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ブッダの実践心理学 第4巻 (4) 心の生滅の分析 (アビダンマ講義シリーズ) 単行本 – 2008/8/1
アルボムッレ スマナサーラ
(著),
藤本 晃
(著)
心の生滅の分析
- 本の長さ281ページ
- 言語日本語
- 出版社サンガ
- 発売日2008/8/1
- ISBN-104901679694
- ISBN-13978-4901679695
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登録情報
- 出版社 : サンガ (2008/8/1)
- 発売日 : 2008/8/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 281ページ
- ISBN-10 : 4901679694
- ISBN-13 : 978-4901679695
- Amazon 売れ筋ランキング: - 479,517位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を とった後、1980年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事。全国で 講演やセミナーなども行い、ブッダの根本の教えを説き続けている。また、朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務める(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『くじけないこと 角川SSC新書』(ISBN-10:4047315354)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年1月24日に日本でレビュー済み
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知らないことが多くて、ためになりました!
2014年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本で入手できる書籍(他国の電子版含めて)の中で一番わかりやすく、正しく学べる書籍かと思います。
日本語で学べる状況に感謝します。。著者ならびに、どの程度売れるかわからない本シリーズの出版をされている出版社のサンガに敬意を表します。
少しでも興味のある方は、購入をおすすめいたします。(シリーズ全て一気に買うと本棚の肥やしになる可能性も否めませんので、気になる巻を一冊買ってみるのでもよいかと思います。もちろん、一巻からが推奨ではありますが・・・そもそも、アビダンマ、アビダンマサンガハって何・・という所は一巻で説明されています)
(シリーズ各巻に同じコメントを残しております。)
日本語で学べる状況に感謝します。。著者ならびに、どの程度売れるかわからない本シリーズの出版をされている出版社のサンガに敬意を表します。
少しでも興味のある方は、購入をおすすめいたします。(シリーズ全て一気に買うと本棚の肥やしになる可能性も否めませんので、気になる巻を一冊買ってみるのでもよいかと思います。もちろん、一巻からが推奨ではありますが・・・そもそも、アビダンマ、アビダンマサンガハって何・・という所は一巻で説明されています)
(シリーズ各巻に同じコメントを残しております。)
2015年3月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
第4巻まで読んで、凡夫が今生で解脱するなんて到底ムリとよくわかった。輪廻転生して、何代目かで解脱する・・・くらいの覚悟?があるなら、以降の巻を読めばいいと思うが如何なものだろうか? この本読んだ方、正直どう思われましたか? 在家の方がほとんどと思うが・・・
面白いは面白いから5星にするけど、スッパリ「悟り」なんか諦めて、苦の世界で自分のやるべきことに精を出した方が正解だと思う。
面白いは面白いから5星にするけど、スッパリ「悟り」なんか諦めて、苦の世界で自分のやるべきことに精を出した方が正解だと思う。
2009年4月2日に日本でレビュー済み
「ブッダの実践心理学」、この一連のシリーズほど、上座仏教(ヴィパッサナー瞑想)を、我が国で、理論的に一所懸命学んでる者にとって、役に立ち、そして、面白い本はありません。
特に、この第4巻(心の消滅の分析)は、(「悟る」瞬間も含め)心の生滅及びその流れを、(限りなく短い時間をも意味する)刹那という単位を使って、(今風に言えば、デジタル的に)分析・解説したもので、「アビダンマ」の中で、恐らく最も奥義的、かつ、難解、しかし、面白い部分だと思います。
この本を何回も熟読、理解した上で、現代上座仏教の代表的な修行テキストとも言える「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老)」を、改めて読み直してみると、数多くあった疑問点・理解できない点が、全て氷解していました。
理論的に納得しないと修行(瞑想)する気にならない、私のような理屈っぽい知識先行型の人間には、必読書だと思います。
ただし、問題もあって、「ブッダの実践心理学」(アビダンマ)に書かれていることは、我々が学校や世間で身に付けてきた常識と余りにもかけ離れており、上座仏教(ヴィパッサナー瞑想)を少し学んだだけで本書に挑戦しても、ほとんど、その内容を理解できないだろうし、当然、読んでも面白くないであろう、ということです。
私の場合も、2年前に初めて第1巻(物質の分析)を読んだときには、どうしても西洋科学的視点で見てしまい、頭がクラクラし、途中で投げ出してしまいました。
その後、「ブッダの実践心理学」以外のスマナサーラ長老の一連の著書を始め、日本語で書かれた上座仏教関連の書物を片っ端から読みまくり、知識を蓄えるとともに、地橋秀雄氏の指導するヴィパッサナー瞑想会・短期合宿等にも参加、実際に瞑想を行うようになり、上座仏教的発想・考え方が徐々に身に付き、本書も漸く理解できるようになりました。
多くの人が、かつての私と同じような理由で、第1巻(物質の分析)で潰れ、第2巻(心の分析)以降に達することができていない、のではないでしょうか。各巻ごとの「売上ランキング」や「中古本の出品状況」を見ると、そのように考えざるを得ません。
そこで、「第1巻(物質の分析)で挫折してしまった方」に、私がお勧めする読み方は、次のとおりです。
まず、「心所」について、簡略に分かり易く書かれている「心の中はどうなっているの?(スマナサーラ長老)」を、熟読します。すると、第3巻(心所の分析)を、楽に理解することができます。そこで、第3巻をつかみ所にして、同じく心に関して書かれている第2巻(心の分析)・第4巻(心の消滅の分析)に挑戦すると、えーっと思えるぐらい楽しく興味深く読むことができます。そうなれば占めたもので、(個人的には一番拒絶反応の大きかった)第1巻(物質の分析)も、スルスルと理解できます。そして、恐らく(現時点では未発刊の)第5巻以降も、難なく理解できるようになるのでしょう。
第5巻以降の発刊が、とても楽しみです。
特に、この第4巻(心の消滅の分析)は、(「悟る」瞬間も含め)心の生滅及びその流れを、(限りなく短い時間をも意味する)刹那という単位を使って、(今風に言えば、デジタル的に)分析・解説したもので、「アビダンマ」の中で、恐らく最も奥義的、かつ、難解、しかし、面白い部分だと思います。
この本を何回も熟読、理解した上で、現代上座仏教の代表的な修行テキストとも言える「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老)」を、改めて読み直してみると、数多くあった疑問点・理解できない点が、全て氷解していました。
理論的に納得しないと修行(瞑想)する気にならない、私のような理屈っぽい知識先行型の人間には、必読書だと思います。
ただし、問題もあって、「ブッダの実践心理学」(アビダンマ)に書かれていることは、我々が学校や世間で身に付けてきた常識と余りにもかけ離れており、上座仏教(ヴィパッサナー瞑想)を少し学んだだけで本書に挑戦しても、ほとんど、その内容を理解できないだろうし、当然、読んでも面白くないであろう、ということです。
私の場合も、2年前に初めて第1巻(物質の分析)を読んだときには、どうしても西洋科学的視点で見てしまい、頭がクラクラし、途中で投げ出してしまいました。
その後、「ブッダの実践心理学」以外のスマナサーラ長老の一連の著書を始め、日本語で書かれた上座仏教関連の書物を片っ端から読みまくり、知識を蓄えるとともに、地橋秀雄氏の指導するヴィパッサナー瞑想会・短期合宿等にも参加、実際に瞑想を行うようになり、上座仏教的発想・考え方が徐々に身に付き、本書も漸く理解できるようになりました。
多くの人が、かつての私と同じような理由で、第1巻(物質の分析)で潰れ、第2巻(心の分析)以降に達することができていない、のではないでしょうか。各巻ごとの「売上ランキング」や「中古本の出品状況」を見ると、そのように考えざるを得ません。
そこで、「第1巻(物質の分析)で挫折してしまった方」に、私がお勧めする読み方は、次のとおりです。
まず、「心所」について、簡略に分かり易く書かれている「心の中はどうなっているの?(スマナサーラ長老)」を、熟読します。すると、第3巻(心所の分析)を、楽に理解することができます。そこで、第3巻をつかみ所にして、同じく心に関して書かれている第2巻(心の分析)・第4巻(心の消滅の分析)に挑戦すると、えーっと思えるぐらい楽しく興味深く読むことができます。そうなれば占めたもので、(個人的には一番拒絶反応の大きかった)第1巻(物質の分析)も、スルスルと理解できます。そして、恐らく(現時点では未発刊の)第5巻以降も、難なく理解できるようになるのでしょう。
第5巻以降の発刊が、とても楽しみです。
2018年4月29日に日本でレビュー済み
説明は分かり易い文章で書かれています。しかし、これは、既に昔、日本語で出版されている「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」(アヌルッダ長老著、水野弘元訳)のほぼ抜粋コピーの内容で、かつそれを一部抜粋編集した内容です。11世紀頃にアヌルッダ長老が書かれたその原書「アビダンマッタサンガハ」の方が、パーリ原書をそのままの日本語に正しく訳文したものなので、学僧スマナサーラさんの余計な 私見が入っていないので、前記「アビダンマッタサンガハ」の方が原書に100%忠実で、かつ、項目的にも、抜けがないのでお薦めです。どうも現代の学僧さんは自分のオリジナリティを出そうとして、原文を私見を加えていじっくてしまう傾向にあり、この点が後世に書物として残ると、11世紀頃にアヌルッダ長老の書かれた内容が変質していってしますので、大きな禍根を残すのではと心配しております。
2009年6月28日に日本でレビュー済み
三訂版2020年 (二訂版2015年、初版2009年)
心の生滅を一般向けでパーリ語を省略せずにこれほど詳しく解説した書物は無いと思う。その意味で、本書はとても貴重な参考書である。ただ、スマナサーラ長老の解説には、丁寧な部分と曖昧で大雑把な部分があるので、読む際にはそれこそ鋭敏な注意が必要である。
例えば、《痴のことはなかなか分かりません。》(p.24)と言いながら、《「不痴」という智慧の心所》(p.25)と述べ、《不痴(智慧)》(p.26)と説明する。つまり、「痴」=「智慧がないこと」なのである。
これを、パーリ仏典では「三結tīni saṃyojanāni」=「有身見sakkāya-diṭṭhi」+「疑vicikicchā」+「戒禁取sīlabbata-parāmāsa」と説明する。つまり、「三結」=「痴」=「無明」なのであり、「三結の断」=「智慧の獲得」=「明の獲得」=「慧解脱paññā-vimutti」(観vipaśyanāの瞑想による)なのである。これが第一段階の聖者・預流sotāpannaの境界である。
参考までに、「三結」に「欲貪kāma-rāga」と「瞋恚paṭigha」を加えると「五下分結orambhāgiya-saṃyojana」となる。なお、「欲貪kāma-rāga」=「渇愛taṇhā」+「取upādāna」であり、「五下分結の断」=「欲界心の断」=「心解脱ceto-vimutti」(止śamathaの瞑想による)なのである。これが第三段階の聖者・不還anāgāmi(n)の境界である。
「慧解脱」と「心解脱」をこのように正しく理解しなければ、仏典を正しく読むことは出来ない。
なお、「五上分結uddhambhāgiya saṃyojana」は後世に付加増広された偽の教義と言わざるを得ない。それを裏付けるように、漢訳阿含経には「五上分結」は存在せず、漢訳論蔵になってから初めて登場する。漢訳の基になったのは改変前のパーリ仏典だからである。それに、「五上分結」の内容(色貪+無色貪+慢+掉挙+無明)が余りにも陳腐で釈尊が説いたとは思えない内容である。特に、最後に「無明」=「三結」が置かれていることが付加増広である証拠である。さらに、不還が阿羅漢arahantに進化するには、欲界の二元性を断じて非二元性を体得することが必要であるが、「五上分結」にはその説明が無い。
以上述べたことに関連する内容は、「3-ii 道果の安止」(p.225~228)で簡単に触れているが、釈尊の真義を説明しているとは思えない。「道果」=「向果」=「四向四果」である。
次に、「釈尊の教法の真義」の観点から、従来の「色界」と「無色界」は「欲界」で推定された不十分な定義であり、正しくは「純粋色界」(非二元性の色が存在)と「純粋無色界」(非二元性の色が非局所性となり、色の存在を限定できない)と言うべきである。本書では《色界は光と音だけを感じて生きる世界です。》(p.123)と述べる。欲界でも光と音だけはその源を特定できない場合があるから、という変な説明である。もう一つ、《無色界になったら、光と音さえも認識しない。ただ「意」だけです。無色界に生まれたら、他の生命には、その生命とコンタクトが取れません。》(p.125)と述べる。これもおかしい。無色界の認識は「非二元性+非局所性」の認識なので、例えば、地球の私が134億光年先にある最遠方の銀河系に存在する生命体を瞬時に認識できることを意味する。実際に、分別上座部の『論事Kathā-vatthu』にある《一切世間に諸仏が住する》という記載は「全宇宙には数多くの仏陀がいる」ことを示すものであり、瑜伽禅定で認識された可能性がある。
「五門による心路」(p.140~203)に関する説明は、丁寧であるがその説明方法に疑問がある。生理学的実験で、感覚刺激に対する反応時間の測定結果が知られており、視覚刺激の反応時間=0.15~0.225秒、聴覚刺激の反応時間=0.12~0.185秒、嗅覚刺激の反応時間=0.2~0.8秒、味覚刺激の反応時間=0.305~1.08秒、顔皮膚の冷覚刺激の反応時間=0.15秒、などである。さらに、視覚と聴覚の同時刺激の反応時間は聴覚刺激の場合の約半分である。禅定によって本当に誰かが五門路を体験したのであれば、こうした違いがどこにあるかを説明できる筈である。ただ、眼門における速行心7つについては、フォトンの波束を考えれば、実際に体験したのかも知れない。
心の生滅を一般向けでパーリ語を省略せずにこれほど詳しく解説した書物は無いと思う。その意味で、本書はとても貴重な参考書である。ただ、スマナサーラ長老の解説には、丁寧な部分と曖昧で大雑把な部分があるので、読む際にはそれこそ鋭敏な注意が必要である。
例えば、《痴のことはなかなか分かりません。》(p.24)と言いながら、《「不痴」という智慧の心所》(p.25)と述べ、《不痴(智慧)》(p.26)と説明する。つまり、「痴」=「智慧がないこと」なのである。
これを、パーリ仏典では「三結tīni saṃyojanāni」=「有身見sakkāya-diṭṭhi」+「疑vicikicchā」+「戒禁取sīlabbata-parāmāsa」と説明する。つまり、「三結」=「痴」=「無明」なのであり、「三結の断」=「智慧の獲得」=「明の獲得」=「慧解脱paññā-vimutti」(観vipaśyanāの瞑想による)なのである。これが第一段階の聖者・預流sotāpannaの境界である。
参考までに、「三結」に「欲貪kāma-rāga」と「瞋恚paṭigha」を加えると「五下分結orambhāgiya-saṃyojana」となる。なお、「欲貪kāma-rāga」=「渇愛taṇhā」+「取upādāna」であり、「五下分結の断」=「欲界心の断」=「心解脱ceto-vimutti」(止śamathaの瞑想による)なのである。これが第三段階の聖者・不還anāgāmi(n)の境界である。
「慧解脱」と「心解脱」をこのように正しく理解しなければ、仏典を正しく読むことは出来ない。
なお、「五上分結uddhambhāgiya saṃyojana」は後世に付加増広された偽の教義と言わざるを得ない。それを裏付けるように、漢訳阿含経には「五上分結」は存在せず、漢訳論蔵になってから初めて登場する。漢訳の基になったのは改変前のパーリ仏典だからである。それに、「五上分結」の内容(色貪+無色貪+慢+掉挙+無明)が余りにも陳腐で釈尊が説いたとは思えない内容である。特に、最後に「無明」=「三結」が置かれていることが付加増広である証拠である。さらに、不還が阿羅漢arahantに進化するには、欲界の二元性を断じて非二元性を体得することが必要であるが、「五上分結」にはその説明が無い。
以上述べたことに関連する内容は、「3-ii 道果の安止」(p.225~228)で簡単に触れているが、釈尊の真義を説明しているとは思えない。「道果」=「向果」=「四向四果」である。
次に、「釈尊の教法の真義」の観点から、従来の「色界」と「無色界」は「欲界」で推定された不十分な定義であり、正しくは「純粋色界」(非二元性の色が存在)と「純粋無色界」(非二元性の色が非局所性となり、色の存在を限定できない)と言うべきである。本書では《色界は光と音だけを感じて生きる世界です。》(p.123)と述べる。欲界でも光と音だけはその源を特定できない場合があるから、という変な説明である。もう一つ、《無色界になったら、光と音さえも認識しない。ただ「意」だけです。無色界に生まれたら、他の生命には、その生命とコンタクトが取れません。》(p.125)と述べる。これもおかしい。無色界の認識は「非二元性+非局所性」の認識なので、例えば、地球の私が134億光年先にある最遠方の銀河系に存在する生命体を瞬時に認識できることを意味する。実際に、分別上座部の『論事Kathā-vatthu』にある《一切世間に諸仏が住する》という記載は「全宇宙には数多くの仏陀がいる」ことを示すものであり、瑜伽禅定で認識された可能性がある。
「五門による心路」(p.140~203)に関する説明は、丁寧であるがその説明方法に疑問がある。生理学的実験で、感覚刺激に対する反応時間の測定結果が知られており、視覚刺激の反応時間=0.15~0.225秒、聴覚刺激の反応時間=0.12~0.185秒、嗅覚刺激の反応時間=0.2~0.8秒、味覚刺激の反応時間=0.305~1.08秒、顔皮膚の冷覚刺激の反応時間=0.15秒、などである。さらに、視覚と聴覚の同時刺激の反応時間は聴覚刺激の場合の約半分である。禅定によって本当に誰かが五門路を体験したのであれば、こうした違いがどこにあるかを説明できる筈である。ただ、眼門における速行心7つについては、フォトンの波束を考えれば、実際に体験したのかも知れない。