2003年に書かれてた本書。善意によってバランスを保つ社会の危うさを感じた。
ITバブル後の不景気、3.11テロ、イラク派兵、国の借金等々、
その当時の社会情勢ががちょっとドラスティックに進んだら、
こうなっていたかもしれないという日本社会を描いている。著者の集大成だと思う。
物語を構成する1つ1つのネタは、今までの氏の著書で出てきたネタと同じである。
正直、前半は今までのネタを物語調にしただけなのかと思い、初めて氏の本の中で凡作かと思った。
しかし、後半に4人の主人公の方向が1つになっていき、まさに蜂起が起こっていくと、
本書のテーマと勝手に思っている状態が始まる。
”文明社会とはその構成員の善意で成立していた。
その構成員たちが、善意をかなぐり捨て、
身近にあった大量破壊兵器を携えながら実力行使を伴う異議申し立てを開始した。”
中東のテロと、自殺志願者の違いを端的にいうと、自分の死を有効に使うかどうかの違いであると思う。
本書でも16歳の女子高生が以下のように発言している。
” ご迷惑をおかけしましたと、と静かに死んでいくのは、絶対に未来志向じゃないと思う。
だって、世の中がご迷惑をかけたたから、その人たちは自死していくのでしょ。(中略)
自殺志願者の一部を組織するだけで、首都機能は完全に麻痺する。世の中は180度の方向転換するのじゃないかしら。"
こう考えて、行動する人間がいたらどうなるか。
山手線に30分おきに投身自殺したり、航空機をハイジャックしたり、高層ビルに硝酸アンモニウムを積んで爆発させたり。。。
そういう自殺者がいたら日本は、日常社会は本書に描かれるように簡単に変わる。
それをするかしないかの違いは何なのか、そういった心境になってしまうのでは何故なのか。
自殺者同士の連帯はそう簡単にはつくれないと思うが、自殺仲間をネットで探すような現代社会ではこれもありえる。
本書では、こうしたたテロへの対処方法は、自己責任をもとに従来通りの方法がとられる。
流行の「自己責任」で片づけられても、そういう人間がたくさんいる場合は、そのシステム自体が問題がある。
本書で提示されているようなシステムをなんとか是正する方法はないものか。
そうしないと、このような状態がひょんなきっかけで現実となるかもしれない。
読書中、打開策は何かないか考えていたが、結局は今の愛国教育のような方法で、
国民を善良な構成員としていられるように管理するしかないのではないかと感じた。
リヴァイアサンで提示された「万人の万人による闘争」、それがまさに本書の後半部であった。
それでも、著者が書く内容はなぜか悲壮感が表れていない。
主人公もどうしようもない(特に男は)ため、感情移入もできない。
氏の本に共通するのは、社会の中のちょっとした事実や、しきたりの裏に隠されたメッセージを、
独特の口調と、直言的な物言いで、世の中に伝えることである。
ここでその一つ一つを紹介することもできるが、私の抜粋ではほとんど著者の意を表すことができないだろう。
が、こういった淡々と裏側を認識する視点ほど、
社会に住む一人一人に必要なのではないかと陳腐なことを感じずにはいられなかった。
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蜂起 単行本 – 2005/3/1
森巣 博
(著)
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- 本の長さ468ページ
- 言語日本語
- 出版社金曜日
- 発売日2005/3/1
- ISBN-104906605028
- ISBN-13978-4906605026
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登録情報
- 出版社 : 金曜日 (2005/3/1)
- 発売日 : 2005/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 468ページ
- ISBN-10 : 4906605028
- ISBN-13 : 978-4906605026
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,691,935位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 415,589位文学・評論 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年1月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年12月3日に日本でレビュー済み
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」
本書にもこの常套句はテロップされているが、この字句が、これほど空々しい印象をもたらすことも珍しい。そう、確かにこの小説はフィクションである。痛快極まりない。しかし、その舞台設定と、その説明のために引用されている事件は、実際にあったことだ。つまり、森巣が、「現実の日本というシステム」に潜む腐敗を描き、その飽和状態で、プスッと風船に針を刺すようなことが起きたら、どなるだろう?と彼なりのシミュレーションを披露してみせたのが当小説である。
私が、森巣博(1948-)の名を知ったのは、「書斎の競馬」という月刊誌で、彼の連載小説を読んだのがきっかけだ。異才奇才の書き手を揃えたこの雑誌にあって、森巣の小説はなお圧倒的な存在感を放ち、私は「日本には、これほどまでに面白い作家がいたのか」と驚愕したことを覚えている。この雑誌、残念ながらすぐに廃刊となってしまったのだけれど。
この「蜂起」という小説は、2005年、「週刊金曜日」に連載されたものだそうだ。「週刊金曜日」は権力の監視を謳い、市民派を標榜する零細な雑誌であるが、読者の中には、森巣の小説の内容に反感を覚え、購読をやめる者もいたという。そう、森巣自身が言う様に、彼のスタイルは、毒気を外に散らすものである。しかし、私は彼の毒気が、彼の小説の本旨に直結するものであることを確信できる。それどころか、毒気を孕んだ本書の面白さはどうだ。私は、この書を、それこそ一気に読み上げてしまった。
本書は、「日本というシステム」について言及している。このシステムを支えているものとは何だろうか?もちろん、その事について、著者の意見がぎゅっと詰まっているのが本書なのだから、是非とも一読あれ、と言いたいところだけれど、自分なりに思っていることを述べながら、ここでの感想としたい。
ちょっと前から「勝ち組」「負け組」という言葉をよく聞くようになった。私はこの言葉が嫌いだった。なんともさもしい心情の代名詞の様で、物事を一面の価値のみから判断する用語だと思っている。しかし、森巣の小説は、それらの用語が、単に表面的な心情や価値観を体現しているのではなく、まさにこの国のシステムを象徴する言葉なのだ、と語りかける。
日本は住みよい国だろうか。住みよいのだろう。お金を払えば相応のサービスを受けられるし、そこそこの治安が維持されている。フツーに生活していれば、それほど不快なものを見たり聞いたりしなくてもいい(気がする)。しかし、それは、言いかえれば、巧妙に「見たくないもの」「聞きたくないもの」が覆い隠される構造が維持され、なおかつ、社会を構成する個人が、知らないうちに、「見ないように、聞かないように」という行動を習慣づけられているためかもしれない。そして、肝心なことは、そのようにして維持される「住みやすさ」は、実は「負け組」と称される人々の自己犠牲によって形成されている、ということだ。これは、彼らが被った社会的損害を「不問に付し」続ける世の中を暗黙の了解事として、システムが確立している、ということである。これは、本来権力を監視し、必要に応じて告発する機関(主にマスコミ)が、能動的な機能を失っているための事象でもでもある。
「それでも良い」「特に問題ない」という考え方もあるかもしれない(私もそういう気持ちが皆無というわけではない)。しかし、本書を読むと、そのような考え方は、いかにも甘えたものであるということに思い至る。世の中を覆い尽くす圧倒的多数の声や感情に圧され、自分で考える機会を喪失し、「不問に付す」生き方を事実上強制化されている負け組の存在を是としたうえで、社会の構造を定め、そこに身を委ねて「居心地がいい」と勝手に言っている・・だけかもしれない。そして、そのような立場にいる多くの人は、なお、「そんなことに気づきたくない」とも思うだろう。「おかしいものを、おかしいと気付く感性を持たなくてはいけない」という著者の叱責が聞こえてきそうだ。本書を読んでいて感じるものの一つに、著者のそのような現実に対する「無常観」もあるのだが。
それにしても、あらためて現代のこの国の社会や世論を率直に俯瞰して、人はどう思うだろう。この10数年くらいで、随分と不合理な制約を感じることが増えたと実感する人は多いはずだ。つまり、本書が書かれた以降も、森巣が本書で書いた社会の病巣は、進展中なのである。この傾向は、森巣が指摘する「自己責任論」が焚き付けられたころから始まったことだろうか。それとも、もっと以前から?・・そして、その進展は、何らかの意志が働いたためなのか(本書では、フィクションという形で、その意志の存在が書かれている)、あるいは人の本能に潜む影のなせる業なのか。社会的マイノリティーに対する異形の圧力は増すばかりだ。
本書を読むとわかる。“声高く叫ばれる正義” ほど胡散臭いものはないと。そのような多数の大声に惑わされて、自分で考えることを放棄することだけは、避けたいと思う。
なお、本書は、啓蒙書(?)としてのみではなく、エンターテーメントとしても超一級です。興味を持たれた方は、是非一読されたし。
本書にもこの常套句はテロップされているが、この字句が、これほど空々しい印象をもたらすことも珍しい。そう、確かにこの小説はフィクションである。痛快極まりない。しかし、その舞台設定と、その説明のために引用されている事件は、実際にあったことだ。つまり、森巣が、「現実の日本というシステム」に潜む腐敗を描き、その飽和状態で、プスッと風船に針を刺すようなことが起きたら、どなるだろう?と彼なりのシミュレーションを披露してみせたのが当小説である。
私が、森巣博(1948-)の名を知ったのは、「書斎の競馬」という月刊誌で、彼の連載小説を読んだのがきっかけだ。異才奇才の書き手を揃えたこの雑誌にあって、森巣の小説はなお圧倒的な存在感を放ち、私は「日本には、これほどまでに面白い作家がいたのか」と驚愕したことを覚えている。この雑誌、残念ながらすぐに廃刊となってしまったのだけれど。
この「蜂起」という小説は、2005年、「週刊金曜日」に連載されたものだそうだ。「週刊金曜日」は権力の監視を謳い、市民派を標榜する零細な雑誌であるが、読者の中には、森巣の小説の内容に反感を覚え、購読をやめる者もいたという。そう、森巣自身が言う様に、彼のスタイルは、毒気を外に散らすものである。しかし、私は彼の毒気が、彼の小説の本旨に直結するものであることを確信できる。それどころか、毒気を孕んだ本書の面白さはどうだ。私は、この書を、それこそ一気に読み上げてしまった。
本書は、「日本というシステム」について言及している。このシステムを支えているものとは何だろうか?もちろん、その事について、著者の意見がぎゅっと詰まっているのが本書なのだから、是非とも一読あれ、と言いたいところだけれど、自分なりに思っていることを述べながら、ここでの感想としたい。
ちょっと前から「勝ち組」「負け組」という言葉をよく聞くようになった。私はこの言葉が嫌いだった。なんともさもしい心情の代名詞の様で、物事を一面の価値のみから判断する用語だと思っている。しかし、森巣の小説は、それらの用語が、単に表面的な心情や価値観を体現しているのではなく、まさにこの国のシステムを象徴する言葉なのだ、と語りかける。
日本は住みよい国だろうか。住みよいのだろう。お金を払えば相応のサービスを受けられるし、そこそこの治安が維持されている。フツーに生活していれば、それほど不快なものを見たり聞いたりしなくてもいい(気がする)。しかし、それは、言いかえれば、巧妙に「見たくないもの」「聞きたくないもの」が覆い隠される構造が維持され、なおかつ、社会を構成する個人が、知らないうちに、「見ないように、聞かないように」という行動を習慣づけられているためかもしれない。そして、肝心なことは、そのようにして維持される「住みやすさ」は、実は「負け組」と称される人々の自己犠牲によって形成されている、ということだ。これは、彼らが被った社会的損害を「不問に付し」続ける世の中を暗黙の了解事として、システムが確立している、ということである。これは、本来権力を監視し、必要に応じて告発する機関(主にマスコミ)が、能動的な機能を失っているための事象でもでもある。
「それでも良い」「特に問題ない」という考え方もあるかもしれない(私もそういう気持ちが皆無というわけではない)。しかし、本書を読むと、そのような考え方は、いかにも甘えたものであるということに思い至る。世の中を覆い尽くす圧倒的多数の声や感情に圧され、自分で考える機会を喪失し、「不問に付す」生き方を事実上強制化されている負け組の存在を是としたうえで、社会の構造を定め、そこに身を委ねて「居心地がいい」と勝手に言っている・・だけかもしれない。そして、そのような立場にいる多くの人は、なお、「そんなことに気づきたくない」とも思うだろう。「おかしいものを、おかしいと気付く感性を持たなくてはいけない」という著者の叱責が聞こえてきそうだ。本書を読んでいて感じるものの一つに、著者のそのような現実に対する「無常観」もあるのだが。
それにしても、あらためて現代のこの国の社会や世論を率直に俯瞰して、人はどう思うだろう。この10数年くらいで、随分と不合理な制約を感じることが増えたと実感する人は多いはずだ。つまり、本書が書かれた以降も、森巣が本書で書いた社会の病巣は、進展中なのである。この傾向は、森巣が指摘する「自己責任論」が焚き付けられたころから始まったことだろうか。それとも、もっと以前から?・・そして、その進展は、何らかの意志が働いたためなのか(本書では、フィクションという形で、その意志の存在が書かれている)、あるいは人の本能に潜む影のなせる業なのか。社会的マイノリティーに対する異形の圧力は増すばかりだ。
本書を読むとわかる。“声高く叫ばれる正義” ほど胡散臭いものはないと。そのような多数の大声に惑わされて、自分で考えることを放棄することだけは、避けたいと思う。
なお、本書は、啓蒙書(?)としてのみではなく、エンターテーメントとしても超一級です。興味を持たれた方は、是非一読されたし。
2005年9月3日に日本でレビュー済み
「圧倒的な非対称的権力構造のもとで抑圧された者たちが行使する暴力と、抑圧する者たちが行使する暴力を同一視しない(=あとがきから)」すなわち「テロ」を容認する著者が、様々なシチュエーションにおいて「抑圧された日本人」に対して、9・11を再現せよと「蜂起」を促す、その主張は極めて重く危険なアジテート小説…だが、その文体はあくまでも軽くユーモアとウイットに富んだ、頁をめくりだしたら止まらない超1級の痛快エンターテーメント小説でもある。
何故”痛快”であるのか-それは(多分)国民の大部分がおかしいあるいは不条理であると思いつつも看過しているあるいは諦めているあるいは気がついていない”真実”=『警官の不祥事』『警察とパチンコ業界の関係』『交通安全協会の中身』『新潟女性監禁事件時の県警本部長のその後』『強姦と和姦の境界』『政治家のパーティー券の行方』『都教育委員会の指導』『ブルセラ・援交の実態』『某政治家の愛人問題』『ヤミ金の実態』etc,etcーが随所にちりばめられているからである。[一部誇張があるかもしれない。しかし、裁判記録等の傍証も示されており、その大部分は真実に違いないと確信させられるし、「なるほどね」と思わせるエピソードも語られている。(例えば、交番に逃げ込んだ男が警官の目の前で何故ボコボコニされたか?等々)]
森巣博は警告する。このままでは、巷に浮浪者が溢れ、ポリタンクを手にした自爆テロが頻発し、放火が横行し、次々に飛行機が高層ビルに突っ込むと。『おかしいことはおかしい』と声を上げなければそういう社会が遠からずやってくると。
この点、村上龍の『半島を出よ!』とその根底にある思想は違うのかもしれないが、「現状に対する危機感のあまりに希薄な日本」に対する苛立ちは共通している。但し、村上龍は、侵攻してきた北朝鮮軍をアウトサイダーたちの活躍で壊滅させ、ある意味では丸く治めてしまったが(エンターメント小説としては『半島を出よ』もかなりだとは思いますが…)森巣博は、主人公の一人にテロへの決意を固めさせ、安易な結末を用意しない。
その軽妙な文体に似つかわしくない重く暗くそして絶望的なテーマを語った作品だが、著者はどこかでこの日本の将来に何とか希望を見出そうとしているのだろう。何故なら、著者は複数の主人公のテロ行為を必ずしも(多分意識的に)活写していない。何より裕子にパイロットになるまでの時間を与えているのだから…。
何故”痛快”であるのか-それは(多分)国民の大部分がおかしいあるいは不条理であると思いつつも看過しているあるいは諦めているあるいは気がついていない”真実”=『警官の不祥事』『警察とパチンコ業界の関係』『交通安全協会の中身』『新潟女性監禁事件時の県警本部長のその後』『強姦と和姦の境界』『政治家のパーティー券の行方』『都教育委員会の指導』『ブルセラ・援交の実態』『某政治家の愛人問題』『ヤミ金の実態』etc,etcーが随所にちりばめられているからである。[一部誇張があるかもしれない。しかし、裁判記録等の傍証も示されており、その大部分は真実に違いないと確信させられるし、「なるほどね」と思わせるエピソードも語られている。(例えば、交番に逃げ込んだ男が警官の目の前で何故ボコボコニされたか?等々)]
森巣博は警告する。このままでは、巷に浮浪者が溢れ、ポリタンクを手にした自爆テロが頻発し、放火が横行し、次々に飛行機が高層ビルに突っ込むと。『おかしいことはおかしい』と声を上げなければそういう社会が遠からずやってくると。
この点、村上龍の『半島を出よ!』とその根底にある思想は違うのかもしれないが、「現状に対する危機感のあまりに希薄な日本」に対する苛立ちは共通している。但し、村上龍は、侵攻してきた北朝鮮軍をアウトサイダーたちの活躍で壊滅させ、ある意味では丸く治めてしまったが(エンターメント小説としては『半島を出よ』もかなりだとは思いますが…)森巣博は、主人公の一人にテロへの決意を固めさせ、安易な結末を用意しない。
その軽妙な文体に似つかわしくない重く暗くそして絶望的なテーマを語った作品だが、著者はどこかでこの日本の将来に何とか希望を見出そうとしているのだろう。何故なら、著者は複数の主人公のテロ行為を必ずしも(多分意識的に)活写していない。何より裕子にパイロットになるまでの時間を与えているのだから…。
2005年7月11日に日本でレビュー済み
自他共に認めるMG狂だが、今回はちと読みが捗らぬ。1/3でエージング。
2005年5月20日に日本でレビュー済み
こうした作品が、新・旧左翼新派、左派ジャーナリズム(シンパ)、ネイチャー系シンパの人たちが作っている週刊誌に連載され、なおかつこの出版不況の中で単行本化されることにオドロキと共に、やはり快哉を叫ばずにはいられない。何がどうあれ圧倒的なマイノリティだからだ。
小説として世界文学に達しているなどとは、さらさら思わない。しかし自分ばっかり探していて自分のなかで迷子になっていたり、己の恋愛が世界的に大問題だったり、勝ち組とかいう「ビジネス成り上がり」を夢見て自己啓発などとという浅ましくも卑しいジャンルの本に嵌ってみたりといった若人が多い中で、森巣博はほとんど異形の存在感を放っているように、彼ら若者や卑しいビジネス本編集者には見えるに違いない。彼らは異様にナイーヴなのだ。
高齢化社会を迎え、早晩成り上がり系統の「自己中啓発書」は廃れるだろう。そのとき、この書のなかで蜂起するような人々への想像力を持ちえるかどうか、それが生きていくうえで大きな試金石になるであろう。
小説として世界文学に達しているなどとは、さらさら思わない。しかし自分ばっかり探していて自分のなかで迷子になっていたり、己の恋愛が世界的に大問題だったり、勝ち組とかいう「ビジネス成り上がり」を夢見て自己啓発などとという浅ましくも卑しいジャンルの本に嵌ってみたりといった若人が多い中で、森巣博はほとんど異形の存在感を放っているように、彼ら若者や卑しいビジネス本編集者には見えるに違いない。彼らは異様にナイーヴなのだ。
高齢化社会を迎え、早晩成り上がり系統の「自己中啓発書」は廃れるだろう。そのとき、この書のなかで蜂起するような人々への想像力を持ちえるかどうか、それが生きていくうえで大きな試金石になるであろう。