彼には可能性が0%でも、もう一度愛する人を抱きしめることを諦めず、今の自分を受け入れて死以外の奇跡を信じて生き続けて欲しかったです。
私が彼の家族なら、彼と会話すること、彼に接することを私自身から奪うような選択をして欲しくはないと思います。
でも、生きるため、自由のために死を選んだ彼を否定することもできません。
この本を読んでる間も、読み終えた後も生きつづけることだけが人間の選択ではないのかもと繰り返し考えさせられました。
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海を飛ぶ夢 単行本 – 2005/4/1
- 本の長さ207ページ
- 言語日本語
- 出版社アーティストハウスパブリッシャーズ
- 発売日2005/4/1
- ISBN-104902088738
- ISBN-13978-4902088731
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登録情報
- 出版社 : アーティストハウスパブリッシャーズ (2005/4/1)
- 発売日 : 2005/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 207ページ
- ISBN-10 : 4902088738
- ISBN-13 : 978-4902088731
- Amazon 売れ筋ランキング: - 486,796位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 115位スペイン・ポルトガル文学研究
- - 82,211位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年7月24日に日本でレビュー済み
ラモン・サンペドロは商船の整備工で船とともに世界中を巡っていた。しかし、第7頚椎を骨折し30年間の四肢麻痺生活を送った。本書は安楽死を求め続けて彼が綴った周囲に対する訴えを、あるジャーナリストの説得、協力のもと執筆したものだ。ちなみに、彼の生涯を描いた映画もつくられた。
・本書の要約
尊厳死は認められるべきだ。なぜなら、私には選ぶ権利があるからだ。命を所有する私は、生きる価値を理解し生きる、つまり自由があるか否かを判断できる。生きるとは、精神と肉体のバランスの認識だ。その放棄がもたらす結果を理解できる私は、死を選択する権利をもつ。四肢麻痺は慢性的な死だ。その状態に自由、生きるは見出せない。
・書評
尊厳死は死を自ら選ぶ行為で認められるべきではないと、私は考える。それには2つの理由がある。一つ目に、個人はその死を選ぶ権利を持たない。二つ目に、その考えは社会や国家に政治利用される、すでに利用されている可能性が高い。一つ目の理由は、ラモン氏の理由の妥当性を否定したものだ。二つ目の理由は、社会の枠組みの中で尊厳死を位置付けた場合の問題点から考えられる理由だ。
尊厳死が個人の選択的行為ではない、人はその死を選ぶ権利を持たないのは、死が一個人のものではないからだと主張する。つまり、人は関係性の中で生き、一人では生きていくことができないのだから、死も他者との関係の中にある。ラモン氏は精神と肉体の自由こそが生きるだと考えた。しかし、生きることの意義は他者との関わりにあると私は思う。「生きる」とはどんな形であれ人に社会に関わることだ。体がほとんど動かない状態で社会におおきな影響を与えた有名な人物といえば、ホーキング博士だろう。彼は精神的な面を大いに活動させ生きていると、私は断言する。またALSを発症し、身体の自由がほとんど効かない中30数年を生きた長岡紘司は、2011年から時間をかけて伝えた遺言で次のように述べている。「ただひとつ、残されたものは自分という心であり、それは貴殿にも侵されるものでは到底なく、その残された心は人として輝き尊厳までも放ち、寝ままの不動の人なるも人として生きつつあるのだ。」(著 長岡紘司/川口有美子解題 『生きよ。生きよ。 在宅人口呼吸療法の黎明期を生きた男の証言』 現代思想6月号 第40巻第7号 青土社 2012年発行)彼は自身の状態を死とは一切、捉えていない。生きつつあると自分の生を進行形のように表しているほどだ。以上より、尊厳死は生きることの否定、自殺行為と同じだと私は主張する。
尊厳死は社会や国に政治的に利用されやすい、すでに利用されていることについては、多くの事例があり多くの問題点も指摘されている。この問題点には、優生思想との結びつきが深く関係している。例えば、日本尊厳死協会理事長の井形昭弘さんと全国遷延性意識障害社・家族の会代表の桑山雄次さんの対談の中では、尊厳死法案が拡大解釈され、患者の治療が不十分なまま、治療打ち切りになる可能性が示されている。※1これは優生思想と結び付く可能性が大きいと言える。
・ 中島 孝氏 『尊厳死論を超える 緩和ケア、難病ケアの視座』より
尊厳死を含む現代医療の問題の原因が、医療の健康概念の誤解、ケア方法論への認識の間違いにあると指摘している。どんな人も致死率100%の病に100%かかって死ぬ、その死ぬまでに起こる苦痛を緩和することがケアの目的だ。本来の医療の目的は人が客観的、相対的ではなく主観的に改善することだ。また、QOL(生活の質)はSOL(生命の尊厳)全くの別物なのに、両者を混同しQOLが低ければSOLも低くなるというような誤った考えに注意すべきだ。このQOLに関して,効用値としてQOLと同じとみなされているEQ-5Dを医療費分配に利用することが、最近の日本では評価されている。しかし、この値を医療費分配に持ち出すことはナチスドイツのホロコーストの理論、生きるに値しない生命理論と差がなくなり、大変危険なことだ。※2
このような考えを中島氏は展開している。ここでも尊厳死を含む現代の医療への、生への誤った認識が優生思想につながる可能性を示していると私は考える。
尊厳死に賛成する場合に挙げられる、自己決定権の尊重も国家の中では問題をもつ。そもそも、自己決定権というのは国家の中で、また他者との関係の中で初めて現れるものだ。そして、それがいつも個人個人にとってプラスに作用するとは限らない。私たちはその権利を国がどう扱うのか、注意深く目を向ける必要がある。自己決定権を利用し多くの人々を安楽死に追いやった例がまさに、実在するからだ。小松美彦さんが自身の著書の中でその例を次のように挙げている。自己決定権は決して新しい概念ではない。それは負の歴史、ナチスドイツの精神と密接に関係している。ナチスドイツのほぼすべての法律に自己決定権に相当する概念があった。例えば安楽死法案の第一条がそうだ。そして第二条では自己決定権を行使する能力のない人々の代理として行政体や医師が権利を代行できる。第1条がなければもっと多くの人がこの法案の恐ろしさに気づいたにちがいない。しかし、言葉の謳い文句が人々の思考をにぶらせたのだ。(著 小松美彦 『自己決定権は幻想である』 洋泉社 2004年発行)この小松氏の挙げた例から私たちは安易に、額面通りに言葉を受け入れてはいけないことがわかる。それだけでなく、国というものが権利をどう扱うか、利用するかよく噛みしめなければならないだろう。
生きるとは何かということについて、また尊厳死が社会、国家の中でどう扱われうるかを熟考するならば、尊厳死は認められるべきではないと私は主張する。
・本書の要約
尊厳死は認められるべきだ。なぜなら、私には選ぶ権利があるからだ。命を所有する私は、生きる価値を理解し生きる、つまり自由があるか否かを判断できる。生きるとは、精神と肉体のバランスの認識だ。その放棄がもたらす結果を理解できる私は、死を選択する権利をもつ。四肢麻痺は慢性的な死だ。その状態に自由、生きるは見出せない。
・書評
尊厳死は死を自ら選ぶ行為で認められるべきではないと、私は考える。それには2つの理由がある。一つ目に、個人はその死を選ぶ権利を持たない。二つ目に、その考えは社会や国家に政治利用される、すでに利用されている可能性が高い。一つ目の理由は、ラモン氏の理由の妥当性を否定したものだ。二つ目の理由は、社会の枠組みの中で尊厳死を位置付けた場合の問題点から考えられる理由だ。
尊厳死が個人の選択的行為ではない、人はその死を選ぶ権利を持たないのは、死が一個人のものではないからだと主張する。つまり、人は関係性の中で生き、一人では生きていくことができないのだから、死も他者との関係の中にある。ラモン氏は精神と肉体の自由こそが生きるだと考えた。しかし、生きることの意義は他者との関わりにあると私は思う。「生きる」とはどんな形であれ人に社会に関わることだ。体がほとんど動かない状態で社会におおきな影響を与えた有名な人物といえば、ホーキング博士だろう。彼は精神的な面を大いに活動させ生きていると、私は断言する。またALSを発症し、身体の自由がほとんど効かない中30数年を生きた長岡紘司は、2011年から時間をかけて伝えた遺言で次のように述べている。「ただひとつ、残されたものは自分という心であり、それは貴殿にも侵されるものでは到底なく、その残された心は人として輝き尊厳までも放ち、寝ままの不動の人なるも人として生きつつあるのだ。」(著 長岡紘司/川口有美子解題 『生きよ。生きよ。 在宅人口呼吸療法の黎明期を生きた男の証言』 現代思想6月号 第40巻第7号 青土社 2012年発行)彼は自身の状態を死とは一切、捉えていない。生きつつあると自分の生を進行形のように表しているほどだ。以上より、尊厳死は生きることの否定、自殺行為と同じだと私は主張する。
尊厳死は社会や国に政治的に利用されやすい、すでに利用されていることについては、多くの事例があり多くの問題点も指摘されている。この問題点には、優生思想との結びつきが深く関係している。例えば、日本尊厳死協会理事長の井形昭弘さんと全国遷延性意識障害社・家族の会代表の桑山雄次さんの対談の中では、尊厳死法案が拡大解釈され、患者の治療が不十分なまま、治療打ち切りになる可能性が示されている。※1これは優生思想と結び付く可能性が大きいと言える。
・ 中島 孝氏 『尊厳死論を超える 緩和ケア、難病ケアの視座』より
尊厳死を含む現代医療の問題の原因が、医療の健康概念の誤解、ケア方法論への認識の間違いにあると指摘している。どんな人も致死率100%の病に100%かかって死ぬ、その死ぬまでに起こる苦痛を緩和することがケアの目的だ。本来の医療の目的は人が客観的、相対的ではなく主観的に改善することだ。また、QOL(生活の質)はSOL(生命の尊厳)全くの別物なのに、両者を混同しQOLが低ければSOLも低くなるというような誤った考えに注意すべきだ。このQOLに関して,効用値としてQOLと同じとみなされているEQ-5Dを医療費分配に利用することが、最近の日本では評価されている。しかし、この値を医療費分配に持ち出すことはナチスドイツのホロコーストの理論、生きるに値しない生命理論と差がなくなり、大変危険なことだ。※2
このような考えを中島氏は展開している。ここでも尊厳死を含む現代の医療への、生への誤った認識が優生思想につながる可能性を示していると私は考える。
尊厳死に賛成する場合に挙げられる、自己決定権の尊重も国家の中では問題をもつ。そもそも、自己決定権というのは国家の中で、また他者との関係の中で初めて現れるものだ。そして、それがいつも個人個人にとってプラスに作用するとは限らない。私たちはその権利を国がどう扱うのか、注意深く目を向ける必要がある。自己決定権を利用し多くの人々を安楽死に追いやった例がまさに、実在するからだ。小松美彦さんが自身の著書の中でその例を次のように挙げている。自己決定権は決して新しい概念ではない。それは負の歴史、ナチスドイツの精神と密接に関係している。ナチスドイツのほぼすべての法律に自己決定権に相当する概念があった。例えば安楽死法案の第一条がそうだ。そして第二条では自己決定権を行使する能力のない人々の代理として行政体や医師が権利を代行できる。第1条がなければもっと多くの人がこの法案の恐ろしさに気づいたにちがいない。しかし、言葉の謳い文句が人々の思考をにぶらせたのだ。(著 小松美彦 『自己決定権は幻想である』 洋泉社 2004年発行)この小松氏の挙げた例から私たちは安易に、額面通りに言葉を受け入れてはいけないことがわかる。それだけでなく、国というものが権利をどう扱うか、利用するかよく噛みしめなければならないだろう。
生きるとは何かということについて、また尊厳死が社会、国家の中でどう扱われうるかを熟考するならば、尊厳死は認められるべきではないと私は主張する。
2005年4月25日に日本でレビュー済み
もちろん、著者が直面した不慮の事故も私たちの身に
いつ降りかかってくるかわからないものであり、
全くの他人事というわけではないが、現実の問題として
あまり意識することがないというのが正直な認識である。
しかしながら、将来、要介護の状態となるということは
私くらいの年代になると現実的な問題として意識する
ようになる。そう思うと、本書にある出来事は全くの
他人事としてではなく、自分自身にも起こりうる等身大の
問題として考えさせられるものだ。
本書を通じて尊厳死を自分自身の問題として考えることは
高度に医療が発達した現代を生きる私たちにとって
人生における重要なプロセスなのではないだろうか?
いつ降りかかってくるかわからないものであり、
全くの他人事というわけではないが、現実の問題として
あまり意識することがないというのが正直な認識である。
しかしながら、将来、要介護の状態となるということは
私くらいの年代になると現実的な問題として意識する
ようになる。そう思うと、本書にある出来事は全くの
他人事としてではなく、自分自身にも起こりうる等身大の
問題として考えさせられるものだ。
本書を通じて尊厳死を自分自身の問題として考えることは
高度に医療が発達した現代を生きる私たちにとって
人生における重要なプロセスなのではないだろうか?
2005年4月25日に日本でレビュー済み
尊厳死。最近ニュースでも話題になっていたので、読んでみた。
基本ラモンの書簡や手記が中心に展開しているので、みっちりラモンの心に寄り添うことができる。
生きるって何だ?私はどう生きたいの?生きることの意味をきちんとみつめなければならないと感じさせられた。
さらに、自分の周りの人についても強く考えさせられた。誰しもが逃げないで直面しなければならない問題だと久々に真剣に考えることを思い出させてくれた一冊。
基本ラモンの書簡や手記が中心に展開しているので、みっちりラモンの心に寄り添うことができる。
生きるって何だ?私はどう生きたいの?生きることの意味をきちんとみつめなければならないと感じさせられた。
さらに、自分の周りの人についても強く考えさせられた。誰しもが逃げないで直面しなければならない問題だと久々に真剣に考えることを思い出させてくれた一冊。
2005年4月26日に日本でレビュー済み
身体の麻痺を抱えた筆者が、法廷や社会に尊厳死を求め訴えた手記。
と書くとなにやら重苦しい内容だと思われるかもしれないが、
おそらく筆者は強さと共に洒落っ気ある人物だったと感じさせる。
死を目前にし、自分はこのような気持ちになれるのだろうか。・
この手記を元に「アザーズ」の名匠アメナーバル監督が映画化し、
アカデミー外国語映画賞を受賞した。
この本を読み、映画を観てまた読むと良いかもしれない。
と書くとなにやら重苦しい内容だと思われるかもしれないが、
おそらく筆者は強さと共に洒落っ気ある人物だったと感じさせる。
死を目前にし、自分はこのような気持ちになれるのだろうか。・
この手記を元に「アザーズ」の名匠アメナーバル監督が映画化し、
アカデミー外国語映画賞を受賞した。
この本を読み、映画を観てまた読むと良いかもしれない。
2005年6月4日に日本でレビュー済み
映画を見てから小説を見たのですが、ラモンの飾らない言葉に引き寄せられるように読んでしまいました。
第七頸椎を骨折することで四肢の自由を奪われたラモンは、またその肉体から分離されたために、非常に世の中のことが曇りなく見えているように思えました。また、介護される側の辛さも伝わってきて、そういった生に近い感情が、生きていることに対する問いを投げかけているようで考えさせられました。
第七頸椎を骨折することで四肢の自由を奪われたラモンは、またその肉体から分離されたために、非常に世の中のことが曇りなく見えているように思えました。また、介護される側の辛さも伝わってきて、そういった生に近い感情が、生きていることに対する問いを投げかけているようで考えさせられました。
2005年4月25日に日本でレビュー済み
30年に渡り四肢麻痺の生活。生きる意味を問い続けた結末・人生の終止符を自分の意思で打つ「尊厳死」を希求したスペイン人・ラモン・サンペドロの実話。
生死とは・・・生きる価値、自由、愛、家族の介護、様々な問いを投げかける問題作。
本人が口にペンをはさんで書き溜めた手記の発表なので、ストーリーが分かりづらいですが、どの言葉も本質的な問いを投げかけ、胸に迫ります。本を読んで、映画を観て、また本を読み返しました。
映画も素晴らしく一人でも多くの人に見てもらいたい作品ですが、合わせて本も読むとさらにその奥深い思想への誘いがあります。
書籍だけではペドロが長年に渡り哲学や詩作を好み、思索してきた結果求める尊厳死(魂の解放)にフォーカスされ、それにまつわる裁判や社会への批判が書き連なれており、やや辟易してしまうかもしれませんが、そこに至るまでの過程を想像し、映画などで描かれているプロセスや人間性などを感じられると、また違った角度から本を感じられます。
ぜひお奨めです。読んでみてください!!
生死とは・・・生きる価値、自由、愛、家族の介護、様々な問いを投げかける問題作。
本人が口にペンをはさんで書き溜めた手記の発表なので、ストーリーが分かりづらいですが、どの言葉も本質的な問いを投げかけ、胸に迫ります。本を読んで、映画を観て、また本を読み返しました。
映画も素晴らしく一人でも多くの人に見てもらいたい作品ですが、合わせて本も読むとさらにその奥深い思想への誘いがあります。
書籍だけではペドロが長年に渡り哲学や詩作を好み、思索してきた結果求める尊厳死(魂の解放)にフォーカスされ、それにまつわる裁判や社会への批判が書き連なれており、やや辟易してしまうかもしれませんが、そこに至るまでの過程を想像し、映画などで描かれているプロセスや人間性などを感じられると、また違った角度から本を感じられます。
ぜひお奨めです。読んでみてください!!
2005年5月26日に日本でレビュー済み
安楽死の問題はその定義上、いつも私たちに揺さぶりをかける。この本とて例外ではない。いや、寧ろ、この本は彼(ラモン)の意思により私たちに選択を迫る。そこで私たちに追随せよ、、、(死ぬことを認めよ)と。好意的に、好かれれば好かれるほど彼は安楽死への方向へと駆り立てられる。 この問題でラモンは問う。私を愛しているのであれば突き放してくれ(私の死を受け入れてくれ)と。動けなくなった彼の願いはこう問う。彼を死なせまいと考える者たちには私を無視するな、私を拒絶(安楽死の主張)するのであれば私の尊厳を侵しているだけだと、、、。この問題は才能あった彼の死を認めただけで解決する、解決したとは思わない。それは今なおこの本で揺さぶられている私がいるからだ。 彼の想いは私であるための世界を守るためであったが、だからこそなおさら私は慎重にならざるを得ない。この本を読んで感動したというよりかは、何か別なものが私に待ったをかけたからだ。わかりあえないというだけで切り捨て、感情に溺れるということは私にはできない。 何をもってその定義づけをするのか、彼が彼らしく望むのであればあるほど問題は遠ざかってゆく気がする。ここにはラモンの答えの強さのみが際立つ。「尊厳」それが何を意味するのか、何をもってそう語るのか、私たちもまた問わなければならない。 最後に、このお眼鏡がどう見たかお知らせします。問題に同意するかどうかは別として、一つの本としてお答えします。この眼鏡が光っています。今は亡きラモン氏へ、私はこの問題を真摯に考えております。