この本は、文化人類学、社会学、史的研究、心理学、超心理学、精神医学等の手法を援用し、さまざまな角度から呪術を記述してその本質に分け入ろうとした優れた研究書である。特に超心理学については格好の入門講義にもなっている。既存のおどろおどろしいだけの扇情的な本とは一線を画す力作であリ、呪いという一見いかがわしげな、存在すら疑われかねない事象であっても、冷静さと明快さを失わずしっかりとした学問的手法を用いて考察することで、こんなにも説得力を増すことができるものなのかと目を瞠らされる思いだった。
筆者も多くの心霊研究者同様、自ら霊的世界に親しみ、現世における生のありようとの根源的なつながりを深く認識されている方である。霊的世界に関する本はスピリチュアル・プームに乗って近年とみに増えたが、たとえば江原さんや美輪さんのような前向きな人生賛歌ではどうも物足りない、しかしR・シュタイナーの霊視能力を前提とした霊的哲学は難解すぎる、という方に一読をお勧めしたい。ただし呪いの具体的なテクニックを詳述してあるわけではないので、そのようなものを求める向きにはあまり役には立たないだろう。
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呪いの研究-拡張する意識と霊性 単行本 – 2003/4/20
中村 雅彦
(著)
呪いは今なお存在する。本場・四国、「拝み屋」の実例を中心に、現代科学の枠組みを超えるその効力を、民俗学、心理学、トランスパーソナルの視点から多角的に分析。 心理学者にして宮司である著者が、まったく新しい「魂の心理学」を提唱する。
◇2003年4月刊行・現在(2009年8月)第3刷◇
◇2003年4月刊行・現在(2009年8月)第3刷◇
- 本の長さ216ページ
- 出版社トランスビュー
- 発売日2003/4/20
- ISBN-104901510150
- ISBN-13978-4901510158
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商品の説明
著者からのコメント
「鬼」と自己愛‐人はなぜ呪うのか‐ 中村雅彦 ――PR誌「トランスビューNo05」より
陰陽師が流行っている。 小説、 コミック、 映画、 ドラマで描かれる陰陽師、 安倍晴明は二枚目で格好いい。
だが、 私は実在した安倍晴明を格好いい男だったとは思っていない。 悩める都人みやこびとのため、 式神を駆使し、 敢然と悪に立ち向かう陰陽師は幻想にすぎない。 陰陽師は祈のプロ、 「拝み屋」 であり、 呪詛を執り行なっていた。 貴族間の出世競争、 天皇の世継ぎ問題といった理由から、 人の妬み、 恨みを請け負い、 政敵を呪詛したり、 呪詛された依頼者に憑いている 「生霊いきりよう」 を外し、 送り主に返す、 呪詛返しを生業としていたのである。
人間関係のいちばんドロドロした部分に介入し、 依頼者の願望を成就させる仕事は、 普通の神経では請けられない。 冷徹に、 請け負った仕事に忠実になるだけであり、 私的な感情が入り込む余地はない。 呪詛の成否は、 呪術に関する専門的な知識に加え、 人並みはずれた気力、 念力が要求される。 呪詛する対象にも専属の祈師がつき、 霊的な結界を張っている。 対象を挟んで、 呪力と呪力がぶつかり合う壮絶な死闘が発生する。 少しでも気を緩めると、 たちまち命の危険にさらされる。 こうした目に見えない心霊戦を戦い抜いた者が、 依頼者から絶大な信頼を得、 専属祈師としての地位を不動のものにするのである。 安倍晴明もそういう拝み屋の一人だった。 死闘の連続に心身を蝕むしばまれ、 醜く朽ち果てていったのではないかと、 私は考えている。
私はここで平安時代の話をしたいのではない。 ここに描いたようなイメージは、 二十一世紀を生きる現代人にもあてはまる。 陰陽師ブームの背景には、 私たちの心の中に巣くう 「鬼」 が影響している。 では、 人はいつ、 どのようなときに、 他人を呪いたくなるのだろうか。 キーワードは 「自己愛」 (ナルシズム) である。
人から注目されたい、 ほめられたいという自己愛は若者に特徴的である。 一見、 自信にあふれているように見えても、 その自信は他者の評価次第で容易に覆される不安定さをはらんでいる。 彼らは、 自分が傷つかなくてすむよう、 親友ではなく、 広く浅くつきあう 「お友だち」 を持とうとする。 そして、 本音をぶつけあわない相手に対して、 内心では軽蔑や羨望、 嫉妬が渦巻いていたりする。 こうした 「友だち」 どうしの間で、 陰湿ないじめが起きたり、 「仲間」 を攻撃の対象としてキレるような子どもも出てくる。
しかし、 これは若者や子どもの世界だけの話ではない。 いまや、 日本中に自己愛が渦巻いているのである。 自分が一番になり、 他人を蹴落とさないとやっていけない受験のシステムは、 学校を卒業しても会社や役所の中で延々と繰り返される。 また、 過度の自己肯定感が一方的な関係の強要につながると、 ストーカー行為や夫婦間のドメスティック・バイオレンスの原因ともなる。 自分が一番でなければいけない、 自分のことをもっと見てほしい、 けれども、 それをはっきりと言葉にすることができず、 人前では言い出せない人々は、 自分の価値を低下させたり、 自分よりも優位に立つ他者が現われると、 口ではうまいことを言いながら、 陰で相手を呪い、 食べ物に針を入れたり、 相手の持ち物を隠したりする。 学校や会社内で起きる陰湿ないじめ行為も 「呪詛」 の一種と見なしてよい。
安倍晴明のような呪術師にあこがれる気持ちの中には、 自分の恨みを晴らしてくれる超人がいてくれたら、 という現代人の願望が見え隠れしている。 心が 「鬼」 で埋め尽くされた現代人は、 平安時代の人々以上に、 彼のような存在を待ち望んでいるのかもしれない。
(なかむら まさひこ/愛媛大学・社会心理学
陰陽師が流行っている。 小説、 コミック、 映画、 ドラマで描かれる陰陽師、 安倍晴明は二枚目で格好いい。
だが、 私は実在した安倍晴明を格好いい男だったとは思っていない。 悩める都人みやこびとのため、 式神を駆使し、 敢然と悪に立ち向かう陰陽師は幻想にすぎない。 陰陽師は祈のプロ、 「拝み屋」 であり、 呪詛を執り行なっていた。 貴族間の出世競争、 天皇の世継ぎ問題といった理由から、 人の妬み、 恨みを請け負い、 政敵を呪詛したり、 呪詛された依頼者に憑いている 「生霊いきりよう」 を外し、 送り主に返す、 呪詛返しを生業としていたのである。
人間関係のいちばんドロドロした部分に介入し、 依頼者の願望を成就させる仕事は、 普通の神経では請けられない。 冷徹に、 請け負った仕事に忠実になるだけであり、 私的な感情が入り込む余地はない。 呪詛の成否は、 呪術に関する専門的な知識に加え、 人並みはずれた気力、 念力が要求される。 呪詛する対象にも専属の祈師がつき、 霊的な結界を張っている。 対象を挟んで、 呪力と呪力がぶつかり合う壮絶な死闘が発生する。 少しでも気を緩めると、 たちまち命の危険にさらされる。 こうした目に見えない心霊戦を戦い抜いた者が、 依頼者から絶大な信頼を得、 専属祈師としての地位を不動のものにするのである。 安倍晴明もそういう拝み屋の一人だった。 死闘の連続に心身を蝕むしばまれ、 醜く朽ち果てていったのではないかと、 私は考えている。
私はここで平安時代の話をしたいのではない。 ここに描いたようなイメージは、 二十一世紀を生きる現代人にもあてはまる。 陰陽師ブームの背景には、 私たちの心の中に巣くう 「鬼」 が影響している。 では、 人はいつ、 どのようなときに、 他人を呪いたくなるのだろうか。 キーワードは 「自己愛」 (ナルシズム) である。
人から注目されたい、 ほめられたいという自己愛は若者に特徴的である。 一見、 自信にあふれているように見えても、 その自信は他者の評価次第で容易に覆される不安定さをはらんでいる。 彼らは、 自分が傷つかなくてすむよう、 親友ではなく、 広く浅くつきあう 「お友だち」 を持とうとする。 そして、 本音をぶつけあわない相手に対して、 内心では軽蔑や羨望、 嫉妬が渦巻いていたりする。 こうした 「友だち」 どうしの間で、 陰湿ないじめが起きたり、 「仲間」 を攻撃の対象としてキレるような子どもも出てくる。
しかし、 これは若者や子どもの世界だけの話ではない。 いまや、 日本中に自己愛が渦巻いているのである。 自分が一番になり、 他人を蹴落とさないとやっていけない受験のシステムは、 学校を卒業しても会社や役所の中で延々と繰り返される。 また、 過度の自己肯定感が一方的な関係の強要につながると、 ストーカー行為や夫婦間のドメスティック・バイオレンスの原因ともなる。 自分が一番でなければいけない、 自分のことをもっと見てほしい、 けれども、 それをはっきりと言葉にすることができず、 人前では言い出せない人々は、 自分の価値を低下させたり、 自分よりも優位に立つ他者が現われると、 口ではうまいことを言いながら、 陰で相手を呪い、 食べ物に針を入れたり、 相手の持ち物を隠したりする。 学校や会社内で起きる陰湿ないじめ行為も 「呪詛」 の一種と見なしてよい。
安倍晴明のような呪術師にあこがれる気持ちの中には、 自分の恨みを晴らしてくれる超人がいてくれたら、 という現代人の願望が見え隠れしている。 心が 「鬼」 で埋め尽くされた現代人は、 平安時代の人々以上に、 彼のような存在を待ち望んでいるのかもしれない。
(なかむら まさひこ/愛媛大学・社会心理学
内容(「MARC」データベースより)
呪いは今なお存在する…。さまざまな実例をもとに、現代科学の枠組みを超える呪いの効力を、民俗学、心理学、トランスパーソナルの視点から多角的に分析。まったく新しい「魂の心理学」を提唱する。
抜粋
第一章 四国魔界フィールドワーク
「魔界」四国に住む
私の住んでいる四国には、「拝み屋」と呼ばれるシャーマンが大勢いる。拝み屋とは霊能力を持った祈祷師であり、占い、まじない、加持祈祷などを行なって、相談者のさまざまな悩み事や現世利益的な願い事を支援する人々のことである。神道系、仏教系、修験道系,陰陽道系など、宗教的背景はさまざまだが、昔ながらの呪術的、密教的伝統に根ざした儀礼を行ない、降神、憑依などのトランス状態になって託宣をしたり、神霊や仏との交信を通じて相談者の環境の変容を試みたり、心身の「癒し」を試みるのを生業としている。いわば伝統的霊性に根ざしたシャーマン型霊能者の世界が、今でも存在するのである。
人類学や民俗学の分野では、こうしたシャーマニズムをテーマにした文献をふんだんに見出すことができる。「癒し」の社会・文化的な規定を検討する上で、確かにこうした文献は有益な知識をわれわれに提供してくれる。しかし、人類学者や民俗学者はあくまでもシャーマニズムの社会的な機能や役割に焦点を当てて研究しているのであり、シャーマンたちが霊術を駆使して本当に「癒し」を行なっているのか、その真偽の程に言及することは少ない。
もちろん、彼らはフィールドワークの手法を採用し、シャーマンとその生活共同体に一定期間とどまって生活をともにしながら「生の資料」を集める。得られた資料には学術的な価値のあるものも多い。
しかし,彼らが手にしたデータをすべて公表しているとは限らない。それに加えて、研究の対象となっているシャーマンたちがどこまで実態をあるがままに見せてくれるか、語ってくれるかという問題もある。シャーマンたちから見れば、学者はあくまでも部外者であり、建て前を語っておくのが無難な存在である。それに何といっても学者先生の頭では理解できない世界も存在する。それは言うだけ無駄の世界だし,たとえその実態を見せても「そんなばかな」と抵抗されるに違いない。
私は四国に住むようになってから、拝み屋たちと接触するようになった。その出会いはまったくの偶然(というよりも「引き合わせ」があったというべきだろうが)であり、人脈は自然に広がっていった。というのは、私自身、心理学者とはいっても「魂」の問題をテーマに取り組んできており、神道や密教,そして四国土着の宗教的習俗にも関心を広げるようになったからである。私は臨死体験、死後の世界、生まれ変わり、超能力など、およそ通常の科学ではまともには取り上げない領域に足を踏み入れた研究者でもある。そういう「いかがわしい」ことをやっている人間は、アカデミックな世界では忌み嫌われる傾向があるが、他方で精神世界や宗教的、霊的な事柄に関心を持つ人々との接触が容易になったことも事実である。私の周りには、臨死体験者、霊感・霊媒体質者、神職、僧侶、気功家、ヒーラーなど多種多様な人たちが集まるようになった。
そういう人々の中で、特に私が強く惹かれたのは、シャーマン的な霊能者たちだった。彼らの生きざまは,筆舌に尽くしがたい苦難の連続であるように見える。しかし,一方で彼らは一筋の光明を目指して、闇夜の曲がりくねった道を歩んでいる求道者でもある。また,彼らの中には、さまざまな経緯から心の闇に呑み込まれ,霊的エリートとして組織のエゴを満たすための使い捨ての道具として育て上げられ,呪詛と呪縛を専門に、信者や他の霊媒に対する霊的攻撃,霊的虐待を繰り広げている人々もいる。特に、こうした心霊戦という名の闇の世界での戦いが、今の時代にも起こっていることを知ったときの衝撃は大きかった。
いつの間にか、私は四国の霊的な世界の虜になってしまい、自分の身をこの世界の中に置いてみることで、いったいここで何が起きているのか詳しくわかるようになった。
本書は、これまでに私が見聞した四国霊界を、知る限りの範囲で語ってみることが第一の目的である。そして,「呪い」と「癒し」,「闇」と「光」といった、対極にある「意識」の心理学的な分析と考察を試みてみたい。
なお、本書では個人名や団体名はすべて仮名とし、連絡先に関する問い合わせにも応じられないことを、最初にお断りしておく。…
「魔界」四国に住む
私の住んでいる四国には、「拝み屋」と呼ばれるシャーマンが大勢いる。拝み屋とは霊能力を持った祈祷師であり、占い、まじない、加持祈祷などを行なって、相談者のさまざまな悩み事や現世利益的な願い事を支援する人々のことである。神道系、仏教系、修験道系,陰陽道系など、宗教的背景はさまざまだが、昔ながらの呪術的、密教的伝統に根ざした儀礼を行ない、降神、憑依などのトランス状態になって託宣をしたり、神霊や仏との交信を通じて相談者の環境の変容を試みたり、心身の「癒し」を試みるのを生業としている。いわば伝統的霊性に根ざしたシャーマン型霊能者の世界が、今でも存在するのである。
人類学や民俗学の分野では、こうしたシャーマニズムをテーマにした文献をふんだんに見出すことができる。「癒し」の社会・文化的な規定を検討する上で、確かにこうした文献は有益な知識をわれわれに提供してくれる。しかし、人類学者や民俗学者はあくまでもシャーマニズムの社会的な機能や役割に焦点を当てて研究しているのであり、シャーマンたちが霊術を駆使して本当に「癒し」を行なっているのか、その真偽の程に言及することは少ない。
もちろん、彼らはフィールドワークの手法を採用し、シャーマンとその生活共同体に一定期間とどまって生活をともにしながら「生の資料」を集める。得られた資料には学術的な価値のあるものも多い。
しかし,彼らが手にしたデータをすべて公表しているとは限らない。それに加えて、研究の対象となっているシャーマンたちがどこまで実態をあるがままに見せてくれるか、語ってくれるかという問題もある。シャーマンたちから見れば、学者はあくまでも部外者であり、建て前を語っておくのが無難な存在である。それに何といっても学者先生の頭では理解できない世界も存在する。それは言うだけ無駄の世界だし,たとえその実態を見せても「そんなばかな」と抵抗されるに違いない。
私は四国に住むようになってから、拝み屋たちと接触するようになった。その出会いはまったくの偶然(というよりも「引き合わせ」があったというべきだろうが)であり、人脈は自然に広がっていった。というのは、私自身、心理学者とはいっても「魂」の問題をテーマに取り組んできており、神道や密教,そして四国土着の宗教的習俗にも関心を広げるようになったからである。私は臨死体験、死後の世界、生まれ変わり、超能力など、およそ通常の科学ではまともには取り上げない領域に足を踏み入れた研究者でもある。そういう「いかがわしい」ことをやっている人間は、アカデミックな世界では忌み嫌われる傾向があるが、他方で精神世界や宗教的、霊的な事柄に関心を持つ人々との接触が容易になったことも事実である。私の周りには、臨死体験者、霊感・霊媒体質者、神職、僧侶、気功家、ヒーラーなど多種多様な人たちが集まるようになった。
そういう人々の中で、特に私が強く惹かれたのは、シャーマン的な霊能者たちだった。彼らの生きざまは,筆舌に尽くしがたい苦難の連続であるように見える。しかし,一方で彼らは一筋の光明を目指して、闇夜の曲がりくねった道を歩んでいる求道者でもある。また,彼らの中には、さまざまな経緯から心の闇に呑み込まれ,霊的エリートとして組織のエゴを満たすための使い捨ての道具として育て上げられ,呪詛と呪縛を専門に、信者や他の霊媒に対する霊的攻撃,霊的虐待を繰り広げている人々もいる。特に、こうした心霊戦という名の闇の世界での戦いが、今の時代にも起こっていることを知ったときの衝撃は大きかった。
いつの間にか、私は四国の霊的な世界の虜になってしまい、自分の身をこの世界の中に置いてみることで、いったいここで何が起きているのか詳しくわかるようになった。
本書は、これまでに私が見聞した四国霊界を、知る限りの範囲で語ってみることが第一の目的である。そして,「呪い」と「癒し」,「闇」と「光」といった、対極にある「意識」の心理学的な分析と考察を試みてみたい。
なお、本書では個人名や団体名はすべて仮名とし、連絡先に関する問い合わせにも応じられないことを、最初にお断りしておく。…
著者について
愛媛大学教育学部教授。1958年兵庫県生まれ。名古屋大学大学院教育学研究課程修了。教育心理学博士。社会心理学、トランスパーソナル心理学を専攻とする心理学者であると同時に、奥四国にある龍王神社で権訓導の資格を取得した神職でもある。現在取り組んでいるテーマは、呪的実践と神道的世界観の心理学的研究。著書に『臨死体験の世界』二見書房、『超心理学入門』(光文社)、共著に『オカルト流行の深層社会心理学』(ナカニシヤ出版)など。
登録情報
- 出版社 : トランスビュー (2003/4/20)
- 発売日 : 2003/4/20
- 単行本 : 216ページ
- ISBN-10 : 4901510150
- ISBN-13 : 978-4901510158
- Amazon 売れ筋ランキング: - 364,303位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 793位文化人類学一般関連書籍
- - 3,279位超心理学・心霊
- カスタマーレビュー:
著者について
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-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2008年7月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
刊行時話題になった書籍。遅まきながら読んでみた。
著者は、要するに呪いは超能力であり、心霊現象も同様の精神エネルギーによって発生する現象であると言っている。
四国の拝み屋の実態に触れながら、超心理学、宗教学、医学等の幅広い引用により、呪いの構造を解明している。
このように体系的にオカルト現象を整理した書籍は記憶にない。
不満もある。四国の拝み屋の記述に具体性がないこと(著者が具体的に書けないと断っている)が、残念。もうひとつは全体に自分で収集したデータ類が不足しているように思うこと。
興味深く読むことができた。次回作も期待したい。
著者は、要するに呪いは超能力であり、心霊現象も同様の精神エネルギーによって発生する現象であると言っている。
四国の拝み屋の実態に触れながら、超心理学、宗教学、医学等の幅広い引用により、呪いの構造を解明している。
このように体系的にオカルト現象を整理した書籍は記憶にない。
不満もある。四国の拝み屋の記述に具体性がないこと(著者が具体的に書けないと断っている)が、残念。もうひとつは全体に自分で収集したデータ類が不足しているように思うこと。
興味深く読むことができた。次回作も期待したい。
2019年6月3日に日本でレビュー済み
四国の拝み屋の事例は、とても面白く読ませていただいた。呪術実践に興味のある方なら、とても参考になると思われる。
その一方で、理論的な考察は正直ブッ飛んでいて、全然ついていけなかった。呪術の実在性を証明するために、「超越心理学」や拡張する意識(比喩ではない)といった単語、及び量子力学を持ち出すさまを見て、やばいクスリでもキメながら書いたんじゃなかろうか?と思ってしまった。いやでも面白いんだけれど。自分のアカデミズムの保守さ加減に気づかされる良いきっかけとなった。
私としては、拝み屋が自らの霊性に気づく過程を丁寧に記述した研究をしていただいた方が、より良い知見を得られるのではないかと感じてしまった。でもまあ面白いから、別に良いのだが。
その一方で、理論的な考察は正直ブッ飛んでいて、全然ついていけなかった。呪術の実在性を証明するために、「超越心理学」や拡張する意識(比喩ではない)といった単語、及び量子力学を持ち出すさまを見て、やばいクスリでもキメながら書いたんじゃなかろうか?と思ってしまった。いやでも面白いんだけれど。自分のアカデミズムの保守さ加減に気づかされる良いきっかけとなった。
私としては、拝み屋が自らの霊性に気づく過程を丁寧に記述した研究をしていただいた方が、より良い知見を得られるのではないかと感じてしまった。でもまあ面白いから、別に良いのだが。
2016年6月25日に日本でレビュー済み
いやあ。中村師は「よくぞ書いたな・・・」と驚く次第の途轍もない暴露本です。
確かに、宗教者・祈祷師・拝み屋・霊能者の世界はこういった面があります。
行場や御滝場に何回か行けば嫉妬と僻みが渦巻く世界でこの本に書かれた醜い一面があると普通に分かりますし・・・。
ただこの本を読んで祈祷師・拝み屋さんの皆が皆、この本に書かれたような人の生死に強引に干渉する恐ろしい術や作法をマスターしているとは思わないで欲しいものですね・・。何か祈祷出来る人は呪えるととられかねない記述がありますから・・・。
同じように四国ではありますが中村師とは別系統の神社で様々な作法と祈祷を学んでいます経験から言いますが、まあそこもかなり古いお社なので普通の神社本庁系の次第・祭礼外の作法やゲーム的に言えばプロテクト?バニシング?ともつかない祝詞とか占断とも託宣とも言えない不思議な技法とかはありますが・そこでは呪詛だの霊的攻撃法は倣ってませんし教えてもいないので・・。
さて、この本は赤松啓介氏の「宗教と性の民族学」、パンタ笛吹氏の「裸のサイババ」などとは別の切り口で多くの寺社・霊場・霊的組織の中のかなりディープな世界を書いている珍しい本で、お勧めです。
確かに、宗教者・祈祷師・拝み屋・霊能者の世界はこういった面があります。
行場や御滝場に何回か行けば嫉妬と僻みが渦巻く世界でこの本に書かれた醜い一面があると普通に分かりますし・・・。
ただこの本を読んで祈祷師・拝み屋さんの皆が皆、この本に書かれたような人の生死に強引に干渉する恐ろしい術や作法をマスターしているとは思わないで欲しいものですね・・。何か祈祷出来る人は呪えるととられかねない記述がありますから・・・。
同じように四国ではありますが中村師とは別系統の神社で様々な作法と祈祷を学んでいます経験から言いますが、まあそこもかなり古いお社なので普通の神社本庁系の次第・祭礼外の作法やゲーム的に言えばプロテクト?バニシング?ともつかない祝詞とか占断とも託宣とも言えない不思議な技法とかはありますが・そこでは呪詛だの霊的攻撃法は倣ってませんし教えてもいないので・・。
さて、この本は赤松啓介氏の「宗教と性の民族学」、パンタ笛吹氏の「裸のサイババ」などとは別の切り口で多くの寺社・霊場・霊的組織の中のかなりディープな世界を書いている珍しい本で、お勧めです。
2006年6月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この作品の凄いところは、巷に氾濫している単なる紹介本とは異なり、
著者自らその身を持って霊能祈祷師の世界に飛び込まなければ得ることのできない、貴重な生の情報が表現されていることだ。TVなどのマスコミに登場する祈祷師はミステリアスで畏怖の念を抱かせるようなイメージだが、この作品に登場する祈祷師の世界は、利害関係が複雑に絡んだ非常に泥臭い世界であったということにとても驚かされた。霊能祈祷師の世界に幻想を抱いている人は、是非手に取ることをお薦めする。必ず新たな視野が開けることだと思われる。
著者自らその身を持って霊能祈祷師の世界に飛び込まなければ得ることのできない、貴重な生の情報が表現されていることだ。TVなどのマスコミに登場する祈祷師はミステリアスで畏怖の念を抱かせるようなイメージだが、この作品に登場する祈祷師の世界は、利害関係が複雑に絡んだ非常に泥臭い世界であったということにとても驚かされた。霊能祈祷師の世界に幻想を抱いている人は、是非手に取ることをお薦めする。必ず新たな視野が開けることだと思われる。