著者は東映で特撮ヒーロー番組の制作を統括しているプロデューサーです。白倉Pのイメージは切れ者。平成ライダーシリーズを軌道に乗せ、若くして東映の取締役にも就任しています。
読むと特撮ヒーローに限らず「ヒーロー」と「正義」全般について考察されています。ちょっと意地悪な見方をすると、特撮番組の制作において、大きなお友達のクレームに対処するには、これ程の理論武装が必要となるということです。切れ者が理論武装しているのですから、容易には崩せません。
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ヒーローと正義 (寺子屋新書 2) 単行本(ソフトカバー) – 2004/5/20
白倉 伸一郎
(著)
- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社子どもの未来社
- 発売日2004/5/20
- ISBN-10490133042X
- ISBN-13978-4901330428
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
正義の不在が叫ばれる現代。「仮面ライダーアギト」「美少女戦士セーラームーン」など、数々の特撮番組を手がけてきた名プロデューサーが、ヒーローを素材に、現代社会の問題を鋭く切りとり、ラディカルに論じる「正義」論。
登録情報
- 出版社 : 子どもの未来社 (2004/5/20)
- 発売日 : 2004/5/20
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 237ページ
- ISBN-10 : 490133042X
- ISBN-13 : 978-4901330428
- Amazon 売れ筋ランキング: - 480,971位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年2月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者は平成仮面ライダーシリーズの生みの親であるTVプロデューサー。
そんな著者が、日曜日朝八時の子供たちの正義のヒーローを通して世の中に対し問いかけていたことは現代における正義の在り方でした。
私が本書を読んで興味深く思ったことは、「正義の在り方」とそれに伴なう「正義の化身たるライダー自身のレゾンデートルの揺らぎ」という著者の存在論的視点です。
製作者及び作品間の正義の描き方の視点の違い、とりわけ「絶対的かつ普遍的な正義」と「相対的にして多元的な正義」という製作者間の正義に対する考え方の違いは、それ自身極めて現在的な問題の問いかけであり考えさせられましたし、後者の立場に立ちあくまでも問いかけ続けるというスタンスをとる作者の姿勢に私は良心を感じました。
また、時に異邦人でしか有り得ないライダーの存在の不条理さに、ともすれば根無し草になりうる現代人のエレジーを見た気がしました。
某アイビーリーグの公共哲学者の講義に触れるまでもなく、小さなころから正義論に触れる作品が身近にあったということを改めて考えると驚きです。そしてそのような優れた作品を同時に商業的にも優れたコンテンツに育て上げた著者達の手腕にも驚くものがありました。
そんな著者が、日曜日朝八時の子供たちの正義のヒーローを通して世の中に対し問いかけていたことは現代における正義の在り方でした。
私が本書を読んで興味深く思ったことは、「正義の在り方」とそれに伴なう「正義の化身たるライダー自身のレゾンデートルの揺らぎ」という著者の存在論的視点です。
製作者及び作品間の正義の描き方の視点の違い、とりわけ「絶対的かつ普遍的な正義」と「相対的にして多元的な正義」という製作者間の正義に対する考え方の違いは、それ自身極めて現在的な問題の問いかけであり考えさせられましたし、後者の立場に立ちあくまでも問いかけ続けるというスタンスをとる作者の姿勢に私は良心を感じました。
また、時に異邦人でしか有り得ないライダーの存在の不条理さに、ともすれば根無し草になりうる現代人のエレジーを見た気がしました。
某アイビーリーグの公共哲学者の講義に触れるまでもなく、小さなころから正義論に触れる作品が身近にあったということを改めて考えると驚きです。そしてそのような優れた作品を同時に商業的にも優れたコンテンツに育て上げた著者達の手腕にも驚くものがありました。
2017年4月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルに挙げた内容が本書のいいたいことだと思う。
そして、この原則は、戦争や差別、障害者問題や、ナチスドイツのホロコーストまで説明しうる、汎用性の高い概念であり、
筆者は意欲的に、この原則を縦横無尽に適応させていく。
確かに、人間の脳は2つまではしっかりと認識している。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と数えていくとき、みっつもよっつも同じようなものに感じている自分は確かにいる。
三つ以上は「多い」という認識になってしまう。ちゃんと区別しているかわからない。
漢数字も、外国人芸人の厚切りジェイソンが批判していたけれども、一、二、三からなぜ、四になるのか?
英語だって、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲまではわかるけど、なぜか4からはⅣとなってしまう。(5から1足りない数字、みたいな理解だろうか?)
これ、脳と深く関係しているのだろう。
体感的には、脳は、みっつで「満っつ」だと筆者はいう。確かにそうかもしれない。
で、この前提を「2つまでしかうまく認識できない」を踏まえた上で、
「わたしたち」と「あいつら」という、境界線の話になる。
で、境界線をうまく説明するために、「怪人」「怪獣」の違いから話しがはじまる。このたとえは秀逸だった。
「怪人」は、限りなく私たちに近い存在である。だから、生理的に気持ち悪い。で、気持ち悪いから、「悪」であり、存在そのものが悪い。
だから、怪人は、地球外にいたとしても、攻めていって攻撃しないと気がすまない。
「怪獣」は、あきらかに我々とは違う。でも、突然われわれの生活圏に現れたら、生活が脅かされるから「悪」に「なる」。
でも、存在そのものは、われわれの生活圏を侵害しなければ、別に気持ち悪くはない。地球外にいたら、勝手に生きていてくれてかまわない。
例えばゴジラは、東京に上陸せずに、火山のなかで生息していてくれれば、別に気持ち悪くもないし、火山まで殺しに行こうとはしない。
「猿の惑星」は人間と猿の境界が実はあいまいだからこそ、価値観を揺さぶる名作となった。
しかし、あきらかに人間とちがう「イルカの惑星」であったら、あれほどまじめな話として成りたたない。という例には笑った。
怪人、怪獣の違い。それぞれの人間との距離の違い。境界線の違いの話である。
筆者は、ヒーローだと我々が感じる根拠は、「ふしぎな出生」「怪物の退治」「財宝の獲得」だという。
でも、これはちょっと違うのではないか?
正しくは、「力があること」「二元論的秩序の維持」「ヒーローの悦楽」だと思う。
不思議な出生はつまり、「力があること」の根拠になっている。
怪物の退治とは、つまり、「二元論的秩序の維持」のことである。
財宝の獲得とは、つまり、「ヒーローの悦楽」のことだろう。
「力のあるものが、二元論的秩序を取り戻すことが、悦楽である。」これがヒーローの正しい定義ではないか?
そして、それこそが「正義である」と。
その悦楽に、われわれ聴衆が同化するとき、熱狂が生まれる。二元論的人間の脳が、喜ぶからだ。
これは、ヒーローだけではなく、独裁者ヒトラーにも適応可能であるし、9.11に報復として、アメリカがとった行動とも重なる。
この人間の性向を認識することが出発点であろう。
そして、この性向こそ、現在の世界情勢で観察される現象
「正義を主張するものが加害者となり、物言わぬものが被害者となる図式」(P7)を説明してしまう。
だから、本書は、ヒーローものを土台としながら、実は人間の脳の性向を研究した脳科学書ともいえる。
そして、筆者からのメッセージは、
「秩序は確かに大切だ。でも、人間社会に混沌がなくなり、すべて秩序だてようとする社会は、
つまりは、ナチスドイツの相互監視社会、排他的社会であるし、実はそこには、ヒーローが存在する隙間がなくなっていく。つまらない社会になっていく。
だから、境界線を完成させてはいけない。境界線の間でゆらぐこと、ある程度のグレーゾーンを残しておく度量こそ、我々に求められているのではないか」(意訳)
という、大人な意見で終わる。
ヒーローの存在意義は二元論を明確化させるものである。しかし、ヒーローが存在するためには、混沌が、グレーゾーンが必要であるという。
ウロボロスのような主張に、大人だ。と思った。
我々は二元論がだいすきで、どうしてもヒーローが好きになってしまう、そんな脳を持っている危険を認識しながらも、ヒーローを楽しもう。(そのためには混沌も許していこう)。そういった主張だと思います。
LGBTのことや、障害者論など、様々な社会問題に援用可能な本書は、もっと高く評価されてもよいと思うのだけれども、
すこし、論が飛躍しすぎたり、言葉の選択が納得いかなかったり(前述:ヒーローの定義など)する点が、その価値を下げてしまっていると思う。
でも、その目指したところは、すこぶる高いところにある。意欲的な書であり、本当に楽しい読書体験をさせてもらいました。
そして、この原則は、戦争や差別、障害者問題や、ナチスドイツのホロコーストまで説明しうる、汎用性の高い概念であり、
筆者は意欲的に、この原則を縦横無尽に適応させていく。
確かに、人間の脳は2つまではしっかりと認識している。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と数えていくとき、みっつもよっつも同じようなものに感じている自分は確かにいる。
三つ以上は「多い」という認識になってしまう。ちゃんと区別しているかわからない。
漢数字も、外国人芸人の厚切りジェイソンが批判していたけれども、一、二、三からなぜ、四になるのか?
英語だって、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲまではわかるけど、なぜか4からはⅣとなってしまう。(5から1足りない数字、みたいな理解だろうか?)
これ、脳と深く関係しているのだろう。
体感的には、脳は、みっつで「満っつ」だと筆者はいう。確かにそうかもしれない。
で、この前提を「2つまでしかうまく認識できない」を踏まえた上で、
「わたしたち」と「あいつら」という、境界線の話になる。
で、境界線をうまく説明するために、「怪人」「怪獣」の違いから話しがはじまる。このたとえは秀逸だった。
「怪人」は、限りなく私たちに近い存在である。だから、生理的に気持ち悪い。で、気持ち悪いから、「悪」であり、存在そのものが悪い。
だから、怪人は、地球外にいたとしても、攻めていって攻撃しないと気がすまない。
「怪獣」は、あきらかに我々とは違う。でも、突然われわれの生活圏に現れたら、生活が脅かされるから「悪」に「なる」。
でも、存在そのものは、われわれの生活圏を侵害しなければ、別に気持ち悪くはない。地球外にいたら、勝手に生きていてくれてかまわない。
例えばゴジラは、東京に上陸せずに、火山のなかで生息していてくれれば、別に気持ち悪くもないし、火山まで殺しに行こうとはしない。
「猿の惑星」は人間と猿の境界が実はあいまいだからこそ、価値観を揺さぶる名作となった。
しかし、あきらかに人間とちがう「イルカの惑星」であったら、あれほどまじめな話として成りたたない。という例には笑った。
怪人、怪獣の違い。それぞれの人間との距離の違い。境界線の違いの話である。
筆者は、ヒーローだと我々が感じる根拠は、「ふしぎな出生」「怪物の退治」「財宝の獲得」だという。
でも、これはちょっと違うのではないか?
正しくは、「力があること」「二元論的秩序の維持」「ヒーローの悦楽」だと思う。
不思議な出生はつまり、「力があること」の根拠になっている。
怪物の退治とは、つまり、「二元論的秩序の維持」のことである。
財宝の獲得とは、つまり、「ヒーローの悦楽」のことだろう。
「力のあるものが、二元論的秩序を取り戻すことが、悦楽である。」これがヒーローの正しい定義ではないか?
そして、それこそが「正義である」と。
その悦楽に、われわれ聴衆が同化するとき、熱狂が生まれる。二元論的人間の脳が、喜ぶからだ。
これは、ヒーローだけではなく、独裁者ヒトラーにも適応可能であるし、9.11に報復として、アメリカがとった行動とも重なる。
この人間の性向を認識することが出発点であろう。
そして、この性向こそ、現在の世界情勢で観察される現象
「正義を主張するものが加害者となり、物言わぬものが被害者となる図式」(P7)を説明してしまう。
だから、本書は、ヒーローものを土台としながら、実は人間の脳の性向を研究した脳科学書ともいえる。
そして、筆者からのメッセージは、
「秩序は確かに大切だ。でも、人間社会に混沌がなくなり、すべて秩序だてようとする社会は、
つまりは、ナチスドイツの相互監視社会、排他的社会であるし、実はそこには、ヒーローが存在する隙間がなくなっていく。つまらない社会になっていく。
だから、境界線を完成させてはいけない。境界線の間でゆらぐこと、ある程度のグレーゾーンを残しておく度量こそ、我々に求められているのではないか」(意訳)
という、大人な意見で終わる。
ヒーローの存在意義は二元論を明確化させるものである。しかし、ヒーローが存在するためには、混沌が、グレーゾーンが必要であるという。
ウロボロスのような主張に、大人だ。と思った。
我々は二元論がだいすきで、どうしてもヒーローが好きになってしまう、そんな脳を持っている危険を認識しながらも、ヒーローを楽しもう。(そのためには混沌も許していこう)。そういった主張だと思います。
LGBTのことや、障害者論など、様々な社会問題に援用可能な本書は、もっと高く評価されてもよいと思うのだけれども、
すこし、論が飛躍しすぎたり、言葉の選択が納得いかなかったり(前述:ヒーローの定義など)する点が、その価値を下げてしまっていると思う。
でも、その目指したところは、すこぶる高いところにある。意欲的な書であり、本当に楽しい読書体験をさせてもらいました。
2006年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
平成仮面ライダーシリーズは私も大人の観点から楽しませてもらっていますが、こうした製作サイドの人の子どもたちに対する姿勢をみると、多少とも異を唱えたくはあります。
気になることとしては、白倉氏自身が製作を手がけたヒーロー番組への言及がほとんどないことです。古くは初代ウルトラマンから、近年のクウガやコスモスに至るまでの従来のヒーロー作品への批判はあっても、その批判を踏まえた氏の姿勢がどのように平成ライダーシリーズに生かされたのか、見えてきません。これでは説明責任を果たしたことにはならないでしょう。
氏自身の基本的主張は「正義を疑え」「秩序を疑え」ということで、その動機は9/11に対するブッシュの「普遍的正義の押し付け」への抗議だとのことです。しかし「ブッシュの正義」に心から賛同した日本人が、一体どれだけいるでしょうか。むしろ9/11とそれに続く一連の事件は、この日本では「普遍的な正義」を説く立場をますます「いかがわしい」ものと感じさせ、相対主義的な雰囲気を助長するのに一役買った、といったほうが正しいでしょう。
「正義を疑え」「秩序を疑え」というメッセージなら、今さらヒーロー番組で強調しなくても、それこそ19世紀末のニーチェ以来、盛んに繰り返されてきたことです。それどころか、この現代日本でもとうに「普遍的な正義」などいかがわしいものだとする雰囲気は存在している。むしろこちらこそ問題視すべきではないでしょうか。
「既存の善悪の区別を絶対視しない」という批判的視点は確かに必要でしょう。しかしそれなら、時折「超兵器R1号」や「ノンマルトの使者」のような単純な善悪対立で割り切れないような話を時に織り込む、『ウルトラセブン』のような方法もある。最初から「混沌」では、基本的なモラル感覚すら欠いた子どもたちを、ますます世に送り出すだけのことになりかねません。
白倉氏は別の場で「前に典型的な勧善懲悪ものの戦隊シリーズがあるからこそ、次の時間帯で平成ライダーのような作品を作れる」と語っていました。これこそ、秩序解体を唱える立場は、結局は「秩序」のパラサイトでしかない、ということの暗示でしょう。
気になることとしては、白倉氏自身が製作を手がけたヒーロー番組への言及がほとんどないことです。古くは初代ウルトラマンから、近年のクウガやコスモスに至るまでの従来のヒーロー作品への批判はあっても、その批判を踏まえた氏の姿勢がどのように平成ライダーシリーズに生かされたのか、見えてきません。これでは説明責任を果たしたことにはならないでしょう。
氏自身の基本的主張は「正義を疑え」「秩序を疑え」ということで、その動機は9/11に対するブッシュの「普遍的正義の押し付け」への抗議だとのことです。しかし「ブッシュの正義」に心から賛同した日本人が、一体どれだけいるでしょうか。むしろ9/11とそれに続く一連の事件は、この日本では「普遍的な正義」を説く立場をますます「いかがわしい」ものと感じさせ、相対主義的な雰囲気を助長するのに一役買った、といったほうが正しいでしょう。
「正義を疑え」「秩序を疑え」というメッセージなら、今さらヒーロー番組で強調しなくても、それこそ19世紀末のニーチェ以来、盛んに繰り返されてきたことです。それどころか、この現代日本でもとうに「普遍的な正義」などいかがわしいものだとする雰囲気は存在している。むしろこちらこそ問題視すべきではないでしょうか。
「既存の善悪の区別を絶対視しない」という批判的視点は確かに必要でしょう。しかしそれなら、時折「超兵器R1号」や「ノンマルトの使者」のような単純な善悪対立で割り切れないような話を時に織り込む、『ウルトラセブン』のような方法もある。最初から「混沌」では、基本的なモラル感覚すら欠いた子どもたちを、ますます世に送り出すだけのことになりかねません。
白倉氏は別の場で「前に典型的な勧善懲悪ものの戦隊シリーズがあるからこそ、次の時間帯で平成ライダーのような作品を作れる」と語っていました。これこそ、秩序解体を唱える立場は、結局は「秩序」のパラサイトでしかない、ということの暗示でしょう。
2016年8月17日に日本でレビュー済み
著者は平成仮面ライダーシリーズや戦隊シリーズ、セーラームーンを手掛けたプロデューサーです。大変興味深く読むことができました。私にはなかなか難解な本でしたが。
仮面ライダーV3をはじめ、多くのヒーロー番組に出演してきた宮内洋の持論は、「ヒーロー番組は教育番組だ」です。正義が悪を倒すのがヒーロー番組ですから、宮内の言うこともわかります。でも著者は、物語のそうした表面的な進行から奥へ踏み込んで、多くのヒーロー番組、怪獣映画、童話、ナチス、ベルリンの壁、携帯電話のマナー、援助交際などを縦横無尽に取り上げながら、正義や悪について考察します。
いろいろ興味深い見解が述べられますが、著者の思考の土台にあるのは二元論です。私たちは明と暗、善と悪、「あちら」と「こちら」のように、2つのものを対立させ、そこに境界を設けたがる、それは人間の原始的な生理であり、私たちの生活や思考を支配している、私たちはこの境界がぼやけると不安になり、怒りさえ覚え、その原因を悪とみなすようになる、私は著者の主張をそのように解釈しました。
例えば、怪獣は動物を発展させたものですが、彼らが「悪」なのは、動物園の檻などで「あちら」にいるべきものが、領土を侵犯して「こちら」に入ってくるからです。だから、例えばウルトラマンコスモスでは、怪獣は退治せず保護して、本来の生息地=「あちら」へ帰してやり、物語の決着を図ります。
一方、仮面ライダーの怪人は、何か悪いことをするから「悪」なのではなく、存在自体がすでに「悪」です。蜘蛛男のように、人間の近縁である怪人は、人間とそうでないものの境界を曖昧にします。彼らが侵犯する境界は領土ではなく、人間という存在そのものなのです。だから、怪人が行う悪行は単に「悪」を際立たせるため、或いは、ある存在に対し、それがいるだけで不快感を持ってしまう私たちの罪悪感を軽減するための後づけの行為、ということになるでしょうか。
こんな興味深いエピソードも紹介されていました。著者が制作した仮面ライダー龍騎には13人のライダーが登場します。最後に生き残った者の願いが叶えられるという設定で、不治の病を抱えた者、重い病気の恋人を救いたい者等、それぞれ過酷な運命を背負ったライダーが闘い、子供よりむしろ、私も含め、大人が夢中になった番組でした。実は番組に、13人もヒーローが出るのだから、車椅子のヒーローを出してほしいという要望が、視聴者から寄せられたそうです。検討はされましたが、結局これは取り入れられませんでした。
何か悪いことをさせると「車椅子の人を悪く描いている」となり、大したことをさせないと「登場人物を無意味に車椅子に載せている」となる。物語の中で足が治れば、足が治らない人を傷つける、また、治らなければ、治りたがっている人の希望を奪う。結局、「いい子が足の状態と関係なく、明るく生きていく姿を、重要性を持って描く物語」以外の選択肢がないわけですが、そのように記号的、類型的に描くこと自体が、人を傷つけることになるからです。
視聴者からすれば、手抜きだとか、あれはない、だとか思うことも多々あるヒーロー番組ですが、様々な制約の中で真剣に作ったものであり、何事にも、表面だけなぞっていては見えない深さがあることを実感させられた本でした。
仮面ライダーV3をはじめ、多くのヒーロー番組に出演してきた宮内洋の持論は、「ヒーロー番組は教育番組だ」です。正義が悪を倒すのがヒーロー番組ですから、宮内の言うこともわかります。でも著者は、物語のそうした表面的な進行から奥へ踏み込んで、多くのヒーロー番組、怪獣映画、童話、ナチス、ベルリンの壁、携帯電話のマナー、援助交際などを縦横無尽に取り上げながら、正義や悪について考察します。
いろいろ興味深い見解が述べられますが、著者の思考の土台にあるのは二元論です。私たちは明と暗、善と悪、「あちら」と「こちら」のように、2つのものを対立させ、そこに境界を設けたがる、それは人間の原始的な生理であり、私たちの生活や思考を支配している、私たちはこの境界がぼやけると不安になり、怒りさえ覚え、その原因を悪とみなすようになる、私は著者の主張をそのように解釈しました。
例えば、怪獣は動物を発展させたものですが、彼らが「悪」なのは、動物園の檻などで「あちら」にいるべきものが、領土を侵犯して「こちら」に入ってくるからです。だから、例えばウルトラマンコスモスでは、怪獣は退治せず保護して、本来の生息地=「あちら」へ帰してやり、物語の決着を図ります。
一方、仮面ライダーの怪人は、何か悪いことをするから「悪」なのではなく、存在自体がすでに「悪」です。蜘蛛男のように、人間の近縁である怪人は、人間とそうでないものの境界を曖昧にします。彼らが侵犯する境界は領土ではなく、人間という存在そのものなのです。だから、怪人が行う悪行は単に「悪」を際立たせるため、或いは、ある存在に対し、それがいるだけで不快感を持ってしまう私たちの罪悪感を軽減するための後づけの行為、ということになるでしょうか。
こんな興味深いエピソードも紹介されていました。著者が制作した仮面ライダー龍騎には13人のライダーが登場します。最後に生き残った者の願いが叶えられるという設定で、不治の病を抱えた者、重い病気の恋人を救いたい者等、それぞれ過酷な運命を背負ったライダーが闘い、子供よりむしろ、私も含め、大人が夢中になった番組でした。実は番組に、13人もヒーローが出るのだから、車椅子のヒーローを出してほしいという要望が、視聴者から寄せられたそうです。検討はされましたが、結局これは取り入れられませんでした。
何か悪いことをさせると「車椅子の人を悪く描いている」となり、大したことをさせないと「登場人物を無意味に車椅子に載せている」となる。物語の中で足が治れば、足が治らない人を傷つける、また、治らなければ、治りたがっている人の希望を奪う。結局、「いい子が足の状態と関係なく、明るく生きていく姿を、重要性を持って描く物語」以外の選択肢がないわけですが、そのように記号的、類型的に描くこと自体が、人を傷つけることになるからです。
視聴者からすれば、手抜きだとか、あれはない、だとか思うことも多々あるヒーロー番組ですが、様々な制約の中で真剣に作ったものであり、何事にも、表面だけなぞっていては見えない深さがあることを実感させられた本でした。