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フランケンシュタイン・コンプレックス: 人間は、いつ怪物になるのか 単行本 – 2009/11/1
小野 俊太郎
(著)
- 本の長さ269ページ
- 言語日本語
- 出版社青草書房
- 発売日2009/11/1
- ISBN-104903735141
- ISBN-13978-4903735146
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登録情報
- 出版社 : 青草書房 (2009/11/1)
- 発売日 : 2009/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 269ページ
- ISBN-10 : 4903735141
- ISBN-13 : 978-4903735146
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,063,969位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 21,140位外国文学研究
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年2月6日に日本でレビュー済み
著者は文芸評論家。文学や映画を現代的な関心から読み直す著作をいくつか物してきた人物のようです。朝日新聞の書評とNHK「週刊ブックレビュー」で取り上げられていたことから興味を持ち、手に取ってみました。
本書は、怪物とは人間が生み出すものであることを描いた近代以降の文学や映画を俎上にのせて、そのテキストを読みなおしていきます。その端緒をメアリー・シェリーの「 フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1)) 」に求め、さらに「ジーキル博士とハイド氏」、「吸血鬼ドラキュラ」、果ては「チャタレイ夫人の恋人」やスピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」までとりあげながら論を進めていくのです。
私が子ども時代から見知ってきたつもりの怪物譚やSF小説の数々が新しい視点によって見知らぬ価値をもって立ち現れてくる様子を前に、知的興奮をおぼえながら頁を繰り続けました。
著者が言わんとすることを私なりに解釈すると、怪物が生み出される物語の数々は、怪物を生む人間側もいつなんどき怪物に変異しないとも限らない危うさをかかえており、それは決して人間の心の闇といった言葉で安易に形容するべきものが原因ではなく、人間が近代以降に立ち上げてきた複雑な社会的ネットワークに源が見出せる場合があるというのです。
ドラキュラが<合法的に>トランシルバニアから英国へと渡ってきた一方で、吸血鬼退治に立ちあがる人間たちが<法を犯す形で>トランシルバニアへ侵入していく。ナショナリズムや外国人排斥思想がいかに強化・理論化されていくのかといった問題を見つめる上で、ドラキュラ譚をどう読み解くのかを指摘したくだりはなかなか読ませます。
以前「 テヘランでロリータを読む 」で、文学のテキストを現代的視点で読みなおすことの重要性について大変興味深く読んだものですが、あの本と同様この書は、読者に読書のための新しい視点を与えてくれる一冊であると思います。
本書は、怪物とは人間が生み出すものであることを描いた近代以降の文学や映画を俎上にのせて、そのテキストを読みなおしていきます。その端緒をメアリー・シェリーの「 フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1)) 」に求め、さらに「ジーキル博士とハイド氏」、「吸血鬼ドラキュラ」、果ては「チャタレイ夫人の恋人」やスピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」までとりあげながら論を進めていくのです。
私が子ども時代から見知ってきたつもりの怪物譚やSF小説の数々が新しい視点によって見知らぬ価値をもって立ち現れてくる様子を前に、知的興奮をおぼえながら頁を繰り続けました。
著者が言わんとすることを私なりに解釈すると、怪物が生み出される物語の数々は、怪物を生む人間側もいつなんどき怪物に変異しないとも限らない危うさをかかえており、それは決して人間の心の闇といった言葉で安易に形容するべきものが原因ではなく、人間が近代以降に立ち上げてきた複雑な社会的ネットワークに源が見出せる場合があるというのです。
ドラキュラが<合法的に>トランシルバニアから英国へと渡ってきた一方で、吸血鬼退治に立ちあがる人間たちが<法を犯す形で>トランシルバニアへ侵入していく。ナショナリズムや外国人排斥思想がいかに強化・理論化されていくのかといった問題を見つめる上で、ドラキュラ譚をどう読み解くのかを指摘したくだりはなかなか読ませます。
以前「 テヘランでロリータを読む 」で、文学のテキストを現代的視点で読みなおすことの重要性について大変興味深く読んだものですが、あの本と同様この書は、読者に読書のための新しい視点を与えてくれる一冊であると思います。