カール・リヒターの同じシリーズのマタイ受難曲を20年近く前に購入して、それ以来何度も聞いてきたので、いろいろな旋律や通奏低音や合唱の迫力に心を動かされてきました。ヨハネ受難曲は多くの人が感じる様に私も,初めの旋律にただならぬ気配を感じました。これから始まる前途多難な受難の幕開けとしては出来すぎているかもしれません。マタイ受難曲の最初の曲はあえて漢字で表現するなら慈悲に満ちた感覚でしょうか。このヨハネ受難曲の最初の出だしは不吉、不安、恐れといった感覚になるのでしょうか。このような曲をキリスト教を信仰している人が、とくにドイツ人が聞くとどのような感情を抱くのだろうか。五木寛之が最近の本に指摘していた様に、文化の基礎的なところに宗教と音楽が渾然として両立している民族と、ほぼ無宗教に近い我々日本人が簡単にヨハネやマタイの受難曲に満足しきって聞き入るのは奇妙かもしれないが,マタイ受難曲にしろ、ヨハネ受難曲にしろ、東洋人の私が旧態依然とした古めかしさを感じないのはなぜだろうか。魂を揺さぶるような旋律の持つ感化力と言うと、言い過ぎかもしれませんが、普通でない力があります。また、歌詞の持つ迫力も強いです。大体が口語ドイツ語で現在のドイツ語とかけ離れているようではありません。むしろ、日本語訳の聖書からの対訳のわざとらしい古めかしさに滑稽さが感じられます。
ところで、ヘルマン・シュレッヘンの指揮と比べてですがカール・リヒターのヨハネ受難曲はもしかしたら演奏のテンポが他の指揮者より遅いかもしれません。ほかにも多くの指揮者がいるので何とも言えませんが,リヒターの指揮の曲を聴いているとそれはそれで大変満足します。一番最初に聞いたヘルマン・シュレッヘンのリズムが基本形を形成し、カール・リヒターのテンポにはじめ少なからぬ違和感を感じたけれども,テンポや歌唱の差異を比べるのもとても面白いです。
私は音楽の専門家ではないし、キリスト教に帰依しているものではありませんが,バッハの受難曲に対して受容するベースを作るなら、このカール・リヒターのヨハネ受難曲は平凡な私が感じた以上の感動を皆さんも感じられる事でしょう。