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赤塚不二夫120%: 死んでる場合じゃないのだ 単行本 – 1999/1/1
赤塚 不二夫
(著)
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- 本の長さ263ページ
- 言語日本語
- 出版社ケイツー
- 発売日1999/1/1
- ISBN-104901006096
- ISBN-13978-4901006095
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
人間て不思議。人間て面白い。人間て笑う葦。僕は漫画、ギャグが好き。だから…まだまだ死ねないのだ。紫綬褒章を受賞した漫画家・赤塚不二夫が、ギャグ満載で綴る自叙伝。立川談志との対談も収録する。
登録情報
- 出版社 : ケイツー (1999/1/1)
- 発売日 : 1999/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 263ページ
- ISBN-10 : 4901006096
- ISBN-13 : 978-4901006095
- Amazon 売れ筋ランキング: - 865,009位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,040位コミック・アニメ研究
- - 16,286位社会学概論
- - 24,822位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年1月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本当に死んでる場合ではないです。毎日いろんなことを処理しなければならず、やり残した事も数知れず。御本人の声が聞こえてきます。一気に読み進めました。赤塚さんを知るには良い本と考えます。
2011年5月28日に日本でレビュー済み
僕はなんでこんなに面白いことやギャグが好きなんだろうって考えると、やっぱり人間が好きだからなのだ。人間ほど面白いものはないし、人間ほど不思議な生き物はいないし、人間ほど愛おしいものはない。
でも、それじゃあ、本当に面白いものってなんだろう、本当に面白いギャグって何だろう。わからないようでわからない。だから僕は漫画家を志してから今まで、ずーっとそのことを考え続け、追い求めてきた。多分これからもしつこく考えると思う。そんなわけで、まだまだ考えている途中の僕ではありますが…。
でも、自然に出てくるといっても、そのためにはやっぱり、抽斗をたくさん持っていないとだめなんですよね。それを最初に教えてくれたのが、僕にとっても神様、手塚治虫先生だった。「君たち、漫画家になりたいのか」「はい、なりたいです」「それなら、一流の音楽を聞きなさい、一流の映画を見なさい、一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい。」でも、その時はわからなかった。わからないけれど、神様が言うことだもの。みんな一生懸命守ったのだ。それで、後になってその意味がわかってくる。手塚先生は抽斗をたくさん持ちなさいって言ってくれたんだね。それも、抽斗の中に一流の、素晴らしいものをたくさん入れておきなさいって。
その時に考えたのは、今までだれもやってこなかったものを描こうということだね。誰も書いたことのないものだったら、読者も初めてだから。あっ、当たり前のことを言ってしまったのだ。
何もオリジナリティがすべてじゃないのだ。やっぱりいろいろな所から学んで、自分流に、かっこいい言葉で言うと昇華させるというか、昇華じゃなくて消化かな。自分なりに噛み砕いて、セリフに置き換えたり、ストーリーを作ったり、だから僕は外国のギャグの先輩たちのアイデアをいただいて、それらのバリエーションでやってきたつもりなんだ。
そんなふうに、漫画のヒントになるものは、どこにでもあるんですね。だからたくさん抽斗をつくっておいて、いろんなものを入れておく。それをあれこれ取り出しちゃあ、テーマづくりの参考にしたり、セリフに役立てたり、ギャグを考えるときに使ったりするのだ。
中にはがらくたもあるかもしれないけれど、それはそれで役立つときもある。とにかく、抽斗をいっぱい持つこと。これが大事なんだと思う。何度も言うようだけど、その気になれば、発想のヒントはどこにでもあるのだ。映画も音楽も芝居も小説も漫才も、み〜んな抽斗になる。それと、何といっても人。人間といっぱい付き合って、人間をたくさん見ることこそ、抽斗を豊かにしてくれることはない。これは本当なのだ。
ただ机に向かって自分の世界を追求していくだけじゃ、世界は広がっていかない。いろいろな人と付き合って、いろんな世界を知ることによって幅が広がっていくのだ。人と付き合うのは、僕にとって、すごく大事な時間なのだ。
飲みに行った先には、漫画の世界とはまた違った連中が大勢いる。作家、ライター、役者、映画監督、ミュージシャン、お笑いタレント、TVディレクター、カメラマン。いろいろなことをやっている人と友達になったよ。すると、また別の世界がそこでできる。そこで、みんなでテレビをつくろう、映画を作ろう、って盛り上がって、実際作るところまでいくわけだ。でもそれって、人間が好きじゃないとできないことだと思う。やっぱり酒の飲み方っていろいろで、陰々滅滅と飲んでるやつもいるし、飲むと暴れる奴もいるし。僕の場合は、みんなと仲良くなって、とにかく楽しい会話をして、面白いことをやりたくなる。
そうやって毎晩飲みに出て漫画以外の違う世界ができたのは、本当に面白かった。それがまた漫画に跳ね返り、発想の源になっていく。飲みに行って、いろんな人間と会うことは、行ってみれば僕のエネルギー源だったのだ。それもこれも、優秀なアシスタントがいたからできたんだね。本当に僕は人に恵まれているのだ。そのころのアシスタントたちは、独立後、みんな一流の漫画家になっていった。
結局すべて、人との付き合いの中から生まれてきたことなのだ。人と出会って、コミュニケーションをして、付き合って、そうやって人の輪が生まれることで、一人ではできないことができるようになるんだね。漫画だってそうだよ。ある時期から僕はアイデアの合議制を取るようになったんだけど、いろんな人がアイデアをぶつけ合うことで、思いがけないものが生まれてくる。もちろん、真ん中にいるのは僕だけど、決して僕だけの力で売れたわけではないのだ。編集者が僕を育ててくれて、アシスタントが僕を助けてくれたから、やってこれたんだね。人間一人でできることなんかたかが知れてるもの。逆に言うと、いい人間関係をたくさん持っていると、自分の力以上のものを生み出すことができるわけだ。
僕が酒を飲むのも、人とコミュニケーションを取りたいからなのだ。だって本当のことを言うと、僕あまり酒が好きじゃないもの。信じてもらえないかもしれないけれど、不思議だが本当だ。僕は恥ずかしがり屋だから、酒を飲まないとうまくしゃべれないんですぅ。それでつい、酒を飲んでしまうんですねぇ。だってみんなと、楽しくやりたいもの。愉快なことをいっぱい話したいし、面白いことをやりたいもの。それには飲むしかないんだ。これは弁解でもなんでもない。本当のことなのだ。おかげでアルコール依存症になっちゃった。
人間って、作家にしても、一人の才能なんてたかが知れてるもの。それを掘り起こしてくれるのが、優秀な編集者なんだと思う。だから大作家になった人だって、もともとすごい人だったわけじゃないんだよ。いい編集者がついて、「先生、今度こういうふうに書いたらどうですか」って方向を示してくれたから、伸びていったんだ。凄い作家が出てきた背景には、必ず名編集者がいる。
そういう意味では本当に幸運だったと思う。だって、田舎からポッと出てきて漫画界に首を突っ込んだ僕を「あいつなんとかなりそうだ」って誰かが思ってくれたわけだから。そしたら、「お前、行けっっ」って、能力のある編集者をうちによこす。すると僕は、その編集者によって、ずーっと成長していく。才能を伸ばされて。と、それを見ている他の出版社が、「お前も行けっ」って、もっとすごい編集者をよこす。そんなふうにして相乗効果が生まれて、どんどん優秀な連中が、「こいつを育てよう」ってやってくる。僕はそのおかげで一応漫画家になれた。ほんと、編集者のおかげだよ。誰かが目をつけてくれたから今があるんだ。
最初から大作家の人間なんてどこにもいないんだよ。小さな作品に、才能の芽生えみたいなものが見えることがある。何か、光がある。そこに「おっ、こいつ何とかなるぞ」って目をつける編集者がいた場合、伸びるんだ。でも誰もそこに気付かないで、通り過ぎられることもある。そうすると、ただの漫画家機や、文学少年で終わっちゃう。編集者というのは、僕らにとってどれだけ大事な存在であるか。
ただの石ころを宝石みたいに磨いてくれる編集者がいなくなっちゃった。昔はいたんですよ。それで編集者も作家に触発される。お互いにキャッチボールみたいなものだから。
繰り返すが、僕が漫画としてやってこれたのは、いろいろな人と出会ったおかげなのだ。手塚先生、トキワ荘の仲間たち、編集者、酒場で知り合った大勢の友人、そのどれが欠けても、ここまで来れなかったと思う。僕にとって人は財産だし、人によって育ててもらったなぁってつくづく思うのだ。
お前は、たまたま人に恵まれてるんだ。そう言う人もいるかもしれない。確かに恵まれているよ。でも自分が人間が好きで、自分から人とコミュニケーションを取ろうとしなかったら、人との関係なんて生まれない。人間関係が貧しいところに豊かな創造なんてないと僕は思うのだ。
昔の人は飲み屋で知らない人と出会っても、すぐ友達になった。これは酒のせいだけじゃないんだ。話しながら、お互いを探るわけだ。こういうことを言っちゃまずんじゃないかとか、こういう話題なら一緒に話せそうだぞ、とか。それは思いやりといってもいいし、イマジネーションといってもいいかもしれない。つまり想像力なんだ。
なぜだろうって考えてみると、やっぱり行きつく先は人間が好きだってことなのだ。自分の個性なんだね。持って生まれた性格。それと、子供の頃、親や先生や周りの人に教えられたんだと思う。人間って何なのか、人にとって大事なものは何か、いろいろな形で教えてくれたんだと思う。
悪ガキだったことを正当化するつもりはないけど、人間って純粋培養で育つと、何かあった時に脆いという気がする。悪いこともやった上で、「これはいけなかったかな」って反省しながら、まともな道に戻る方が、バイタリティがあると思うんだ。悪いこともぜーんぶ知ってるんだから。
僕は別に正義の味方なんかじゃないよ。僕は、この世に「いい人」だけの人なんていないと思ってる。同じように、「悪い人」だけの人もいない。世の中って、正しい事も悪い事も、美しい事も汚いことも、恵まれている人もハンディを背負っている人も、金持ちも貧乏人も、おバカも利口も、賛成も反対も、クソも味噌も、ぜーんぶごちゃまぜになってるのだ。それが世の中ってぇものだからね。それでいいのだ!!
昨今の親はみんな自分の子供に「いい子」を強要するし、「利口」にしようとする。小さいころから鋳型にはめて、気をつけて危ない目に合わせないようにして、結局、精神がひ弱で脆い子供にしてしまう。それから世の中全体で負のものには蓋をしようとする。蓋をしたって負のものはあるのに、無理やり封印するから、余計おかしなことになってしまうのだ。
言葉を使わないからって、それが思いやりってものじゃないと僕は思うのだ。僕が子供の頃、クラスに身体障害者がいたよ。彼を連れて、火事を見に行ったことがあるんだ。「早く歩け、このバカやろう」なんていうんだけど、帰りはみんなでおんぶして帰ってきた。交代で。そういう優しさってすごく大事だと思う。たまにはきついことも言うけれど、それは同等だと思っているから。「何だ、お前遅いなあ」なんて言いながら、どこにでも連れていくし、一緒に遊ぶんだもの。そこなんだよ、大事なのは。
これは僕の生き方にもなっているんだけど、いつもその場で自分が一番劣っていると考えるのだ。自分が一番バカで最低だと思っている。そうすると、いろいろな人と出会っても、いろんなことを教えてもらえる。だから石森章太郎もちゃんと教えてくれたし、藤子不二雄も勉強させてくれたし、寺田ヒロオも、こんこんと漫画の描き方を教えてくれた。自分がバカだと思っていると、人から本当にたくさん学べるのだ。だから僕は、ずーっとそう思ってきた。エラそーに「お前たちはな」なんて説教する奴もいっぱいいるよ。そんな時は「そうですか、なるほどねぇ」って聞いておけばいいんだよ。それで、つまらないことは忘れてしまえばいいんだから。それに自分がバカだと思っているのが、いっちばん自分に害がない。おおまかなところで自分が最低だと思っていればいい。これってうまく生きていくコツだと思うよ。
若い人にちょっとだけ言っておきたいことがあるのだ。今の若い人は知識はめちゃくちゃ持ってるよ。学校で山のように勉強するし、お湯の沸騰点はと言えば、「100℃」ってみんな答えられる。でも、「どのくらい熱いか知ってるか」と聞いたら、「熱いんでしょう」としか言えない。触ってみたことがあるんのかって言うんだよ。ここが人間の分かれ目なのだ。昔は、どれくらい熱いのか触ったのだ。それで、「アチチ、これは熱いぞ。これがお湯の沸騰点だ」って体で感じたんですよ。でも今の子供たちはみんな、頭で考えている。みんな情報量だけはすごく多いんだけど、それはデジタルな情報であって、人間そのものについても生の情報は不足していると思う。特に世代が違う人との接点や会話が極端に少ない。
ただ、もったいないなぁって思うんだ。だって人ってすごい力があるものだから。出会ったために、自分の能力が10倍になったとか、そういうことっていくらでもあるんだから。現に僕がそうだもの。人との出会いがあったからここまでやってこれたし、漫画もヒットして、エラそーに展覧会なんかやっているわけだ。だから人とのコミュニケーションは大事にした方がいいよ、ってただそれが言いたいだけ。
今の時代、人と話しても会話がスムーズにいかないんだよ。なんかギクシャクしてしまう。ほんと、会話べたが多いよ。今の時代、ほっとくとそうなってしまう。だから自分で意識して、いろいろな人間とのつながりを知ろうとしないと、コミュニケーションの仕方が分からないまま、大人になってしまう。
でも、それじゃあ、本当に面白いものってなんだろう、本当に面白いギャグって何だろう。わからないようでわからない。だから僕は漫画家を志してから今まで、ずーっとそのことを考え続け、追い求めてきた。多分これからもしつこく考えると思う。そんなわけで、まだまだ考えている途中の僕ではありますが…。
でも、自然に出てくるといっても、そのためにはやっぱり、抽斗をたくさん持っていないとだめなんですよね。それを最初に教えてくれたのが、僕にとっても神様、手塚治虫先生だった。「君たち、漫画家になりたいのか」「はい、なりたいです」「それなら、一流の音楽を聞きなさい、一流の映画を見なさい、一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい。」でも、その時はわからなかった。わからないけれど、神様が言うことだもの。みんな一生懸命守ったのだ。それで、後になってその意味がわかってくる。手塚先生は抽斗をたくさん持ちなさいって言ってくれたんだね。それも、抽斗の中に一流の、素晴らしいものをたくさん入れておきなさいって。
その時に考えたのは、今までだれもやってこなかったものを描こうということだね。誰も書いたことのないものだったら、読者も初めてだから。あっ、当たり前のことを言ってしまったのだ。
何もオリジナリティがすべてじゃないのだ。やっぱりいろいろな所から学んで、自分流に、かっこいい言葉で言うと昇華させるというか、昇華じゃなくて消化かな。自分なりに噛み砕いて、セリフに置き換えたり、ストーリーを作ったり、だから僕は外国のギャグの先輩たちのアイデアをいただいて、それらのバリエーションでやってきたつもりなんだ。
そんなふうに、漫画のヒントになるものは、どこにでもあるんですね。だからたくさん抽斗をつくっておいて、いろんなものを入れておく。それをあれこれ取り出しちゃあ、テーマづくりの参考にしたり、セリフに役立てたり、ギャグを考えるときに使ったりするのだ。
中にはがらくたもあるかもしれないけれど、それはそれで役立つときもある。とにかく、抽斗をいっぱい持つこと。これが大事なんだと思う。何度も言うようだけど、その気になれば、発想のヒントはどこにでもあるのだ。映画も音楽も芝居も小説も漫才も、み〜んな抽斗になる。それと、何といっても人。人間といっぱい付き合って、人間をたくさん見ることこそ、抽斗を豊かにしてくれることはない。これは本当なのだ。
ただ机に向かって自分の世界を追求していくだけじゃ、世界は広がっていかない。いろいろな人と付き合って、いろんな世界を知ることによって幅が広がっていくのだ。人と付き合うのは、僕にとって、すごく大事な時間なのだ。
飲みに行った先には、漫画の世界とはまた違った連中が大勢いる。作家、ライター、役者、映画監督、ミュージシャン、お笑いタレント、TVディレクター、カメラマン。いろいろなことをやっている人と友達になったよ。すると、また別の世界がそこでできる。そこで、みんなでテレビをつくろう、映画を作ろう、って盛り上がって、実際作るところまでいくわけだ。でもそれって、人間が好きじゃないとできないことだと思う。やっぱり酒の飲み方っていろいろで、陰々滅滅と飲んでるやつもいるし、飲むと暴れる奴もいるし。僕の場合は、みんなと仲良くなって、とにかく楽しい会話をして、面白いことをやりたくなる。
そうやって毎晩飲みに出て漫画以外の違う世界ができたのは、本当に面白かった。それがまた漫画に跳ね返り、発想の源になっていく。飲みに行って、いろんな人間と会うことは、行ってみれば僕のエネルギー源だったのだ。それもこれも、優秀なアシスタントがいたからできたんだね。本当に僕は人に恵まれているのだ。そのころのアシスタントたちは、独立後、みんな一流の漫画家になっていった。
結局すべて、人との付き合いの中から生まれてきたことなのだ。人と出会って、コミュニケーションをして、付き合って、そうやって人の輪が生まれることで、一人ではできないことができるようになるんだね。漫画だってそうだよ。ある時期から僕はアイデアの合議制を取るようになったんだけど、いろんな人がアイデアをぶつけ合うことで、思いがけないものが生まれてくる。もちろん、真ん中にいるのは僕だけど、決して僕だけの力で売れたわけではないのだ。編集者が僕を育ててくれて、アシスタントが僕を助けてくれたから、やってこれたんだね。人間一人でできることなんかたかが知れてるもの。逆に言うと、いい人間関係をたくさん持っていると、自分の力以上のものを生み出すことができるわけだ。
僕が酒を飲むのも、人とコミュニケーションを取りたいからなのだ。だって本当のことを言うと、僕あまり酒が好きじゃないもの。信じてもらえないかもしれないけれど、不思議だが本当だ。僕は恥ずかしがり屋だから、酒を飲まないとうまくしゃべれないんですぅ。それでつい、酒を飲んでしまうんですねぇ。だってみんなと、楽しくやりたいもの。愉快なことをいっぱい話したいし、面白いことをやりたいもの。それには飲むしかないんだ。これは弁解でもなんでもない。本当のことなのだ。おかげでアルコール依存症になっちゃった。
人間って、作家にしても、一人の才能なんてたかが知れてるもの。それを掘り起こしてくれるのが、優秀な編集者なんだと思う。だから大作家になった人だって、もともとすごい人だったわけじゃないんだよ。いい編集者がついて、「先生、今度こういうふうに書いたらどうですか」って方向を示してくれたから、伸びていったんだ。凄い作家が出てきた背景には、必ず名編集者がいる。
そういう意味では本当に幸運だったと思う。だって、田舎からポッと出てきて漫画界に首を突っ込んだ僕を「あいつなんとかなりそうだ」って誰かが思ってくれたわけだから。そしたら、「お前、行けっっ」って、能力のある編集者をうちによこす。すると僕は、その編集者によって、ずーっと成長していく。才能を伸ばされて。と、それを見ている他の出版社が、「お前も行けっ」って、もっとすごい編集者をよこす。そんなふうにして相乗効果が生まれて、どんどん優秀な連中が、「こいつを育てよう」ってやってくる。僕はそのおかげで一応漫画家になれた。ほんと、編集者のおかげだよ。誰かが目をつけてくれたから今があるんだ。
最初から大作家の人間なんてどこにもいないんだよ。小さな作品に、才能の芽生えみたいなものが見えることがある。何か、光がある。そこに「おっ、こいつ何とかなるぞ」って目をつける編集者がいた場合、伸びるんだ。でも誰もそこに気付かないで、通り過ぎられることもある。そうすると、ただの漫画家機や、文学少年で終わっちゃう。編集者というのは、僕らにとってどれだけ大事な存在であるか。
ただの石ころを宝石みたいに磨いてくれる編集者がいなくなっちゃった。昔はいたんですよ。それで編集者も作家に触発される。お互いにキャッチボールみたいなものだから。
繰り返すが、僕が漫画としてやってこれたのは、いろいろな人と出会ったおかげなのだ。手塚先生、トキワ荘の仲間たち、編集者、酒場で知り合った大勢の友人、そのどれが欠けても、ここまで来れなかったと思う。僕にとって人は財産だし、人によって育ててもらったなぁってつくづく思うのだ。
お前は、たまたま人に恵まれてるんだ。そう言う人もいるかもしれない。確かに恵まれているよ。でも自分が人間が好きで、自分から人とコミュニケーションを取ろうとしなかったら、人との関係なんて生まれない。人間関係が貧しいところに豊かな創造なんてないと僕は思うのだ。
昔の人は飲み屋で知らない人と出会っても、すぐ友達になった。これは酒のせいだけじゃないんだ。話しながら、お互いを探るわけだ。こういうことを言っちゃまずんじゃないかとか、こういう話題なら一緒に話せそうだぞ、とか。それは思いやりといってもいいし、イマジネーションといってもいいかもしれない。つまり想像力なんだ。
なぜだろうって考えてみると、やっぱり行きつく先は人間が好きだってことなのだ。自分の個性なんだね。持って生まれた性格。それと、子供の頃、親や先生や周りの人に教えられたんだと思う。人間って何なのか、人にとって大事なものは何か、いろいろな形で教えてくれたんだと思う。
悪ガキだったことを正当化するつもりはないけど、人間って純粋培養で育つと、何かあった時に脆いという気がする。悪いこともやった上で、「これはいけなかったかな」って反省しながら、まともな道に戻る方が、バイタリティがあると思うんだ。悪いこともぜーんぶ知ってるんだから。
僕は別に正義の味方なんかじゃないよ。僕は、この世に「いい人」だけの人なんていないと思ってる。同じように、「悪い人」だけの人もいない。世の中って、正しい事も悪い事も、美しい事も汚いことも、恵まれている人もハンディを背負っている人も、金持ちも貧乏人も、おバカも利口も、賛成も反対も、クソも味噌も、ぜーんぶごちゃまぜになってるのだ。それが世の中ってぇものだからね。それでいいのだ!!
昨今の親はみんな自分の子供に「いい子」を強要するし、「利口」にしようとする。小さいころから鋳型にはめて、気をつけて危ない目に合わせないようにして、結局、精神がひ弱で脆い子供にしてしまう。それから世の中全体で負のものには蓋をしようとする。蓋をしたって負のものはあるのに、無理やり封印するから、余計おかしなことになってしまうのだ。
言葉を使わないからって、それが思いやりってものじゃないと僕は思うのだ。僕が子供の頃、クラスに身体障害者がいたよ。彼を連れて、火事を見に行ったことがあるんだ。「早く歩け、このバカやろう」なんていうんだけど、帰りはみんなでおんぶして帰ってきた。交代で。そういう優しさってすごく大事だと思う。たまにはきついことも言うけれど、それは同等だと思っているから。「何だ、お前遅いなあ」なんて言いながら、どこにでも連れていくし、一緒に遊ぶんだもの。そこなんだよ、大事なのは。
これは僕の生き方にもなっているんだけど、いつもその場で自分が一番劣っていると考えるのだ。自分が一番バカで最低だと思っている。そうすると、いろいろな人と出会っても、いろんなことを教えてもらえる。だから石森章太郎もちゃんと教えてくれたし、藤子不二雄も勉強させてくれたし、寺田ヒロオも、こんこんと漫画の描き方を教えてくれた。自分がバカだと思っていると、人から本当にたくさん学べるのだ。だから僕は、ずーっとそう思ってきた。エラそーに「お前たちはな」なんて説教する奴もいっぱいいるよ。そんな時は「そうですか、なるほどねぇ」って聞いておけばいいんだよ。それで、つまらないことは忘れてしまえばいいんだから。それに自分がバカだと思っているのが、いっちばん自分に害がない。おおまかなところで自分が最低だと思っていればいい。これってうまく生きていくコツだと思うよ。
若い人にちょっとだけ言っておきたいことがあるのだ。今の若い人は知識はめちゃくちゃ持ってるよ。学校で山のように勉強するし、お湯の沸騰点はと言えば、「100℃」ってみんな答えられる。でも、「どのくらい熱いか知ってるか」と聞いたら、「熱いんでしょう」としか言えない。触ってみたことがあるんのかって言うんだよ。ここが人間の分かれ目なのだ。昔は、どれくらい熱いのか触ったのだ。それで、「アチチ、これは熱いぞ。これがお湯の沸騰点だ」って体で感じたんですよ。でも今の子供たちはみんな、頭で考えている。みんな情報量だけはすごく多いんだけど、それはデジタルな情報であって、人間そのものについても生の情報は不足していると思う。特に世代が違う人との接点や会話が極端に少ない。
ただ、もったいないなぁって思うんだ。だって人ってすごい力があるものだから。出会ったために、自分の能力が10倍になったとか、そういうことっていくらでもあるんだから。現に僕がそうだもの。人との出会いがあったからここまでやってこれたし、漫画もヒットして、エラそーに展覧会なんかやっているわけだ。だから人とのコミュニケーションは大事にした方がいいよ、ってただそれが言いたいだけ。
今の時代、人と話しても会話がスムーズにいかないんだよ。なんかギクシャクしてしまう。ほんと、会話べたが多いよ。今の時代、ほっとくとそうなってしまう。だから自分で意識して、いろいろな人間とのつながりを知ろうとしないと、コミュニケーションの仕方が分からないまま、大人になってしまう。
2007年10月2日に日本でレビュー済み
副題の「死んでる場合じゃないのだ」は97年に食道がんが発見され、本の中では放射線を当てる部位の場所を写真で見せているが、闘病中であることを示唆している。後に手術を行って成功するが、2002年に脳出血を起こし現在は意識不明の植物状態にあるという。
死を意識しているせいか、自叙伝の内容としてはかなり突っ込んだ内容で、トキワ荘時代はもちろん、恩人だった寺田ヒロオ氏と約20年ぶりに再会した話など興味深い。プライベートでは最初の奥さんと2度目の奥さんとの奇妙で不思議な関係を正直に述べているが、2度目の奥さんの真知子さんは昨年くも膜下出血で亡くなられた。
巻末に立川談志師匠との対談があるが、お互いの笑いに対する真摯な姿勢はいつまでも聞いていたい気分にさせる。赤塚・立川両ファンとも一読の価値あり。
死を意識しているせいか、自叙伝の内容としてはかなり突っ込んだ内容で、トキワ荘時代はもちろん、恩人だった寺田ヒロオ氏と約20年ぶりに再会した話など興味深い。プライベートでは最初の奥さんと2度目の奥さんとの奇妙で不思議な関係を正直に述べているが、2度目の奥さんの真知子さんは昨年くも膜下出血で亡くなられた。
巻末に立川談志師匠との対談があるが、お互いの笑いに対する真摯な姿勢はいつまでも聞いていたい気分にさせる。赤塚・立川両ファンとも一読の価値あり。