockquote>
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
</blockquote>
「はずだった」と「過去形」で書くのは、最果が「いま/ここ」で生きているからだ。「ここにいた」は「いま/ここにいる」ということである。それを肉体で実感するからである。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。過去から何でも噴出させることができる。それがわかっていて、なおかつ、過去を噴出させずに「いま」から手さぐりで生きる。その思いが「はずだった」にこめられている。
「命の根源細胞」が何に変わるか。何でにも変われる。それを承知で、
<blockquote>
わからない
</blockquote>
という「世界」へ飛び込む。
<blockquote>
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
</blockquote>
ここに出てくる「わからない」は、とても美しく、強い。「わからない」ということを「わかっている」。それは「肉体」の「命の根源細胞」が「覚えている」何かである。
最果は、「情景」へ戻ってくる。
最初の三行は「起承転結」の「起」、次の三行は「承」というよりも「転」、その次の三行は「転Ⅱ」というか、「転」を「起」ととらえなおした「承」になるだろう。そして一行の空白をはさむ三行
<blockquote>
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
</blockquote>
が「結」。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。しかし最果は「人類(人間)」を選んで生きる。二人で生きる。それが「ここから」はじまる。
(ここまで、2017年08月05日に書く)
*
最果タヒ『愛の縫い目はここ』を、私は理解しているか。たぶん理解していない。いや、きっと理解していない。私の感じていることは最果が書きたいと思っていること、あるいは最果の読者が感じていることとはまったく違っているだろう。「誤読」の典型といわれるだろう。
私は「誤読」を承知でというか、「誤読」したいから読んでいる。昨日書いた「誤読」のつづきをもう少し書いてみる。
「しろいろ」という作品。
<blockquote>
レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、光
がそれを避けながら届いたとき、誰にも気づかれずに炎症し
た空気の、傷口をさがしていた。ひとりでいることが、私の
体温を不安定にするのはほんとう。手を伸ばしていくとその
うち、ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる
気がしていた。だから、うつくしいものへと手を伸ばすんで
しょう。私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
書き出しの
<blockquote>
レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、
</blockquote>
が繊細で美しい。これは「情景」の描写として読むことができる。けれど、たぶん「情景」ではない。では、何か。最果の「肉体感覚」である。どういう「肉体」感覚かというと、最後の
<blockquote>
私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
である。たぶん、この最後の部分に最果の「特質」がある。「肉体」がちぎれていく。「肉体」が欠ける。そのかけた部分を「景色」が補う。「肉体」と「景色(情景)」が、そうやって「ひとつ」になる。
これは最果独自の「一元論」である。世界に存在するのは「肉体」のみ、と最果が考えているかどうかわからないが、私は、実はそう考えているので、これは私の考えから見つめなおした最果ということになるかもしれないが。
「肉体」と「景色(情景)」が「ひとつ」になる。これは「肉体」と「情景(もの)」を「ひとつ」と考えるということである。
だから、書き出しの「レース」は実は「最果の肉体」そのものである。すでにこの段階で「私=最果の肉体」と「景色(レース)」は「まじっている」。つまり、最初のことばは、
<blockquote>
「私の肉体」は、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、
</blockquote>
なのである。
そして「縫い込む」という「動詞」は「傷口」という名詞(動詞の動いた部分)へとつながり、「ひとつ」であることを強める。自分の「肉体」のどこかに「傷口」と「縫い目」を探し当てたとき、最果は「レース」そのものになり、「光」を通過させる。「光」を通過させる「傷口」としての「肉体」。いま、最果が感じているのは、そういうものだろう。
<blockquote>
うつくしいものへと手を伸ばす
</blockquote>
と最果は書くが、私にはむしろ、そうやって
<blockquote>
うつくしいものに「なる」
</blockquote>
という具合に読める。読んでしまう。
「ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる」、その「途切れ」が「傷口」かもしれない。自己というものの、一瞬の欠落。これは、もちろん最果の「誤読/誤った認識」だろう。「肉体」のなかで「肉体」が途切れる(ちぎれる)ということはない。けれど、そう錯覚する。
たぶん、これは時系列としては逆なのだ。
「景色/情景」が「肉体」のなかに入ってくる。「景色」が「肉体」のなかに入ってくるために、とまどい、自分の「肉体」が途切れた、傷が開いたと感じる。その傷を縫い閉じて「肉体」をもとに戻す。そうすると、「肉体」が「景色」にかわってしまっている。「肉体」の「内」と「外」が入れ替わっている。
入れ替わるというよりも、それは「融合」である。あるいは「ひとつ」になることである。これを私は「最果の一元論」と名づけたいと思っている。
この「最果の一元論」は、また、別の角度からも指摘できる。
<blockquote>
私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
この文章の「動詞」のつかい方は、ある意味ではとても奇妙である。私なら、この文章は
<blockquote>
私がちぎれて「いく」かわり、景色が私に混ざって「くる」。
</blockquote>
と書いてしまうかもしれない。「行く」と「来る」を対にすることで「一元論」にしてしまうだろうと思う。
しかし最果は「いく」と「いく」を重ねる。「動詞」がすでに「ひとつ」になってしまっている。最初から「肉体」と「景色」は「ひとつ」になって動いている。「動詞」の「いく」が共有されるところから、それを読み取ることができる。
「一元論」と言われても、たぶん最果と、「えっ、それ何のこと?」と思うに違いない。完全に「無意識」になっている。「一元論」が「肉体(思想)」になってしまっているのである。
だからこそ、たとえば、
<blockquote>
体を、論理で機械化していくのは楽しいかもしれないけれど。
(グーグルストリートビュー)
</blockquote>
のような「論理」批判が書かれたりする。ここに書かれている「機械」とは「肉体」と「景色」に対抗する存在のことである。「肉体」と「景色(存在)」を分断し、機械的に「二元論」を展開することばを「論理」と呼んでいることがわかる。
最果にとっては「景色」は「心象風景」ではない。心象を風景に託す、というような近代的な「手法」をとらない。「景色」はさいはてにとって自己拡張した「肉体」そのものだ。
(と書いてしまうと、きのう書いた感想と整合性が取れない部分が出てくるのだが、私は気にしない。昨日書いた感想は感想で、そうやって書くしかなかったものなのである。だから、修正するというよりも、さらに「誤読」を重ねることで、ごちゃごちゃにごまかしてしまう、というのが私の読書の仕方であり、感想の書き方なのである。きのうにはきのうの「事実」があり、きょうにはきょうしか書けない「事実」がある。)
<blockquote>
暗いところから見る、明るい場所が好きだ。
喫茶店が流れていく車両を無視して、
大きな窓から橙の光をこぼしていた。
体の奥にああした部分があるなら、
もうすこし体をいたわって生きることもできる、 (冬は日が落ちるのが早い)
美しく光っている体が、また、目覚めて私になる。
昼間、口のなかに夜がひろがり、甘い気がした。
体の構造が複雑すぎて、内臓のどれもがまぶしくて、
生きるとは星空の真似事をしているみたいだった。 (12歳の詩)
</blockquote>
ここに書かれている「景色」と「肉体」の「一体化」も「最果の一元論」を証明することばだと言える。(説明は省略。)
(2017年08月06日、書く。)
たとえば「ビニール傘の詩」
<blockquote>
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
私が生まれるまえ、あの建物ができるまえ、合戦の気配、開拓の気配、
走り抜けるニホンオオカミと、黒くなるほど生い茂った緑。
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
</blockquote>
「命のひとかけら」とは「細胞」と言い換えることができるだろう。その細胞をさらにどう言いなおすかというと、最果は「建物」「合戦(の気配)」「開拓(の気配)」「ニホンオオカミ」「緑」につながっているものととらえている。「生まれるまえ」とは、最果が最果になるまえのこと。他のものにもなる可能性はあったのだ。そういうものを感じている。他のものになりうる可能性--ここから私は「iPS細胞」を比喩として感じる。
「生まれるまえ」、何にでもなりうるなら。
「生まれたあと」、やはり何かのタイミング(突然変異?)で、何にでもなることがだできるだろう。
「何になるか」というのは重要な問題だろうけれど、最果は「何になるか」は書かない。「未来」というか、「目標」を書かない。逆に「過去」を書く。「私はこうであったかもしれない」と「生まれるまえ」の「いのち」を肯定する。そうすることで「未来」を全方向に解放する。「いのち」というもの、「生きるということ」そのものになる。
でも、こういうことは「論理」として語ってしまうと「論理的」になりすぎて、実はおもしろくない。
最果の詩は、私が要約したように「整合性」が取れていない。
と、私は感じる。
そこに、私の「つまずき」がある。読んでいて、つまずく部分がある。そのことをこれから書く。(ここから書き始めて、前に書いた部分につなげると、ふつうの批評のスタイルになると思うのだが、あえて逆の書き方をしてみる。)
<blockquote>
恋とは呼べない関係が、川とともに流れている。
私たちの気配を潰していくように雨が降り、
まるであなたが遠くにいるように思える。
</blockquote>
雨のなかを歩いている二人。川が流れている。そういう「情景」の描写である。「恋とは呼べない(関係)」は「気配」と言いなおされる。「気配」とははっきりしないが、なんとなく感じられるものである。それは「遠く」とさらに言いなおされる。
「気配」は何かが(存在が)「隣(近く)」にあるとき感じるのではなく、直につかみとれないときに感じるものである。ただし、その「遠く」にあるものは、なぜか「直接」触れてくる感じもする。感じなければ「気配」は存在しない。そういう「矛盾」が「気配」である。
このあいまいな、しかし直接的な「予感」のようなものは、「恋」をより強く意識させる。
ここまでは、私は私のなじんできた「文学の文法」で読むことができる。
しかし、
<blockquote>
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
</blockquote>
この一行は、私の「文学文法」からは非常に遠い。「文学文法」を破壊する。否定する。言い換えると、ことばが「情景」ではなくなる。「描写」ではなくなる。
感情の説明、精神の説明、「むき出しの説明」と、私は感じてしまう。「主張」と言ってもいい。
詩に限らず、あらゆる芸術は感情や精神を語るものだが、むき出しのままさらけだしては「読者」とのあいだに「あつれき」を起こす、あるいは「拒絶されてしまう」ので、それを別の何かに置き換えてつたえるのが文学、芸術である。
恋になるのかならないのか、わからない不安な状態。それをたとえば雨のなかを歩くふたり、透明な(?)ビニール傘の「空間」で体を寄せる二人、という具合に。
私は最初の三行を、まあ、そう読んだわけである。
このとき「私(最果)」が何かを思う。感じる。その思い、感じは、やはり「情景」として説明されるのが、私の身につけいてる「文学文法」である。
<blockquote>
ここ数年でいちばん、心地いい時間。
</blockquote>
という一行は、そういう私の「先入観」をたたき壊す。
そして、一気に「内面」を「情景描写」とは違った形で展開する。
<blockquote>
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
</blockquote>
「心地」と「命のひとかけら」と言いなおされていると思う。「こころ」というのは「命のひとかけら」。言い換えると「命の細胞」。「細胞」とは「肉体」のことでもある。「心」と「肉体」が入れ替わる。というか、混同する。あるいは融合すると言った方がいいのか。
つまり、「ここ数年でいちばん、心地いい時間。」とは「心」の状態というよりも、
<blockquote>
ここ数年でいちばん、「肉体の調子」がいい時間。
</blockquote>
ということになる。この「肉体の調子がいい」というのは、何でもできる、ということ。言い換えると何にでもなれるということ。
建物になって、雨からひとを守る。合戦という「こと(事件)」になってしまう、「開拓」するという「こと」、誰かと合戦するときの強い肉体、未開の土地を開拓するときの頼もしい肉体、ニホンオオカミ、黒々と繁る巨大な森。
それは「人間」の枠を超える。「命」はいつでも「人間」だけにとらわれない。世界は「命」に満ちていて、そのどれにでもなりうる可能性がある、と感じるくらいに「肉体」に可能性が満ちてくる。そう感じる。
「命」の「過去(歴史)」が、そのまま「未来」として噴出する。そういう果てしないエネルギーを実感する。「心地いい」「肉体の調子がいい」。
それは、
<blockquote>
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
</blockquote>
ということである。
「何にでもなれる(可能性)」は「すべて」と言いなおされている。それは「私の知らないもの」のことである。「知っている」ものは「すべて」ではない。「知らないもの」を「知らないまま」、直に「見ている」。「肉眼」でとらえている。「知らないもの」が見えるくらいに「肉体の調子」がいい。「心(眼)」が生きている。
で。
ここでも、私は「論理」的に書きすぎているかもしれない。
そういうことを感じながらも、私は最果のことばの「文法」にどこかとまどっている。
<blockquote>
私の命のひとかけらは、きっと未来にゆかずに、
ひたすら過去へと遡っているはずだった。
</blockquote>
「はずだった」は「過去形」。
うーん、どうして「過去形」なのかなあ。「現在形」として私は読みたい。
「私が生まれるまえ」からつづく行は「過去」の思い出ではなく、「いま」の可能性として書かれていると思った方が、私にはリアル。
もちろん最果文法にしたがって説明しなおすことはできる。「誤読」することができる。
<blockquote>
私の瞳は私の知らないものを、すべて見て、ここにいた。
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
</blockquote>
「はずだった」と「過去形」で書くのは、最果が「いま/ここ」で生きているからだ。「ここにいた」は「いま/ここにいる」ということである。それを肉体で実感するからである。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。過去から何でも噴出させることができる。それがわかっていて、なおかつ、過去を噴出させずに「いま」から手さぐりで生きる。その思いが「はずだった」にこめられている。
「命の根源細胞」が何に変わるか。何でにも変われる。それを承知で、
<blockquote>
わからない
</blockquote>
という「世界」へ飛び込む。
<blockquote>
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
</blockquote>
ここに出てくる「わからない」は、とても美しく、強い。「わからない」ということを「わかっている」。それは「肉体」の「命の根源細胞」が「覚えている」何かである。
最果は、「情景」へ戻ってくる。
最初の三行は「起承転結」の「起」、次の三行は「承」というよりも「転」、その次の三行は「転Ⅱ」というか、「転」を「起」ととらえなおした「承」になるだろう。そして一行の空白をはさむ三行
<blockquote>
雨音が何を言っているのかわからないのは、
私たちが愚かなのではなく、二人だからだ。
ここからは、人類の時代です。
</blockquote>
が「結」。
「命の根源細胞」は何にでもなれる。しかし最果は「人類(人間)」を選んで生きる。二人で生きる。それが「ここから」はじまる。
(ここまで、2017年08月05日に書く)
*
最果タヒ『愛の縫い目はここ』を、私は理解しているか。たぶん理解していない。いや、きっと理解していない。私の感じていることは最果が書きたいと思っていること、あるいは最果の読者が感じていることとはまったく違っているだろう。「誤読」の典型といわれるだろう。
私は「誤読」を承知でというか、「誤読」したいから読んでいる。昨日書いた「誤読」のつづきをもう少し書いてみる。
「しろいろ」という作品。
<blockquote>
レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、光
がそれを避けながら届いたとき、誰にも気づかれずに炎症し
た空気の、傷口をさがしていた。ひとりでいることが、私の
体温を不安定にするのはほんとう。手を伸ばしていくとその
うち、ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる
気がしていた。だから、うつくしいものへと手を伸ばすんで
しょう。私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
書き出しの
<blockquote>
レースは、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、
</blockquote>
が繊細で美しい。これは「情景」の描写として読むことができる。けれど、たぶん「情景」ではない。では、何か。最果の「肉体感覚」である。どういう「肉体」感覚かというと、最後の
<blockquote>
私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
である。たぶん、この最後の部分に最果の「特質」がある。「肉体」がちぎれていく。「肉体」が欠ける。そのかけた部分を「景色」が補う。「肉体」と「景色(情景)」が、そうやって「ひとつ」になる。
これは最果独自の「一元論」である。世界に存在するのは「肉体」のみ、と最果が考えているかどうかわからないが、私は、実はそう考えているので、これは私の考えから見つめなおした最果ということになるかもしれないが。
「肉体」と「景色(情景)」が「ひとつ」になる。これは「肉体」と「情景(もの)」を「ひとつ」と考えるということである。
だから、書き出しの「レース」は実は「最果の肉体」そのものである。すでにこの段階で「私=最果の肉体」と「景色(レース)」は「まじっている」。つまり、最初のことばは、
<blockquote>
「私の肉体」は、空気にもすこしだけ縫いこまれているようで、
</blockquote>
なのである。
そして「縫い込む」という「動詞」は「傷口」という名詞(動詞の動いた部分)へとつながり、「ひとつ」であることを強める。自分の「肉体」のどこかに「傷口」と「縫い目」を探し当てたとき、最果は「レース」そのものになり、「光」を通過させる。「光」を通過させる「傷口」としての「肉体」。いま、最果が感じているのは、そういうものだろう。
<blockquote>
うつくしいものへと手を伸ばす
</blockquote>
と最果は書くが、私にはむしろ、そうやって
<blockquote>
うつくしいものに「なる」
</blockquote>
という具合に読める。読んでしまう。
「ゆびさきから心臓まで流れているぬくもりが途切れる」、その「途切れ」が「傷口」かもしれない。自己というものの、一瞬の欠落。これは、もちろん最果の「誤読/誤った認識」だろう。「肉体」のなかで「肉体」が途切れる(ちぎれる)ということはない。けれど、そう錯覚する。
たぶん、これは時系列としては逆なのだ。
「景色/情景」が「肉体」のなかに入ってくる。「景色」が「肉体」のなかに入ってくるために、とまどい、自分の「肉体」が途切れた、傷が開いたと感じる。その傷を縫い閉じて「肉体」をもとに戻す。そうすると、「肉体」が「景色」にかわってしまっている。「肉体」の「内」と「外」が入れ替わっている。
入れ替わるというよりも、それは「融合」である。あるいは「ひとつ」になることである。これを私は「最果の一元論」と名づけたいと思っている。
この「最果の一元論」は、また、別の角度からも指摘できる。
<blockquote>
私がちぎれていくかわり、景色が私に混ざっていく。
</blockquote>
この文章の「動詞」のつかい方は、ある意味ではとても奇妙である。私なら、この文章は
<blockquote>
私がちぎれて「いく」かわり、景色が私に混ざって「くる」。
</blockquote>
と書いてしまうかもしれない。「行く」と「来る」を対にすることで「一元論」にしてしまうだろうと思う。
しかし最果は「いく」と「いく」を重ねる。「動詞」がすでに「ひとつ」になってしまっている。最初から「肉体」と「景色」は「ひとつ」になって動いている。「動詞」の「いく」が共有されるところから、それを読み取ることができる。
「一元論」と言われても、たぶん最果と、「えっ、それ何のこと?」と思うに違いない。完全に「無意識」になっている。「一元論」が「肉体(思想)」になってしまっているのである。
だからこそ、たとえば、
<blockquote>
体を、論理で機械化していくのは楽しいかもしれないけれど。
(グーグルストリートビュー)
</blockquote>
のような「論理」批判が書かれたりする。ここに書かれている「機械」とは「肉体」と「景色」に対抗する存在のことである。「肉体」と「景色(存在)」を分断し、機械的に「二元論」を展開することばを「論理」と呼んでいることがわかる。
最果にとっては「景色」は「心象風景」ではない。心象を風景に託す、というような近代的な「手法」をとらない。「景色」はさいはてにとって自己拡張した「肉体」そのものだ。
(と書いてしまうと、きのう書いた感想と整合性が取れない部分が出てくるのだが、私は気にしない。昨日書いた感想は感想で、そうやって書くしかなかったものなのである。だから、修正するというよりも、さらに「誤読」を重ねることで、ごちゃごちゃにごまかしてしまう、というのが私の読書の仕方であり、感想の書き方なのである。きのうにはきのうの「事実」があり、きょうにはきょうしか書けない「事実」がある。)
<blockquote>
暗いところから見る、明るい場所が好きだ。
喫茶店が流れていく車両を無視して、
大きな窓から橙の光をこぼしていた。
体の奥にああした部分があるなら、
もうすこし体をいたわって生きることもできる、 (冬は日が落ちるのが早い)
美しく光っている体が、また、目覚めて私になる。
昼間、口のなかに夜がひろがり、甘い気がした。
体の構造が複雑すぎて、内臓のどれもがまぶしくて、
生きるとは星空の真似事をしているみたいだった。 (12歳の詩)
</blockquote>
ここに書かれている「景色」と「肉体」の「一体化」も「最果の一元論」を証明することばだと言える。(説明は省略。)
(2017年08月06日、書く。)
2021年2月2日に日本でレビュー済み
最果タヒが毒かというと毒だと思う。ただ、真理を伝えようという気なんてさらさらないようだ。
この詩人は美しさなんかに固執していない。自由な人だと思います。発想を消失させることで産まれる違和感、嘘のようにしてしまうことで焼き付ける輪郭。
正直に当たり前を反駁し続ける姿勢は、言葉よりも、言葉の中を自由に飛び舞う事にある。
沢山の大切を否定されながらも、傷つけられる事はなく、読者は最果タヒを受け入れようと考え始める。
78pの『球体』で「かなしいひとすべて、私と友達になればいい」と最果タヒは囁く。喜んで。
この詩人は美しさなんかに固執していない。自由な人だと思います。発想を消失させることで産まれる違和感、嘘のようにしてしまうことで焼き付ける輪郭。
正直に当たり前を反駁し続ける姿勢は、言葉よりも、言葉の中を自由に飛び舞う事にある。
沢山の大切を否定されながらも、傷つけられる事はなく、読者は最果タヒを受け入れようと考え始める。
78pの『球体』で「かなしいひとすべて、私と友達になればいい」と最果タヒは囁く。喜んで。
2021年8月18日に日本でレビュー済み
最果タヒの最高傑作だと思っている「真珠の詩」が収録されている
もうそれだけで星5ツです
これは谷川俊太郎の「芝生」と並ぶ、現代詩の最高傑作ではないでしょうか
トータルで見たら「死んでしまう系のぼくらに」の次に好きな詩集です
もうそれだけで星5ツです
これは谷川俊太郎の「芝生」と並ぶ、現代詩の最高傑作ではないでしょうか
トータルで見たら「死んでしまう系のぼくらに」の次に好きな詩集です