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チマ・チョゴリ制服の民族誌—その誕生と朝鮮学校の女性たち ペーパーバック – 2006/5/25
朝鮮学校の制服は、なぜチマ・チョゴリなのか?
政治的に語るだけでは、けっして見えてこない制服誕生の史実を、歴史の検証と当事者への聞き取りによってあきらかにする。
日本で初めての本格的なチマ・チョゴリ制服の研究書。
北朝鮮バッシングが起こるたびに、朝鮮学校の女子が着るチマ・チョゴリ制服が切られてきた。なぜ切られるのか。そもそもチマ・チョゴリ制服は、北朝鮮を表象するような民族衣装なのか。そして、本国にもなかったチマ・チョゴリ制服が、日本の朝鮮学校の制服として、なぜ採用されることになったのか。
本書は、これらの素朴な疑問を抱いた著者が、在日朝鮮人社会で複雑に交錯するナショナリズムやエスニシティ、ジェンダーを、女性たちの「着衣」という行為を通じて考察することにより、何が問題なのかを解き明かしていく過程を記したものである。在日朝鮮人である著者の特徴を最大限に活かして採取された、在日女性らによるチマ・チョゴリ制服に関する貴重な証言は、これまで類を見なかったものである。
越境者としての在日社会の歴史や文化を、チマ・チョゴリ制服をキーワードに考える。そして、「北朝鮮=チマ・チョゴリ制服」と短絡的に考えることの愚かさを思い知らされる一冊である。
- 本の長さ241ページ
- 言語日本語
- 出版社双風舎
- 発売日2006/5/25
- ISBN-104902465086
- ISBN-13978-4902465082
商品の説明
抜粋
映画『パッチギ』や『GO』を通じて、以前より知られるようになったのかもしれない。また、電車やバス、駅のホームや街中で、その姿を見かけた人がいるかもしれない。
普通の女子中高生とすこし違う制服? 変わった制服? 個性的でかわいい制服?
この本は、そんな目で見られることの多い朝鮮学校の女子制服に関して、おそらく日本ではじめて書かれたものだと思う。
朝鮮学校とは、そのほとんどが日本で生まれ育った在日朝鮮人の子どもたちがかよう、全日制の普通学校である。日本の学制にあわせて六・三・三・四制をとっているが、日本の普通の学校とは違った、在日朝鮮人自身の手による自主的な民族教育がおこなわれている。朝鮮学校を管轄するのは、在日朝鮮人の民族団体「在日本朝鮮人総聯合会」(以下、総聯)だ。二〇〇五年四月現在、小学校にあたる初級部が六二校、中学校にあたる中級部が三八校、高等学校にあたる高級部一一校、大学にあたる大学校一校が、日本各地で運営されている。
児童生徒の総数は、二〇〇二年度現在で約一万四〇〇〇人。外国人登録上の朝鮮・韓国籍はもちろん、日本やその他の国籍を持つ子どもたちも在籍している。日本の学校教育法制度上の地位は「各種学校」で、都道府県ごとに各種学校としての認可を受けている。
校内では原則的に朝鮮語を使用し、朝鮮半島と在日朝鮮人の歴史、朝鮮語、地理、そして社会などの民族教育に力を入れる。一方で、ほかの科目については、日本の学校、つまり学校教育法第一条で定める「一条校」と同レベルを保てるように努めている。しかし、各種学校の法的地位は、「一条校」にくらべて格段に低いものであり、助成や資格などの面で大きな格差が存在している。
このように使用言語や制度上の違いはあるものの、そこに通学する在日朝鮮人の子どもたちにとって、朝鮮学校はきわめて日常的な「普通の学校」として存在している。毎日、普通に学校にかよう多くの日本人生徒にとって、学校が日常的な「普通」の存在であるように、である。
今年の全国高校サッカー選手権で、大阪朝鮮高級学校が強豪の国見高校を破って、ベスト八まで勝ち進んだことは記憶にあたらしい。一九九四年の高校総体(インターハイ)を皮切りに、それまでは参加できなかった各種スポーツ大会への門戸が朝鮮学校にも開かれた。とくに近年、サッカーやラグビー、ボクシングなどの競技で活躍していることから、朝鮮学校は「スポーツ名門校」としてのイメージも持たれているようだ。とはいえ、朝鮮学校のイメージをビジュアル的に象徴するものといえば、やはり中・高級部女子生徒のチマ・チョゴリ制服を思い浮かべる人が多いだろう。
チマ・チョゴリとは、朝鮮半島の伝統的な民族衣装を指す言葉だが、よく考えてみると、そのような衣装が学校制服に採用されているのは、かなりユニークなことである。日本国内で戦後、「着物」を制服に指定している普通学校はない。なぜ、戦後に生まれた朝鮮学校が、そのような制服を採用したのであろうか。本書は、この「チマ・チョゴリ制服」がいかにして生まれたのかという道すじをたどるものである。
現在、朝鮮学校中・高級部の女子生徒が着用しているチマ・チョゴリ制服は、ほぼ全国共通のデザインだ。チョゴリ(上着)とチマ(スカート)のツーピースで、チマはプリーツ(ひだ)加工のされたジャンパースカートのようになっている。そのうえにチョゴリを着て、胸の前でコルム(リボン状の帯のようなもの)を結ぶ。冬服は、上下ともに黒(一部の学校では紺も可)のウール素材。夏服は、チョゴリが白の麻または麻と化繊の混紡(夏用の一枚仕立てのチョゴリは、チョクサムと呼ばれる)、チマが紺または黒の化繊素材で仕立てるのが通例だ。学校制服であるにもかかわらず、既製服は存在しない。つまり、工業製品化されていないので、民間の民族衣装店や仕立て業者に、個別もしくは学校単位でオーダーすることになる。
チマ・チョゴリ制服の基本的な構造や形態、製造工程などは、伝統的な民族衣装としてのチマ・チョゴリを踏襲している。だが、その素材やデザイン、色使いなどいくつかの点は、現代の朝鮮半島や日本を含む海外コリアン社会などで、晴れ着として着られる民族衣装としてのチマ・チョゴリとは異なり、洋服の要素が取り入れられている。ようするに、朝鮮学校の女子生徒が着ている制服は、単なるチマ・チョゴリではなく、民族衣装としてのチマ・チョゴリが洋服化され、学校制服化されたものだといっていい。各地の朝鮮学校の卒業写真や沿革史などを見ると、六〇年代前半に、それまでのセーラー服やブレザー、そして私服などから、このようなチマ・チョゴリ制服に切りかわっていったようである。
チマ・チョゴリ制服が日本社会と在日朝鮮人社会でクローズアップされ、ある種のステレオタイプ化したイメージが広がるきっかけとなったのが、八〇年代後半から頻発した「チマ・チョゴリ事件」であった。八七年の「大韓航空機事件」や八九年の「パチンコ疑惑」、九四年の「核疑惑」、そして九八年の「ミサイル疑惑」など、日本社会とマスコミで「北朝鮮バッシング」が起こる。そのたびに、朝鮮学校の生徒、とりわけチマ・チョゴリ制服を着た女子生徒が襲われる事件が起きた。多くの暴行事件のなかでも、女子生徒がチマ・チョゴリ制服を何者かに刃物で傷つけられるというケースが、「チマ・チョゴリ切り裂き事件」としてセンセーショナルに報道され、注目された。
こうした事件を機に、朝鮮学校を取り巻く在日朝鮮人社会では、チマ・チョゴリ制服の見直しをうながす声があがった。しかしながら、保護者や学校関係者らによる議論は、「民族文化、伝統文化の保護」と「安全確保と女性差別是正」という二項対立的なものとなり、あまり建設的な話し合いにはならなかった。チマ・チョゴリ制服の歴史に目を向けた本質的な意味の問いなおしや、着用の当事者である女子生徒に寄り添った議論は、すくなかったように思う。
そして、おもに安全面への配慮から、九九年四月からはブレザー(冬季)とブラウス、そしてスカートの「第二制服」がなしくずし的に導入された。とくに、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)側が日本人拉致の事実を認めた二〇〇二年九月一七日の日朝首脳会談後は、以前のような事件の再発を未然に防ごうという安全確保の見地から、通学時には「第二制服」が広く着られるようになっている。とはいえ、いまも第一制服がチマ・チョゴリ制服であることに変わりはなく、原則的に校内では第一制服の着用が義務づけられている。義務といっても、学校によって対応はまちまちで、特別な行事以外は「第二制服」のほうが優勢のようだ。
朝鮮学校でチマ・チョゴリ制服が生まれた六〇年代前半は、GHQと日本当局による朝鮮人と朝鮮学校への弾圧が激しかった朝鮮戦争を前後する時期である。さらにこの時期は、北朝鮮の海外公民路線を打ち出した五五年の総聯の結成をへて、朝鮮学校が自然発生的な寺子屋の延長としての学校から、国民化の装置としての近代学校への変遷を完了させつつあった時期だともいえる。五〇年代後半からはじまった北朝鮮への帰国運動(五九年に第一次帰国船)によって、在日朝鮮人の「祖国熱」は、六〇年代前半には最高潮に達していた。五七年四月には、北朝鮮政府から初の教育援助費と奨学金が送られている。
こうした時代背景のもとで、学校制服として導入されたチマ・チョゴリ制服が、ある種のナショナリズムの産物だと見なされるのは自然なことであろう。チマ・チョゴリ制服は、朝鮮学校および在日朝鮮人の「民族性の象徴」や「民族の誇り」だといわれ、朝鮮学校と総聯コミュニティの「祖国志向」的なナショナリズムの象徴だとされてきた。
しかし、簡単にそういってしまっていいのであろうか。なぜなら、チマ・チョゴリのルーツがある朝鮮半島——北朝鮮と韓国——において、四五年八月の日本からの解放後、四八年の建国をへて再編成された近代学校制度のもとで、このようなかたちの制服が取り入れられることはなかったからだ。
一方で、チマ・チョゴリ制服は、前述したように伝統的な民族衣装としてのチマ・チョゴリとは構造的に異なり、もはや洋服といっていいほど改良された衣装である。だとすると、チマ・チョゴリ制服が「伝統的な民族文化」なのかどうかは自明ではない。これが本書のひとつ目の問題意識である。
また近年になって、とくに在日朝鮮人コミュニティの内部では、「女子生徒だけが民族衣装的な制服を着せられている」ことが、女性差別だと批判されるケースも増えてきた。実際、男子生徒に対して、民族衣装的な制服の導入が検討された形跡は、過去にない。中・高級部男子の制服は、解放直後から詰め襟の学生服であり、女子の制服がセーラー服やブレザーからチマ・チョゴリ制服に切りかわった六〇年代前半以降にも、それは変わらなかった。さらに八〇年代に入ると、男子の制服はブレザーに変更されたが、女子のチマ・チョゴリ制服の変更は検討されなかった。
こうしてチマ・チョゴリ制服は、在日朝鮮人コミュニティ内におけるジェンダー格差の象徴ともなってきた。だがこうした事態を、「差別」という言葉で語ってしまっていいのだろうか。そうした疑問をいだくのは、チマ・チョゴリ制服の制度化が、女子生徒の自発的な着用が広がった結果だと耳にしたことがあったからだ。また、筆者自身も含めた着用当事者も、そのような認識を持っているようには見えなかった。以上が本書のふたつ目の問題意識である。
ようするに筆者は、チマ・チョゴリ制服が存在するということを、民族性や伝統、祖国志向、そして女性差別といったわかりやすい図式だけ説明してしまうことに、抵抗を感じたのである。この問題は、そんなに単純なものではないはずだ。チマ・チョゴリ制服が「祖国志向」のナショナリズムの象徴であるのならば、当時の北朝鮮に、そのような学校制服が存在しなかったという事実とのズレに対する分析が必要となる。また、チマ・チョゴリ制服が「伝統的な民族文化」の継承なのだとすれば、「伝統」とは何かを見きわめなくてはならない。さらに、一部の女子生徒による自発的な着用が制服化をうながしたという説は、彼女たちの視点にもとづいた考察を必要とする。
「本国」にも存在しなかったチマ・チョゴリ制服が、いかにして朝鮮学校の女子制服となったのか……。
そのプロセスを考察することで、移民・越境者のナショナリズムやエスニック・アイデンティティの表現をめぐる、ひとつの知見を得ようというのが、本書のねらいである。また、自発的な着用によりチマ・チョゴリ制服の誕生をうながしたとされる当事者女性たちの声を通じて、その表現プロセスのリアリティを再構成し、ナショナリズムとエスニシティ、そしてジェンダーが交錯する様相の複雑さを示す試みでもある。
衣服は、人間の日常社会に密着した、肌触りのある物質的存在である。それゆえに「服を着る」という行為は、すべてイデオロギーに回収されてしまうような単純なものではない。行為者の具体的かつ現実的、日常的な諸条件や能動性をぬきにしては語れない「着衣」という行為を通じて、ナショナリズムやエスニシティ、そしてジェンダーという概念が、あらたな輪郭をともなって見えてくるかもしれない。
本書は、チマ・チョゴリ制服が朝鮮学校で制服として導入される直前の時期(六〇年前後)に、自発的な着用によりその制服化をうながしたとされる女子生徒や学生、そして女性教師へのインタビューを中心に、チマ・チョゴリ制服誕生への道すじを考察するものだ。
第一章では、アイデンティティと着衣、移民・越境者のエスニシティとナショナリズム、そして民族とジェンダーといった本書の分析視点について、先行研究を振り返りつつ、筆者の立場を示す。第二章では、チマ・チョゴリ制服の服飾史的特徴と構造的特徴、そして制服が誕生した社会的背景について考察する。第三章では、チマ・チョゴリ制服が誕生した時期に、朝鮮学校の生徒や学生、そして教員だった女性らを中心におこなったインタビューにもとづき、制服誕生への道すじをたどる。インタビューをした女性のうちの三人については、詳細なインタビュー内容も掲載することで、彼女たちが自発的着用をおこなったプロセスのリアリティへの接近を試みる。第四章では、前述してような問題意識や第一章で示した視点にそって、インタビュー内容を分析し、その作業を通じて得られた知見を示す。
著者について
1968年東京生まれ。小学校から大学まで16年間、朝鮮学校にかよう。
朝鮮大学校卒業。朝鮮新報記者を経て、立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了。
現在、東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程に在籍。
登録情報
- 出版社 : 双風舎 (2006/5/25)
- 発売日 : 2006/5/25
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 241ページ
- ISBN-10 : 4902465086
- ISBN-13 : 978-4902465082
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,359,180位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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しかし、中途半端な印象もぬぐえない。そう思わせた点はいろいろあるが、そのほとんどの原因が、恐らく出版を急ぐが故に中途半端な形で本にしてしまったことにあると思う。最大の欠陥は、いったい専門書にしたいのか一般書にしたいのか、研究書にしたいのか啓蒙書にしたいのか、スタンスがはっきりしていない点だ。修士論文をもとにして書かれたのだから一般読者にとっては無駄な記述が多すぎるし、そのせいもあって話の道筋がみえにくい。
韓氏の語りたいというエネルギーはこの本の至る所からあふれ出ていて、出版を急いだ気持ちもなんとなく理解できるのだが、せっかくの研究を最良の形とはいえない状態で出版してしまうのは、私は残念だと思う。