ビ・バップの神様であるチャーリー・パーカーのコンボから独立したマイルスは、九重奏団を結成して『クールの誕生』を制作します。しかし、九重奏団を維持するのは経済的に大変で、間もなく解散を余儀なくされます。その後マイルスはプレスティッジと専属契約を結び、再びビ・バップ的な演奏へと向かいます。しかし、ビ・バップをそのまま演奏したわけではありません。ここで重要なのは、ちょうどこの時期にLPというメディアが実用化されたことです。長時間の録音が可能になったことによって、1曲ごとの演奏時間が格段に長くすることが可能になったのです。この長い時間をパップ的なソロ演奏を引き伸ばすことで使ってしまうのはもったいない話です。
そこでマイルスが企てたのが、九重奏団で勝ち得たグループとしての調和をバップ・フォームの中に持ち込むことでした。テーマの演奏の緻密化や、ソロの受け渡しに工夫を凝らしたわけです。こうしたバップの洗練化は、後にハード・バップと呼ばれる潮流を生み出していくことになります。ここでドラムを叩いているのがアート・ブレイキーであることに注目しておきたいです。マイルスはブレイキーの激しいドラミングに鼓舞されてこの演奏スタイルに向かったという面があるからです。ブレイキーにとっても、言うまでもなくこの音楽スタイルは彼のその後の音楽活動に決定的な影響を与えることになります。ハード・バップはマイルスとブレイキーの二人によって生み出されたわけです。
しかし、この1951年という時代にはジャズの中心はウエストコーストで生み出されたクール・ジャズにあり、このような演奏形態はなかなか受け入れられませんでした。麻薬問題を抱えていたこともあり、マイルスはこの後不遇時代に入ることになります。彼が復活するのは3年後の『Walkin'』でのことです。