冒頭の和音に曲の真髄を叩きつける様な、俗に1951年で終わったと言われる「衰えたパウエル」の真骨頂が炸裂した。「バド・パウエルの芸術」で聴ける53年の「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」で向き合った音楽だ。眼前のパウエルの強靭な響きは最高度に達した。「ジャズ・ジャイアンツ」に比べると、運指の遅れや歯抜けがあると批判されるフレージングだが、私には、むしろそれらが芸術の深みを表現する長所に聴こえる。技術の代わりにリスナーに届くメッセージが濃度を増したのだ。人生の終盤に掛かった私にとって、聴く耳が衰えたのか進化したのかは、さして重要では無いと同様に、彼にとってパッセージの正確さより、この境地に達したことの方が重要であり、複雑な響きから歪んだ純粋さが漂う異次元のパウエルが現れるのである。
ピアノ演奏も、ここまで突き詰めると、ジャズやクラシックのフィールドを超え、音楽的真髄に突入する。私は、何時もウィルヘルム・バックハウスの弾く、ベートーベン最後のソナタと比較してしまうが、この二人のピアニストの奏法の類似に驚くことが多い。一つにはパウエルがクラシックから音楽の道に入ったことと関係しているかもしれない。パウエルがベートーヴェンより恵まれていたのは、ピアノという大型楽器が長い間に大幅に進化し、色々は響きを出せるようになったことである。
そのため、より単音の響きが自由になり、音楽の領域が拡大されるという恩恵に浴することが可能になった点だ。
セロニアス・モンクの「鍵盤で出せない音を表現する」という和音の世界で威力を発揮したパウエルの演奏は、音楽の構成に衝撃を与えた。1940年代の高速パッセージと51年以降の低速バラッドの対比で、私は、このMoodsを高く評価したい。テクニックを越えた彼の心が聞えてくるからだ。